の 致







「蔵ノ介、呼んできてくれへん?」


放課後、練習を行っている男子テニス部のコートに一人の女子生徒がやって来て、近くにいた男子部員を呼び止めた。下級生らしい部員は言われるままに、レギュラー選手たちがミーティングを行っているところへ走って行き、するとしばらくして、その中から少し険しい表情をした白石蔵ノ介が彼女のもとへとやって来た。


、部活中は呼び出さんってこの前約束したやろ」
「……ごめんなさい」


少々叱るつもりだったが、しゅんとした表情で早々に謝られてしまってはこれ以上怒ることができず、白石は小さくため息をついた。と呼ばれた女子生徒は、白石と同じく3学年の。彼の恋人でもあった。


「だって、メールしても返さへんから……今日一緒に帰りたかってんもん」
「忙しかってん。委員会のあとすぐ部活やったし、返せんかったんや」
「ずっと返事待っとったのに……」
「すまんかったって。ごめんな」
「……」
「ほんなら部活終わったら一緒に帰るから……な?待っといてくれるか?」
「……うん、わかった」


少し落ち込んだような様子で去っていく彼女の後ろ姿を眺めながら、白石はもう一度ため息をつく。急用でもないのに度々部活中に呼び出しをかける彼女に、この頃は手を焼いていた。

何度か、もう呼び出さないと約束させたことはあっても、結局それが守られることはなかった。叱ろうとすればいつも泣かれてしまい、それ以上何も言えなくなってしまう。


は少しでも白石が自分から離れることを不安がった。四六時中彼が何をしているのかいつも気になったし、白石が自分以外の人間と親しくすることさえ、本当は面白くないように感じていた。それはあまりにも彼のことを好き過ぎるがゆえであることも、白石は理解しているつもりだったが、多少息苦しさを感じることも多かった。

付き合い始めたのは中学2年生の頃で、当時同じクラスだった二人がたまたまとなりの席になり、接する機会が増えるうちに親しくなったことから始まった。

はまだクラスの違った1年生の時から白石のことを好いており、白石もまた控えめで柔和な性格の彼女のことを気に入っていたため、二人が付き合うのはそう難しくはなかった。

はじめは白石の言うことを素直に聞き、常に笑顔だったも、しばらく経つと我儘とまではいかないまでも何かと意見するようになった。笑顔よりも、不機嫌な顔や泣き顔を見せることの方が多くなった。

この頃はと一緒にいると何だか気疲れする、と白石は思えど、それはを不安にさせている自分にも責任があるのではないかと、心の中で度々自分を責めていた。





「すまん待たせたな」


部活が終わり、本当はまだ残って自主練をしたかったけれど仕方なく今日は早々に切り上げて、何か食べて帰ろうかという仲間の誘いも断り、校門近くで座り込んでいるのもとへ足早にやって来た。

けれど白石の声に顔を上げたが見せたのは笑顔ではなくどことなく不満そうな顔で、白石はどうしたらいいのかわからず、もう一度すまんと謝ると彼女は小さく「……うん」と頷いた。

それから白石は自転車に二人分の鞄を乗せ、それを押しながら自分よりもずっと遅いの歩調に合わせる。


「今度の休みな、私観たい映画があるんやけど」
「うーん……すまん、練習試合があんねん」
「……また?この前もやったやん」
「仕方ないやろ、みんな全国目指して頑張ってんねやから……。な、
「……」
「誰か、友達と行ったらええんちゃう?ほら、何ちゃんやったっけ」
「蔵ノ介と行きたかってんもん……」
「ごめんな、また今度な」
「……いつもそうやん」


近頃は話していても結局こんな風にの機嫌を損ねてしまい、白石はただ謝ってばかりだった。の方をみるとその目にはじわりと涙が浮かんでいる。

彼女のことももちろん大事に思っているけれど、部長として同じくらいテニス部のことも考えなければならない。どうしたものかと困ってしまい、白石はまた小さくため息をついた。

それからの家に着くまでの間白石が何か話しかけても、無言で頷くばかりでそれ以上が口を開くことはなかった。玄関の前で彼女の鞄を渡し、「、また明日な」と言ってもはその場所から動かないまま、じっと白石の制服のポケットの辺りを見つめている。


「どないしたん、家入らんのか」
「……私は、蔵ノ介がおらんと寂しいのに……蔵ノ介は違うんや」
「……は?」
「私がおらんくても平気なんや……。蔵ノ介は、私のことなんかどうだってええんやな」
「何言うてんねん、そんなわけないやろ」
「私のことなんか好きとちゃうんや」



少し強い口調でその名前を呼んだら、は叱られた子どものような顔をして口をつぐんだ。その唇は微かに震えている。またか、どうしようと思っていたら、そのまま何も言わずに家の中へ入っていってしまった。

まいったなと思いながら白石は仕方なくとりあえず家へ帰って、夕食をとり、風呂にも入って夜も9時を過ぎた頃にの携帯へ電話してみたけれど出なかったのでまだ怒っているのだろうか、と思う。

今日出された宿題を片付け、明日の授業の予習を終え、もう寝ようかとベッドに入る。携帯のアラームをセットした後にもう一度、に電話をかけてみると数回コールが鳴ってから繋がった。


「……か?俺やけど、遅くにごめんな」
「……」
「今日は、悪かったな。……まだ怒っとるんか?」
「……ううん、怒ってへんよ」


怒ってへん、とは言いながらもその声はあまり機嫌の良いようには感じられなかった。


「また、今度ちゃんと時間作るから。今部活も大事な時やねん、わかってくれへんかな?」
「……うん。ごめんなさい……」
「そうか、ありがとうな」
「なあ、蔵ノ介、私のこと嫌いにならんといてな……」
「ああ、ならへんよ」
「ほんまやな……?」
「ほんまや」


にとって白石は、自分の世界におけるすべてだった。白石のことを好きになったその日から、朝も夜も、四六時中彼が心の中に棲み着いていた。

けれどと同じように彼に想いを寄せる女子生徒はあまりに多く、自分のような人間が恋人になんてなれるわけがないと頭の中は思っていても、その心はいつも白石と結ばれることを願い続けていた。

するとその願いが神に届いたのか、彼の恋人になれるというこの上もない幸運に恵まれた。はこれによってこの後の人生全ての運を使い切ってしまっても構わなかった。白石がとなりにいるのならそこが天国でも地獄でもよかった。

けれど、は白石を好きになればなるほど自分の心が狭く、貧しくなっていくのを日に日に感じていた。


白石を独り占めにしたい。

その笑顔も優しさも、体も声も何もかも誰にも渡したくない。鍵のかかった二人だけの世界で、ずっとずっと一緒にいたい。そんな思いが白石を苦しませていることに本当は気付いていても、彼を想う気持ちばかりが勝手にブクブクと膨れ上がっていき、心の中でもう一人の自分が顔を覗かせる。

素直な可愛い女の子になりたいと願うのに、は、白石のことになると感情をうまくコントロールすることができず、彼だけでなく自分までもが振り回され続けていた。





「あ、のダンナやあ」


翌日の学校で、休み時間は友達と廊下を歩いていた。突然友達が首をぐいっと曲げてそんなことを言うので自分もそちらに顔を向けると、そこには白石の姿と、その背に負ぶさる女子生徒の姿があって、は思わず目を見張った。


「あの子、怪我でもしたんかなあ。保健室入ってったで」


のん気な声を出す友達のとなりで、は気が気ではなかった。二人とも体操着姿だったのできっと体育で足でもくじいたのだろうが、そんなことはどうでもよかった。なぜあの女子生徒を負ぶうのが白石でなければならなかったのか。他にも男子生徒はいくらだっているだろうに。

白石の背中で頬を赤らめる女子生徒もさることながら、彼女に優しく笑いかける白石のことも気に食わなかった。近頃では自分にもあんな風に笑ってはくれないのに。

まるで、腹のそこでグラグラとマグマが煮え返っているような感覚がして、体中が熱くなる。
こうなってはもう、自分ですら鎮火させる方法などわからなかった。





「……蔵ノ介」


友達には先に教室に戻るように言って、自分は保健室の近くで白石が出てくるのを待っていた。


「わ、びっくりしたなあ。か……その、昨日はすまんかったな」
「……うん」
「……?なんや、何か用か?」
「ちょっと、話したいことあるんやけど」
「話……?せやって、もう次の授業始まるやん。俺着替えなあかんし、あとにしてくれへんかな」
「嫌や、今話したいねん」
、子どもやないねんから」
「……なんで、私の話いつも聞いてくれへんの?」
「聞いとるやんか……。なあ、昼休みじゃあかんか?」
「そんなん待たれへん。それにどうせまた忙しいゆうて聞いてくれへんもん」


白石は小さくため息をつく。またか、と思った。この頃ではもう何度ため息をついたかわからない。

の話というのは、いわゆる愚痴や不満のことで、度々部活中に呼び出されて聞かされる話もこれである。白石としては、なにも今言わんでも、と思うことばかりなのだが、その時点ですでにの中では限界まで来ているので、これを聞き入れないと後々もっと大変なことになる。


「ああわかった……聞けばええんやな。そこの教室でええか?」


白石は近くにあった空き教室に入り、少しほこりのかぶった椅子を手で払ってを座らせると、間に机を挟んで自分も向かいの椅子に座った。それと同時に始業を知らせるチャイムが鳴ったけれど、もう次の授業は諦めることにした。


「ほんで、なんや、話って」
「……蔵ノ介、なんでさっき、あの子おぶってたん」
「さっき……?ああ、あれはな、俺あの子と同じチームやってん。足くじいてもうて一人で歩かれへんから運んだだけやろ」
「せやけどなんで蔵ノ介なん?他にもおるやろ」
、いい加減にしいや」


叱るような白石の口調に、はうつむいた。仕方のないことだとはわかってはいても、あんな風に、白石が自分以外の女子に触れることが我慢できなかった。嫉妬なんてくだらないと心の中で自分を笑っても、腹の底のマグマは量を増すばかり。


「なんで……なんで、クラスの子やと笑うのに私には笑わへんの?」
「なんのことやねん」
「私には笑ってくれへんやんか……」


の瞳に涙がじわりと浮かび、しばらくしてポタリと机の上に落ちて染みを作る。


「さっきの子が蔵ノ介のこと好きやって、知っとるもん。あと、蔵ノ介のとなりの席の子も、他の子も、好きやって、みんな知っとるもん」
「なんやねん、……」
「他の子に笑わんといてよ……」


は大事な白石が誰かにとられてしまうのではないかと、いつもいつも、気が気ではなかった。
こんなことを言ってはもう嫌われてしまうだろうとわかっていても、これ以上は堪えられなかった。

涙はまだ止まらない。そのあとも二、三粒机の上に水滴が落っこちてゆく。


「俺が、他の奴に優しくすんのが気に入らんのか?」
「……」
「ほんなら他の奴に冷たくして、にだけ優しくしたら気が済むんか」
「……」
「なあ、。そうして欲しいんか」


珍しく責めるような白石の口調に、は思わず身を小さくしてうつむく。

そうなったら、どんなにいいか。白石の優しさを全部独り占めにできたらどんなに気持ちがいいだろう。……でも、自分だって、誰にでも優しくする白石に惚れ込んだのではなかっただろうか。

それなのに、自分は、誰かに対する彼の優しさをすべて奪い取って、何もかも独占して。それで、彼は、私は、みんなは幸せなのだろうか。は自問自答する。

本当はわかっていた、そんなのは間違っているのだと。でも、それでももう我慢できないのだ。白石を自分だけのものにするためには、そうするしかないと、はあまりにも思い詰めていた。


「……蔵ノ介、私のこと我儘な嫌な奴やと思っとる……」
「思ってへんよ」
「……思っとる」
「思ってへん」
「嘘や思っとるもん……もう、私のことなんか嫌いなんや」
「そんなん思ってへんて」


ため息混じりの白石の言葉に、は泣きたくなる。どうしてわかってくれないのだろう、こんなにも好きなのに、と行き場のない想いばかりが溢れて、止めることができない。


「蔵ノ介のこと、好きすぎて……死ぬかもしれへん……」



は、白石に心の中を見透かされたかった。何もかも知っていて欲しかった。白石の為なら、自分のすべてを差し出しても構わなかったし、何をされてもよかった。

けれど、白石はそれを望まなかった。

気遣うような優しいキスも、のスカートの中には決して手を入れないことも、自分を想っての上のこととわかっていても、苦しかった。本当は唇から血が出るくらいに噛まれてみたかったし、その大きな手に体のどこもかしこも触られてみたかった。


白石は、本当に自分のことが好きなのだろうか。
その思いは時が経つにつれて次第に大きくなっていき、ついにのすべてを飲み込んでしまった。


「蔵ノ介に嫌われんのやったら、生きとっても意味ないし……」
「嫌いやないって。、なんでそういつも思い詰めんねん」


白石にとってのそういった思考は理解できなかったが、がその瞳に涙をためては不安を訴えてくるたびに、彼は罪悪にも似た思いを感じ、何とか理解したいとは思っていた。


……ごめんな、俺が悪いんやな」


白石の困ったような顔を見て、は胸が詰まるような思いがした。白石はいつだってのことを責めない。そして最終的には自分が悪いのだと言う。

白石にごめんなと謝られて、自分の機嫌をとろうとする態度を見るその度に、の心の中には深い罪悪感と同時に、言い様もない快感が溢れていくのだった。


「私のこと、好き……?」
「ああ、好きやで」
「どんくらい好き?」
「どんくらいって、そんなんゆうてもなあ……」
「私は蔵ノ介のこと、世界で一番好きや。家族より友達より大事」
「……そうなん?」
「……蔵ノ介は、違うんやな」
「大事なモンに順番なんかないやろ」
「……蔵ノ介にはわからん」


自分が愛するように、は、白石に同じ様に愛して欲しかった。お互いがいれば他には何もいらないくらいの世界に住んでみたかった。それがどんなにか難しいことだとはわかっていても。

白石はを決して束縛したりしない。誰と話すなとか、どこへ行くなとか、何を着るなとか、絶対に口を出すことはなかった。が何をしようとそれをそのまま受け入れていた。相手を否定しないことが白石にとっての愛情表現だったからだ。

興味がないからとか、いい加減に思っているからとか、そういうことではなかった。何か指図すれば、その方がは悲しむだろうと思っていた。自由にさせてあげたかった。けれど、それはにとって逆に不安になる原因となっていた。



の瞳から零れ落ちる涙を眺めながら、白石は、何だか深い海の中で溺れているような感覚がした。の大きな感情の波に飲み込まれて、呼吸もできない。もがけばもがくほど、苦しさは増してゆくばかり。



水を与えすぎた植木は腐るように。投与しすぎた薬は毒となるように。
多すぎる愛情は、気付かぬうちに、その身を蝕んでゆく。

互いに想い合っているのに、二人は、決して分かり合えはしないまま。




愛が死んでいくのをわかっていながらも、ただ、ぼんやりと見届けることしかできなかった。