◇ リレーエッセイ 第1回

   全詰連の創設者
   
鶴田諸兄主幹の思い出        門脇芳雄

在りし日の鶴田主幹
 鶴田諸兄氏は明治45年3月、現在の愛知県岡崎市に生まれ、昭和62年11月15日胆道癌で名古屋市で亡くなられた(76歳)
※写真は鶴田主幹  鶴田氏自宅にて
 撮影:岡本真一郎氏
 S60/5/26

 詰将棋ファンで「詰将棋パラダイス」を創刊し、全詰連を創設された鶴田編集主幹の名を知らない人はいないだろう。鶴田さんは戦前、内務省の御役人で、蒙古(現在のモンゴル)に赴任され、『将棋月報』の熱心な愛読者の一人だった。終戦後蒙古から引き揚げて来られ、名古屋の警察署に勤めながら『将棋月報』の様な雑誌を作ろうと、昭和25年に『詰将棋パラダイス』(旧パラ)を創刊された。旧パラは一時期かなり成功して、熱狂的な詰パラ信者が誕生し、全国で書店売りもしたが、鶴田氏の警察勤務が多忙で手が回らなくなり、経営者吉田重夫氏の病気も重なって三年程で潰れてしまった。
 この後、鶴田氏は昭和28年に警察を辞め、『詰将棋パラダイス』を復刊された。逆算すると氏が42歳の時で、以後人世の後半を氏は詰パラに捧げられ、34年間もパラの出版を続けられた。詰パラの魅力は詰将棋の面白さにもあるが、半分ぐらいは鶴田主幹の魅力にあったと思う。

 旧パラ創刊の頃高校生だった私にとって、詰パラは福音の書であり、鶴田主幹は「教祖様」だった。昭和32年頃、社用のついでに初めて名古屋に行き、編集部を訪問したが、「信者」が本山詣でをする様な心境であった。当時鶴田主幹は一戸建ての借家に一人で住んでおられ、編集部と言っても自宅であり、編集員は主幹一人だけなのだった。
 案内を乞うと「どおれ」と言う感じで、痩身で眼付きの鋭い人がヌッと現われ、それが鶴田主幹であった。「かかが八丁に働きに行っておるでの」と、市内の繁華街で飲み屋をやっている奥さんのことを主幹は照れ隠しのように言っておられた。
 主幹はどちらかと言えば無愛想で、笑う時は僅かに目元だけニコリとする人だった。大陸浪人か明治時代の壮士の様な感じを受けたが、こういう人が「男ぼれ」するタイプと判ったのはだいぶん後になってからである。後に七條さん(熱心な詰パラ後援者)の所に上京された時も、背筋をピンと伸ばして謹厳な態度で七條さんに応対されていたことが思い出される。何かのことで、当時暴れていた共産党の話が出たら、ギョロリと眼をむいたので、右翼的な思想の人だと言うことが判った。初印象は辛口の教祖様であった。

 氏の酒好きは有名で、お酒が入ると陶然とした顔に変わられた。詰パラに自伝風の記事を連載されていたが、紙面から酒の香りが漂ってくるような文章だった。また筆まめな方で気軽に葉書きをよこされた。詰パラに次々新企画を発案し、読者から「企画魔」と呼ばれたりしたが、それを実行に移すことが速かった。
 鶴田主幹は生涯「詰パラ発行」と「詰将棋連盟の結成」と「詰将棋規約の制定」を悲願とし、それぞれ達成された。やはり大きいところを見ておられた。

 全詰連発足の経緯であるが、私は読者の岩木錦太郎氏、橘二叟氏など戦前派の提言が大きかったと見ている。岩木氏は戦前の『将棋月報』で詰将棋作家協会の設立を主張し、昭和19年1月号に発表された「日本詰将棋作家協会設立要項」にも理事として名を連ねているいるし、橘二叟氏は昭和25年の「旧パラ」で詰将棋連盟の結成を提唱されている。
 鶴田さんはじっと機を見て居られたようだが、昭和37年新年号に「今年の目標」として詰将棋協会(仮称)の設立を掲げ、3月から4月に掛けて名古屋、大阪、東京で全詰連の本部、支部の設立大会を開き、同年10月に初めて名古屋で全国大会を開催された。まだ世の中が豊かでなかった当時、全国大会開催は夢のようなことだった。第2回の全国大会も名古屋で、昭和39年5月に開催された。設立総会では色々の宣言が行われたが、当時は現在と情況が違い、最も強調されたのは詰将棋規約委員会と著作権委員会で、3番目が段級位認定委員会であった。
 全国大会ではお互い顔を知らない会員が多いので、自己紹介の時間と懇親会が会の一番重要なイベントで、前夜祭(宴会)、大会(宴会)、翌日(遠来組の接待や小宴会)と、主幹は一人で切り盛りされていた。良く体が続いたものである。

 筆者(門脇)が全国大会に初参加した第2回大会(名古屋)の時の記憶であるが、主幹は議長であり、幹事役であった。途中で「一般の人はここで自由に詰将棋の話をしていて貰い、一部の委員の人には別室で詰パラの今後の発展策について協議致します」とのことで、委員に指名された私たちは別室に移ったのであるが、何の話もない。「何を協議するのですか」と聞いたら「いや、何も協議することはありません。この後は私が適当に報告しますから」と、とぼけ顔。そのまま何事もなく、会が再開されると「ただ今、別室で協議の結果これこれの発展策が提案されました」と主幹が「報告」された。大会は主幹の独演会で、「協議」とは主幹の休憩時間だったのである。全国大会と言っても半分は教祖様の拝顔に来るようなものだったから、それはそれで良いのだった。当時の大会の報告は、宴の雰囲気が漂ってくる様な内容である。

 昭和40年に東京の七条邸で行われた第3回全国大会は、恐らく鶴田主幹の一世一代の晴舞台だった。演出効果を考えてか、着物姿で90人の会員を前に壇上に立たれた主幹は、歌舞伎役者の様な晴れ姿だった。満場の会員を前に詰将棋の理想を熱っぽく語られる姿はまさしく「教祖様」で、聴衆の心に強い印象を残したものと思われる。

 鶴田主幹は将棋連盟に対して生涯野党色を貫かれた。歯に絹せず棋士の悪口を書き立てるので、棋士から嫌われた。棋士の悪口をやめる様にアドバイスする読者がいても、「良いものは良い、悪いものは悪いと書く。これが私の信念です」と節を曲げなかった。その将棋連盟は晩年の主幹に「棋界功労者感謝状」を贈った。棋士の悪口は言っても棋界に対する貢献は評価されたのであろう。主幹もこれを喜んで受けられたが、内心どのような気持ちが去来していたであろうか。

 私が最後にお目に掛かったのは、亡くなられる少し前だった。さすがに眼に光がなく、衰弱しておられ、私にだけビールをすすめて下さりながら、「門脇さん、私も今度はあかんわ」と力なく話されていたが、返す言葉もなく、暗澹と辞去したことであった。
 主幹が最後に最も苦悩されたのは詰パラの後継者のことだったが、熱心な後援者だった清水一男氏(故人)の発案で柳原裕司二代目編集長に白羽の矢を立てられ、無事バトンタッチを終えて永眠された。

**次は 近藤真一さんへ