さよならの日
がこの家を出て行くと言ってから、嫌がらせかと思うくらい時間は早く過ぎていった。 志望校を受けに行くと言うに、ひっそりと心の中で「落ちたらええのに」と思ったけれど成績も生活態度も優秀な彼女が落ちるわけなんてなくて、あっけないくらい簡単に受かってしまった。 家族はみんなそれを喜んでいたけど、何が嬉しいのかさっぱりわからなくて、俺は少しも笑えなかった。 (がこの家出てくって言ってんねんぞ、それでもアンタら平気なんか。どんだけめでたい頭しとんねん) 言い様もないイライラは、時間が経つにつれて増していき、家族や周りの人間すべてに向けられていった。春なんて永遠に来なければええのに、と思っても、時計の針が止まることはなくて、あっという間に春になってしまった。 「卒業生一同、起立」 中学の卒業式。卒業証書を校長から貰って自分の席へと戻っていくは、泣いたりすることもなくて、にこにこと笑っていた。それはいつものような翳った笑顔ではなくて、どこか安心したような穏やかな表情だった。 まるで、この場所に未練なんてまったくないように思えて、こっちの方が悲しくなった。 式が終わって部活の先輩達に挨拶をした後、もう帰ろうと思って校庭を歩いていると「光」と声を掛けてくる奴がいて、声だけで分かった俺は返事もせずにそちらを見るとそれはやっぱりだった。 「家帰るん?気をつけてな。私はもう少し友達と話してから帰るわ」 「……あっそ」 あれから、なるべくにはそっけない態度をとるようにしていた。そうすれば、いざいなくなったときになんでもないと思えるような気がしたから。でも、そんなのは無意味だと心のどこかではわかっていた。それでも、もう他に方法がない。 は、家を出て行く。その事実に変わりはない。 「……しもた」 が家を出て行く日の朝、せめてこっそり見送りくらいするつもりだったのに、よりによってこんな日に限って寝坊してしまった。自分の部屋を飛び出すようにして一階へ降りると、案の定もうそこにの姿はなかった。 今日は部活ないのか、などと聞いてくる母親や、のん気に朝メシを食っている他の家族に腹が立って、「なんで起こしてくれへんかってん」と言おうと思ったけれど寸前で止めて、また自分の部屋に戻った。 途中、通りかかったの部屋のドアが開いていて、中を見るとそこはもうガランとして何もなくなっている。昨日までここにいたはずのはもうここにはいないのだと、わざわざ証明して見せてくれているかのようで、そんなん余計な世話やのに、と強い力でドアを閉めた。 もう学校なんか行く気にもならんけど、この家におるのもしんどい。仕方なくなんとか支度をすると、一階にいる家族を無視して素通りし、朝メシも食わず玄関へ向かった。 スニーカーの紐を結び、それから音楽プレーヤーを取り出そうとリュックの中へ手を入れると、何か紙のようなものの感触があった。 「……なんや、これ」 掴んで出してみると、それは手紙だった。ただの白い、シンプルな封筒に「光へ」と書かれている。それは間違いなくの字だった。気付かないうちに、が入れたのだろうか。 とりあえず家を出て、少し歩いたところで近所の家の塀に隠れるようにして封筒をあける。中には何枚か便箋が入っていて、そこにはの字で文が綴られていた。 光へ ずっと光に言わなければいけないことがあったのに、どうしてもその勇気がなくて、結局こうして手紙にすることにしました。自分でもなんて一歩的でずるいと思うけど、どうか堪忍してください。 光、私は光の実の姉ではありません。養子として、財前の家に入れてもらった人間です。 一体、どんな理由と経緯でそうなったのかはわかりません。まだずいぶん小さかった頃のことのようで、私自身何も覚えていないからです。それを知ったのは、小学生の時、家に来ていた親戚の人たちが私の話をしているのを偶然、こっそり聞いたからでした。 本当にショックやったけど、それは何かの聞き間違いで、ほんまはちゃんとお父さんとお母さんの子やったらええのに何度も思いました。けれど、中学に上がってから、戸籍をとってみたらやっぱりそこには私が養子であることが書かれていました。 両親からそういった話をされたことは今までに一度もなかったので、二人とも私が知っていることすら知らないかもしれません。もしかしたらお兄ちゃんは私が養子だと知ってるかもしれないけれど、やっぱり何も言われたことはなかったです。 光、長い間、ずっと隠しとってごめんな。いつか言わなければと思いつつも、言えないまま、今日まで生きてきてしまいました。 お父さんやお母さん、家族のみんなのことは本当に好きやし、今まで育ててくれたこと本当にありがたいと思っています。……それやのに、いつの頃からか私の心の中ではみんなとの距離を感じるようになっていました。 結局、赤の他人である私は、ある日突然捨てられてしまうのかもしれへんという恐怖心がいつも付きまとって頭を離れんようなって、そんな訳はないと思うのに、みんなを信じているはずやのに、どうしてもそう考えてしまう自分がいました。疑心暗鬼になって、何もかも嫌になる時期もありました。 そんな中で、ただ光だけが……私の唯一の心の支えやった。 小さい時からずっと私に懐いてくれていた光さえおってくれれば、あの家で暮らすことの苦しさも、忘れられるようやった。初めはみんなに必要とされたい一身でやっていた家事も、光のためやと思えば辛くなんてなかった。 せやから、私は、光を失うのが怖かった。ほんまは光の実の姉やないと知ったら、光は私のこと、どう思うやろって考えるだけで苦しかった。失望して、離れていってしまうんやないか。もう二度と、口もきいてくれへんようになるんやないかって、いつも不安やった。 そうして、ずっと言えへんかった。今さら許してもらえるとも思えへんけど……光、本当にごめんなさい。 私はこれから東京に行って、何がしたいわけでもないけど、ただ遠くに行きたくて家を出ることにしました。 いつまでも光に甘えてばかりいるわけにもいかんので、早よう一人で生きていくことに慣れるつもりです。 家のこと、それに光のお弁当のことなどはお母さんにようお願いしておきました。なので光は何も心配せんで大丈夫やから、ただただ元気に暮らしてください。 今日から私のことはもう他人やと思うて、忘れてくれてええです。 それでは光、今までほんまにありがとう。 体にだけは気をつけてな。 「…………なんやねん、これ……」 そこには自分の目を疑うような言葉ばかりが並べられていて、読み終わった後も、しばらく呆然と立ち尽くすことしかできなかった。 ずっと一緒に暮らしてきた姉が、ほんまは血の繋がりのない赤の他人やったなんて、そんなん急に言われたって簡単に信じられるわけなかった。せやって、はずっと小さいときからあの家におったやんか。 (ほんまの姉ちゃんやないって、養子やって、どういうことやねん……) そういえばよく近所の人が、「財前さんちはちゃんだけ雰囲気が違うのね」と言ってきて、その度にオカンは死んだひいばあちゃんによう似とるんです、と返していた。 学校の同級生に「財前てネエちゃんと似とらんな」と言われても、べつに似てなくてもおかしいと思ったことなどなく、ひいばあちゃんに似とるって言うんなら、そうなんやないん?と、気にしたこともなかった。 「……そんなん嘘や……」 思い起こせば、思い当たる節はいくつかあるのに、それでも信じたくなかった。今日まで、が実の姉と信じて疑わずに生きてきたというのに。 けれど、があれほどまでに我慢して、無理をする理由。思い詰めた表情。この家におれんくなるという言葉。そのすべてに辻褄が合うのもまた事実だった。 「なんでなん、ちゃん……」 まるで、『さよなら』とでも言っているかのような文面。もう二度と会うつもりもないような、そんな手紙、突然押付けられたって「はいそうですか」って納得できるわけないやろ。どんだけ勝手やねん。 (俺のこといらへんのやなかったら、置いてくなや……) 手紙をリュックにしまい、気がつくと俺は学校へ向かう制服の集団の間を逆行して走り、駅へ向かっていた。が乗るはずの新幹線の時間、今ならまだ間に合うかもしれへん。 それから、はやる気持ちを抑えながらもしばらくしてなんとか姉がいるはずの駅に辿り着いた。仕事や旅行で行き交う人々の間をすり抜けながら、見慣れた顔を探すけれどなかなか見つからない。 まさか、まだ着いていないはずがない。もう乗って行ってしまったのだろうか、それとも乗り場を間違えたのだろうかなどと焦りながら色々と考えていたら、少し離れたところのベンチにが座っているのをやっと見つけて心底ほっとした。 息を切らしながら、近づいてみても、なんて声を掛けていいのかわからなかった。 「……光?!なんでここにおんの、学校はどないしたん」 「……」 立ち上がって驚いた顔を見せるを前にしても、何も言葉が出てこない。さっき手紙で読んだことはみんな全部嘘なんやろって聞きたかったのに、それは声にならずただ見つめることしかできなかった。 「……手紙、読んでくれたん?」 黙って頷くと、はまた一瞬悲しそうな表情を見せたけれど、すぐにいつもの優しく柔らかい顔に戻った。 「ごめんな、ずっと黙っとって……。突然こんなん、驚いたよな」 無理やり笑い飛ばすように話すに、何も返せなかった。俺達のそばを通り過ぎて行く人たちはみんな忙しそうにせわしなく動き回っているけれど、ここだけはまるで時間が止まっているようだった。 「せやけど、赤の他人はあの家出てくから、安心してや。もう戻る気もないし」 「……」 「光も、私のことなんか忘れて、家族みんなで仲良く……」 「なんでや」 「……光?」 「なんでそないなことばっか言うねん。俺の気も知らんで、ほんま勝手やんか」 自分のことは忘れてくれなんて言われたって、そんなこと、できるわけがない。俺は、たださえそばにいてくれればいいとさえ思っていたのに。その彼女を忘れて、これからどうやって生きろと言うのだ。 「なんで実の姉やないとあかんねん。べつにええやん、血繋がってへんくたって。姉は姉やん」 「……」 「家出る必要なんかあれへんし、ずっとここにおったらええやんか」 「……私は、あの家にはおらんほうがええんよ」 「なんでなん?べつにええって言うとるやんけ」 「……」 はうつむいたまま、何も言わなくなってしまった。決して責め立てるつもりではなかったのに、もう時間がない。焦る気持ちに自分の感情を上手くコントロールすることなんてできなかった。 俺はただ、にここを離れて欲しくないだけなのに。これほど言っても、は俺を見捨てて行ってしまうのかと思えば、泣いてしまいたいくらい悲しかった。 「……光が、ほんまの弟やったらよかったのに……」 しばらくして、震えた声とともに顔を上げたは泣きそうな表情をしていた。俺の目を見つめて、それから瞬きをするとその瞳からは涙が溢れて、数粒零れて落ちていく。 「……ごめんな」 「何を、謝ることがあんねん」 は苦しそうに言った。そんなの、べつにのせいなんかじゃないのにと思ったけれど、彼女はもう一度ごめんな、と言うとまたぽろぽろと涙が落ちる。 「…………私、光のこと好きやってん」 「……そんなん、俺かて……」 「ちゃうねん。ずっと、弟としての好きとはちゃうかってん……」 「……」 心臓の鼓動が、急速に早くなっていくのを感じた。申し訳なさそうに泣きながらが話すのを、自分でもなんてアホやと思いながらもただ黙って眺めるしかできなかった。 「血が繋がってへんて知ってから、私、光のこと……弟として見られへんくなった」 「……」 「ずっと男の子として好きやってん……。そんなん、もう姉とちゃう。私には……もう光の姉でおってもええ資格なんか、とっくになかってん」 「……」 「せやから、もうここにはおられへん。光は大事なあの家の子やもん……両親に申し訳が立たへん。私はこれ以上、光のそばにおったらあかんのや」 「……ちゃ、」 「ほんまにごめん。もう二度と光には会わへんよ。私のことは死んだと思うて忘れて欲しい」 突然の話にただ呆然とするしかなくて、何か言葉を思い浮かべて口に出す前に、はそれだけ言うとその場からいなくなろうとした。こんな風に彼女が一方的に自分ばかり話をするのは珍しくて驚いたけれど、今はそれどころではなくて、とにかくとっさに追いかけてのコートの袖を強く掴む。 「待ってや、俺まだ何も言うてへんやん……。勝手に行かんといや」 「……」 「ほんなら、ほんなら……それでもええやん。血繋がってへんのやったら、べつに好きでもええやんか」 「……」 「俺、そんなん気にしてへんで。……せやから行かんといてや、ちゃん」 の乗る予定の新幹線が、アナウンスとともにホームに滑り込んできた。そうして少しして扉が開くと、大きな荷物を持った人々が待ちかねていたかのようにその車体へと乗り込んでゆく。 ここで失えば、もう二度とは戻らないだろうとわかっていた。だから俺はその袖を握り締めながら、うつむいた横顔から何滴か涙が落ちていくのを縋りつくような気持ちで見つめていた。 は俺のことを、ずっと好いてくれていた。そしてそれが弟としての好きじゃないのだと知って、動揺しながらも心の中で喜んでいる自分がいることに気がついた。優しいが、他の誰でもない俺を好きと言ってくれて、必要としてくれることが、嬉しかった。 やっと、が俺だけのものになったような気がした。 けれど優しい彼女は自分のそんな想いにひどい罪悪感を覚え、悩んだ末に家を出て、これからの一生俺の前から姿を消すつもりでいる。すべて自分が悪いのだと思い込み、罪滅ぼしのようにここからいなくなろうとしている。 (そんな必要あらへんのに……) 謝るのなら俺のほうだった。ずっと孤独で辛く寂しい思いを我慢していたのことを、気付いてもやれないで、それなのに支えになりたいだなんて勝手に思っていた自分はアホやった。 「ちゃんが俺のこと弟として見られへんのやったら、俺今日から弟やめるわ。そんならええやろ?」 「……」 「弟やなかったら、好きでもええやん。そんなん、もうなんも気にせんでええから」 俺はさえよければそれでいい。たとえそれを間違っていると誰かが言っても、道理を外れているとしても、そんなの知ったことか。が望むのなら、ただそれだけでよかった。 ずっと何も言わないままのが、涙に濡れた瞳で俺のことを見る。震えるその唇は、何か言いたいように見えても、そこから言葉が出ることはないまま。 急に俺の手を振り払って歩き出し、他の人たちと同じように車両へ乗り込もうとするを追いかけて、縋りつくようにその腕をもう一度強く掴んだ。 「待ってや」 「……離してや、光」 「嫌や」 「離して」 「嫌や」 「わかってよ。光はもう、私なんかと一緒におったらあかんのや!」 死んでも離すものかと思っていたのに、初めてに肩を押されるようにされて、驚いて思わずその手を離してしまった。そうして、はっとした時にははもうそこにはいなくて、見ればいつの間にか車両に乗り込んでいた。 追いかけようと思っても、まるで時が止まったかのように足が動かない。扉が閉まるというアナウンスが聞こえているはずなのに、泣いているの瞳を見つめることしかできなくて、この場所を動けなかった。 「ごめんな、光……ごめん」 (待ってや) (行かんでや、ちゃん) 俺を置いて、どこ行くねん。せやってちゃん、俺のこと好きやって言うくれたやん。それやのに、なんで東京なんか行ってしまうん?なんで、もう二度と俺に会うてくれへんの? そんなの、あんまりやんか。 「嫌や、ちゃん、行かんといてや」 やっとこの足が動き出して、追いかけようとしても、目の前でその扉が閉まろうとしている。線の内側まで下がれというアナウンスに、「待ってや」と言っても、そんなの待ってくれるわけなどなくて。 「ちゃんがおらんと、俺、生きていかれへん」 「……光」 「ちゃん、」 「光、ごめんな、元気でな……。さよなら」 まだ言いたいことも話し終わらないうちに、姉のその言葉とともにバタンと扉は閉まり、車体は俺を置いてあっさりと走り去って行ってしまった。 のいない世界で、どう生きていけばいいかなんてわからないのに。いつまでもずっと一緒だと思っていた。ずっと、ずっと大人になっても。 でももうここにはいない。 俺のことを好きと言ってくれたのに。 に「さよなら」と言われる日がくるなんて、そんなん、夢にも思っとらんかった。 「さよならなんて、そんなん嫌や……」 止むことなく続くアナウンス放送、行き交う人々の楽しそうな話し声……。雑踏の中で俺はただ一人、を乗せて一瞬で消えて行った車体が向かった先の方向を、ずっと黙ったまま見つめていた。 |