将棋大綱   八代大橋宗桂

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「将棋大綱」

詰将棋百番「将棋大綱」は、享保−宝暦−明和年間にかけて活躍した八代大橋宗桂八段の献上詰将棋である。
享保・宝暦時代と言えば、有名な看寿、宗看の時代である。八代宗桂は彼等の実の兄弟で、八段の実力を有しながら、彼等の華麗な業績の影にかくれた地味な存在であった。しかし、大正年間高浜禎(五段)が作成した詰将棋作家番付によれば、八代宗桂は三代宗看(東横綱)、看寿(西横綱)、九代宗桂(東大関)に次いで西の大関に格付けされている。この番付には久留島喜内は出ていないし、「西の大関」は人によって異論があるかもしれないが、およそ八代宗桂の歴史的位置づけが判然するであろう。彼も看寿・宗看の兄弟、只物ではない。

八代大橋宗桂

八代宗桂(幼名は政應)は正徳四年(1715年)二代伊藤宗印(五世名人)の三男に生まれ、安永三年(1774年)60才で没した。前名は宗寿。
宗印の息子は有名な天才揃いで、長男印達は15歳五段で早世、次男印寿は「詰むや詰まざるや」の三代宗看(七世名人)、三男宗寿が本書の八代宗桂八段、四男は七段の宥恕、五男が「将棋図巧」の看寿(贈名人)である。八代宗桂は看寿・宗看という古今で最もすばらしい詰将棋の天才を兄弟に持った人物だったのである。
彼は11歳の若さで大橋本家の養子になり、大橋宗寿を名乗り、御城将棋に出場した。大橋家で彼の義父に当る七代宗桂はよく判らぬ人物である。この人は六代宗銀が20歳の若さで没したため、にわかに養子入籍した人で、経歴も判らず、棋力は七段となっているが、 御城将棋もほとんど負けてばかりであった。享保九年、37歳の若さで引退し11歳の宗寿(八代宗桂) に家督を譲ったのは、成績不振を理由に周囲から詰腹を切らされたのであろうか。
ともあれ、11歳の若さで名門大橋本家を継いだ八代宗桂は、さすがに一時代を画する人であった。御城将棋に11歳出場は、当時としても早い方で、人材不足だったとは云え、八代宗桂が並々ならぬ天才だったことが判る。
彼は享保九年から安永二年まで合計41局の御城将棋を勤めた。但し成績は16勝23敗2持(対上手9勝8敗1持)で余り香ばしいものではない。ちなみに同時代の棋士の成績を紹介すると、三代宗看26局19勝6敗1持(対上手11戦全勝)、看寿23局14勝9敗(対上手13勝6敗)、四代宗与28局9勝19敗(対上手5勝5敗)、七代宗桂1勝4敗などである。
彼の主な対戦相手は看寿、宗看、四代宗与、五代宗順などで、好敵手は弟の看寿であった。成績は5勝9敗で、八代宗桂の負け越しであるが、終始彼が上手(最後は平手)を維持した。惜しむべきは、八段昇格をかけた宝暦三年と四年の平手戦で看寿に連敗を喫し八段昇段の先を越されたことである。
看寿はこれにより宝暦四年八段に昇り詰将棋百番「象棋図式」(将棋図巧)を献上し、看寿−宗桂戦はこれで終焉した。弟の看寿に八段昇格を先んじられたことは、八代宗桂一代の痛恨事だったに違いない。
宝暦十年看寿没、宝暦十一年三代宗看没と、大物があい次いで没し、八代宗桂の出番が来たかに見えたが、棋界にはまだ四代宗与(八段)のうるさい眼が光っていた。宗与には宝暦六年に香落番で不覚をとったのが痛く、以後両者は戦うこともなく、さりとて八代宗桂は八段昇段を計りきれなかったものらしい。結局、彼の八段昇格は宗与の与の死まで更に3年待たねばならなかった。 明和元年、宗与が没し、同年、八代宗桂は八段に昇進した。山本享介氏は「将棋文化史」の中で、これを「御手盛り昇段」と書いている。ともかく彼は天下晴れて八段に昇段し、「象戯図式」(将棋大綱)を幕府に献上した。
彼の願望はもちろん「八世名人」だったであろうが、遂に彼の名人襲位は実現しなかった。それは、晩年の彼は御城将棋で負けてばかりいたことと、八段昇進から死ぬまで9年しかなかったためと思われる。彼は八段のまま安永三年に没した。60歳。
彼は話題に乏しい地味な人物で、看寿や宗看のような「伝説」もなく、話題の名局もない。指将棋も詰将棋も看寿・宗看の天才のかげにかくれたワキ役的存在だったが、晩年「将棋大綱」を遺し得たのは幸せであった。
彼の墓は上行寺(都内から現在は伊勢原市に移った)にある。駒型の碑で戒名は角静院宗桂日普居士である。

実戦集1実戦集2実戦集3

「将棋大綱」の歴史的位置づけ

「将棋大綱」は看寿・宗看の兄弟の作品であること、しかも「無双」と「図巧」に続いて世に現われた献上図式であることなどから、興味津々たる作品集である。
一口で言って「将棋大綱」は、さすがに高段棋士の作品で、「無双」「図巧」の後からできた作品だけあって、なかなかのものである。特に変化の複雑さは「図巧」級で、一局一局に手応えがある。また、直接「図巧」や「無双」との関連を云々される作品がない(唯一の例外は第百番)のも見上げたものである。献上図式の中では、さすがに第四位にランクされる作品集である。
 しかし、彼の作品にはズバ抜けたものがなく、新機軸を出した作品も多くない。残念ながら八代宗桂の才能は看寿・宗看に比べてかなり見劣りするようで、初代宗桂以来、進歩を続けていた献上図式は、ここに来て一歩後退した感は否めない。
 彼の作品には看寿・宗看のような独創は少なく、知性のみが感じられる。看寿・宗看のようにあふれる様なインスピレーションには欠けているが、享保以前の作品のような古さは感じられない。「無双」や「図巧」の良さも充分わきまえた作者である。
 ともかく「大綱」は享保・宝暦時代の雰囲気を持ち、時の高段者が心血を注いだ作品で、古図式の中でも貴重な地位を占める作品集といえよう。




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