と温室と乙女






「きみも、花が好きなの?」


それは、私が中学2年生の、もう夏も終わりの頃でした。
じきに秋の訪れを感じさせる、しんみりとした夕暮れの中。私は、近所にある植物園の隅の、小さくてあまり人の訪れない温室にいました。

完全に一人きりだと思っていたので、突然誰かの声が聞こえて驚き、きょろきょろと辺りを見回すと、大きな植木の横からひょっこりと同じ年頃の男の子が顔を出したのです。


「よくここにいるよね」
「えっ……?」


誰?どうして知っているの?
現状が全く理解できず、ぽかんとしている私に彼は「ごめんごめん」と謝ったあと、その容姿に似合う穏やかな優しい声で話し始めました。


「はじめまして、俺は幸村っていうんだ」
「あ、はい……」


私も名前を名乗らなくてはいけないのだろうか?
意味がわからない、と思いながらもそういう空気だったので仕方なく言ったのです。


「……。です」
さんていうんだ。この辺りに住んでるの?俺も、ここが好きでよく来るんだ」
「……はい」
「それで、いつもこの温室にきみがいるのを見かけてさ」
「……はい」


せっかく何か話かけてくれても、私は「はい」しか答えられませんでした。上手く話せなくて申し訳ないという気持ちと、誰だか知らないけど早くどこかへ行って欲しいという気持ちとが、胸の中でグルグルして。


「あ、ごめんね急に。何かきみのことが気になって……。もう、帰るよ」


そんな私の気持ちを察したのか、彼は少し私に話しかけたあと、寂しそうな笑顔でじゃあと去って行きました。まっすぐに顔を見られなかったけど、整った綺麗な顔をしていた。同じ年頃みたいだけれど、同じ中学校の人ではない。


名前が「幸村」。彼について知っているのはただそれだけ。

でもべつによかったのです。もう二度と会うことはないと、その時は思ったから。



私のお気に入りの、あの小さな温室。美しい緑に囲まれた静かな空間で、一人きり、深く深く深呼吸できる大好きな世界。誰かと話さなくても、何かをしなくても、いい。植物はただそこにいて、私を癒してくれる。

花が好き。木が好き。それさえあれば、私は幸せだったから。

…………けれど、彼はそれからも度々私の前に現れました。



さんて、好きな花はなに?」
「……アネモネです」
「へえ、可愛いよね。俺も好きだよ」


大抵は休日の夕方に現れることが多く、突然ふらりとやって来ては少し話をしていなくなる。 しばらくの間それが続いたけれど、一体どこの誰なのかなんて、今さらタイミングを逃してもう聞けなくなっていました。

自分でも驚いたのは、いつの間にか彼の来るのを待つようになっていたことです。今日は来てくれるかな。来てくれたなら、どんな話をしようかなんて、考えるようになりました。

彼の微笑みは、まるで緑のそよめきのように柔らかくて、心地いい。

そんな風に誰かに対して思ったのは彼が初めてでした。
…………誰なのかも知らないのに。



「幸村くんて、お休みの日は何をしているんですか?いつも夕方に来ますよね」
「昼間は、部活に出ているんだ」
「へえ。園芸部、とかですか?」
「ううん。テニス部」
「え、そうなんですか」


てっきり、文化部だと思ったのに。園芸部とか、あとは……美術部とかも似合いそうなのに。たぶん、思い切り顔に出ていたのでしょう、彼は「意外だろ?よく言われる」と笑っていました。

時々会って、少しの時間話すくらいでは彼のことを詳しく知るなんてできない。本当は、もっともっと聞きたいことがたくさんあるのに。好きな花や、おすすめの土や栄養剤の話なんかではなく。

どんな女の子が好きなんですか、何て聞いたらあなたは笑うでしょうか。




ある日の下校時、私は少し遠くの園芸店に用があって、電車に乗っていました。帰宅ラッシュの時間帯の割には空いているなあ、と思いながらぼんやりつり革につかまって立っていると、となりの車両に見覚えのある横顔をみつけたのです。


(……幸村、くん?)


幸村くんは、濃緑のブレザーを着ていました。見覚えのある、品のいい色。時折電車の中などで見かけては綺麗、と思っていたあの制服。


(立海の人だったんだ……)


幸村くんの周囲には同じ制服を着た人が何人かいました。みんなテニスバッグをさげているから、テニス部の人たちなんだろう。

でもなぜでしょうか。幸村くんのことをまた一つ知れたはずなのに、私はあまり嬉しくなかったのです。楽しそうに誰かと話す幸村くん。綺麗なブレザーを身にまとった幸村くん。

幸村くんだけれど幸村くんではないような、そんな感覚。


大そう親しくなっているような気分だったけれど、実際には全然そんなことはなかったんです。私一人が勝手に舞い上がっているだけで、そんなことはなかったんです。恥を恥とも知らないで。




「少し遠いんだけど、最近大きな植物園ができてさ」

(幸村くん、立海の生徒だったんですね)

「珍しい花とか、たくさんあるんだよ。さん、もう行った?」

(お友達もたくさんいるみたいですね)

「……さん?どうしたの」

(私、知らなかったんです)



「…………どうもしないです」
「本当に?俺、何か気に触ること言ったりした?」
「いいえ。何も」
「……そう?ならいいんだけど……」


この温室から外の世界の幸村くんのこと、何にも知らなかったんです。今も知らないんです。それなのに好きだなんて、笑っちゃいますよね。

立海の女子制服を着て、幸村くんのとなりを歩いている自分を想像してみたら、あまりにも似合ってなくてもっと笑っちゃいますよ。私って、本当に恥ずかしい。


「ごめんねさん。今日は帰るね」
「……はい」
「じゃあ、また」
「さようなら」


さようなら。

さようなら。


………………。

…………。




(……………私、どうして……)


次の日、私は温室の中でうずくまっていました。どうして昨日、幸村くんにあんなことを言ってしまったのだろう。あんなにそっけなく、どうして。自分がもし同じことを人から言われたら……なんて思うか。

幸村くんが一体私に何をしたというのでしょう。


「謝らなくちゃ。幸村くんに、謝らなくちゃ……」


きちんと謝って。そうして、今度はちゃんと聞こう。今まで聞きたかった色々なこと。ずっとずっと頭の中で繰り返し質問していたことを、声に出して聞こう。


………………。


………………。


…………けれど、それからいくら時が経っても、幸村くんは現れませんでした。寒い冬が過ぎて、暖かい春になっても、幸村くんがここに来ることはなかったのです。


(…………どうして?)


私が、あんな風に言ったから?もう私のことなんて嫌いになってしまったの?


私、あなたに謝りたいんです。本当に申し訳なかったと思っています。
そして、聞きたいことがあるんです。どうしてあの日、私に声を掛けてくれたのか。私のことが気になったのか。どうしたらあなたに相応しい人になれるのか。


聞きたいことがたくさんあるんです、幸村くん。
私の好きなアネモネも咲いたんです。あなたに見て欲しいんです。


(…………)

そういえば彼は立海の生徒なんだから、学校まで行ってみれば、もしかして会えるかもしれない。

……でも、あんなひどい態度をとったのに、突然会いに行ったりして。今さらどんな顔をして会えばいいの?幸村くんはどう思うだろう。会ってなどくれないかもしれない。

それとも、もう、私のことなんて…………。


「…………ごめんなさい、幸村くん。私、……」


あなたのことが好きだったんです。今も好きなんです。

胸の中でうずまく想いは、行き場なんてないまま。




幸村くんが病に倒れ、以来ずっと入院をしているのだと私が知るのは、それからずいぶん後のことでした。