第三十一番 笠森寺(笠森観音)
(千葉県長生郡長南町笠森)


延暦3年(784年)伝教大師が開創した。その昔、妃に先立たれた深い悲しみに暮れている後一条天皇を見た側の者が、「五月乙女の競い」で妃に似た女性を選べと、国のすみずみにおふれを出した。お盛という上総の国の太守の姫が、「五月乙女の競い」に出かける途中、雨に打たれ、風にさらされて立つ観音像を見て、おいたわしやと笠をかけた。そしてお盛は、見事に帝の妃に選ばれたという。これも観音様のご慈悲と思ったお盛は帝に堂を建てることを願い出、長元元年(1028年)、後一条天皇は飛騨の工匠一条康頼と、堀川の友成に命じて舞台づくりの御堂を建立し、勅願寺とした。これが笠森寺の由来である。残念ながら後一条天皇建立の観音堂は焼失し、現在の建物は、安土桃山時代の再建といわれている。

笠森観音

笠森観音2


第三十二番 清水寺(清水観音)
(千葉県夷隅郡岬町鴨根)


延暦年間(782〜806)に伝教大師が上総の国に入ったとき、道に迷って樵(きこり)に一夜の宿を借りたが、実は樵は熊野権現の化身で、その地は泉が湧き流れ滝となり、まさに音羽の風景にそっくりの場所だった。そこで大師が庵を結び、十一面観音の彫刻を彫り始めると、夜ごとに谷から光が放たれ、地中から金銅御丈一尺七寸の観音像が示現したという。その尊像は、今も秘仏として寺に残っている。ところが伝教大師は急な勅命により京都に戻らなければならなくなり、慈覚大師がその志を受け継いだ。慈覚大師はクスノキで千手観音を彫り寺に草創。その後、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が堂宇を建立した。文明13年(1481年)と文化10年(1813年)の火災により焼失したが千手観音、十一面観音とも無事だった。現在の本堂は江戸期の豪華な建築様式をふんだんにとりいれた、文化14年(1817年)の建立という。境内には、涸れたことのない霊泉がある。この寺は、落ち着いていて私の大好きな寺です。

清水観音

清水観音2


第三十三番 那古寺(那古観音)
(千葉県館山市那古)


養老元年(717年)、天正天皇が病気のおり、行基がこの地で海から香木を得、千手観音を刻んで病気平癒を祈願したところ、たちどころに天皇の病気が治った。その感謝のしるしとして、勅願により建立されたのが那古寺の開創である。鎌倉時代には、石橋山の合戦で敗れた源頼朝がこの地に逃れ、本尊に再興を祈願して七堂伽藍を建立した。元禄16年(1703年)の大震災による堂宇の全壊、明治維新後の領地没収、関東大震災で本堂が半壊するなど、度重なる困難に見舞われたが、信徒らの厚い信仰で復旧。昭和に入ってからも仁王門や鐘楼を建立。瓦葺きの本堂は八間四面で、宝暦8年(1758年)に再建されたもので、内陣に安置されている鎌倉初期作の銅造千手観音像は国の重要文化財である。

那古観音

那古観音2

那古観音3

結 願 書