Maria





まだ授業中だというのに、私は一人、薄暗い理科準備室のすみでうずくまっていた。ここは普段なら鍵がかかっているはずだけれど、係りの人が閉め忘れたのだろうか、少しドアが開いていたので思わず入り込んでしまった。校庭の方からは、体育の授業で楽しそうにはしゃぐ生徒たちの笑い声が聞こえてくる。自分もさっきまではその場所にいたはずなのに、こんなところで一体何をやっているのか。

(…………)

息を殺し、ぎゅっと膝を抱えて目をつむりながら、早くこの一日が終わるように祈る。

三年生に進級するのと同時に、私は四天宝寺中学校に転校してきた。気がつけばあれからもう三ヶ月が過ぎようとしているのに、私はまだこの学校に馴染めずにいる。クラスの中で私だけ大阪弁が話せないし、面白いネタも持ってないし、話にオチもつけられない。誰かがボケてもツッコめない。期待されてもそれに応えられず、逆に気を使わせてしまうことばかりだった。

ここでは明るくなくてはいけない。いつも笑って、暗くならないようにと、自分に言い聞かせるたびに何かに縛られて身動きがとれなくなっていくような感覚がした。落胆を隠すクラスメイトの笑顔を見ることにも、肩を叩いて励ますクラスメイトの声を聞くことにも、疲れてしまった。

前の学校でも決して目立つような生徒ではなかった私が、いきなりこんなお笑い重視の学校に放り込まれて、生きていけるわけがない。少しの間の辛抱だと人は言うけれど、それは私にはあまりに長く思える。 負けたくない。生き残りたい。でも、わからない。この暗闇の中に、光が見つからない。



(……!)

誰かの足音が聞こえる。こっちに来るな、来るなと願うけれど、裏腹にその音はどんどんこちらに近づいてくる。先生だろうか。もしも見つかったら何と言われるだろう。授業をさぼって、体育着で、こんなところで、うずくまって、何をやってるんだろう。……何をやってるんだろう、私。

いよいよガラ、とドアの開く音がしたけれど膝に顔を強く押し付けてそれが誰かは見ない。もしかしたら上手くして見つからないかもしれないという思いと、叱るなら叱ればいいという思いと、言い訳は何て言えばいいだろうという思いの自分が混ざり合って、今にも心臓がパンクしそうになっていた。



「なんやさん、こんなとこにおったんか。探したで」

予想していた先生の野太い声とは違い、聞き覚えのある優しく落ち着いた声におそるおそる顔を上げると、そこにはやはりクラスメイトの白石くんが、私と同じように体育着のままで立っていた。まだ授業は終わっていないはずなのに、どうしてこんなところにいるのだろう。

探した?私を?白石くんが?

「し、白石くん……」
「急におらんくなったら驚くやろ」
「ご……ごめんなさい……」

授業から抜け出したとき、みんなはソフトボールの試合に夢中で誰も私のことなんて見ていなかったし、クラスの中で、私がいないと気づく人なんていないはずだと思った。それなのに、いつもクラスの中心にいるような人が、私がいないと気づいて、探しに来てくれた。

白石くんはとても優しい。クラス委員長でも、となりの席なわけでもないのに、転校してきた私のことをいつも気にかけてくれていた。私はそれがとても嬉しくて、優しくされるたびに涙が出そうになるのだけれど、でも、白石くんはみんなにすごく人気があって、あわよくば仲良くなりたいなどという考えはあまりにおこがましく、いつも遠くから眺めているだけだった。

「どないしたん具合が悪いんか?」

近づいてきた白石くんが腰を屈めて私の顔を覗き込むようにしたので、そんなに近くで顔を見られるのが恥ずかしくて、顔が熱くなる。違う、と言おうとしてもうまく声が出なくて「ちが……」と言って首を左右に振るだけだった。

「ほんまか?無理してんのとちゃう」
「ほ、ほんとに違うの……っ、ごめんなさい」
「そんならええけど。なんでこんなとこおるん?次の授業理科ちゃうで」
「…………」


「なあさん、俺と一緒に授業戻ろうや」

白石くんに優しく言われて、私は自分が情けなくて恥ずかしくて、本当は一緒に行きたいのに素直にうんとは言えなかった。子どもじゃあるまいし、人に迷惑かけて、変な意地を張って、馬鹿みたいだと思うのに。白石くんだって、いい加減こんな私に愛想を尽かしてしまうはずだ。一番嫌われたくない人に、嫌われてしまうじゃないか。

「みんな待ってんで」

そんなわけない、と思いながらも、柔らかい白石くんの声に導かれるようにふらふらと立ち上がった。
「ほな、行こか」と笑う白石くんの後ろについて、誰もいない、しんとした廊下を歩いてゆく。校庭に出ると、もう試合は終わっていてクラスメイト達は道具を片付けて集まっているところだった。たくさんの視線を感じて逃げ出したくなる。忍足くんが白石くんに近づいてきて、どこに行っていたのかと尋ねるけれど、笑いながら曖昧な返事を返すだけだった。

小声でさん、とクラスメイトの誰かが私の話をしているような気がするけれど、そっちを見られない。うつむいて、体を小さくして、早くこの時間が過ぎるように願う。少しして先生がやって来て、体育係の号令と共にみんな教室へばらばらに帰ってゆく。私は一番後ろのあたりで、少し前を笑いながら歩く、白石くんと忍足くんの二人をふらふらと眺めていた。

更衣室で制服に着替えて教室にもどり、自分の席につく。窓際に集まっている数人の女子生徒がこちらを見て何か話しているけれど、気が着かない振りをしてパラパラと教科書をめくっているうちにチャイムが鳴って先生がやって来た。みんなが各自の席について静かになると、ほっとする。



「じゃあ何人かでグループ作ってやってな」

という先生の声と共にみんなは自分の席を立って、わいわい騒ぎながら仲の良いクラスメイトと固まり始める。古典の授業なのだけれど、数人でグループを作って協力して現代語訳をしろというのだ。

おろおろと一緒に組む人が見つからないまま、他の人達はもうまとまりかけていて、誰かに早く声をかけなくては、と思っても喉の奥から声が出てこない。このままでは最後にぽつんと一人残ってしまい、それに気がついた先生が「どっか入れたりや」と言って教室の前に連れて行かれる。そんなのは嫌だ、死ぬほど恥ずかしい……けど、結局そうなるしかない。私は。

逃げ出したいけれど、逃げ出したって、そこで終わりじゃない。その先も、ずっとずっと続きがある。少しの辛抱だ、もうちょっとで終わりだ、と心の中で自分に言い聞かせながら下を向いて、ぎゅっとスカートの裾を握り締める。じわりと涙が出そうになったけれど、唇を噛んで必死に堪えた。



さん、一緒にやろうや」

急に話しかけられたので一瞬ビク、としておずおず顔を上げると、その声はやはり白石くんだった。

「……う、うん。……ありが…とう」

こんな姿を白石くんに見られたのは恥ずかしい。けれど、それよりももっとずっと嬉しかった。ほっとしたのかまたじわっと目頭が熱くなったけれど、目をこすって我慢する。自分の教科書と辞書と筆記用具を持って白石くんについていくと、「謙也もおんねんけど、ええ?」と軽く彼を指差す。うんとうなずくと、忍足くんは私に「よろしゅう」と少し笑った。

それから近くの机を3つくっつけて、白石くんと忍足くんが並びでその向かいが私になった。少しでも役に立たないと、と思ったけれど古典が苦手な私はむしろ足手まといな存在となり、それでも白石くんは「ここはなあ」と先生よりもわかりやすく、そして優しく訳し方を教えてくれた。

「みんなできたか?じゃあ班ずつ訳発表してな」

一班ずつ前に出てそれぞれの訳と解釈を発表した。白石くんと忍足くんの横に並んでみんなの前に立ち、ものすごく緊張していた私は自分に振り分けられた部分を読み終えると心底ほっとする。ふと見ると、クラスのほとんどの女子がうっとりした顔で白石くんの声に耳を傾けていた。何だか胸が苦しくて、それから席に戻るまで私はずっと下を見ていた。



「重いやろ、持とうか」

廊下で、クラスの女の子がたくさんの資料を運んでいるのを、白石くんが手伝ってあげるところを見かけた。女の子はありがとう、と嬉しそうに笑って、何か話しながらそのとなりを歩いていった。

白石くんは誰にだって優しい。私にだけじゃないんだ、……と、ショックを受けることさえ勘違い甚だしい。わかっているのに、何なのだろう、この気持ちは。もしかして、自分が白石くんにとって特別だって、思っていたんじゃないのか?ちょっと優しくされたからって、好意を持ってもらえているんじゃないかって、思っていたんじゃないのか?

迷惑だ、そんなの。白石くんに、迷惑だ。

私のような人間が白石くんを好きになっちゃいけない。……そう思うのに、私の頭はいつも勝手に白石くんのことを考えていて、この心臓は白石くんが視界に入るたびに、うるさいくらい大騒ぎする。

彼のことを思うだけで胸が苦しくて息が上手く出来なくて、ずっと熱があるような感覚が続く。勝手に目から涙がこぼれたり、何も手につかなくなったり、近頃はまるで自分が自分ではないような気がして、困惑していた。

あの、まるで聖母マリアさまのような優しい笑顔が、いつも瞼を離れない。

それは思い出すたびに涙が出そうなくらい、本当に、優しかった。








それからしばらくの間、私は毎日、何とか白石くんに対する恋心を諦めることばかり考えていた。世の中には願ってすらいけないこともある。いくら中学生だって身の程をわきまえなくてはいけないのだ。


お昼休み、私はいつものように一人お弁当を持って、滅多に人の通らない階段へ行くと人目に触れないよう隠れて座り込んだ。

色々校舎の中を回ってみたけれど、ここが一番人に気付かれにくい場所だったので、私はいつもここで昼食をとる。初めの頃は何とか馴染もうとクラスの中で食べたり食堂に行ったりしていたけれど、あまりにも気疲れしてしまい、近頃は逃げるように教室を出て、昼休み中はずっとここにいた。

一人きりになると心底ほっとする。一人ならボケもツッコミも気にしなくていいし、誰かの話に無理して笑わなくてもいい。私はお弁当をひざの上にのせてのんびり食べ始めたけれど、少しして、背中越しに何となく人の気配を感じておかずをつつくフォークの動きを止めた。

(…………)

息を殺し、早くその誰かがいなくなってくれるよう望むけれど、逆に近づいてきているようにも感じる。嫌だな……と思いながら仕方なく、ゆっくりと首を回すと、そこにはいつものように落ち着いた笑顔の、白石くんが立っていた。

「俺も、ここで一緒に昼メシ食べさせてもらってええかな」
「……えっ」

その手には購買のパンが入ったビニール袋が握られている。でも、どうして白石くんがこんなところで、私なんかとお昼を食べるんだろう。理解できない。理解できないけど、断るわけにもいかず、若干頭が混乱したまま、
「ど、どうぞ……」と言って私は階段の真ん中に座っていたのを右端によけた。

使う人も少ない階段の上の電気は、チカチカと点いたり消えたり、不気味だった。せっかく白石くんがとなりでごはんを食べているというのに、私は緊張して、お弁当箱の中のおかずをじーっと見つめることしか出来なかった。いつもは可愛いくて気に入っていたタコさんウインナーが、なんだか今日は恨めしい。


「こんなとこに一人でおらんと、教室でみんなと食べればええのに」
「……いいの。ここが一番落ち着くの」

そう答えると、白石くんは「そうか」とだけ言って、またパンを食べ始めた。心配、してくれているのだろう。なかなかクラスに溶け込めない私のことを。だからこの前の体育のときみたいに、お昼休みに教室にいない私のことを探しに来てくれたのかもしれない。
でも、どうして私のことをそんなにまで気にかけてくれるのか……?

「あんまりなんも言わんと、我慢ばっかりしとったらアカンで」

泣きたかった。今はその優しささえ嬉しいというよりも、情けないと言うか、何と言うか、どんどんそんな自分のことを嫌いになっていくだけだった。


「今朝おかんが寝坊してなあ、せやから弁当ないねん」
「……」

心の中では「そうなんだ」と笑っているのに、それは顔にも声にも出ない。ただ、小さくうなずくだけ。

「購買あんま行かんのやけど、すごいなあそこ、めっちゃ混んでんねんな。ほとんど売り切れやってん、パン。こんなんしか残っとらんかったわ」

見ると、たしかにやけに甘そうなパンばかりだ。白石くんがはは、と笑いながら、気を利かせて何気ない世間話をしてくれているとわかっているのに、うなずくばかりで、何も返せなかった。

それから何も言えないままお弁当を食べ終えて、クロスで包み、ランチバッグにしまった。さて、これからどうしたらいいのだろう。まだお昼休みが終わるまで20分近くある。いつもならここで時間を潰すのだけど、今日はそういうわけにもいかない。

ちらりと白石くんの方を見ると、私の視線に気が付いたのか目が合った。

さん、このあとどないするん?」
「べつに……何もしない」
「そっか。ほんなら、ちょっと付き合うてくれへん?」
「……?」

図書室に行きたいのだと言って、白石くんは腰を上げて歩き始めた。廊下ですれ違う女子生徒がみんな白石くんのことを見る。男子生徒に声をかけられる。そんな後ろをついて行く。時折こちらを振り返ってくれる白石くんと目が合って、急いで視線を下に落としてそらす、の繰り返しだった。

図書室に到着して、中に入ったけれどあまり人はいない。机で勉強しているのが何人か。新刊のあたりにいるのが何人か。図書委員の当番の人も眠そうな顔をしている。

ランチバッグを持ったまま、図書室の奥へと進んでいく白石くんのあとを追いかける。足を止めたのは、普段誰も来ないような、難しい本ばかりの棚が並んだところだった。一人も借りたことないんじゃないかと思う、分厚くて重そうな本がズラリ。気の毒にもホコリをかぶっている。

その中から白石くんが一冊、大きくてこれまた分厚い本を取り出した。よいしょ、と言ってパラパラページをめくる。ちょっと覗き込むと、文字はなく、絵ばかりだった。何かの画集のようだ。
それから白石くんがあるページで手を止め、これなんやけど、と言って私に見せてくれた。


青い服を着たマリアさまのそばに、天使が一人。


「これ……」

私でも知っている。有名な絵。

「知っとる?受胎告知」

白石くんの言葉に、コクコクとうなずく。美しくて優しそうなマリアさまのお顔。高貴な青い衣。やっぱり白石くんに似ている、と思った。……でも、どうして白石くんは私にこの絵を見せるのだろうか。

「こんなん言うたら笑われるかもしれへんけど、俺なあ、初めてさんに会うた時、ガブリエルやと思ってん」
「………………はい?」

ガブリエルっていうのは今この絵に描かれてる天使のことで。
つまりガブリエルが天使ってことは私がガブリエルってことは私が天使ってことで。

私が天使

私が天使

私が、てん……し?

今ここに私一人だけだったら、お腹を抱えて大笑いしたいくらいだった。それぐらい可笑しかった。今まで自分のことを天使だなんて一度も思ったことがないし、誰かに思われたこともないだろう。私なんかと重ねられてはガブリエルがあまりにも気の毒だ。

「そんなわけないよ、私が天使なんて、そんなのありえないよ」
「なんで?」
「なんでって、だって……じゃあなんで、白石くんはそう思ったの?」
「そうやなあ……、なんでやろな。翼もないのになあ」

絵を眺めながら笑う白石くんはどこか寂しそうで、その震えるまつ毛は長くて綺麗だった。どうやら、からかったりふざけた様子もない。とても笑える雰囲気ではなかった。本気で言っているのだとしたら、不思議だった。

「俺、知ってたような気がすんねん、さんのこと」
「え……?」
「初めてやのに懐かしかった。……さんの声聞くといつも、泣きたいくらい、なんや懐かしいねん……」

それは微かに苦しそうな声だった。

白石くんと最初に会ったのはたしかに今年の四月。私が大阪に訪れたのもこれが初めて。過去に会ったはずがない。なのに、私も心のどこかで彼のことを知っていたような気がする。気がするだけで、今となってはもう、よくわからないけれど……。

「ああ、ガブリエルやって……すぐわかったんや」

顔を上げた白石くんの瞳は真摯な光を放っていた。心の底から美しいと、思った。

「あのね、私も……白石くんのこと、マリアさまだと思ったの」
「……俺が?」
「うん。優しくて温かくて……きっとそうだと、思った。今も……」

しゃべりながら、なんだか胸が苦しくなった。無性に泣きたい気持ちだった。どうして?
遠くで聞こえる予鈴のチャイムが、教会の鐘の音にも似ていて、心が震えた。私たちが聖母マリアさまと大天使ガブリエルだなんて、他人が聞けば笑い話だ。どう考えても可笑しい、とわかっているのに。どうして?

どうして?

パタンと本を閉じ、元あった場所に返したあと、白石くんと目が合う。美しい瞳をじっと見つめながら、自分の目頭が熱くなるのがわかった。それからそっと白石くんの手が伸びて、気が付くと私は、その慈愛に満ちた優しい胸に顔をうずめていた。柔らかい温もりと、微かに聞こえる心臓の鼓動が懐かしく心地いい。


眠るように私は目を閉じて、瞳から零れ落ちた温かい涙がゆっくり頬を伝っていくのを感じていた。