シスター・コンプレックス




まだ陽がそろそろと昇り始めたばかりの、薄暗い洗面所。流し台の前で髪を梳かしていたは、鏡越しに弟の光がいつもの様に現われたのに気がつき声をかける。

「あ、光おはよう」
「……ん」

まだ寝起きだからなのかそれが彼の普段通りなのか、無愛想な顔と声で小さく返事をするだけだった。

はいつも起きるのが早い。中学3年生ながら両親や兄家族の誰よりも先に起きて、洗濯機を回したり朝ご飯の支度をしたり、家族全員分のお弁当を作ったりする。

同じ中学校に通っている弟の光は2年生でテニス部に所属しており、そこがなかなかの強豪校で朝から練習がみっちり行われる。そのためいつも眠い目をこすりつつベッドから這い出してくるのだ。

「あ、今どくで。洗面台使ってな」
「……ん」

昨日の晩にはあんなに騒がしかった家の中も、朝方はその面影もないほどに静まりかえっている。
顔を洗いながら光は、階段を上がり自分の部屋へ戻って行くの足音を遠くで聞いていた。

人数の多い家の中で、姉と唯一二人きりになれるこの朝の時間を、彼は密かに気に入っていた。たとえ朝練のない日であっても、ある振りをしていつものように起きてくることさえあった。



「光、朝ごはんできてんで」

一通りの身支度を済ませてから台所へ行くと、制服にエプロン姿のが愛想のいい顔で笑いながら茶碗にご飯を盛っている。

光がいつもの席に着くと、自動的に自分の前にご飯や味噌汁が丁寧に並べられた。ほかほかと湯気を立てるおいしそうな(実際おいしい)朝食に、心の中で「いただきます」と言うけれど口には出さない。それをも気にはしない。

何も言わず箸で焼き魚をつついていると、はまだ眠っている家族を起こすために台所を出て家中声をかけて回る。するとしばらくしてまだ寝ぼけ眼の他の住人たちがぞろぞろと起きてくるので、家の中が急に騒がしくなる。

早々に朝食を食べ終わると光はリュックを持って、誰か台所にやってくる前にさっさと家を出ようとする。

途中、父親や母親と通りすがっても何も言わない。むこうに何か話しかけられてもヘッドフォンをつけているため聞こえない、という振りをする。本当はまだ再生ボタンを押していないので聞こえているがいちいち返事をするのが億劫だった。

玄関でスニーカーの紐を結んでいると、予想通りがいつものように追いかけて来る。

「光、お弁当。リュックに入れるで?」

が、綺麗に包まれたお弁当を光が背負っているリュックのチャックを開けて中にしまう。

「いってらっしゃい、気をつけてな」
「……ん」

顔も見ずに小さく返事をして、それから外に出るのと同時にプレーヤーの再生ボタンを押した。





これから放課後の部活に行こうとしていた光が、夕日の差し込む廊下で一人ぼんやり外を眺めているに気がついた。普段なら校内ですれ違っても声などかけないけれど、この時光は、もしかしてが泣いているのでないかと思った。

周囲には誰もいない。静かに近づいて、「なあ、」と声をかける。振り向いたはべつに泣いてなどいなかった。

「あれ、光。どないしたん」
「……帰らへんの?」
「うん、そうやな。もう帰るよ」
「ふーん……」
「そや、買い物していかんと。光も部活やろ?頑張ってな」

は笑顔で手を振り、その場を去ってゆく。

自分とは違い、にこにこと誰にでも愛想のいい姉。家事だって、働きに出ている母や義姉の代わりに、誰に言われるでもなく自らすすんで手伝い、文句も言わず、さらに勉強もきちんとやる。

子どもの頃から素直で優しく、面倒見のいい性格ではあったけれど、さすがに色々と我慢しているのではないかと思って何度か、

「無理しすぎとちゃう?そんなにやらんでもええやんけ」

と光が言ってみても、「ええんよ、私こういうの好きやもん」と笑うだけだった。



部活が終わってすっかり辺りが暗くなってから家に帰り、光は自分の部屋に荷物を置いたあと台所に顔を出すと普段着姿のが「おかえり」と声をかける。

「お風呂沸いてんで。それとも先、ごはん食べる?」
「……静かやな」
「みんな今日は遅いんやて」
「ふうん。じゃ、先メシ食べる」

テーブルには甥っ子が一人座っているだけで、大人は誰もいなかった。その甥っ子もちょうど夕飯を食べ終わったところで、目当てのテレビ番組のためリビングへといなくなった。

持って帰ってきた空の弁当箱を「ん」と言ってに渡す。それから朝と同じように、席に座るとご飯とおかずが光の前に並べられた。

「手え洗った?」というの声に、小さく「うん」と答える。

誰かにいちいち小言を言われるのは、持ち前の性格と、ちょうど反抗期も相まって非常にイライラするのに、不思議との言うことについては何も感じなかった。

母以上に優しく甲斐甲斐しい姉のことを、光は、誰にも言わないけれどたいそう気に入っていた。
両親の言うことには耳を貸さなくても、姉の言うことならば何だかんだ素直に聞くので、この頃は他の家族に光への伝言係を任されるようになっていた。


「……ちゃん、醤油とって」

向かいの席に座って一緒に夕食をとり始めたに、光は声をかける。
彼は自分でも無意識のうちに、他に誰もいない二人きりの空間では姉のことを昔のとおり「ちゃん」と呼ぶ。

醤油だって頼まなくても自分で思い切り手を伸ばせば取れるはずだ。けれど、普段はそっけない振りをしていても、二人だけならば少し甘えてみたくなるのだった。

「はいお醤油。あ、ご飯おかわりする?」
「ん」

いっそのこと、この家を出て二人きりで暮らせたらいいのに……と光は思えど、すぐにくだらないと自分に言ってやめる。いつか、もしが結婚して、この家を出て行くときがきたら、相手の男にどんな嫌がらせをしてやろうか……。それどころか、に彼氏が出来たことを考えただけで胃が軋むほどイライラする。

光は近頃、テニスをしているとき以外、いつものことを考えてしまう自分にうんざりしていた。いいトシしてシスコンなんて、誰かに知られでもしたら。


「あ、お母さん帰ってきた」

玄関から「ただいま」という声が聞こえると、は箸を置いて出迎えに行ってしまった。邪魔者が現われたことに、光は心の中で「チ」と舌打ちをし、「ずっと帰ってこんでもええのに……」と小さく呟いた。

あの笑顔も優しさも、全部全部一つ残らず独り占めにできたらいいのに。


「……アホらし」





ある朝、いつものように光が起きて1階に降りていっても、まったく静かでの姿が見えなかった。めずらしく寝坊でもしたのだろうか、と2階に戻って部屋を覗いてみると、ベッドの中で横になっていると目が合った。

「あ、光。ごめんな、今起きるわ」

よいしょ、と起き上がって歩き出すも、どことなくぎこちない。部屋を出て階段を降りようとするに近づいてそっと頬の辺りを触ってみるとだいぶ体温が高いように感じた。

「なあ、熱あるんとちゃう」
「え?ないよ、大丈夫」
「嘘つくなや。めっちゃ熱いやん」
「平気やって。それよか早よ朝ご飯とお弁当作らな」
「そんなんどうでもええから、寝てろや」
「せやけど……」

光はまだ何か言っているの腕を強引に引っ張り、部屋に連れ戻すとベッドに寝かせた。

「今日は学校休みってオカンに言うとくから」
「べつに大丈夫やのに……」
「無理して死んでも知らんで」

今日は絶対に何もしないで寝てるようにと強く言って、光は部屋を出た。
腹が立つほどの彼女の自己犠牲的な性格は、好きでもあり、嫌いでもあった。一体何がそこまで彼女をそうさせるのか。きっと理由があるのだろうと思いながらも、ずっとわからないでいた。


「いらん。何か買うからええ」

お弁当は?と、目をこすりながら起きて来た母親に聞かれるも、光はそっけなくそう言って家を出た。
姉以外の家の人間と会話をするのは近頃少々苦痛だった。嫌っているわけではないが、どことなくイライラするのだ。にすべてを任せきりにしている点にも、腹が立っていた。



「財前、今日ネエちゃん休みやったなあ」

部活に出て、と同じクラスである先輩の謙也にそう言われても、「ハア」と適当に返事をするだけだった。放っとけや、と思うもそれは言葉に出さない。熱があるから、とかそういう余計な情報も教えない。

帰りがけコンビニに立ち寄り、なんとなく消化にいいような気がするヨーグルトを一つ買った。そのまま家に帰り、手を洗ってから、めずらしく台所に立っている母親を横目に2階へ上がる。

「……ちゃん、起きてるんか」

小さくノックをしてからドアを開けると、ベッドの中で姉が「あ、光おかえり」と笑った。

「今日はごめんな、お弁当。朝ご飯も。何か買うて食べたん?」
「ん」
「いくらしたん?」
「いらんよ、そんなん。それより自分は何か食ったんか?」

言いながら、光は自分の財布に手を掛けようとするを制止した。

「うん、お母さんがおかゆ作ってくれてな」
「……これ」
「何?あ、ヨーグルトやん、買うてきてくれたん?ありがとな」
「べつに、無理に食べへんでもええけど」
「ううん、もう元気やし、食べさせてもらうわ。優しいな光、おおきに」

自分が病気のときでさえ、はいつも周囲を気遣ってばかりだ。
そういえば光は、の怒った顔や、不機嫌そうなところを見た記憶がない。いつもにこにこして、場を和ませようと努力する。だから光は、の分まで周りの無神経な奴らに無愛想にしてやろうといつも思っていた。

「疲れとるんやろ。しばらく休んどけや」
「ううん。もう良くなったし、明日には学校行くわ」
「なんでそんな無理するん?なあ」
「無理なんて……」

してへんよ、と言いながらは咳き込む。その背中を撫でながら、光は、この世界のことを恨めしく思った。がこんなにも無理をし続けなければならない世界が憎かった。そうして、その彼女に何もしてやれない自分自身も。

「ありがとう、ごめんなもう平気やで」
「俺、明日から弁当いらんわ」
「え、なんで?私の作った弁当不味いん?」
「ちゃうよ、一人分減ったらちょっとは楽になるやろ」
「そんな、大して変わらへんよ。私お弁当作るの好きなんやから、作らして」
「嘘つけや」
「……光」
「じゃあ、なんで、朝弁当作りながら泣いてんねん?」

光は、何度か朝、姉のが台所で弁当を作りながら泣いていたり、洗面所で洗濯機を回しながら泣いているところ見たことがあった。けれど誰にも言えず、本人にも聞けず、ずっと黙っていた。

が、何も言わないのなら自分が言うべきではないと、知らない振りをし続けていた。

「そないつらいのに、なんで我慢ばっかすんねん」
「……そんな、」
ちゃんが言わへんのやったら、俺が代わりに言うで。もうメシも弁当も作りたない。掃除も洗濯も、家のことなんてなんもしたないって」
「ちゃうよ、そんなん思ってへんもん」
「思っとるやんけ」
「やめてよ、そしたら私この家におれへんくなる!」
「……え?」

言ってから、は自分でも驚いたような顔をして、けれどすぐに「なんでもないねん、今日はもう寝るわ」といつものような笑顔に戻ると、光を部屋から出した。

光は驚いた。があんな風に声を上げるなんて初めてだったし、それに、この家におれんくなるって、一体どういうことなのか、わからなかったけれどそれ以上聞き出すこともできず、仕方なく1階に降りて久しぶりに母親の作った夕飯を食べた。

一緒に食卓を囲む家族は口々に、今日あったことなどの話をするけれど、そんなことにはまったく興味がない。騒がしい。興味のない話なんて、ただの雑音にしか聞こえない。

黙々と箸をすすめてさっさと食べ終わると、光は食器を流しに置いたあとすぐに2階に上がって自分の部屋へと戻りそのままベッドに寝転んで、ぼんやり天井を見上げた。



何か、思い詰めていることがあるのなら教えて欲しいのに。
の力になりたい。でも、はそれを求めてない。

弟だから、年下だから、頼りにしてくれないのだろうか?



目を閉じても、思い出すのはいつも笑っているの顔ばかり。


『光』


でもそれはいつだって、どこか寂しそうで。

笑っているのに、泣いているみたいだった。