駒競

将棋駒競   初代 伊藤宗看

1番―第10番 第11番―第20番 第21番―第30番 第31番―第40番 第41番―第50番
第51番―第60番 第61番―第70番 第71番―第80番 第81番―第90番 第91番―第100番

初代 伊藤宗看

三世名人。二代宗古の娘婿で、元和四年(1618年)出雲に生まれ、元禄七年(1694年)十一月六日77歳で没した。
 大橋家の高弟としてとり立てられ、寛永十二年(1635年)、宗古の配慮により、18歳で新家元伊藤家を興した。 この頃、宗古―宗看の新家元体制を喜ばぬ在野派(主として本因坊系の棋士)は、次々に宗古に挑戦状を送り、争将棋を申し入れた。
若い宗看は家元を代表して彼等の矢面に立ち、松本紹尊(寛永十四年。1637年)、萩野真甫(寛永十八年。1641年)、檜垣是安(慶安五年。1652年)等にいずれも勝ちを制し、家元の権威を不動にした。 特に檜垣是安との血戦は「是安吐血の局」として有名である。これらの争将棋 に勝ち抜いた彼は実力第一人者と認められ、承応三年(1654年)、宗古の死により三世名人を襲位した。
宗看37歳のときで、史上初の実力名人である。彼の詰将棋百番 『象戯図式』(俗称『将棋駒競』)は慶安二年(1649年)に献上され、夕顔巷叟の序文と宗看の跋が付いている。 慶安二年(1649年)は名人襲位の5年前にあたり、これより後はこの例に習い、八段に昇格して次期名人に格付けされた者が名人襲位より前に図式を献上するのがしきたりになった。
  彼は名人位を譲られた師家の恩を忘れず、万治三年(1660年)に三代宗桂が没し、さらにその2年後の寛文二年(1662年)に四代宗伝が25歳の若さで没して 大橋本家が断絶の危機に瀕するや、自家の断絶を覚悟して一子宗銀を養子におくり、師家を再興させた。このため 伊藤家は彼一代で廃絶しそうになるが、寺社奉行井上河内守の計らいで高弟の鶴田幻庵(後の二代宗印・五世名人)を養子に迎え、伊藤家も事なきを得る。初 代宗看のこの挙は美談として棋史に永く伝わっている。
彼の『象戯図式』には万治元年(1658年)版、元禄七年(1694年)版の他、寛政九年(1797年)版『将棋駒くらべ』、文化五年(1808年)版『将棋智恵競』、文政元年(1818年)版『将棋駒競』(文政九年(1826年)版、天保十二年(1841年)版、嘉永二年(1849年)版もある)などの版がある。
 また初代宗看には、他に元禄九年(1696年)刊『中象戯作物』の著作がある。

実戦集

Since:20th.December.1999
All right reserved copyright (C) k-oohasi 1999-2012

詰将棋博物館