将棋妙案

将棋妙案   久留島喜内

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久留島喜内

本名久留島善太(よしひろ)。和算の大家で、日本三大和算家(関孝和、建部賢弘と共に)の一人。生年は不詳。没年は宝暦七年(1757)である。
独学で算法を極め、中根元圭、松永良弼等、関流の和算大家と交わりながら、江戸で算法指南をしていた。彼は算法の本源を論じたので、銀座役人など門人が多く、非常に盛んであった。享保十五年(1730)からは内藤備後守政樹に算法指南として十人扶持で召抱えられて平(たいら)に住み、 延享四年(1747)からは、内藤家転封で延岡に移り、宝暦四年(1754)致仕して江戸に帰り、沾数(せんすう)と号し、浪人として過ごしながら門人を育てた。
彼の和算の業績は、生前彼自身がまとめたものは少なく、多くは友人や弟子たちが筆記・編集したもので、「久氏弧背術」「久氏三百解」「久氏遺稿」等きわめて多く、独創的な内容をもつといわれる。
彼は風変わりな人物で、いろいろな逸話が伝わっているが、天才で無欲恬淡とした酒仙であった。その一、二を挙げると、内藤候の御前で酒が出ないと居眠りばかりするので、彼だけは別格で酒が出たとか、日頃全然貯えをせず、 冬着があれば夏着は要らずという調子で売り払って酒を呑んでいたとか言う。門人の謝礼は幾らと決めるでもなく、門の所に大きな箱を置き、銭、米、衣類等入れるにまかせていたが、金は全部酒を買い、余分な米や着物も売って 酒に換えてしまうので、門人たちは毎日程よく金や米を入れておいたと言う。
久留島は将棋四段で、詰将棋を作るのが速く、数百題の作品を作ったと伝えられるが、大部分は失われ、今日残っているのは、「将棋妙案」百題と、「橘仙貼璧」百二十題のみである。 両書の約七十題は重複しているので、正味約百五十題が伝わっているのである。

「将棋妙案」は最初書名がなく「久留島喜内詰手百番」と呼ばれたが、幕末に榊原橘仙斎が「将棋妙案」と命名した。橘仙斎の「将棋営中日記」の一節に「素人にて百番作物を作り候者は余り無之由、至って六ヶ敷ものの由。 作物の最上は伊藤看寿なり。実に百番共凡人の及ばざる手段にて実に奇妙なりと云へり。素人にては享保の頃久留島喜内、近頃にては桑原君仲の両人が作物の名人の由。」という有名な箇所があり、「妙案」は享保年間(1716―1735)の作品集と思われていた。 ところが和算研究家と筆者(門脇芳雄氏)の研究で、「妙案」第七番が元文四年(1739)を表す「大小詰」であることが判り、享保説は根本から覆ってしまった。 「妙案」を研究すると、重複局や凡局が目立ち、作者自身の選題と思えぬところから、「妙案」は作者の没後、他人によって編纂されたものと推定される。なお、現在まで「妙案」の江戸時代刊本は発見されていないことから、「妙案」には原書がなく、筆写で伝わったものと推定される。 「橘仙貼璧」も刊本がなく、原本は写本で無名、命題者は榊原橘仙斎と推定されている。

門脇芳雄




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