きみしかいらない
「光、おはよう」 翌朝、洗面所で俺と顔を合わせたはいつもと変わらない笑顔で、昨日一瞬見せた思い詰めたような表情は完全にどこかへ消えていた。 「……学校行くんか?」 「うん。ごめんな、心配かけて」 今日はお弁当作るからな、と言って洗面所を出て行くのを見ながら俺は、が笑う度に胸のどこかが苦しくなるのを感じていた。ずっと気のせいだと思い続けていたそれは、気のせいではないとわかってからも、気のせいだと思わざるを得なかった。 「いってらっしゃい光、気をつけてな」 いつもの様に姉の作った朝食を食べて、姉の作った弁当を持って、家を出る。それが俺にとって普通の毎日だった。自分の身の回りの一切を面倒見てくれる姉のいることが、当たり前だった。 (誰もなんもいらん。がおれば、それでええ) のことが好きだった。誰にも言わないけど、世界中の他の誰よりも気に入っていた。姉などという簡単な言葉では表せないくらい、俺にとって大切な存在だった。たとえ世界中の誰がいなくなったとしても、さえそばにいればそれでよかった。 夜、の部屋の前を通りかかると、中から咳をしているのが聞こえた。ほら見ろ、やっぱりまだ風邪治っとらんのやんけ、と思いながら小さくノックしてドアを開けると、ベッドに腰かけていると目が合う。 「あ、光。どないしたん?」 「どないしたんやないやろ、まだ具合悪いやんか。明日は休めや」 「そんな、平気やで。もう大丈夫やから」 「大丈夫やない。たまには心配させろや」 けれどは「大したことないで」と笑うだけだった。人のことは心配ばかりしているくせに、自分のことは心配させようとしないに、少し苛立ちながらズカズカと部屋の中に入るとそのとなりにどっかりと座った。 「なあ、なんでこの家におれへんくなるん?」 「……」 「なんで、家事せんとおれへんくなんねん」 「あれな、なんでもあらへんよ。光は気にせんでええで」 「嘘や。何か理由があるんやろ」 問い詰めても、は無理に笑って適当にはぐらかしてばかり。努めていつも通りに振舞おうとするけれど、その表情はどこか動揺しているように見えた。 「俺かて弟やし、何かあるなら言うてくれや」 「……弟」 はまた、昨日一瞬だけ見せたような思い詰めた表情になると、その視線を自分のひざの辺りに移した。それからしばらく続いた静寂のあと、俺の方を見ないまま口を開く。 「ほんまに……なんでもあらへんねん」 べつに言いたくないことなのなら、無理に問い詰めてまで聞くことはないと頭の中どこかでわかっているのに。それでも俺は、自分が弟だから、年下だから、なんの役にも立たないからなのではないかという思考におちいってしまう。 「……俺じゃ、あかんのやな」 の支えになりたい。守ってあげたい。 けれどそんな思いは、いつも、自身によって否定されてゆく。 はいつだって、ただ、なんでもない大丈夫なのだと作り笑いを浮かべるばかり。 「……ちゃんには、俺なんて必要ちゃうんやな」 「そんなん、思てへんよ」 「思っとるやんけ。俺なんか、おらへんでもええんや」 「光……」 の困ったような顔を見るのは、どうにも苦しい思いがするけれど、もうこれ以上胸の中で渦巻き続ける思いを押さえ込んでおくことができなかった。 「ちゃんなんか、もう、嫌いや……」 俺は、自分がを好きと思うように、にも自分のことを好きと思って欲しかったし、必要とされたかった。だけど素直にそれを伝えることはできず、ただ子どものように拗ねる態度しか取れない。 「……光」 それは、初めて見るようなの、悲しそうな表情だった。俺は一瞬それにドキリとしても、今さら「やはり嘘」とも言えず意地を通したまま、ベッドを立ってそのまま部屋を出た。 それから自分の部屋に戻って、俺はなんてアホやと後悔してももう遅い。助けになるつもりが、逆ににひどいことを言って傷つけてしまったと自分に腹が立っても、他に当たるところがなくて余計にイライラする。 あんなことを言いたかったわけじゃないのに。 本当に、ただ支えになりたかっただけなのに。 「……あ、光……。おはよう」 それから、家の中でと顔を合わせても、それは以前とは明らかに違い、どこか気まずいような態度だった。けれどそれは自分のせいだとわかっているから、無神経に「なんでなん」とは聞けないまま。 (ちゃうねん、ほんまはあんなこと言うつもりやなかってん) と、心の中で弁解してもそれを口に出して伝えることはできないまま。ただ意地を張って、そっけなく返すことしかできなかった。 そうしてなんとなく気まずい雰囲気のまま、気がつけば夏が過ぎて、秋も終わりになっていた。 この数ヶ月間、はなるべく俺に対して以前のように振舞ってくれようとしながらも、それでもいつもどこか翳ったような笑顔だった。 こうなってはもう完全に謝るタイミングを見失ってしまい、心の中では何度も「ごめん」と謝ってもそれを声に出すことはできないまま。そんな自分に心底うんざりして、この頃はもう何もかもが億劫に感じていた。 (……なんもかんも、くだらん……) 家族が話をする声も、同級生が話をする声も、少しも耳に入ってこない。聞きたいのは、ただ、の声だけ。たった一人の、それだけ。いくら時間が経っても、他にどんな奴が現れても、好きなのはひとり。 今だってそう思うのに、俺はいつだってに面倒をかけて、傷つけてばかりいる。いつまでもこんな風では、きっといい加減だってもう俺のことを呆れて、本当に嫌いになってしまったかもしれない。 そんなのは絶対に嫌だと思うのに、もう、どうしたらいいのかわからなかった。 夕飯を食べ終わった後、本当は見たいテレビ番組があったけど、他の家族が集まっているリビングは騒がしくてうざったく、すぐに自分の部屋へ戻った。 ベッドに寝転がって、べつに読みたくもないけど他にすることもなくて適当に掴んだ音楽雑誌を眺めていると、誰かが部屋のドアをノックする音が聞こえた。 「……あの、光。私やけど、入ってもええ?」 親だったら鬱陶しいと思って返事も何もせずにいたら、それはだった。少し驚きながらも、起き上がって「ええよ」と答えると、は遠慮がちにドアを開けて中に入ってくる。 「ごめんな、光。急に……」 「……べつに」 ベッドの上で壁に寄り掛かりながら、そばに腰掛けたの横顔を眺める。普段、滅多には俺の部屋に入ったりしない。俺が、誰かに自分の部屋に入られるのを嫌と思うのを知っているから、用事があってもいつも外から声を掛けるだけだった。 「あんな、私ちょっと話したいことあるんやけど……」 「……話?」 改まって話とは、一体何なのか。この頃こんな風にと二人きりになることがなかったので実はそれを心の中で嬉しいと感じていたけど、その表情は相変わらずどこか元気がなくて、気になっていた。 「その、私な……。来年、中学卒業したらこの家出て、寮のある東京の学校行くつもりやねん」 「……は?」 「お父さんとお母さんにはもう話したんやけど……。一応、光にも話しとこう思て」 「……」 東京……?寮……? 俺は、が何を言っているのかよく理解できなかった。生まれてからずっとそばにいた姉が、俺を置いて遠いところに行ってしまうなんて、そんなのこれまでに考えたこともなかったし、考えたくもなかった。 これからもずっと一緒だと思っていたのに。さえいれば、他に何もいらないのに。だけど、彼女はそうは思っていない。結局、のことを好きなのは俺だけで、は俺なんて、いなくてもいい。好きではない。必要ではない。 そう思えば、次第に怒りにも苛立ちにも似た感情が湧き上がってくる。 「お弁当のことなんかは、お母さんに頼むつもりやから、光はなんも心配せんでな」 「……ふざけんなや」 「……え?」 「なんやねん、それ。そんなん急に言われたって、知らんわ」 「……」 今は少し気まずいけれど、いつかはきっと仲直りできてまた以前のように暮らせると思っていた自分が、アホらしく思えて、悲しかった。そんな風に願っているのは所詮俺だけだったのだとわかれば、無性にイライラして、ただ感情のままにに当たることしかできない。 「何が東京や、アホちゃう。あんなとこ、ただやかましいだけやんけ」 数ヶ月前にあんな風にに言ってしまったことをあれからずっと後悔していたのに、性懲りもなくまた同じように悪態をついてしまう。心の中でもう一人の自分がそれを止めるけど、それも聞かずに勝手に言葉が口から出ていく。 素直に、行かんでくれと言えたら、はずっとここにいてくれるかもしれないのに。 「全部勝手に決めんなや。なんで……、せやったら俺は……」 俺はにとってどうでもいい存在なのだろうか?は俺なんかいなくても全然平気で、東京で元気に暮らすのだろうか?そうして弟の俺のことなんてさっさと忘れて、楽しく過ごしているを想像してみれば、泣きたくなった。 「……もう、ええ」 「光……、あのな……」 「もうええって言うてるやろ!そんなに東京がええんやったら、さっさとこの家出てけや」 何かを言いかけたの言葉を遮って、部屋を飛び出しそのまま階段を駆け下りて靴を履き、乱暴に玄関のドアを開けて外へ出ると、どこに行くのか自分ですらわからないままとにかく走った。 頭が混乱して、もう、何がなんだかわからない。今はもう、何も考えたくはなかった。 そのまましばらく走ったけれどじきに疲れて、ふらふらと歩きながら近くの公園へ入った。もうすっかり暗くなったそこに当然人影はない。ベンチに腰掛けて、息が上がっているのを落ち着かせていると、また急にの顔を思い出して、苦しくなった。 (……なんでなん……) 優しい姉は、俺だけのものではないとわかっていたつもりでも、それでもいつもあれ程までに良くしてくれるの温かさは、どうしても自分だけのもののように感じてしまっていた。 『光、おかえり。お腹空いたやろ?ごはんできてんで』 は誰にだって優しい。俺にだけじゃない。わかっているのに、いつだってそれを独り占めにしたかった。 ずっとそばにいたい。誰にも渡したくない。……けれど、彼女はそうは思ってはくれない。 (ちゃんは、俺のことなんていらへんのや……) 姉を失ってはもう、あの家に暮らす理由もない。残されたのは、ただ、くだらない退屈な日常と、行き場のない想いだけ。たった一つの居場所を失くして、これからどこに帰ればいいのかわからない。 それから、どれくらい経ったのだろう。公園の時計は壊れてずっと5時を差したまま動かない。携帯電話も何もみんな置いてきてしまった。今頃、家族は俺のことを探しとるやろうか、などとぼんやり考える。 (……まさか。あの家で俺のこと真剣に探してくれるのなんて、一人しかおらへん) もうすぐ冬が訪れるこの季節、夜はだいぶ冷え込んで気温も低く、寒かった。これでは野宿するわけにもいかず、泊めてもらうアテもない。嫌だけど仕方なく帰るしかない、と公園を出て外灯の明りが点々と照らす道をのろのろと歩き始めた。 遠くの方で犬の鳴き声やバイクのエンジン音、明かりのついた近くの家では誰かの話し声が聞こえる。 あんな風に家を飛び出しておきながら、帰ったらどんな顔してに会えばいいのかさっぱりわからず、次第に足取りが重くなった。 帰ろうか、帰るまいかと悩みながらも結局は帰るしか選択肢はなくて、暗い道の中やっと自分の家に近づいてきたかと思えば少し離れたところに一人分の人影が見えた。 「……光!」 それは走りながら近づいてくるようで、同時に、俺の名前を呼んでいる。よくよく確認せずとも、誰かなんてことはすぐにわかっていた。 「光、よかった。無事やったんやな……」 「……」 「心配してんで、夜中にどっか行ってしまって帰って来えへんから……。光に何かあったら」 「……大げさやろ」 「ごめんな光、私が悪いんやな。光の気持ちも考えへんと、あんなこと急に言うたから……」 は本当に心配そうな顔をして、今にも泣き出しそうな雰囲気だった。俺のことをそんな風にまで心配してくれるのは、だけなのだと知っている。けれど、きっとそれも俺だけのものではない。誰にだってそう。そして、あと少し経てばいなくなってしまう優しさ。 そう思えば、一度は消えたと思ったはずの苛立ちにも似た感情がよみがえる。 「俺なんか放っとけばええやろ。はよ東京でもどこでも好きなとこ行けや」 そんなこと少しも思ってなどいないのに、口が勝手に悪態をつく。はっとしたような顔をして俺のことを見上げたの目を見て、胸が苦しくなった。 「どこにも行かんといて」と言いたくても、言えない。その胸に顔を埋めたくても、できない。 これ以上そばにいると、もっとひどいことを言ってしまうかもしれないと思って、を追い越してさっさと家の方へ向かって歩く。後ろをついてくる足音を聞きながら、ただひたすら目の前の暗闇しか見ないようにした。 はしばらくの間何も言わなかったけれど、俺達の家の玄関前まで来ると、急に「光」と名前を呼んだので、少し間を置いてから後ろを振り返る。 「……」 「……光、ほんまにごめんな……」 「謝るくらいなら、最初からすんなや」と思ったけどその悲しそうな目を見たら口に出すことなんてできなかった。そしては一瞬俺と目を合わせたかと思えば、すぐに逸らして少しうつむく。 「私……、もうこの家にはおれんねや」 「……」 「せやから、出てく。ごめんな……光」 こちらを見ないままのがその時一体どんな表情をしていたのかはわからなかったけど、声は震えていて、きっと泣いているのだろうと思った。今本当に泣きたいの俺の方なのにと思いながらも、この目から涙が出ることはなかった。 欲しいものは世界で一つだけなのに、人生で一つだけでいいと言っているのに、それは手に入らない。 それならもう、いっそ何もいらない。 |