を姉と思ったことはなかった。それは、小さい頃から、姉らしいことなんて一つもしてもらった覚えがないから。だけど、だってきっと俺を弟とは思ってない。 だって、は俺に興味がない。俺のすることにも言うことも、まるで関心を見せない。 それは他人に対しても同じだと思っていた。には周囲の人間なんてみんなマネキンに見えるのだろうと。 だけど、近頃、手塚部長のことだけはよく話しているのを耳にするようになった。親父に部長の話をするは、いつも笑っていて、それを見ると俺はなぜだか少しイライラするのだった。 (馬鹿じゃないの) リビングのソファに親父と並んで座りながら、また今日も、あれやこれやと部長の話をしているを俺は縁側でラケットを軽く振りながら横目で眺めていた。 (手塚部長は、アンタが馬鹿過ぎるから面倒みてやってるだけだし) ああ、またなんだかイライラとするこの感覚。べつに、のことなんかどうだっていいのに。部長と何を話そうとどうしようと、そんなのどうだっていいのに。アンタが勝手に喋るから。 しばらくすると、親父は用事があるらしく、また帰ってから聞くと言って出掛けていった。 すると話し相手のいなくなったは、借りてきたアメリカのドラマのDVDを見始める。は、日本のテレビ番組やドラマはつまらない、と言って見ない。音楽も、洋楽しか聞かない。 そうして今度は部長の話の代わりに、英語のセリフたちが耳に入ってくる。 少々騒がしく感じても、それでも、俺はそのほうがずっとよかった。 (…………) まぶたを閉じると浮かんでくる、の後ろ姿。それは、絶対にこちらを振り向かない。 泣いても、呼んでも、絶対に振り向かないと、知っていた。 目を開けて、実際にこの瞳に映るのは、字幕のないテレビ画面を眺めるの横顔だったけれど。 それでも、やはり絶対に、こちらを見ることはなかった。 「越前のお姉さん、似てるけど越前ほど目つき悪くないし、結構可愛いよなあ」 堀尾が、部室で着替えているときにそんなことを勝手に話しかけてくるのを返事もせずにただ聞いていた。その代わり、カチローやカツオが「へえ、そうなの」と興味深そうに相づちを打っている。 「ほんとかよ越前。今度俺も見に行ってみるかな」 それが聞こえたのか、途中から急に話に入ってきた桃先輩は、ニヤニヤして明らかに面白がっている顔をしていた。 「べつに、可愛くなんかないし」 「またまたあ、素直じゃねえなあ」 肘で脇の辺りを小突かれて、俺は眉間にシワを寄せた。どうして周りの人間はいつも、の話をしたがるのか。あんなやつのこと。 そこに、練習を終えた手塚部長はじめ3年生たちがやって来た。そうしてロッカーを開けてユニフォームを脱ぎながら、ガヤガヤしている俺たちが気になったのか英二先輩が「桃、何の話してんの?」と聞いてくるのを、内心また面倒くさいのが増えた、と思った。 「越前の姉ちゃんの話してたんっすよ。どうやら可愛いらしくて」 「ああ、越前さんかあ。俺まだちゃんと見たことないんだよなあ。大石は?」 「え?ああ、あるよ。話したことはないけど……。そうだな、小柄で目が大きくて、越前によく似てるよ」 へえ、という声が部室中に広がった。の話は俺のまったく参加しないまま、ああだこうだと、どんどん勝手に進められていく。 手塚部長のほうをチラリと見ると、聞こえているのかいないのか、何も言わず、俺たちのことも見ず、ただ黙々とユニフォームから制服に着替えているだけだった。 「越前さんのことなら、手塚が知ってるよ。同じクラスだし、よく一緒にいるじゃない。ねえ、手塚」 突然、不二先輩に話を振られて、部長はその手をピタと止めると、少しだけ不二先輩のほうを見た。 「へえ、そうなんすか?」と桃先輩が重ねて聞いても、部長は瞬きをするだけで、何も言わなかった。 「あんなのがいいなんて、趣味悪いんじゃない」 そう言うと、手塚部長に集まっていた視線が、すぐに俺へと移った。一瞬だけ、部長がチラリと横目でこちらを見るのが見えた。そうして、「なんだよ越前」と堀尾が不満そうに言う。 「性格なんて、わがままで自己中で最悪だし。アイツ全然いいところなんかないよ」 「お前、姉ちゃんのことそんな風に……」 「本当のことっスよ。知らないだけでしょ」 桃先輩にそう言うと、バタンと勢いよくロッカーの扉を閉めて、テニスバッグを持つとすぐに部室のドアへ向かう。その途中でもう一度手塚部長のことを見たけれど、その時はもう俺のことは見ていなかった。 外に出ると、校門に向かって歩き出す。とにかく、あの場からいなくなりたかった。手塚部長のいる前で、の話をすることがどうにも嫌だった。 ただ外見だけですべてを決めるなんてあまりに馬鹿馬鹿しい。本当のことをすべて知っても、のことを好きな男なんているものか。そうすればのん気に可愛い、なんて言っていられなくなる。それはきっと、手塚部長だって。 (誰も、アイツのことなんか何にも知らないくせに) 「リョーマ」 それは、久しぶりに聞く、姉の口から出た俺の名前だった。久しぶりに練習のない日曜日。少し遅めの朝のリビングで、テレビを見ながらカルピンと遊んでいると、まだパジャマ姿のが目覚めきっていない様子で二階から降りてきた。しばらく辺りをキョロキョロと見回す。 「パパは?」 家には、親父だけじゃなくて母さんも菜々子さんも、俺以外はみんな外出しているようでいなかった。だけどには親父さえいればそれでいい。他の人間は、いてもいなくてもどっちでもいい。だから俺も。 「知らない。出かけたんじゃない」 「……ふうん」 そっけなくそう答えると、はそれ以上聞かずに、リビングと続きになっているキッチンへ向かった。コーンフレークをサラサラとボウルに入れると、冷蔵庫から牛乳を出してきて注いでいる。 近頃は、少しだけなら食事をとるようになっていた。それでも、こんな風にコーンフレークとか、クッキーとかそんなお菓子みたいなものだけれど。何も食べないよりはいい、と母さんは言っていた。 相変わらず「日本はせまくてくるしい」とかは言うけれど、それでも、手塚部長のことをよく話すようになってからはあまりアメリカに帰りたいとも言わなくなった。前に比べて、学校にもほぼ毎日行けるようになったようだ。 それはいいことだと思うのに、何となく、面白くないようにも感じていた。どうしてなのかは、自分でもよくわからなかった。 「……リョーマ。つぎの試合は、いつあるの」 少し離れたダイニングテーブルから、背中越しにが俺に話しかけてきた。なぜそんなことを聞くのか、に聞かなくても、わかった。俺のこと絶対に観に来るわけがないと、知っている。だから。 べつに面白くもないバラエティ番組を眺めながら、俺はまたあのイライラとする感覚がした。 「そんなこと聞いてどうするつもり」 「…………」 「何か勘違いしてるみたいだけど、手塚部長がアンタのこと好きなわけないじゃん」 悲しめばいいと思って、そう言った。だって本当のことだから。アンタがどんなに好いてようが、そんなの一方的なもので、手塚部長はアンタのことなんか少しもどうとも思ってなんかいない。 親切にそう教えてやって、振り返ると、視界に映ったの表情は怒っているわけでも悲しんでいるわけでもなかった。ただ、その大きな目をパチリと瞬くだけで、何も言わなかった。 「アンタって馬鹿じゃないの」 誰にも関心がないのなら、それでもよかった。なのに、なんで手塚部長ばかりが特別にの気に入るのか。だって、たかだか数ヶ月同じクラスというだけじゃないか。今までの、の人生なんか、そんなの何にも知りもしないのに。 は、俺や、親父や母さんがいなければとても生きていけないのに。 どうしてそれがわからないのだ。 「馬鹿だよ、ほんと。カルピンの方が、アンタよりずっと利口だし……イテっ!」 突然、ゴン、という音とともに頭部に鈍い痛みを感じた。思わずそこを手で押さえながら上を見ると、そこにはいつのまにか帰ってきていたのか、親父が立って俺のことを見下ろしていた。 「こらリョーマ、お前、姉ちゃんに何てぇこと言うんだ」 「……だって本当のことじゃん」 パパ、と言うの声が聞こえた。味方が現れてホッとしたのか、どこか安心したような表情にも見える。だってにとってみれば、俺は完全に悪者ポジションでしかない。 「まあ、、許してやってくれ。リョーマくんは素直になれないだけだから」 「は?何それ。何言ってんの親父」 「リョーマくんは、お姉ちゃんのことが大好きなんだよ。だから、意地悪言っちゃうんだなあ」 「ち、違うって!誰がこんな奴のことなんか。勝手なこと言わないでよね」 突然何を言い出すのかと思えば。親父に強く反論しても、ニヤニヤしているだけで腹が立つ。 はといえば、やっぱり瞬きをするばかりで、何も言わないし。 「何だよ、バカ親父!」 たまらずその場から逃げ出して、階段を駆け上がり、自分の部屋に戻ると乱暴にベッドへ寝転がる。 ふてくされた様に目を閉じると、そこに現れるのはまだ幼い頃のの姿。アメリカに住んでいた頃のは、変わらずわがままだったけれど、それでも今よりもずっとよく笑って、楽しそうだった。 また、アメリカに戻れば、は前の様に笑って楽しく暮らせるんだろうか。 そうだ。アメリカに行けば、手塚部長だっていないし。 (……なんで、のことばっかり考えてるんだ) あんな奴、何一つもしてくれたことだってないのに。いっそ要らないとさえ思うのに。気がつけば、よくのことを考えている自分にイライラした。 アンタなんかいらない。部長がいいなら、そっちに行っちゃえば。 俺は、一人で何でもできる。どこへだって行ける。 何にもできないのは、いつだって、の方じゃないか。 「あ、越前のお姉さんだぜ。本当に手塚部長と一緒にいるのな」 理科室に移動する途中の廊下で、となりを勝手に歩いていた堀尾が、少し遠くを見ながらそんなことを話しかけてきた。それに返事をせずに首だけを動かして見ると、確かにその先には部長との後ろ姿があった。 が何事かを話しかけて、それに部長が小さく頷いている。少しの間それを見ていたけれど、やっぱり、がこちらを振り向くことはなかった。そうと知っていたのに、どうしてか胸の苦しい思いがする。 「もしかして付き合ってんのかなあ?なあ越前」 「さあ。知らない」 「弟なのに、興味ないのかよ」 「あんな奴、姉じゃない」 なんだよ冷てえなあ、と言う堀尾を置いて早足でさっさと歩いた。 そうだ。あんなの家族なんかじゃない。だから、他人だから、手塚部長とどうなろうとそんなの知ったこっちゃない。興味なんかない。 「どうでもいい」 声に出してみれば、本当にその気になれるかもと思って、そうしてみたけれど胸の中のイライラはなくならないまま。次の授業も、その次の授業も、目の前にと部長の姿がチラついてちっとも集中できなかった。 (……またあそこにいる) 五時限目のことだった。退屈な数学の授業中、ぼんやりとした意識のまま窓の外を眺めているとちょうど校庭の遠くの方で、前みたいにがうずくまっているのが見えた。 どうせまた授業が嫌になって逃げ出して、あそこでああやって誰かの助けを待っているんだろう。声も出さずに、手も伸ばさずに、ただじっとして。 (馬鹿じゃないの) いつだってこうやって一番に気付いてやるのは俺なのに、それでもの望んでいるのは俺じゃない。だから、助けになんか行ってやるもんか。ずっとそこで一人で泣いていればいい。 だって、アンタはいつだって俺のことなんて助けてくれなかった。どんなに泣いても、呼んでも、来てくれなかったじゃないか。 (…………) 違う。べつにそんなの望んでなかった。俺はなんか必要じゃなかったし、一人で大丈夫だった。何でもできた。だから、これからもいらないし、いついなくなってくれたって全然困らない。どこへだって行ってしまえ。 ……そう思っていたら、急に視界の中に誰かもう一人現れて思考が止まった。見慣れた立ち姿。それは、間違いなく手塚部長だった。 部長はに近づいて、何事かを話かけている。はそれを見上げながら、小さく何回かうなずいたかと思えば、少ししてゆっくり立ち上がった。そして、部長に軽く肩を押されて、校舎の方へと向かって歩いて来る。 (……なんだよ) 急に子どもみたいに泣きたい気持ちになったけれど、それを自分でもなんて馬鹿みたいだと思って、持っていたシャーペンを強くノートに押し付けてみたら芯がポキリと音を立てて折れた。 (……の馬鹿) いっそ、俺なんて好きじゃないんでしょ、って言えたら楽だった。今まで何度となく心の中で思っていた言葉を、口に出して伝えてしまえたらよかった。 だけどそうしたら負けのような気がして、ずっと黙ってきた。アンタが俺を必要としないなら、俺の方こそもっとアンタなんて必要じゃない。と違って、俺はどこへ行ったって、どんな人と出会ったって、一人で生きていけるようになってみせる。 なのに、いつまで経っても、瞼の裏に映るの姿が消えない。 今も、あのときのの言葉が耳を離れない。 (なんで) イライラしながらも家に帰って、夕飯を食べ終わったあとリビングのソファに座りながら、縁側で一人で夜空を見ているのことを後ろから眺めていた。今日は親父に部長の話はしないみたいだ。 は縁側を通りかかったカルピンに声を掛けるけれど、カルピンはそれには答えないでただ通り過ぎていってしまった。だって、カルピンはにまったく懐いていない。それが何の得にもならないと、知っているから。 (……ほんとに、カルピンのが賢い) それからずっと見ていても、やっぱり俺のほうを振り向くことはないままだったけれど、いい加減それにも腹が立って、ソファから立ち上がるとのそばにいってとなりに座った。すると一瞬だけ、俺の方を見たような気がする。 「ねえ」 「……」 「手塚部長の、何がそんなにいいわけ」 「…………なんで?」 落ち着いていて、勉強ができて、面倒をよくみてくれるところ? 真面目で、責任感があって、最後まで見捨てたりしないところ? 思わず聞いてみたって、答えなんて大体わかってる。そうして俺がそんな部長の足元にも及ばないことも、全部わかっていて、それでも聞いてみるしかなかった。 だけど、「なんで?」のあと、いつまで待ってもは何も答えないまま。ぼんやりしたように縁側の板の模様なんかを指でなぞっている。 「」 「……」 「何とか言ってよ」 きっと本当は、手塚部長の話なんかじゃなくて、俺の話をして欲しかったのに。突然現れた部長なんかじゃなくて、ずっとそばにいる俺のことを見て欲しかったのに。 俺が、アンタの面倒全部見るって言えば、ずっと一緒にいてくれるの? (手塚部長みたいに) ずっとずっと、今もいつまでも、あの言葉が耳から離れない。 小さい頃の、微笑んだの優しい声。濡れた俺の頬を撫でる、温かい手。 『......Ryoma,』 『Ryoma,I love you』 また、アメリカに戻れば、そんな風に言ってくれる?俺に笑いかけてくれる? けれど、は俺のことなんて見ないまま。ただ、柔らかい風がその髪を揺らすばかり。 いっそここで、泣いてしまえたらよかった。あの時のように。 「……の、馬鹿」
泣きたい水色
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