センチメンタル・メモリー
「……母さん」 まだ小さかった頃、俺はいつも不思議に思っていたことがあった。 それは、近所のとある家の前を通りかかるたび、二階の窓から外を眺めている女の子をよく見かけるのだけれど、俺はその子が誰なのかを知らなかった。 どこか悲しそうな目をしてぼんやりと外を眺めているその子は、歳のころでいえば俺と同い年くらいに見えた。そして時折、下から見ている俺に気がつくと慌てたようにパッと隠れていなくなってしまうのだった。 「母さん、あの子は誰なんですか。どうして、学校に来ないんですか」 ある日またあの子を見かけてふと、隣を歩いていた母に尋ねると、彼女は「さあ、どうしてかしらねえ」と少し困ったように笑っていた。俺はそれを見て、これはきっと聞いてはいけないことなのだと思って、それ以上は何も聞かなかった。 (どうしてなのだろう) 俺は、ただ単純に不思議だった。あのくらいの歳なら、学校に行って当たり前のはずなのに。どうして、あの子は行かないのだろう。どうして、いつもランドセルを背負って通りを歩く子どもたちを、寂しそうに眺めているのだろう。 俺と、あの子と、何も違うようには見えないのに。 「じゃあ国光、ちゃんのことお願いね」 「はい、母さん」 「本当にどうもありがとう、国光くん。、国光くんの言うことちゃんと聞くのよ」 と呼ばれ、俺の手を握るその女の子は今にも泣き出しそうな顔でかすかに頷いた。その背にぶら下がっている赤いランドセルは、小学校中学年とは思えないくらい綺麗で、まるで新品のように見えた。 「行こう」 そう声をかけて俺が歩き出すと、数歩遅れて彼女はついてきた。まだ家の前で手を振っている母親の姿を何度か振り返っていたけれど、角を曲がって見えなくなってからは、うつむくようにしてただ黙って歩いていた。 何か話しかけるべきなのだろうかと思っても、俺はテレビを見ないし、ゲームもしない。漫画も読まない。このくらいの女の子ならどんなものが好きだろうかなんて、そんなことは知らなくて、とっさに考えつく話題もなく、ただ黙々と歩いた。 『国光、あなたにお願いがあるの』 母が俺に話を持ちかけたのは少し前のことだった。「さんのお宅のことなのだけど」と言われても、とっさに何のことかはわからなかったけれど、それから少しして、あの女の子の家のことだと気がついた。 あの時、聞いてはいけないことだと思ったのに、そんな風に母のほうから話をするのを不思議に思った。 あの子は名前をといって、歳は俺と同じ。何年か前に引っ越してきたけれど、どうしてもここの暮らしになじめず、以前の土地が恋しいのかすっかり塞ぎ込んでしまったらしい。それから家の外に出られなくなって、学校にも行けないまま、ずっとああやって窓から外を眺めてるだけなのだという。 『ちゃんと一緒に、学校に行ってくれないかしら』 母は、彼女の母親と偶然行き会った折に、俺が彼女を気にかけていたことを思い出して話しかけてみたらば、その母親も娘のことを大変気に病んでおり、なんとか学校に行かせたいのだと言った。 『あなたと一緒なら、きっとちゃんも心強いと思うの』 『……はい、わかりました。一緒に行きます』 『ありがとう、国光』 あの子はどんな声をしているのだろう。どんな顔で笑うのだろう。ただ遠くから眺めるばかりだったあの姿を、そばで見るのはどんな気持ちだろう。と、思ったりした。 「…………ちゃん」 「…………」 「学校では、僕がきみのお母さんの代わりになるよ」 「…………」 「それなら、寂しくないよね」 「……………………うん」 小さくこくりと頷く、それが初めて聞いた彼女の声だった。泣くわけでも、笑うわけでもなく、ただポツリと。短いその一言は、それでも、彼女にとってもはとてもとても、長い長い言葉だったと思うのだった。 ・ ・ ・ ・ 「にいに」 校舎の廊下の少し離れたところから、制服のスカートを揺らしてかけてくる女子生徒を何もせずにただ見ていた。 「どうした」 「家庭科でクッキー焼いたの。にいににあげようと思って。クッキー食べられたかな?」 「ああ」 「よかった。甘さ控えめにしたの、部活の前にでも食べてね」 「ああ、ありがとう。」 にこにこと微笑む彼女は、ついこの前まで、手をつないで一緒に学校に通っていたように思う。けれど気がつけば俺たちはもう中学も3年になっていたのだ。 不登校児だったはあれから学校に行けるようになり、次第に女子の友達などもできてだいぶ明るくなった。同性同士のほうが何かと付き合いやすいのだろうと思ったけれど、それからもは俺と一緒にいたがり、中学は青学に行くと言うと一緒についてきたのだった。 「ねえ、にいに部活何時に終わる?待ってて一緒に帰ってもいい?」 「べつに構わないが、今日は遅くなると思う」 「いいの、待ってる。じゃあ校門のところにいるね。きっと来てね」 「ああ、わかった」 テニス部の練習は毎日夜まであり、朝は朝でまた練習がある。もう子どもの頃のように一緒に登下校、とはいかないけれど、それでもは少しでも俺と一緒にいたがった。 同い年なのに、俺を「にいに」と呼び、いくつになっても兄のように慕い、他の女子の友達よりもいつも俺を優先した。 俺は、もうお前に必要でなくなったのではないのか。お前が学校に通えるようになった時点で、もう俺の役目は終わっているはずなのではないのか。「にいに」とが俺を呼ぶ度に、そんな思いが頭をよぎっていった。 「さんって、手塚の幼なじみなんだっけ」 「……?、ああ」 部活の休憩中、隣にやってきた不二がドリンクを飲みながら、何とはなしに話しかけてきた。なぜ急に不二がの話をするのだろう、と考えかけたけれど、同じクラスであったことを思い出した。 「よく、教室で手塚の話してるよ。あ、してるっていうよりかは、させられてるのかな。女子達に色々聞かれて。手塚、にいにって呼ばれてるんだって?ずいぶん慕われてるじゃない」 「…………」 「ごめん、からかうつもりじゃなかったんだ。本当。ごめんね、ただ、いいなって思ってさ」 「どういう意味だ」 「いや、手塚のことあんな風に素直に好いてくれる子が、そばにいてくれてよかったなって」 「余計なお世話だ」 「ごめん。でも、さんと一緒にいるのが手塚にとっても、いいんじゃないのかなって思うんだ。僕」 「…………」 「あ、休憩終わりだ。戻ろう、手塚」 と一緒にいることが俺にとっていいこと、とは、どういう意味なのだろうかと思ってもその質問は口には出せなかった。役目の終えた俺は、それでものそばにいてもいいのだと、不二はそう言うのだろうか。 「ねえ、あれが北斗七星だよね。えっと、あと……」 「あの一番明るいのが北極星だ。そのそばに北斗七星に似た形があるだろう、あれがこぐま座だ」 「そうなの!すごいね、にいにって何でも知ってるんだね」 「いや。そんなものは、知識があれば誰にでもわかることだ」 「ううん、すごいよ。だって、にいには特別なの。誰よりも一番すごいの。本当だよ」 「…………」 こんな風に、素直に口に出して俺を賞賛するのは、くらいなものかもしれない。昔の姿からは想像もできないくらい、今は明るく笑うの姿を見るたびに、この心が癒されていくように思うのは気のせいではないのだろうか。それは、本当に俺が抱いてもいい感情なのだろうか。 (俺は、もう、お前に必要ではないのだろうに) 「ねえ、にいにはプロのテニスプレイヤーになるの?」 「ああ、そうなりたいと思っている」 「……そう。じゃあ、いつかは外国に行っちゃうね」 「ああ」 「でも、まだずっと先のことだよね?しばらくはここにいるよね?」 「……わからない。機会があれば……」 「……外国に……?」 「……。ドイツに、行こうかと思っているんだ」 「…………」 ただの希望であったその夢が、口に出せば不思議と強い現実になるような気がした。テニスは俺にとって、かけがえのない大切なもの。それは、生きているのと同じ意味だった。俺があってテニスがあるのではなくて、テニスがあってはじめて、俺がある。それくらいにも思えた。 「、」 「そっか……、にいにの夢だもんね。きっと叶うよ!だってにいにはすごいもの」 「……そうか」 もう、お前に俺は必要ないんだ。お前はもう一人で歩ける。そうしてこれからも、ずっと、歩いてゆけるだろう。だから、俺がいなくても、大丈夫なんだ。。 「手塚、どうしたの。なんか、心ここにあらず、って感じだけど」 「……不二、か。どうした」 「いや、だからきみの様子見に来たんだよ。大丈夫?珍しいね、手塚がぼんやりするなんて」 「俺は、ぼんやりしていたか?」 「うん」 部活の休憩時間に気がつけばまたこの前と同じように横に不二がいて、同じようにその手にはドリンクがあって。手塚も飲めば?と言われて、いやいいと軽く首を横に振った。 「勘違いなら謝るけど、ねえもしかしてさんのこと考えてた?」 「……、……」 「そうだった?」 「……。俺は、もう役目が終わったんだ。だから、ドイツに行くと言った。それでいいと思った」 「ねえ悪いけど全然話が見えない。それってさんと何か関係ある?」 (には、もう俺は必要ない) 俺の居なくなった世界で、お前はそしていずれは俺のことも忘れてしまうだろう。それが、にとって一番いいことなのだと思う。 すべてわかっているのに。それならば、なぜこんなにも苦しい気がするのか? お前が、もう俺をいらないと言ってくれれば、こんな気持ちはなくなるのだろうか。 「……」 「おはよう、にいに。一緒に学校行ってもいい?」 まだ完全に夜の空けきっていないこの時間に、家の門をくぐるとそこにはがいて驚いた。普段ならばまだ寝ているはずのこの時間に、彼女はすっかり制服に身を包み、少し遠慮がちにそう言った。 「ああ……構わないが」 「よかった、ありがと」 はほっとしたように笑った。それから隣に並んで歩き、あれやこれやと色々な話をするのを頷いて聞く。 あの頃も、ちょうど今時分だったろうか。あの時のは今とは逆で、俺が何かを話しかけても無言で頷いたり首を振るばかりで、自分から話をすることはほとんどなかった。 お前がこんな風に明るく過ごせるようになったことを、本当に、よかったと思っている。 俺は、を助けることができたのだろうか。もしかしたら、は俺がいなくてもいずれはこうなっていたのではないのだろうか。などと、そんなことを考え出すと、とりとめもなく広がっていくばかりで終わりがなくなる。 「ねえ、手つないでもいい?」 「……何?」 「あ、嫌ならいいんだけど……でも、ちょっとだけでも。……だめ?」 「…………。少しなら」 「ありがと、にいに」 久しぶりに自分の手のひらに重なるその感覚は、思いでの中のものよりももっとずっと温かくて柔らかいような思いがした。それが何よりもかけがえのない大切なものだとわかるのに、それでもいずれはこの手を離さなくてはいけないと、同時にそれもわかってしまう。 前に進むためには、思い出を捨てなければならない、と誰かが言う。 「私ね、あと、にいにとどのくらい一緒にいられるのかわからないから……。できるだけにいにのこと覚えておきたいの。一生分の思い出、今のうちに作っておきたいの」 「……何、」 「にいにが外国に行っても、私、一人でちゃんと生きていけるように、なりたいから。にいにがそばにいなくても、大丈夫になるんだ。だから、今だけは一緒にいてもいい?」 「……ああ……」 「にいに、ずっと今までありがとう。私、本当に嬉しかったよ。だから、にいににも絶対夢叶えて欲しいの」 頬に当たる柔らかな風は、暖かいのに、どうしてこんなにも冷たく感じるのだろう。一人で立って歩いて行こうとする彼女を横で眺めるのは、どうしてこんなにも胸の苦しい思いがするのだろう。 捨てていこうとしているのは俺なのに、置き去りにされるような気分になるのは、なぜなのか。 なぜなのか、。 「……へえ、さんが不登校児だったなんて、意外だな」 薄暗く、誰もいなくなった部室で、俺はたまたま残っていた不二にポツリポツリと話をした。誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。今まで誰にも話したことのなかった俺との昔話を、初めて人に話したけれどそれを不二は何とはなしに聞いてくれた。 「だからあんなに手塚のこと慕ってるんだね」 「……しかし、俺はもうには必要ないと思うんだ。そばにいるべきではない」 「もう学校に行けるようになったし、友達もできたから?」 「ああ」 もう、支えは要らない。そう、それはまるで自転車の補助輪のように、もう一度乗れるようになればそんなもの、二度と必要にはならない。あとは捨てられるだけ。けれどそれでいいのだ。生きていくためには。 「僕思うんだけどさ、本当は手塚がさんを必要としてたんじゃないかな」 「どういう、ことだ」 「さんは、もうとっくに一人で歩けるようになってるよ。だけど手塚のそばを離れなかった。それは手塚が自分のことを必要としてる、ってわかってたからじゃないの」 「……そんなことは、」 「ない、って思う?自分はさんがいなくても大丈夫だったって、そう思う?」 「…………」 「きみは真面目さゆえに、あまりにも自分自身を律し過ぎてしまう危うさがあるし、案外、人にも誤解されやすいよね。近寄りがたいって言う人も、よくわからないって言う人もいる。だけどさんはきみの良いところも悪いところも全部理解してくれてた。何も言わなくても、わかってくれてた。違う?」 「…………」 不二の言うことに、俺はもう何も返せなくなっていた。どうしてそんなにものことがわかるのか、わからなかったけれど、それでも何となくその通りのような気もして、反論する気にはならなかった。 は、俺のために、ずっとそばを離れなかった?一人で歩けなかったのは、俺だったと言うのか。 「まあ、詳しいことは僕もわからないけどさ。その、今のうちに一生分の思い出っていうのも、手塚のために作ってくれてるんじゃないのかな」 「…………まさか」 「さんは本当に心から手塚のことを慕ってくれていて、それがきっといつの間にか、きみの支えになってたんだ。だから離れても、きみが、遠い場所で強く生きていけるように、さんは」 「もういい、不二……、もうやめてくれ」 「……手塚」 あの日、泣き出しそうな顔をしたの手を引いて歩いたのは俺だった。それからは俺が兄のようになって、面倒を見た。だからは俺がいなくては、支えがなくては、生きられないのだと思った。 だから、俺のいなくなったのことは考えても、のいなくなった俺のことなど、今まで考えたことなどなかった。そんな風に、思いもしなかったから。 、お前は今、自分の役目を終えようとしているのか……? 「あ、にいに、遅かったね。不二くんも一緒?お疲れさま」 「……。待っていたのか?」 「うん、まあ。あ、でも不二くんと帰るなら……、」 「いや、僕はちょっと寄る所あるから。二人で帰りなよ、じゃあね」 「……不二」 「気をつけてね、不二くん。また明日」 笑顔で不二を見送ったあと、じゃあ行こうかと歩き出すの後ろ姿をぼんやり眺めながら、それについて行く。いつの間にか、お前は、俺の前を歩くようになっていたのか。 「ねえ見て、こんなに歩幅広くできるよ。にいにできる?」 「…………」 「なに?」 「俺は……、俺は、の役に立っただろうか」 「……え?」 突然は足を止めて、不思議そうな顔をして俺のことを見た。まるで、どうして突然そんなことを聞くのかとでも言いたげな感じだった。やんわりと明るい月の光が、の顔を照らすのを眺めた。 「どうしたの?にいに……。急に、そんなこと聞くなんて」 「ふと、疑問に思ったんだ。それで、もしお前の役に立ったなら、もうその役目はとっくに終えているのではないのか。俺は、お前には必要なくなったのではないか、と」 「……にいに」 「しかしそれは違ったんだ。本当は、俺がお前に必要だったのではなくて、お前が俺に必要だったんだ。そして今、はその役目を終えようとしている。俺が、がいなくても生きていけるように……」 「…………」 「俺は、ずっと、お前に支えられていたのか……?」 不二ならば、ここできっと「話が見えない」と言うだろうし、そもそも、他の者なら取り合ってさえくれないかもしれない。けれど、はそんな俺の唐突な話にも、何も言わず、理解したように一瞬、複雑そうな表情を浮かべ、その後すぐにまた笑顔に戻った。 「違うよ、いつだってにいにが私のこと支えてくれてたんだよ」 「……俺は、今まで気がつかなかったんだ。俺が、お前を必要としている、と……」 「私が必要だったの。だって私、にいにがいないと何もできないから……そうでしょ?」 「……。本当のことを、話して欲しい」 月に雲がかかって、の表情にも影ができる。少し悲しそうな顔をしたの瞳の色は、あの頃の、窓辺にいたの様にも見えた。喋らない、笑わない、の悲しい色。 「私が今、こうして生きていられるのはにいにのおかげなの。全部、そうだと思うの。にいには優しいし、頭もいいし、運動もできて、よく面倒みてくれた。……でも、私、なんだかにいにのこと心配で……」 「……心配?」 「本当は苦しいんじゃないかって。でも、それを誰にも言えなくて、いつか壊れちゃうんじゃないかって。そんなの余計なお世話だけど、それなら、私が誰よりもにいにのこと理解してあげればいいんだ、ってそう思って……」 「…………」 「恩返しがしたかったの。そばにいられる限り、にいにのためになりたかったの。ごめんね……」 どうして謝るのだ、と思ってもそれを上手く言葉にできなかった。がまさかそんな風に俺に対して考えていたとは思わなくて、驚きと、安堵と、切なさと、よくわからない、今までに感じたこともないものが胸に込み上げてくる。 どうして今まで知らなかったのだろう。お前の、そんなにも懸命な思いを。俺は。 「でも、にいにはもう大丈夫だよ。理解してくれる仲間もできたし、大切なテニスも、大きな夢もある。絶対大丈夫、どこへだって行けるよ。支えなんて、私なんて、そんなのもういらないから」 「…………、」 「今まで本当にありがとう。私、にいにには、誰よりも幸せになって欲しいの」 離さなくてはいけない。つないだ手も、いつかは。 いつまでものいる世界で生きられないことは、わかっていたことなのに、それをに言われると、正直どうしたらいいのかわからなかった。送り出すのなら、それは俺の方だと思っていたからだ。お前はもう大丈夫だと言うのなら、俺だと思っていたからだ。 (……待ってくれ) 手が、ほどける。 つないだ手が、ほどけて、どこか遠くに流れてゆく。 (……、待ってくれ) 幸せがあるというなら、それはきっとお前のいる場所にあると思うのに。どんなに遥か空を飛んでも、海を渡っても。どんな場所に行き、どんな人に出会い、どんな思いを抱こうと。 この胸に生き続けるあの思い出がなければ、俺は存在できない。 誰かに助けて欲しいと、願っていたのは、窓辺で外を眺めていたお前だったのではなくて。 きっと、それを見上げていた俺だったのだ。お前がいなければ、俺は、俺であることができなかったのだと。やっと、今、気がついたのに。 前に進むためには、思い出を捨てなければならない、と誰かが言う。 (……俺、は…………) お前を捨てて。あの日を捨てて。一体どこに行けるというのだ。 その手の温もりを、こんなにも覚えているのに。苦しいくらい、覚えているのに。 お前がいなくては生きられないのだと、知っているのに。 一体、どこに行けるというのだ。 |