不器用な体温 「アンタ、手塚部長の妹なんだって?」 休み時間、廊下を一人で歩いていたら突然後ろの方からそんな声が聞こえたので、私は立ち止まって振り向いた。見ると、大きな猫目をした男の子がこちらをじっと見ている。 この学園でその言葉を投げかけられたのはこれが初めてではない。もう何回目かは忘れてしまったけれど、私はそれに対して、いつもの様にうなずいた。 「そうだよ」 「……ふうん」 制服の襟についているピンズから察するに同じ1年生らしい彼は、自分から聞いてきた割には軽めのリアクションを返してきた。 (……この人、誰なんだろう……?) 心の中ではそう思ったけれど、その疑問は口に出せずにいると、 「越前リョーマ」 「……え?」 「名前。俺の」 私の考えていることがわかったのか、彼は自分から名前を名乗った。越前……リョーマ。聞いたことはある。アメリカ帰りの帰国子女で、お兄ちゃんと同じ男子テニス部に所属している、スーパールーキー……らしい。 でも同級生の噂話を耳にしただけで、お兄ちゃんから越前くんの話を聞いたことは一度もないから、詳しいことはよく知らない。顔を見たことはなかったので、こんな子だったのか、とちょっと思った。 「私は……手塚です」 彼が先に名乗ったので一応私も名乗ってみたけれど、彼はそれに対しても「ふうん」とだけ言って、さほど私の名前には興味なさそうだった。 じゃあ、もう行ってもいいかな……と思って足を動かそうとすると、彼はもう一度口を開いた。 「アンタもテニスやるの?」 「……テニス?」 そう質問されて、何故越前くんが私に話し掛けてきたのか、わかったような気がした。お兄ちゃんはすごい人だから。だからその妹はどうなのかと、気になっただけなのだろうと思った。 「私はやらないよ」 そう言うと、越前くんは少し残念そうな顔をした……様に見えた気がしないでもなかった。 ”やらない”というのは、正確に言うとちょっと違って、本当は”やめてしまった”というのが正しかった。私も一年前まではテニスをやっていたけれど、訳があってもうやめた。 けれど、今日初めて話した人にそこまでの経緯を話す必要はないのでは、と思ったし、あまり話したくなかったので、結局その言葉で片付けてしまった。 もし私がテニスをすると言ったら、勝負でも挑まれていたのだろうか?と考えていると、越前くんは「じゃあ」と言っていなくなってしまった。 一体、何の用だったのだろう。不思議に思いながらも、私は自分の教室へと戻った。 放課後、テニスコートの近くを通ってみると、お兄ちゃんの姿が見えた。大石先輩や、不二先輩もいる。みんな真剣に練習していて、その中には先ほどの越前くんの姿も見えた。当然のように上級生の中に混じってレギュラージャージを着ている彼を、素直にすごいと思った。 (本当に、スーパールーキーなんだな……) お兄ちゃんから越前くんの話を聞いたことはないけれど、そもそも、私は普段あまりお兄ちゃんと話をしない。お兄ちゃんは元々口数が少ないし、何をしてもあまり表情が変わらない。 苦手という訳ではないけれど、お兄ちゃんと話すと少し緊張してしまう自分がいた。お兄ちゃんは私と違って勉強もスポーツもできて、優秀で責任感も人望もあって生徒会長まで務めている。 自分でも、お兄ちゃんの妹であることが信じられない。私みたいのが妹では申し訳ないと思うけれど、でもどうにもできなくて、小さい頃からいつも劣等感を感じていた。 お母さんは、お兄ちゃんに劣ってばかりの私に「さんは女の子だから、いいのよ」と言ってくれるけれど、きっとお兄ちゃんは私のことを軽蔑しているのではないか……という思いがいつも頭から離れなかった。 だからなるべく関わらないように、話しかけないようにしていた。 そうして私が家に帰ってから、しばらく経ってすっかり陽の落ちた時間になると、部活の終えたお兄ちゃんが帰ってくる。全国制覇へ向けて、毎日遅くまで練習しているみたいだ。 「……おかえりなさい」 「ああ。ただいま」 台所へ行く途中、廊下ですれ違ったお兄ちゃんにそう言うだけなのに少し緊張する。それから、みんなで夕ご飯を食べている間も私はお兄ちゃんの方を見られないままだった。 私は出来の悪い子だから。なるべく小さくなっていよう。 誰に言われたわけでもないけれど、私はいつからかそう自分に言い聞かせるようになっていた。何もできないから、優等生にはなれないから。せめて代わりに、言う通りにして、何も問題を起こさないようにしていよう。 「」 お風呂に入って、歯も磨いたし、もう寝ようと思って自分の部屋に行こうとしていたら、突然お兄ちゃんに声を掛けられて心臓がどきっと音を立てたのが自分でもわかった。 「……なに?」 もしかしたら何か怒られるのかな?と不安に思いながら恐る恐るお兄ちゃんの顔を見上げると、いつもの様に特に表情はなかった。けれど、とりあえず怒っている訳ではない……ような気がして少しだけほっとする。 「クラスには……もう慣れたのか」 「…………え……?」 微塵も表情を変えないまま、そう言われたので正直驚いてしまって、何を言われたのか理解するまでにしばらく時間がかかった。その間もお兄ちゃんは無表情で、何も言わなかった。 「……えっと、うん……」 考えて考えて、結局それしか答えられなかった。新しくできたお友達の話とか、担任の先生の話とか、もっと色々答えた方がいいのかなと思いつつ、言えなかった。 お兄ちゃんはそんな私の答えに「そうか」とだけ言うと、自分の部屋と入っていったので私も同じようにする。ドアを閉めたあと、部屋の電気を消して早々にベッドへと潜り込んだ。 (……さっきのは、何だったんだろう) 布団を自分の顔が隠れるくらい被って、どきどきしながらお兄ちゃんの言葉を思い出す。こういうことは時々あった。お兄ちゃんは、表情を変えないまま、淡々とした声のトーンで私に話しかける。 風邪を引いて何日か学校を休んで、治ったあとに「もう風邪はいいのか」と言ってきたり、一人でどこか出掛ける時に「道はわかるのか」と聞いてきたり。 あまり話し掛けられることがないので、その度に驚いて、緊張してしまい、上手く答えられない自分がいた。 お兄ちゃんでも私を気にかけることがあるのだな、と思うと不思議だった。 「やあ、ちゃん」 3年生の教室の近くを通りかかった時、聞いたことのある声がして、そちらを見るとやっぱり大石先輩だった。にこにこと笑っていたので、なんだかほっとする。 大石先輩は優しい。こうやって、時々私のことを見掛けると声を掛けてくれることが何度かあった。 「大石先輩、こんにちは」 「こんにちは。どう、もうクラスには慣れた?」 「はい。お友達もできましたし、担任の先生も優しくて……」 答えながら私は、この質問が昨日お兄ちゃんにされたものとまったく同じことに気付いた。相手が大石先輩ならこうやって普通に答えられるのに、何故、お兄ちゃんだと緊張して言葉に詰まってしまうのだろう。 家族なのに。生まれた時からずっと一緒に暮らしているはずなのに。 「それはよかった。手塚も、いつもちゃんのこと気に掛けてるんだよ」 「……お兄ちゃんが……?」 大石先輩の言葉に、きょとんとしてしまった。 お兄ちゃんが、私のことを気に掛けている……いつも?まさか、と思いつつも「そうだよ」笑う大石先輩に何も言えなくて、同じように笑い返すことしかできなかった。 大石先輩と別れた後、さっき言われた言葉を頭の中で何回も繰り返しながら歩いていると、少し先に越前くんの姿が見えた。私に気がつくとこちらへ向かって歩いてくる。 「」 越前くん、と呼ぼうとしてその前に彼の口から出た私の名前に少し驚いて思わず立ち止まってしまった。 「何、驚いてんの」 「え、あのえっと……突然、下の名前で呼ばれたから……」 「手塚部長と同じ名字でややこしいから。下の名前で呼ぶことにした」 「そうなんだ……」 そういうことか、と思った。確かに、両方手塚だから、その方がいいのかな?私の名前には違いない訳だし。越前くんは全然何でもない風で、むしろ名前を呼ばれた私の方がなんだか照れてしまっていた。 「えっと、何か用かな、越前くん」 「リョーマでいいよ」 「え?」 「呼び方」 私のことを下の名前で呼ぶから、彼のことも下の名前で呼んでいいということなのだろうか。私としては越前くんのままでいいのだけれど、本人にそう言われては断る訳にはいかなくて、数秒考えたあと私は頷いた。 「わかった。えっと、じゃあリョーマくんて呼ばせてもらうね」 「”くん”もいらない」 「……でも……」 「いらないから。リョーマでいい」 はっきりとそう言われて、結局、私は押されるような形で越前くんのことをリョーマと呼ぶことになった。べつに嫌なわけじゃない。でも、男の子のことを呼び捨てで呼んだことなんてなかったから、ちょっと気恥ずかしい。 「私に何か用事があったの、かな……リョーマ」 「あ、そうだった。貸してほしい教科書があるんだけど」 やっと本来の用事を思い出したらしいリョーマは、忘れてしまった教科書を貸して欲しいと言った。その教科なら丁度今日持っているので貸すことができる。 「いいよ。じゃあ、私のクラスまで来てくれる?」 並んで歩きながら私のクラスへ一緒に行く途中、何でもないような雑談をした。最初の印象だとリョーマはクールで素っ気ないような気がしたけど、話してみると案外そうでもなくて彼も同い年の男の子なのだと思えばなんだか安心した。 時々、通りがかりの女子生徒が彼のことを興味ありげに見るので、きっとモテるのだろうなあと思い、その横顔を眺めているとふと目が合ってしまって慌てた。 「何?」 「えっ、あ、ごめん。その……何でもない」 あたふたとする私に、リョーマは表情を変えずに「ふうん」とだけ言った。それからしばらく黙って歩いていたけれど、ふと彼が口を開く。 「って、あんま手塚部長に似てないね」 「……よく、言われる」 見た目も性格も、頭の出来も運動神経の良さも。何もかもが違う。同じなのは名字だけだ。 私がお兄ちゃんの妹なのは何かの間違いなのではないか、とみんな思っているだろうけど、それは私が一番思っていることだった。 「私はお兄ちゃんと違って、出来が悪いから……」 「べつに、そんなこと言ってないんだけど」 「ううん、本当のことなの。勉強も運動もできないし……、テニスだってだめだった」 「……テニス、やってたの?」 リョーマに不思議そうに言われて、私は、はっとした。以前に、テニスは「やらない」とはっきり答えてしまったというのに。 「……嘘ついてごめんなさい。本当はテニスやってたの」 「今はやってないの」 「やめたの……。一年前に、怪我しちゃって」 「怪我?」 ピタ、とリョーマが歩くのやめて止まったので、私も同じように止まった。怪我のことを心配してくれているのか、ちら、と私の体に視線を向ける。 「あ、大した怪我じゃないんだけど……すぐ治ったし。でも、お兄ちゃんが、もうテニスは辞めた方がいいって」 「手塚部長が?」 「うん。きっと私に才能がないからそう言ったんだと思う……」 小学生だった私は、お兄ちゃんにみたいになりたいと思って、テニススクールへ通わせてもらっていたけれどある時転んで足に怪我をしてしまった。 骨折はしていなかったし、それほど大した怪我ではなかったので少し休めばまたすぐに始められるはずだったけれど、そんな私の様子を見てお兄ちゃんは言った。 『。もう、テニスは辞めたほうがいい。お前は……やらなくていい』 ショックだった。確かに上手ではなかったけれど、楽しいと思っていたから。 けれど、お兄ちゃんは私みたいに遊びでテニスをやっている訳ではない。きっと、私には才能がないってわかったんだ。だから、そんなのやっても無駄だって思ったんだ。 お兄ちゃんにそう言われて、私はテニスを辞めた。青学に入学したら女子テニス部に入ろうと思っていたけれど、その夢も諦めた。 「手塚部長がそんなこと言うなんて、思えないけど」 「私がだめな子だから……。やるだけ無駄だったから、仕方ないの」 「でも、テニス好きだったんでしょ」 「…………」 ひととおりの話をした後、リョーマにそう言われて、何も答えられなかった。 本当は、あのまま続けていたかったと思う自分がいた。けれど、続けたところでお兄ちゃんの様になれたとは思えないし、どうせだめなら早くに辞めてよかったのかもしれない。 「いいの。もう、やらないって決めたから」 もう消えたと思っていたテニスへの未練を断ち切るように早足で歩き出し、自分の教室に辿り着くと机の中から目的の教科書を取り出してそれを何も言わずにリョーマに手渡した。 それからすぐにチャイムが鳴って、何か言いたげだったけれど、結局何も言わないままリョーマは自分の教室へと戻って行った。 それから数日間、リョーマに会うことはなかった。貸した教科書は、次の日の朝私の机の上に置いてあった。 せっかく私のためを思って言ってくれたことに素っ気なく返して、気を悪くさせてしまったかな。と不安になって、後で謝らなくては、と思う。何度かリョーマのクラスの前まで行ってみたけれど、タイミングが悪くて会えなかった。 今日の昼休みにもリョーマの姿を探して校内を回ってみたけれど、見つけられずに。ふと、ちょっと離れた場所にいる人がこちらを見ているなと思ったら、それは見知った顔だった。 (……お兄ちゃん?) けれど少しすると、ふい、と顔を背けて去っていってしまったので、きっとたまたまこっちの方向を見ていただけなのかもしれない。校内でお兄ちゃんに話し掛けられたことはないし、そもそも普段話さないし、私に用ではないだろうと思ってその場所を離れた。 そうして、結局リョーマを見つけられないまま、放課後になった。 部活が終わった後なら確実に会えるかもしれないと思って、テニス部の練習が終わるのをしばらくの間待ち続けた。辺りが夕暮れに染まった頃、テニス部の人らしき男子生徒たちが数人帰り始めたので、その中にリョーマの姿がないか探す。 「おー、もしかして手塚部長の妹?」 明るい笑顔で話し掛けてくるその人は、たしか……2年生の桃城先輩だった。そして、その後ろにリョーマの姿もあった。珍しく、私を見て少し驚いたような顔をしている。 「リョーマ」 「……?」 「おいおい越前!お前まさか、手塚部長の妹とデキてんじゃねえだろうなあ!この命知らず」 「いてっ、そんなんじゃないっすよ」 桃城先輩に頭を両腕で挟むようにグリグリとやられながら必死に否定するリョーマの姿は、やけに後輩っぽくて少し面白いと思ってしまった。 「急にごめんね、この前のこと謝りたくて……」 「この前のこと?」 なにそれ、と言いたげなリョーマは冗談ではなく本当にわかっていない様子だった。 「おい越前〜、お前一体何したんだよ」 「何もしてないし。じゃあ、俺帰るんで、お先っす。、行くよ」 「え、あ……うん」 肘を小突くようにしてからかう桃城先輩にさっさと別れを告げたあと、リョーマは私の背中を軽く押して歩き始めたのでその後について行く。先輩にあんな風でいいのかな、とこちらの方が心配になるけれど、本人はちっとも気にしていない様子でさすがだ……と思った。 「……で、この前のことって?」 しばらく歩いた後、リョーマがさっきの話の続きを切り出したので、私は自分が伝えたかったことを言った。 「あ、この前のテニスのことなんだけど……。せっかくリョーマが気に掛けて言ってくれたのに、素っ気なく返しちゃったこと謝りたくて……ごめんね」 「そんなことで、謝りにきたの」 「え……うん」 リョーマは不思議そうに私のことを見ていた。そして、それから「アンタって変わってるね」と言ったので、「そうかなあ」と返した。 「ねえ、せっかくだし、やっていかない?テニス」 「……え?」 「この先にテニスコートがあるんだよね。やろうよ」 突然の提案に、一瞬ぽかんとしてしまったけれど、リョーマは楽しそうな顔をしていた。 きっとリョーマは、本当にテニスが好きなのだろうな、と思った。 「でも……もうやらないって決めたから」 「だって好きなんでしょ?」 「………。……ラケット、持ってないし」 「俺の貸すよ」 確かに、リョーマが背負っているテニスバッグにはラケットが数本入っているだろうけど。 結局、やるかやらぬか決め切れず、何も返事をできないままテニスコートへ到着してしまった。一面だけあるそのコートには誰もいない。バッグからラケットを取り出したリョーマが、それを私に差し出した。 「私、本当に下手だよ。びっくりするよ」 「べつにいいよ」 「…………」 「で、やるの、やらないの?」 「…………やる」 1セットだけ、という約束で、私は久しぶりにテニスをした。一年ぶりだったし、元々上手だった訳ではないので、私のテニスはなかなかにヒドかった思うけれど、リョーマはそれを笑ったりすることもなく終始楽しそうにテニスをしていた。 はじめはこんな下手なのが相手で申し訳ないな、と思っていたけれど、次第に私も楽しくなってきて気がつくと笑っていた。結果は当然の様に私の負け続きだったけれど、そんなのどっちでもよかった。久しぶりにテニスができて嬉しかった。 けれど、最後のサーブを打とうと構えたところで、突然ここにいるはずのない声が聞こえて驚き、ボールを地面に落してしまった。 「何をやっているんだ、お前達」 「……手塚部長?」 もうすっかり陽が暮れてしまって、街灯の灯りだけがぼんやりと明るい中に、お兄ちゃんの姿が見えた。そうしてこんな所にいるんだろう。嘘だと思ったけれど、どうやら本当の様で、私は驚きのあまり何も声が出せなかった。 お兄ちゃんは私に近づくと、手からテニスラケットを取り上げて、それをリョーマに返した。私は体が固まってしまって、なされるがまま、何もできなかった。 「越前、お前は明日グラウンド100周だ」 「何で」 「今日の部活はもう終わったはずだ。勝手に試合をすることは許さん」 「意味わかんないんだけど」 自分よりもずっと背の高い、しかも先輩で部長のお兄ちゃんのことを見上げて、物怖じすることなくはっきりと返すリョーマのことをすごい……と思った。 「あの……お兄ちゃん、ごめんなさい。私がテニスをやりたいって言ったから、リョーマは付き合ってくれただけなの……」 これは元はと言えば私のせいだから、リョーマを庇わなくてはと思い、勇気を出して二人の間に入る。 「……リョーマ……、だと?」 すると、お兄ちゃんは珍しく少し目を大きくして、私とリョーマの顔を交互に見た後中指で眼鏡を押し上げ、もう一度私のことを見て言った。 「。もう、テニスは辞めろと言ったはずだが」 「……ごめんなさい」 「ねえ、なんで辞めなきゃいけないの。べつにいいじゃん」 「越前、お前は黙っていろ」 ピシャリと言われて、リョーマは不機嫌そうな顔をしていた。リョーマごめんね、と心の中では思うけれど口に出せない。今はただ、下を向いて黙っていることしかできなかった。 約束したのにそれを破ったから、悪いのは私だ。もうやらないと決めたのは私だから、怒られても仕方ない。 「帰るぞ、」 お兄ちゃんはそう言うと足早に歩き出したので、慌てて近くに置いてあった自分のバッグを掴んで、リョーマの方を振り返る。 「ごめんね、リョーマ……今日はありがとう」 「、」 「ごめん……また明日話そう」 リョーマは何かまだ言おうとしてたみたいだけど、お兄ちゃんの後を追うのに必死で、心苦しかったけれど続きを聞かないままその場を去ってしまった。 薄暗い中、重そうなテニスバッグを背負う制服姿のお兄ちゃんの後姿を見ながら、頑張って早足で歩いてしばらしくすると急に足取りがゆっくりになったのでお兄ちゃんの隣に並ぶことができたけれど、緊張してそちらの方は見られないまま。 「こんなに遅くまで女の子が外を出歩いては、危ないだろう」 「……ごめんなさい」 「何かあったらどうするつもりだ」 「……ごめんなさい」 落ち着いた口調だったけれど、諌めるように言うお兄ちゃんに対して、ごめんなさいと謝ることしかできない。悪いのは100%私だから、言い訳すらも思いつかない。 私は歩いている間も足元ばかりを見ていて、一度も横を見られないまま。お兄ちゃんのことはお父さんよりも怖く感じる。私と違ってとてもきちんとしているから、何も言われなくても、いつも責められているような気がしていた。 (お兄ちゃんは、きっと……私のこと嫌いだろうな) なるべく考えないようにしていた言葉が、頭の中を繰り返し駆け巡る。 私はお兄ちゃんみたいにはなれないから、せめて大人しくして言う通りにすることしかできないのに。それすらも上手にできなくて、申し訳ない気持ちでいっぱいになって、泣きたくなった。 「……越前とは、仲が良いのか?」 「……え……?」 しばらく無言のまま歩いていると、ふとそんなことを言われて思わずお兄ちゃんのことを見てしまったけれどお兄ちゃんは前を見たままで、私の方を見てはいなかった。 私が彼のことを「リョーマ」と呼んでいたからだろうか? 「……仲良い、っていうわけじゃないと思うけど……」 初めて話したのは割と最近だし、下の名前で呼び捨てにしているのは色々と理由があって。と話したかったけれど、とてもそんな長話できるような雰囲気ではなくて、圧倒的説明不足のまままとめてしまった。 「今日も、越前を探していたのか」 「……今日……?」 一瞬何のことだったろうと思ったけれど、もしかして昼休みにリョーマを探して校内を歩き回っていたことだろうか。あの時、やっぱりお兄ちゃんは私に気がついていたのだろうかと思うとちょっとびっくりした。 お兄ちゃんは、私に興味なんてないと思っていたから。 「うん、その……ちょっと用があって」 「…………」 「…………」 「……と呼ばれているのか」 しばらく沈黙が続いた後、視線を感じて上を見るとお兄ちゃんと目が合った。その時も表情はなくて、どんな気持ちでそう言ってるのかはよくわからなかったけれど、何だか叱られているような気持ちになってしまう。 「……はい」 「…………。テニスに誘ったのは、越前か?」 「…………」 「誘われても、もうやるんじゃない。いいな」 「……はい。ごめんなさい」 私は小さくなって謝った。いつでも正しいのはお兄ちゃんの方だから、言うことを聞かなくてはいけない。それから二人ともずっと黙りこんで、そのまま家に着くまで、どちらも口を開くことはなかった。 その日の夜、私はベッドに入ってからもしばらく寝付けなかった。 お兄ちゃんにもリョーマにも、悪いことをしてしまった。いつもだめな自分が情けなくて、自己嫌悪ばかり繰り返し、結局いつ眠ったのかは覚えてない。 次の日の昼休み、リョーマに謝ろうと校舎内を探したけれど、やっぱり見つからない。一通り校内を回って、最後に屋上に行ってみると、そこには一人寝転がって昼寝をしているらしき男子生徒がいて、近づいてみるとそれはリョーマだった。 「リョーマ」 「…………?」 声を掛けるとリョーマはゆっくりと目を開いた。寝たまま見上げるその大きな瞳は、眩しそうにしている。 「昨日は、ごめんね」 「……べつにいいけど、俺は」 さっと身軽に起き上がると、そのまま床の上にあぐらをかいたので、私も隣に腰を下ろす。暖かい風が、さらさらとリョーマの柔らかそうな黒髪を揺らしている。 「グラウンド100周したの……?」 「したよ。朝練で」 「ごめんね……」 「慣れてるから。は、あれから部長に怒られなかった?」 「……怒られた訳じゃないけど、もうテニスはするなって」 「ふうん」 リョーマは納得いかないような顔をしている。グラウンド100周って一体何キロなんだろうか、私のせいで申し訳ないことをしたなと思うけど、リョーマは本当に何でもなさそうな風でやっぱりすごいんだなと感じた。 「手塚部長って、のこと好き過ぎだよ」 「…………え?」 急に何を言うんだろう、とびっくりして目をぱちくりしたけれど、リョーマはべつにふざけている訳ではないようだった。 「どういう意味?」 「べつに、言ったとおりの意味」 「お兄ちゃんが私のこと好きなんて、そんな訳ないと思うけど……」 「……本当にそう思ってんの」 「?うん、お兄ちゃんは私のこと嫌いと思う……」 リョーマは軽く溜息をついた。私は何かおかしなことを言ってしまっただろうかとちょっと不安になったけど、でもお兄ちゃんが私のことを好きだと感じたことはなかったし、間違ったことは言ってないと思う。 私は、いつもお兄ちゃんに面倒をかけてばかりだから。 「今日の朝、部長にもうに関わるなって言われた」 「……え、お兄ちゃんが……?」 「二度とテニスに誘うなって」 「…………」 「過保護過ぎだよ、に」 「違うよそれは……私がいるとリョーマのテニスの練習の邪魔しちゃうからでしょ?」 「…………。やっぱり、アンタ手塚部長の妹だよ」 「……あの、どういう意味?」 リョーマの大きな猫目が二、三回瞬きをしながら私のことを見る。やっぱり私は変なことを言っているだろうか……と思うけどよくわからなかった。 「テニスをさせないのは、に怪我させないためなんじゃないの」 「…………」 「あの人はのこと守ろうとし過ぎて縛り付けてる。行動を制限して、邪魔なものを排除しようとしてる」 「まさか……そんな訳ないよ」 「一番問題なのは本人にまったくその自覚がないってことなんだけどね。部長も、も」 「……よく、わからない」 お兄ちゃんが私のことを守ろうとしている?縛り付けてる?そんな風に感じたことなんてなかった。だって、お兄ちゃんにはいつもちょっと距離を感じていたし、会話は最低限で、そんなに干渉されているようにも思えなかった。 「わかってないのはアンタ達だけだよ。部長にも言ったけど全然ピンときてなかったし」 「…………」 『手塚も、いつもちゃんのこと気に掛けてるんだよ』 大石先輩が言っていた言葉を思い出した。あの時、それはきっと何かの間違いだと思ったけれど、本当のことだったのだろうか?わかっていないのは私とお兄ちゃんだけで、周囲の人にはみんなわかっていたのだろうか。 思い当たることはないけど、みんなが言うならそうなのかもしれない……。 「仮にアンタがそれでいいとしても、俺はよくないんだよね」 「……リョーマ?」 「もう関わるなって言われたけど、俺にはそんなの関係ない」 急にリョーマの体が近付いてきたかと思えば、いきなり頬にキスをされて茫然とした。しばらくの間何が起こったのか理解できなくて、思わず手でキスされた方の頬を触りながら、顔色一つ変えないリョーマをただ見つめるだけ。 「……どうして、キスしたの?」 「べつに。ただの挨拶」 「あいさつ……」 そういえばリョーマは帰国子女だから、アメリカではこういうのが当たり前なのかもしれないな。よく外国の映画とかでも挨拶でキスしてるし……日本とは違うんだ、と頭の中で何とか現状を理解しようとする。 その時、後ろの方で物音がしたので振り向くと、そこにはお兄ちゃんの姿があって驚いた。昨日も今日も、どうしてお兄ちゃんは私のいる場所がわかるんだろうだと不思議だった。 「……お兄ちゃん……?」 「」 お兄ちゃんは足早にこちらに近づいてくると、私の手を掴んで立ち上がらせてリョーマから距離をとった。いつもの様に表情はないけれど、その目はじっとリョーマのことを見ている。 まさか、さっきキスされたところを見られてしまったのだろうか……?妙に焦る私とは反対にリョーマは楽しそうだ。まるで、からかっているかのように笑っている。 もしかして、お兄ちゃんがいるのを知っていて、わざと頬にキスした……? 「越前、にはもう関わるなと言ったはずだが」 「それは手塚部長の都合だよね」 「どういう意味だ」 「俺はグラウンド1000周させられたって、そんなの聞かないっスから」 私の手を握るお兄ちゃんの手に、ぎゅ、と力が入ったような気がした。二人の間の空気が悪くなっている原因はきっと私なんだろうけど、どうしたらいいのかわからずただ見守ることしかできない。 「行くぞ」 「う、うん」 お兄ちゃんに手を引っ張られて、同じ様に早足でついていく途中、後ろを振り返るとリョーマは座ったままべつに追いかけて来ようとはしない。余裕そうな表情をしているその口元は、笑っているように見えた。 階段を降りて、廊下を歩いている間もずっと手は繋がれたまま。こうやってお兄ちゃんと手を繋いだのは、もうあまり記憶がないくらい小さい時以来だと思う。 お兄ちゃんの手は、大きくて温かくて、何だかすごくどきどきした。 「……、すまない」 他に生徒が誰もいない静かな場所で、急に立ち止まると、お兄ちゃんは振り向いてそう言った。珍しく、動揺しているように見える。私は何も言えなくて、ただ首を横に振った。 「お前のことになると、俺は……よくわからなくなる」 「…………」 「お前のことが、心配で仕方ないんだ」 苦悩する様に言うお兄ちゃんは、自分の感情がよく理解できていないようだった。 そう言われて私は、私のことを見つめるお兄ちゃんの目を見つめ返す。驚いたけど、でも、嬉しくて胸がいっぱいな気持ちだった。お兄ちゃんはずっと、私のことを嫌いだと思っていたから。 「私……ずっと、お兄ちゃんに嫌われてると思ってたの……」 「……何故だ?」 「私が、出来の悪い子だから……」 「をその様に思ったことは一度もないが」 真っ直ぐな瞳で私のことを見るお兄ちゃんは、嘘をついている様には思えなかった。 私は、ずっと勝手に勘違いしていただけなのだろう。こんなにも私のことを想ってくれるお兄ちゃんの気持ちに気が付かないで、自分から距離をとろうとばかりしていた。 (…………嬉しい……) 怖い、苦手だ、と思いながらずっとずっと、心の奥の方ではいつもお兄ちゃんのことを尊敬して憧れていた。私もあんな風になれたらいいのに思いながら、そんなの無理だと勝手に劣等感を抱いていた。 「好き」という気持ちを裏切られるのが怖くて、自分の気持ちに見て見ぬ振りをしていた。 「お兄ちゃん、ごめんなさい……」 「何故、謝る」 「私ずっと、お兄ちゃんのこと誤解してたの……」 お兄ちゃんはよくわかっていない様子で、僅かに首を傾げる。私は、まだ繋がれたままの手を、ぎゅっと強く握った。 (……温かい) 「お兄ちゃん……大好き」 ずっとそばにあったのに。 お兄ちゃんの手がこんなにも温かいってこと、知らなかった。 |