塩飽勤番所(丸亀市)――水軍をしのばせる、瀬戸大橋の眺望も見もの(名所新景)
掲載日:1987/02/12 媒体:日本経済新聞 夕刊 ページ: 8 文字数:811 [他の書誌情報]

 丸亀市沖の瀬戸内海に浮かぶ本島は、源平の合戦や豊臣秀吉の朝鮮出兵に際し、抜群の航海術で名をあげた塩飽(しわく)水軍のかつての本拠地だ。勤番所は本島を含む塩飽諸島全体の政庁で江戸時代につくられた。国の重要文化財に指定されており、古文書や民俗資料を展示している。
 見ものは、信長、秀吉、家康、秀忠らが水軍に与えた朱印状。軍事、経済(海運)両面であなどりがたい力を持っていた塩飽の人々を、人名(にんみょう)と呼ばれる地位と自治権を与えることで、味方に引き入れた様子がうかがえる。
 五十一年に改築を終えた勤番所は四十二メートルの土塀に囲まれ、番人部屋、年寄の間、朱印蔵などが往時をしのばせる。中に入ると地元保存会のメンバーが丁寧に説明してくれる。
 朱印状のほかにも興味深い資料は多い。例えば高松領と漁場権を争った決裁書には大岡越前守の名がみえる。江戸時代末期に米国から持ち帰ったガラス製品や写真は、一八六〇(万延元)年に太平洋を渡った咸臨丸の水夫の持ち物だ。五十人いた水夫のうち三十五人は塩飽の人々。水軍の伝統は立派に生きていたわけだ。
 勤番所を見た後、裏にある遠見山展望台まで二十分ほど歩けば本州と四国を陸続きにする瀬戸大橋の全容を見ることができる。六十三年春に完成予定の全長十キロを超える長大橋は、瀬戸内海航路にも大きな影響を与える。輝かしい水軍の歴史と、厳しい海運の将来とに思いをはせてみるのも一興だ。
 本島へは、丸亀港から関西急行フェリーで三十五分、または下津井港(倉敷市)から同フェリーで二十五分。港から勤番所までは徒歩十分程度。
 開館は原則として土曜、日曜の午前九時から午後四時(正午から午後一時まで休憩時間)。予約すれば平日でも開けて案内してくれる。料金は大人二百円、小人百円。
 〈照会先〉丸亀市役所本島支所=TEL0877・27・3222、または同勤番所=TEL0877・27・3540。 (高松支局・仲沢記者)



豊臣由来の“領地”を買う――香川県瀬戸大橋対策室次長草薙繁氏(文化)
掲載日:1985/11/05 媒体:日本経済新聞 朝刊 ページ: 32 文字数:2846 [他の書誌情報]

 秀吉に味方した与島船方
 絵のように美しい瀬戸内海の小島を縫って瀬戸大橋の建設工事が着々と進んでいる。岡山県早島町の国道二号線と香川県坂出市の国道一一号線を結ぶ三十七・五キロの区間で、鉄道と車の併用橋である。ひと口に瀬戸大橋といっても、島々を結ぶ六つの橋と島内を横切る五つの高架橋からなっており、四国と本州を結ぶ三つのルートのうち一番早く六十三年に完成の予定だ。
 香川県庁に勤務する私は五十三年の春から坂出市にある瀬戸大橋対策事務所に着任、建設予定地の用地買収を手がけてきた。ルート沿いの島のひとつに与島がある。ここは坂出市の沖合約三キロに浮かぶ総面積約一・一平方キロの小さな島で、約四百人の人が住んでいる。島の人たちは採石業や小型船舶による海運業を営んだり、坂出市に勤めたりして生活している。
 着任後、この島に人名(にんみょう)と呼ばれる豊臣時代からの共有地があり、その一部が買収対象になっていることを知った。共有地と聞いた途端、私は思わず身震いした。というのも、用地買収に携わったこれまでの経験から、共有地は権利関係が複雑で、交渉が長引くことがよくあるからだ。それにまあ、近代的な架橋のルート内に、よりによって昔から伝わる古い土地があるとは――。一体現在の所有者はどうなっているのか。
 私は郷土史を取り寄せて、職員たちと一緒に、まず制度の勉強から始めた。その結果、こんな歴史がわかってきた。瀬戸内海のこの付近はかつて塩飽(しあく)水軍の活躍したところで、織田信長、豊臣秀吉の四国攻め、中国攻めに協力して功績があったという。その功をたたえて、秀吉が天正十八年(一五九〇年)に、与島のほか近くの島に住む船方六百五十人に領地千二百五十石を与え、航海権や漁業権も認めた。
 大名でもない個人に領地を与えたところから「人名」という名前が生まれたのだろう。塩飽水軍はその後も秀吉の朝鮮出兵にも出動し、徳川家康もこれを認める朱印状を交付した。明治時代になって土地制度の改革があり、人名の土地は共有化され、登記も行われた。
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 持ち分権者確定ひと仕事
 明治以降もこの共有持ち分の譲渡が盛んに行われた。そのため私たちが瀬戸大橋の用地交渉を始めた時は、持ち分権者をまず確定することがひと仕事だった。与島の買収予定面積二十二万一千平方メートルのうち、人名の分は約七千三百平方メートルだった。与島人名組合が保存する「組合持分登記書綴」や法務局の登記簿、市役所の記録などを頼りに、ようやく共有持ち分権者は九十九人であることがわかった。このうち登記簿に記載されている人で、生きている人は五十六人、残りは死亡して相続人は百四十一人いた。結局この両方を合わせた百九十七人を相手に買収交渉を始めたのだったが、ここまでこぎつけるのにたっぷり二年かかっている。
 これらの持ち分権者は、どこに住んでいたか。地元与島には五十四人がいらして、香川県下では合わせて九十七人であった。ところがほかは、全国に散らばっていたのである。なんとそれらは、青森県から鹿児島県まで、全国十九都府県に及んだ。
 これだけではない。海外にもいたのであった。探したところ、ブラジルに三人、米国に一人だった。
 これらの人たち全員と契約を結ばねばならないわけで、大変な作業だったのはいうまでもない。
 最も多く所有していた人は全面積の一割近く、相続で細分化されてわずかだった人もいる。買収価格は不動産鑑定士の評価額を基準に交渉したが、「安い」という人も多く、話をまとめるのに苦労した。交渉に当たっては必ず二人以上で相手方に臨む。一人では、後で「話の内容が異なる」などトラブルを招きかねないからだ。
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 買収費より交通費かさむ
 一方、わずかの面積の持ち分権者といっても、誠心誠意、意を尽くさねばならない。遠方まで出かけることももちろんあるし、買収金額より職員の交通費、日当、宿泊代などがかさむことがあった。それも話し合いが一回でまとまらないと、職員の費用ばかりかさんでくる。
 米国やブラジルの居住者とは、遠隔地にもかかわらず容易にまとまった。与島ではある宗教団体の活動が盛んだが、海外居住者はいずれもその関係者だった。そこで宗教団体にお願いしたところ、快く引き受けてもらい、書類のやりとりだけで売買契約が成立した。日本人の海外での活躍は目ざましいが、それにしてもこの小さな島出身の人が元気にやっていると思うと、心強い限りだ。
 香川県外に出ている人のなかには、与島に自分の土地のあるのを知らない人もいた。「そういえば、おじいさんの里が確か香川と聞いていた」という答えで、本人はすっかり居住先の県人と思い込んでいたのだ。そんな人は用地買収の補償金がころがり込んで大喜び。「臨時のボーナスが出た」と目を細くしていた。行方不明者も二人いたが、最近相次いで居所がわかって契約もまとまり、ほっとした。これもこまめに聞き込みをやってくれた職員のたまものだと思う。
 長崎市に居住していることが判明した人の場合、きっかけはこうだ。与島の土地のことで訴訟している人の氏名が、行方不明の人に似ているのを県の職員が聞き込んできた。しかし登記簿と戸籍謄本の姓は同じだが、名前が一字違う。思い切って手紙で問い合わせたところ、果たして本人だった。戸籍届の時に、名前を誤記したのが原因らしい。
 田畑の売買には農地法によって知事の許可が必要だが、面倒な手続きを避けるために、名義をそのままにして、実際に買った人が耕作していることがある。ところが長い間に当事者が死亡してこのことがあいまいになり、名義人と耕作者の間で争いが起こり、裁判に持ち込まれたという例もある。この間、もちろん用地買収の話どころではない。
 このような苦労を重ねながらこれまでに二人を残して人名の予定地内の買収はほぼ終わった。この二人も年内には解決するよう努力を重ねている。思えば交渉を始めてからすでに七年が経過、われながらよくもここまできたと思っている。
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 バス停設置、生活便利に
 人名の買収地域内には三十六戸の人家があった。そのほとんどが土地を借りて家を建てていたが、香川県土地開発公社が近くにある塩田跡地を取得して住宅用地を造成した。十七戸が移転したが、残りは坂出市など島外へ去っていった。
 人名は島の中央よりやや北側にある。近くで橋脚の建設工事が進められ、のどかな田園風景も大きく変化しようとしている。最初この島は橋脚の島として車が橋の上を通過するだけになっていたが、島民の要望もあり、バス停を島内に設けることにした。これで島の生活が便利になることはなによりだ。
 大橋が完成すれば本州と四国はぐっと近くなり、四国の経済や文化も大きく変化することが予想される。ルートの大半の用地買収は終わっているが、一日も早く「夢の懸け橋」の完成を望んでいる。(くさなぎ・しげる=香川県瀬戸大橋対策室次長)