が大阪を出て行ってしまってから、俺を置いていなくなってしまってから、半年が経った。だけどそれは、ちっともあっという間なんかではなかった。 毎日毎日、朝が来る度に、また前みたいに起きたら台所にはがいて。「光、朝ご飯できてんで」と笑い掛けてくれるのではないか、などと。今でも夢に見てしまう。自分でももういい加減にせえやと思うくらいに。 またに会えるというのなら、それならば、いくらでも待つけれど。 (でも、そんなわけない) は俺に「さよなら」と言った。泣きながら。 そんなん嘘や、と何度思ったことか。あんなに優しくしてくれていた姉が、弟の俺を置いて勝手にどこかへいなくなってしまうなんて。もう二度と会えないなんて。 ……好きと言うてくれたのに。 俺のことが、弟としてではなく。男として好きやと。そう……言うてくれたのに。 二学期になったというのにまだまだ暑くて、教室の窓を開け放ってみても生温かい風が入り込んでくるだけ。体はじっとりと汗をかいていて、それだけでなんとなくイライラする。 部活はすでに引退した。だから3年生は、これからすっかり受験モードといった雰囲気だけれど、俺には特に希望するものがない。やる気もない。両親に、進路はどうするのかと何度か聞かれても無視して何も答えずにいた。 どこへ行こうと誰といようと同じことだ。そこにがいないのならば、なんの意味もない。 (……どうでもええわ。ほんま、くだらん) 「財前」 昼休み。自分の席に座って好きな曲を聴いていたら、急に肩を叩かれて、邪魔すんなやと思いつつヘッドフォンを外すとそれはクラスメイトの男子生徒だった。 「なんや」 「あの子がお前のこと呼んでんで」 そう言うとそいつは廊下を指差したので、見れば、知らん女子生徒がこちらを見ている。 「誰やねん」 「知らん。下級生やないか?用があるらしいで」 (……面倒くさ) 口に出すのを我慢して、仕方なく席を立ち上がって女子生徒に近付いて行くと、話がしたいので二人きりになりたいと言われた。ここじゃあかんの、と聞くのも面倒だし、正直なんの話かなんて最初からわかっていたけど俺は黙ったままその子について行った。 「……ごめんけど」 誰だか知らんけど、俺がええなんて、随分と物好きやな。時々、付き合って欲しいと言われる度に、そんな風に考えていた。 いつもだったら、そう言えば早々に諦める子ばかりだったけど、その女子生徒は「付き合っている人がいるのか」「好きな人がいるのか」などと、色々と問い詰めてきた。 そんなん言うわけあらへんやろ、と思いつつ、なぜ断ったのか理由を話さなければどうにも解放してもらえない雰囲気だった。いっそここから逃げ出してしまおうか、とも考えたけれど。 「好きな人がおんねん。俺は、その人以外好きなれへん。一生」 「……」 「せやから、ごめん」 彼女を諦めさせるつもりで言ったつもりだったけれど、同時にそれは俺の本心だったに違いない。「好きな人」と口に出した時、俺は頭の中での姿を思い浮かべていた。 なに、言うてんねん俺は。 は姉やねんぞ。たとえ、血が繋がっていなかったとしても……。せやから、は、俺のそばを離れていなくなってしまったのに。どんなに好きでも、両想いでも、もう会えへんのに。 それやのに。まだ、そんなことを言うのか。 「……そこまで先輩に想われる、その人が羨ましいです」 その女子生徒は、どこか寂しそうな笑顔でそう言った。まさか姉が好きやなんて、そんなこと思うてへんのやろうけど。もしそれを知っても、同じこと、言えるんやろうか。 俺は目を伏せたまま……何も、答えられへんかった。 今日は放課後、部活に顔出して後輩の練習を見てやったりしていたら随分と遅くなってしまった。すっかり辺りが暗くなった帰り道を一人歩いていると、ふと空を見上げて立ち止まった。 星がいくつか、きらきらと輝いている。普段はそんなの気にも留めないけれど、今日はなんとなく気になって、柄にもなく「キレイやな」なんて、ぼそりと独り言を呟いてしまう。 その時、一瞬、光が空を走るのが見えた。 (……流れ星……?) まさか。そんなもの、なかなか偶然見られるものではない。けれど、あれは確かにそうだった。一緒に誰かいれば「そうやんな?」と確認できるものの、一人なのでそれもできない。 よく、流れ星見たら消える前に願い事3回唱えたら叶うとかいうよな。だけど、あの短い間に3回も唱えるのはどう考えても不可能やろ。絶対無理や。 そんなことを考えながら、また歩き出す。黙ったまま、ポツポツと街灯が照らす人通りの少ない暗い道をゆっくりと歩きながら。それでも、目の奥には、まださっき見た流れ星の光の残像が残っている。 「……」 気が付けば、俺はまた立ち止まって、空を見上げていた。 ……願い事。今からでもええやろか……。 とっくに消えてしもうてるけど。と、さっき星が滑った辺りの位置を眺めながら、俺は何考えとんねん、とふと我に返る。神頼みなんかしたところで意味なんかあらへん……。そう、思うけれど。 (……を、返してください) 結局は心の中でそう願っていた。 春から、俺の願いはずっと変わらずにただ一つ。に帰って来て欲しい。また、俺のそばにいて欲しい。今日も明日も、明後日もずっとずっと毎日。これから、一生。 さえいてくれればそれでいい。それ以外の奴全員に嫌われたって、が俺を好きと言ってくれるなら。笑ってくれるなら。それでもいい。他には何もいらない。 (俺はアホや……) そんなん、叶わへんて。とっくに知ってるはずやのに。 秋になっても、はなんやかんやと理由を付けてまだ一度も大阪へは戻って来てはいなかった。それはきっと、いや、間違いなく俺と会わないための言い訳やろうけど。 だけどは元々かなり真面目で嘘を吐いたことなどなく、周囲からの信頼も厚い。それは両親とも同じで、そんな姉を疑うこともなくすっかり信じ込んでいる様子だ。 ずっとこんなことを続けるつもりなのだろうか。これから、一生、死ぬまで……。 に避けられている。そう思えば胸には痛みにも似た感覚が走った。そして、あの日、駅のホームで見たあの涙を思い返せば、苦しさが増して、今でも切なさが込み上げて息ができなくなる。 (なんでや) 俺やって、ちゃんのこと好きやのに。 好きと言ってくれて嬉しかった。そしてそれが、弟としてではないのだと知って、この心は、喜んでいた。 いっそ、姉が自分を好きにならなければよかったのだろうか。そうすれば、離れることもなくずっと一緒にいられた。 単なる姉と弟として存在できていたなら、その方がよかったのだろうか、と。 何度も考えた。けれど、やっぱり俺はが異性として好きと言ってくれたことが嬉しかった。誰にでも優しく親切な。他の奴らと一緒だと思っていた自分が、そんな姉にとって、特別なのだと知れたから。 は今、どうしているのだろう。誰といるのだろう。それとも、もう俺のことなんか嫌いなってしまったやろうか。東京で、好きな男ができて、付き合ったりしてるんやろうか。 暇さえあれば、姉のことばかりが頭の中を埋め尽くすのに心底うんざりとする。それでも気になって仕方がない。は、は。どうしてるやろう、って……。 ……。 ……なに泣いてんねん、俺。あほちゃう。 自室のベッドの上に寝そべりながら、いつの間にか、生温かいものが目から滑り落ちて行ったことに気が付く。他に誰もいないことはわかっていても、俺は慌ててそれを手で拭った。 べつに泣いてへんし。勝手にこいつが出てきよっただけやし、と心の中で言い訳をしてみてもどうでもええし、我ながらくだらなさ過ぎて嘲笑した。 せやけど……せやけど、電話くらいくれたってええやん。親や兄夫婦なんかにはしょっちゅう連絡しとるみたいやのに、なんで俺にはくれへんねん。あんなに優しかったのに。なんで。俺には冷たくすんねん。 「……ちゃんの、あほ……」 そう呟くと、なんや視界がぼやけてよう見えへんくなって、目からはまた何かこぼれ落ちていった。 ある休みの日、俺は一人新幹線に乗っていた。朝、まだ家族が起きて来ないうちに家を出て、誰にも何も伝えずに勝手に。 ずっと我慢していた。こんなことしたって無駄やろうってわかっていたから。自分に言い聞かせて、必死にそう思い込もうとして。でも、そんなの、やっぱり無理やったから。 『……そこまで先輩に想われる、その人が羨ましいです』 そう言われた言葉を時折思い返しては、胸が苦しくなっていた。 どうせ、これからずっと苦しいのやったら。同じ苦しいのなら、もう一度会って苦しい方がいい。顔が見たい。ちゃんと話がしたい。俺やって好きやのに、って言いたい。……そう、思った。 なんで東京にはこんなに無意味に人が多いねん。と、対して大阪も変わらないのに姉を奪った土地に八つ当たりをしながら、地図を見て迷いつつもなんとか昼頃にはの通っている学校へ辿り着いた。 (……女子校やったんや) 嫌過ぎて一切何も情報を聞いていなかったから、そんなことも知らなかった。勝手に、共学だと思っていたので俺は学校名を眺めながら、正直かなりほっとしていた。 そして、無理やり来てはみたものの、これからどないしようと思っていたところ。休日でも部活動はあるらしい。近くを通り掛かったこの学校の生徒らしき女子二人組に、思い切って声を掛けた。 「……あの、すんません」 当然、不思議そうな顔をして俺のことを見る視線に、妙に緊張する。俺、なんでこんな所におるんやろうか。と頭のどこかで考えながら。 「財前って人、探しとるんですけど。知ってはりますか」 「……財前?」 「今年ここに入学して。寮に住んどるはずなんすけど」 一人が目をぱちぱちとさせながら名前を繰り返す。学年が違うのだろうか?知らないのかもしれないな、と考えたところもう一人の女子生徒が思い出したようにその人の肩を軽く叩いた。 「ほら、あの大阪出身の子じゃない?財前さんっていったかも」 「ああ、そっか。だから、関西弁なんだ。友達?」 「……はあ、まあ。そんな感じっす」 弟です、と言おうとしたけれどやめてしまった。俺が来たと知ったら、は俺に会ってくれないかもしれない。そう思って、嘘を吐いた。 その人達は親切で、を探して連れて来てくれると言っていなくなった。当然名前を聞かれたので、俺は咄嗟に姉も知っている先輩の名前を名乗った。なにやっとんねん、と思っても気が付けばそう口に出していた。 関係を誤魔化そうと、嘘の名を名乗ろうと。どうせ、顔を見れば同じことなのに。 しばらく校門近くで待っていると、二人が誰かを連れて三人になって戻って来るのが、遠くに見えた。誰かなんて、そんなのわかっている。自分でそう頼んだのだから。なのに、なんだか緊張してしまい、目の前に来るまでは信じられなかった。 「財前さん連れて来たよ」 「……ども」 は俺の顔を見た途端に、驚いたような顔をした。それでも、じゃあと去っていく二人に笑顔を作って「ありがとう」とお礼を言うと、その後に再びこちらへ向くけれどそこに笑みはなく黙ったままじっと目を見る。 「……」 部活にでも出ていたのだろうか。それとも、自主勉強?そんな事情は一切知らないけれど、は休日なのに制服を着ている。四天宝寺とは違う知らない制服に身を包むを見て、すぐそばにいるのになんだかすごく遠くに感じた。 「……光、だけなん?」 「……うん」 「一人で、新幹線乗って来たんか……?」 「……うん」 無視されるかと思った。口も利いてくれへんと、すぐにいなくなってしまうかと。そんなの嫌やけど、でも、一応心構えをしてきた。傷付いてもどんな結果になっても、いいと思ってここまで来た。 けれど、実際に会ったはそんなことはなかった。察したかのように、他人の名前を名乗った罪を問い詰めることもなく。優しい口調は、今も変わらない。 そう思えば、胸の中には色んな想いが溢れ出してくる。泣かないよう必死に堪えたけど、本当は、いっそここで大泣きしてしまいたいくらいだった。好きなくせに、なんで置いていったんや。なんで連絡くれへんかったんや、って。ずっとずっと聞きたかったことを問い詰めたかったけれど。 「……光、……」 「……」 今にも泣き出しそうなのは、俺を置いていったはずの、の方だった。 この胸を苦しめていた思いも、迷いも、悲しみも。この姉を前にしては、すぐに口に出すことなどできず。俺は自分でも知らんうちに手を取るとその温もりをぎゅっと握った。 それから俺とは、学校を出て少し離れた場所にあるファストフード店に入った。適当に頼んだ飲み物を持って空いている席に着くと、向かいに座った彼女は先程からずっと黙り込んでいた。 久しぶりに会ったは、随分と大人びた気がする。たった半年とちょっとの間のことなのに。もしかしたら俺も、からはそう見えているのだろうか。 「……ちゃん」 「……」 「俺が来て、迷惑やった……?」 突然、なんの連絡もなしにやって来て、迷惑ではない方がおかしい。けれど、そんなことを質問していた。きっと俺は、違うと言って欲しかったから。 だからが黙ったまま、静かに首を振るのを見て心底ほっとする。 姉はもう自分を嫌いかもしれない。忘れているかもしれない。そう思っていた一方で、それでも心の中ではそんなわけはないと思っていた。優しい姉は今も変わらずに優しいはずだ。俺を好きなはずだ。と、信じていた。 時々不安に思いながらも。それでも、そう、信じたかったから。 「東京は楽しいか……?」 「……」 「……なあ。大阪、帰ってきてや」 は何も答えない。そんなん無理やと頭ではわかっていても。姉の顔を見てしまっては、また一人で大阪へ戻るのは、あの暮らしの続きをするのはきっと耐えられないと思った。 「俺のこと、嫌いなん……?」 「……そんなわけ、ないよ」 「そやったら、ええやん。一緒に帰ろうや」 「……」 「ずっと家におって欲しいねん。みんなも喜ぶし。な、ええやろ?」 「……」 どうしたらいいのだろう、姉を取り戻すためには。俺はまた、一緒に暮らしたいだけ。だけどそれはあまりにも無謀で、高望みで。当たり前にしていたことなのに、今は夢のまた夢のようにも思える。 「……俺、ちゃんのこと好きや」 「……」 「ほんまやで。ちゃん、好きや言うてくれたやんか。俺も好きやねん」 「……」 「好きやねん……、姉としてやなくて」 「……」 「せやから一緒におってや。俺、ずっと寂しかってん……」 こんなこと、普通なら口に出したそばから死んでしまいたいくらいだけれど、今は恥ずかしいとかそんなこと考えている暇はない。俺は心のどこかで、姉の優しさに付け込めば、心揺らいで考え直してくれるかと思っていた。 「……それは、あかんのや」 「なんで?」 「……」 「俺かて好きやねんもん。べつにええやんけ」 「あかんよ……」 「なにをあかんことがあんねん」 「私のせいや。私があんなこと言うたから……」 の目にはまた涙がじわりと滲む。あんなこと、というのは姉でありながら弟の俺を好きと言ったことだろうか。は相変わらず自分ばかりを責めては、一人で苦しんでばかりいる。 「弟好きでなにが悪いねん」 「悪いよ、そんなつもりで養子に取ったんとちゃうねんから……」 「どうでもええやろ、そんなん気にすんなや」 「……」 「もう、ええ。ちゃんが大阪帰って来えへんのやったら、俺が東京来るからな」 「……え、?」 俺の突然の言葉に、は俯いていた顔をぱっと上げた。 「俺も高校、東京の学校にするわ」 「……なに、言うてんの」 「止めても無駄やで、もう決めたからな」 「光、」 「もう嫌やねん。なんでわかってくれへんの」 こんなにも好きと言っているのに。 まるで子どものように、一方的に自分の気持ちを押し付けていることは十分自覚はしているつもりでも。上手くはいかない。どうしたらいいのかわからない。俺はちゃんのそばにいたい。ただ、それだけなのに。 「光は、大阪におらなあかんよ」 「嫌や」 「お父さんとお母さんやって、心配するやろ」 「知らん」 「なあ、」 「うるさい」 「……光、お願いやから」 困ったような姉の顔を眺めながら、何もかもがどうでもいい、鬱陶しい気持ちになっていた。その彼女の生真面目さと、己の我儘な感情どちらにもひどく苛立って、冷静な思考にまで至れない。 結局、それから俺はずっと黙ったまま。に何を言われても返事もしない。一体、ここまで何しに来たんや、と思っても。相変わらずのガキっぽさは急には変われなかった。 は、帰りの新幹線の乗り場までついて来ていた。俺はムスッとした表情のまま、どこまでついてくんねん、と言いたくても言えなくて。一緒に大阪戻らへんのなら、なんでこんなとこおんねん。さっさと帰れや、と心の中で憎まれ口を叩く。 「……光、気い付けてな」 「……」 「お父さんとお母さんは、東京来てること知ってるんか?」 「……」 待っている間、話し掛けられても黙ったまま何も答えず。無言で反抗していた。優しくなんかすんなやと思っても、まだどこかで嬉しいと感じている鬱陶しい自分がいる。それが、もう、本当に嫌だ。 「俺のことなんか、ほっといたらええやんけ」 「……そんなん、でけへんよ」 「どうでもええんやろ。好きともちゃうんやろ」 「違うよ」 「嘘吐けや、せやって俺にはなんも連絡くれへんかったやん」 「……」 「勝手にどっか行ってしまって、俺には、なにも……」 姉が、どれだけ悩んでいたか。自分一人だけが家族と血の繋がっていないことに、弟を好きということに、どれほど苦しんでいたか。理解したいと思うのに、それでも、自分の寂しさの感情ばかりが上回ってしまう。 「なんも、連絡してくれへんかったやん……」 「……」 「なんでなん……、ちゃん」 「…………ごめん」 時折、周囲の騒がしい雑音にかき消されながらも、はただ、ごめんごめんと繰り返す。謝って欲しいわけとちゃうのに……。自分ばかりが身勝手で、アホらしくて、情けない。 そんな様子をぼんやりと眺めていたら、いつの間にか、俺の視界は滲んで見えていた。 「……光……?」 はっとしたようなの表情から、やっと自分が泣いていることに気が付いた。泣きたいとも、泣いてやろうとも思っていなかった。どちらかと言えば、意地でも泣きたくなどなかった。 それでも、この目からは勝手に涙が溢れて、一粒落ちる。 「光、ごめん。ごめんな」 の前で泣いたのなど、一体いつ以来だろう。もっとずっと小さい時はよく泣いていた。その度がすぐにやって来て、慰めて泣き止ませてくれる。姉に優しくされたかった俺は、嘘泣きをしたこともあったくらいだった。 慌てた様子で、がそのポケットから取り出したハンカチで濡れた頬を拭われながら、そんな懐かしい遠い思い出が脳裏によみがえる。 「私が悪かったわ、泣かんといてや」 「……」 「……ひか、」 名前を呼ばれる途中で、俺はの体を抱き締めていた。人の目なんて、もうどうでもいい。光、どないしたん、と少し動揺した声を出す姉の言葉など無視して、両腕にぎゅっと強く力を込めた。 姉の体というのは、こんなに小さかっただろうか。小さい頃、抱き締めてくれた彼女は、あんなにも大きく感じたのに。 「……ごめんな……光」 「……」 「その、連絡……するよ、これから。……そんなら、ええ?」 「……ほんま?」 「うん……」 腕の力を緩めて、至近距離でと向き合うとその目をじっと見つめた。姉が、嘘を吐くような人間でないことは俺が一番よく知っている。慰めるための、気休めなどではない。それでも、なぜだか信じられずにしつこく聞いた。 「ほんまやな……?」 「うん」 「ほんまに、ほんまやな」 「うん、ほんまや。せやから……、光は大阪におってや」 そう懇願する姉に対して、喜べばいいのか悲しめばいいのか、それとも反抗すればよかったのか。今の俺にはとっさに判断などできなかった。すると駅のホームにはアナウンスが響いて、それからじきに俺の乗る車両が滑り込んでくる。 「光、はよ行かな」 それを横目に、動こうとしない俺には心配そうに言った。なんで、また離れなあかんのやろう。俺だけ、大阪へ帰らなあかんのやろう。そんなん嫌や。……そう思っても、結局は帰るしかない。 「……連絡、してくれるんやな」 「うん、するよ」 「ほな、今日してや。明日も、明後日も、毎日してや」 「うん、わかった」 「絶対やで」 「絶対。約束するよ」 はなだめるような優しい口調で、微かに笑う。何、言うてるんやろ。ガキっぽい自分が恥ずかしくても、そんなんもう、今さら。俺は仕方なくその体から手を離すと、開いた車両の扉へ向かって歩き出した。 乗り込む手前で立ち止まり、振り返ってのことを見るけれど口からは言葉が出ず、小さく手を振るその姿を黙って目に焼き付けることしかできなかった。 家に戻った頃には、もうすっかり夜も遅くなっていた。「あんた、どこ行っとったんや」と親に聞かれても答えずにさっさと自分の部屋へと戻る。ベッドの上へと倒れ込み、ひたすら、携帯の画面を眺めて、が連絡をくれるのをじっと待った。 「無事に、家着いたんか?」 「……うん」 いっそ自分からかけてしまおうか、けれど、何から話せばいいのか……と悩んでいたところで、着信があった。俺のことを心配して、あれやこれやと聞いてくるの言葉に、ただ「うん」と頷くばかりだけれど。嬉しかった。 電話越しでも変わらずに優しいの声は、ほっとして、なんだか泣きたくなる。 さっきまでは、すぐそばにおったのに。 「ほな、おやすみ。光」 「うん……、おやすみ」 切りたくないけれど、そう返して通話を切ったあとも、しばらくの間画面をぼんやりと眺めていた。ほんまに、明日もまた電話くれるやろか……と。まだ不安を抱いてしまう自分がアホらしい。 溜め息を一つ吐いて、窓を開けてみるとひんやりとした秋の夜風が入り込んでくる。空には雲もなく、星がいくつも見えた。今見えているあの光は、何万年も前の光なんやと先生は言っとったけど。ほんまなんやろうか。 「……」 いくらか前に、自分が星に願ったことを思い出しながら、しばらくの間ぼんやりと夜空を眺めていた。叶うやろうか……。それとも、三回唱えられへんかったから、無理やろうか。 もう一度流れ星が現れたなら、その時は、消えるまでに必ず三回唱えてみせる。と思っても。いくら待ってみたところで、真っ暗な夜空にはあの日のように光が走ることはなく。 (……を、返してください) ただ心の中で。そう、呟いた。 |