巡礼と坂東の観音霊場

 大和長谷寺を開創された徳道上人が年老いて病のため心臓が止まり仮死状態にあった時、閻魔大王と出会い「いまの世は悩み苦しんでいる者があまりにも多く、皆地獄に陥ちて極楽に行く者がいない。何とか極楽に行かしてやりたい、そのためには観音経で説かれているように、お観音様の三十三の救いにおすがりすることが、もっともよい方法なので、もう一度俗界へ戻って観音さまを奉安する三十三の霊場を選び、人々がそこをめぐって観音さまとの結願のしるしになる三十三の宝印(納経朱印)を与えられ、ふたたび娑婆へかえされた。息をふきかえした徳道上人は、弟子たちに閻魔大王とのことを語り、やがて元気になって、三十三の宝印こそ尊いもの、と行衣の上にもう一枚袖なし(笈摺)を着けて宝印を背負い長谷寺をあとにした。そして関西地方を行脚し、養老二年(718)三十三ヵ所を選ばれた。これが西国霊場創設の伝説であり、観音巡礼のはじまりとされているが、徳道上人が観音巡礼をすすめても信用する人がなく、霊場はさびれてしまったため、二百七十年後の永延二年(988)花山法皇が仏眼上人や性空上人のすすめで巡拝し、霊場を中興された。と一番杉本寺の縁起や伝説などで花山法皇を創始者としているけれど、史実によれば、西国は応保元年(1161)覚忠が七十五日を要して三十三ヵ所を巡拝した記録(「寺門高僧記」)があり、平安時代の末ごろより観音巡礼はおこなわれていた。一方、坂東は、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、政治の中心が関東へ移りやがて安定すると、観音信者であった源頼朝は、各地の勢力のある豪族などに、有力な寺院を推挙させ源頼朝にいたってその寺々を札所にしたといわれている。旧陸奥一ノ宮の都々古別(つつこわけ)神社で所蔵する十一面観音像の台座には、三十三ヵ所の巡行をしている沙門(僧)成弁が八溝山日輪寺に三百日参籠し、この間都々古別仁者の別当と出会い、別当の希望で大和長谷寺の本尊に模した十一面観音像を天福(1233〜34)のころには坂東霊場は成立していたと推察されている。当初は西国を巡拝した覚忠や、この成弁のように巡礼はほとんどが修行僧で、相当な日数を苦行がともなった。それが室町中期以降になると、一般庶民も巡拝するようになり、その顕著な例が足利ばん阿寺の本堂修理中に発見された六枚の坂東納札で、これによって一般の間にも巡礼がおこなわれていたことが知られる。また、中尊寺の延徳六年(1494)や岩手県一戸町鳥海西芳寺の大永七年(1527)の納札、秩父法雲寺の天文四年(1535)の納札、笠森寺の天正十年(1582)の納札などからもうかがえる。それに秩父三十四ヵ所が成立して百観音巡拝がおこなわれるようになったのも、ちょうどこのころであり、法雲寺には天文五年(1536)の百観音巡礼の納札が現存している。その後笠森寺の天文から寛永にいたる多くの納札や白岩観音長谷寺の寛永六年(1629)から承応三年にかけての納札などにみられるように観音巡礼の風潮が庶民の間にますます盛んとなり、巡礼も各地から訪れている。納札は、伝説によれば、永延二年(988)花山法皇が西国霊場の粉河寺に巡拝されたとき、歌一首を札に記したのがはじまりで、やがて木札になって首にかけられるようになり、霊場に札を打ちつけて巡拝したので、霊場のことを「札所」とよび、巡拝することを「打つ」というようになった。納札は古いものほど細長く、時代が下がるにしたがって幅が広がってくる。納札を打ちつけて歩くことを落書心理に通ずるともいわれるが、二十番西明寺の近くにある地蔵院や、白岩長谷寺には当時の巡礼の落書がいまなお残っており、そうした納札の意味とともに、そのころの巡礼の盛況がうかがえる。坂東の霊場は、鎌倉を出発点に、相模、武蔵、上野、下野、常陸、上総、下総、安房をめぐるおよそ千三百六十キロあまりの道程で、巡礼盛んであった江戸時代には、かならずしも順番通りめぐることはせず、道路の関係で便宜的な行程がくまれ、逆打ちなどしてその日数も延べ四十日から五十日を費やし、費用も平均して二両三分ほどであったともいわれている。このころの巡礼は信仰から逸脱して遊楽気分で巡拝する者もあり、霊場の門前には、これら巡礼相手の店が並び、門前街がかたちづけられた。大衆化するにしたがって当初の巡礼のように苦行や、それに対する社会的な援助や接待はみられなくなってしまった。一方、巡礼が盛んになると、当然それを対象とした案内書がみられるが、清水谷孝尚師によれば、明和二年(1765)の沙門亮盛の「坂東霊場記」享保六年(1721)の朝輝房渇子著の「坂東巡礼行程記」文化年間の永寿堂版「坂東巡礼御案内図」のみといわれ、これに十返舎一九の「金草鞋」などを加えても意外と少ない。それだけに元禄十四年(1701)杉本寺蔵板の簡易な「坂東三十三所道記」や、秩父音楽寺蔵板の「坂東道中付」のようなものが、手ごろな道標として活用された。そのころ、巡礼は各札所へ経本を収めるか、自身で心経や観音経を写経して納め、その受納のしるしに閻魔の宝印を象徴する印(納経朱印)を押してもらうので習慣であった。また、西国、秩父を加えて百観音霊場をめぐりおえると、霊場が菩薩寺などへ満願の額を奉納し、巡礼塔を建立した。いまなお、坂東の霊場の本堂外陣には多くの満願額や境内に満願記念の石塔をみかける。ところで、観世音は世の音を観て、それ相応の救いをされるが、そのためには十一の面や、千の手、千の眼が必要なのであろう。坂東の霊場には十一面観世音が十四躰、千手観世音が十二躰と多く、それに次いで聖観世音六躰、そして延命観世音一躰が奉安されている。静かな霊地で、これら観世音に無心に合掌するとき、そこには不安も、怒りも、憎しみも、欲望もないまったく別世界がひらかれる。巡礼によって得られるものは、はかりしれないほど大きい。今日でも関東地方に散在する総旅程千三百キロあまりの観音霊場を巡拝することは、物心両面にわたって、いろいろな困難がともなう。しかし、どれだけの時間がかかろうとも、霊場巡拝することによってそれぞれの観世音を結縁し、日常の生活に安らかな心と、明日への希望と感謝の念がもたらされるとしたら、それは得がたいものといえよう。
満願寺教化部発行「坂東観音巡礼」より

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