象戯手段草

象戯手段草 伊野辺看斎

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象戯手段草の研究

伊野辺看斎

出雲の出身。名を九右衛門といい、伊藤宗印名人の頃の民間棋士で、森田宗立や添田宗太夫、名村立摩などと肩を並べる、家元に次ぐ強豪(五、六段)の一人であった。棋譜もたくさん遣っている。「看斎の三面指し」といって、水戸公の前で彼が眼かくしをして三人の相手と同時に対局したことが伝わっている。生年、没年は共に不詳。
 彼が『象戯手段草』の作者というのが有力説であるが、他に『手段草』の作者には、幕府の旗本土屋土佐守好直説と、その養父で老中であった土屋相模守政直説もある。原書には作者名がなく、序文を伊野辺が書いている。文中に「土屋土州源好直公資稟聡敏にして武を経にして文を緯にして、官務之暇斯芸に遊ぶ。且思をふかくし精を研ひて多く年所を歴矣。 方今、百件の図を撰みて以て敵に勝つの勢を著はす。」とあり、この箇所が古来議論の焦点となっている。
形の上では著者は土屋好直であるが、伊野辺は土屋公の御抱え棋士で、当時の出版事情から出版のできぬ伊野辺のために、土屋公が著者の形をとって出版のスポンサーになり、伊野辺の名を残すために彼に序文を書かせた(同様の例は碁書『棋醇』に見られる。この場合、真の著者加藤隆和は校訂者の形をとり、彼の同情者本因坊秀和が著者の形をとった)という説(二階堂清一郎説)が有力である。なお、土屋政直説は、政直が有名人なので、好直がいつの間にか政直にすり替わったものと思われる。 ただし政直も将棋好きだったらしく、土屋政直家中の人名が当時の将棋番付に数人載っているそうである。
 土屋好直は土屋主税達直の三男で、常陸土浦藩九万五千石の藩主土屋政直の養子となったが、相続はせず、三千俵を与えられ、享保年間、中奥の小姓をつとめた。安永五年(1776)77歳で没す。
 『象戯手段草』の序文の日付は享保九年であるが、現存する刊本は享保十三年刊である。出版までに4年かかったのか、享保十三年本は再刊本なのか不明。
本書はなぜか、出版後間もなく禁書(出版禁止)になった。また、初版出版後130年を経て、本書は福泉藤吉撰、「大橋宗a」校正『将棋新選図式』(文久元年刊)として偽刻された。当時、福泉もすでに故人だったので、全くの海賊出版であるが、皮肉なことにこの本は一般に普及し、原書名より『将棋新選図式』の名の方が有名である。



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