御撰象棊攷格

御撰象棊攷格   徳川家治


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徳川家治


徳川十代将軍。家重の子、吉宗の孫である。元文元年(1736)に生まれ、宝暦10年(1760)24歳で将軍となり、天明6年9月8日(1786)50歳で没した。
彼は将軍時代、田沼意次を取り立てたので、彼の時代は「田沼時代」と言ってもよい。田沼は政治に辣腕をふるい、家治には政治の内容を耳に入れぬようにしたので、家治は淋しさのまま絵画と将棋に熱中したと言われる。
彼は「御七段目」と称され、九代宗桂、二代看寿、五代宗印、六代宗看などを対手にし、また近習たちと対局した。これらの棋譜は約百局現存する。また彼は御城将棋で、家元だけの対局に満足せず、「御好み」と称して家元と近習を公式の席で対局させたので、数多くの「御好み」棋譜が残っている。
彼の詰将棋百番『御撰象棊攷格』は天明5年に完成したもので、『徳川実紀』の「浚明院殿御実紀付録三」に次の記述がある。
「御晩年にいたりて閑暇の御遊戯には常に象棋をなされけり。その業の者にては伊藤宗印、宗鑑〔看〕、 大橋印寿をめして対手とせらる。御穎敏にましましけるゆゑほどなく奥儀をきはめ尽くし玉ふ。後には詰物といふ書をさへあらはし玉へり。詰物といへるは老成堪能にいたらざれは著しがたきを、わづか一、 二年の間にゑらみ玉ひしかばその職の者どもおそれ奉れりとぞ。その著なりて名をは成島忠八郎和鼎に命ぜられしかば、象棋攷格として奉り、今も御文庫に現存せり。」
御撰象棊攷格』は今も国立公文書館に現存する。刊本ではなく精写本である。内容は将棋家元の献上図式のように重厚なものではなく、淡白で大らかな公家風の作品である。不完全作が多く、家元の検討を経ていないのではないかと思われる。
国立公文書館には『御撰象棊攷格』原本と共に『無双』『図巧』『大綱』『駒競』などの献上本原書が現存する。家治公が大切に愛蔵していたものらしく、貴重な文化財である。

「御撰象棊攷格」作品論


  門 脇 芳 雄

「攷格」成立の年代

十代将軍徳川家治公は歴代将軍のなかで「将棋狂」という名を呈してもよいくらいの将棋熱心家であったらしい。そして晩年(天明年間)にこの「象棊攷格」を著したという。この天明年間が将棋史上どのような時期にあたっているかを考えてみよう。
天明元年(1781年)は家治公44歳にあたる。宝暦11年(1762年)に空前の大名人といわれた三代伊藤宗看が没し、棋界は人材がないまま27年間の名人空位時代に入るのであるが、天明年間はこの名人空位期の後期にあたる。当時在世の有力な棋士としては名人就位前の九代大橋宗桂、大橋宗英等が挙げられるが、比較的人材の乏しかった時代である。「徳川実記」によると、家治公は伊藤宗印、伊藤宗看、大橋印寿を将棋の対手とされたという。ここにいう宗印は「将棋精妙」の宗印ではなく五代宗印のこと。宗看は「将棋無双」の鬼宗看ではなく後に十世名人となった六代宗看のこと。大橋印寿は後に八世名人になった九代宗桂のことである。いずれも家治公存命中は名人になっていない。名人位空白については「家治公にご遠慮申し上げた」という説もあるが、やはり当時の棋界を代表するような自他ともに認める人材がいなかったことが真相であろう。ともかく空前の大名人伊藤宗看が去って棋界は空白時代にあった時期である。

詰棋史よりみた「攷格」

天明年間は詰棋史上からみると興味深い時期である。それは詰棋史上空前絶後をなした三代目伊藤宗看の「将棋無双」(1734年)及び伊藤看寿の「将棋図巧」(1755年)の両傑作が現れてからしばらくこれに比肩する大作が現れず、次に九代宗桂の「将棋舞玉」(1789年)が現れるまでの間の空白期にあたる。もっとも天明年間には八代宗桂の「将棋大綱」が出版されており、「将棋舞玉」や「将棋奇正図」(寛政年間刊=「将棋玉図」の原書)等の作品はこの頃準備されていたのであろう。この時代は詰棋史上ひとつの興味深い時期と考えられる。それは宗看・看寿という天才の出現で頂点に達した詰将棋黄金時代が衰退に向かう最後の余光の時期にあたるからである。この時代は未だ宗看・看寿の栄光が残っていて詰将棋が非常にもてはやされ、しかもこのあまりに偉大な業績の重圧にあえいでいた時代とみなされる。

家治公の立場

詰将棋作家としての家治公は非常に気楽な立場であったと想像される。それは家元名人と異なり、何といっても家治公はアマチュアであり、先覚を凌駕するといった義務感もなければ、おおそれた自負心を持つ必要もなかった。たんに好棋家将軍であればよかったのである。これに対し家元名人には宗看・看寿の重圧は相当なものであったと想像される。彼等はプロであり、家元の名誉にかけても先覚をしのぐ作品を作る必要があったのである。これにより後、名人大橋宗英により名人の詰棋献上の制が廃止されるのであるが、それは宗看・看寿の業績を追い越すことが不可能と覚ったからであり、しかも家元の地位を保つための苦肉の策であった。
八代宗桂や九代宗桂の作品には及ばぬまでも力一杯に苦闘した彼等の苦悩がうかがえるような気がする。九代宗桂の作品には特に趣向性や洗練性に工夫がみられ、近代性がある。
そこへいくと家治公は呑気なものである。同時代の九代宗桂の作品が推敲洗練された近代的なものであるに対し家治公の作品は創成紀風ともいえるような天衣無縫、非常に楽天的なものである。これは、これからの作品解説をみながら鑑賞していただければすぐ感じられると思う。

家治公の作風

家治公の立場から判るとおり、攷格の作品は大作が多いが、すべておおらかであり楽天的である。これほど作品が人柄を表すとは信じられぬほどである。
作品は大作を含めてほとんど淡彩画風のものであり、念入りに推敲した作品は多くはない。そのひとつの現れは収束であり、現代作品のように綺麗に収束しないものが多い。また、不完全作が多いのも推敲が少ないことの現れとみられる。
それにもかかわらず「将棋攷格」には見るべき点がある。それは「感覚」ともいうべきもので、「趣向」に対する感受性であり、また着想の豊かさである。歴代名人の作品と比べて「攷格」は曲詰や趣向作が多い点で着目に値する。私は以前に家治公を小「久留島喜内」と評したことがあるが、この感じは今でも変わっていない。

他の作品の影響

「攷格」の作品のなかには容易に想像されるように、歴代名人の影響のみられる作品が何題かある。ところが、意外?にその数は多くないのである。最も多いのが九代宗桂の作品の影響を指摘できる作品が四、五題ある。他に三代宗看の影響のみられる作品も二、三題数えられる。類似作といえるのはわずかこれだけであり、これは同時代の九代宗桂や桑原君仲の例に比べると遥かに少ないものである。
もともと、家治公は他人の作品など真似したり盗作したりする必要のない身分であるから、これは当然の結果かも知れない。そして類似作についても潜在意識による無意識の類似という線が充分考えられるのである。
九代宗桂と家治公は将棋の師弟の間柄であり、お互いの素材を検討推敲する途中で潜在意識に紛れ込んだということも、おおいにありうることである。後世焼き直しや盗作の原典に必ず引っ張り出される「将棋図巧」との類似がほとんど見られないことからも、この感を深くする。ただ、間接的な影響であるが、趣向的、遊戯的感覚はおそらく九代宗桂の影響であろう。九代宗桂の影響で家治公が「趣向」に対して開眼したと推定しても、大きな誤りではないと思う。

不完全作品

「攷格」のなかの不完全作品は比較的多い。ざっと調べてみたところ、全部で20題ぐらい不完全作があるらしい。これらは比較的容易に発見できるもので、このように不完全作が多い理由として次の二つの場合が考えられる。
(1)将軍家の権威のために、作品は将棋家元にも公開されなかった。したがって「攷格」の作品は全然家元の検討を経ていない。
(2)全作品は家元に見せられたが、家元は将軍家の体面を考えて不完全作があっても進言することをはばかった。いずれにせよ当時の封建制のなかで、このような特殊な事情は今日では想像することさえ困難である。
将軍家の大奥に隠れ咲いたこの作品集に現代のスポットライトをあてることは、あまりに残酷なようにも思われ、一時は躊躇もしたのであるが、詰将棋はある意味で非情の芸術でもある。そこで本書でも従来どおり研究的な態度で、キズのある作品は一応その点を明らかにすることにした。

「攷格」の意義

「象棊攷格」は徳川将軍の手になったとういことで極めて特異な存在である。将軍家といえばほとんど天上人であり、その人の手になった作品といえば、誰しもそれはどんなものかと一度は興味を抱くに違いない。驚くべきことに、その内容はかなりの水準のものである。これが本当に将軍家によって作られたのか信じられぬほどのものである。将軍家といえば大奥に育てられ、極めて凡庸な人物がほとんどであったと想像される。徳川家治公といえば例の悪名高き田沼時代であり、将軍を不在にして権勢を振るった時代である。このような時代にはおそらく将軍家は雲上にたなざらしにされて政務をみることもなく、無為の日を送っていたに違いない。家治公は決して無能の人ではなかったといわれるから、このような無為の生活に満足するわけがなく、鬱積したエネルギーがこの「象棊攷格」を生んだといえるであろう。誠に奇異な作品集といえる。
また、別の見方をするならば、「将棋無双」を生み「将棋図巧」を生んで詰将棋黄金時代を築き上げた天才達のエネルギーが雲上までも波及して、遂にこのような特異な書を生むに至ったということもできる。言い換えるならば、本書「攷格」も、あるいは同時代の桑原君仲の「玉図」や「極妙」なども、すべて宗看看寿兄弟による詰将棋黄金時代の熱狂したエネルギーの余波と考えることができるのではなかろうか。それだけに「攷格」は桑原君仲などまで含めた詰将棋黄金時代を構成する一大業績ということができるであろう。
「攷格」は極めて特殊な存在であり、孤立した存在である。本書は特殊な成因からして、従来まったく一般に知られていなかったものであり、したがって「無双」や「図巧」「玉図」などと違い、まったく後生の詰将棋に影響を与えていない独立した存在である。しかもそれが宗看・看寿の黄金時代に作られたという点に言い知れぬ興味が湧いてくるのである。
 

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