その10 「塀の中」


コンクリートの塀に囲まれた“そこ”に足を踏み入れると、古き良き時代を思わせる空間が広がっています。
ほんの今までいた塀の外と同じ太陽を浴び、同じ風を受けているとは到底思えない空間がそこには広がっています。
しかし、そこはまぎれも無く、都心の一角にあります。
私に抱かれている子供の、腕をつかむ手に力が入ります。
彼女なりに、空気の違いを感じ取っているのでしょう。
そこは、金魚と鯉の養魚場です。
コンクリートで出来た、小さなプールのような水たまりがたくさんあり、さまざまな大きさ、姿をした魚が、それぞれに群れています。
それぞれに群れている水たまりの枠に、値段が書かれています。
人間によって、値段というかたちで“価値”を決められてしまっているということに、魚達は全く気付かないまま、それぞれに群れています。
たくさんの水たまりを上から眺めて、自分の惚れ込んだ魚を自分で掬い取ります。
なかなか上手いシステムです。
昔は全てそういうシステムだったのかもしれません。
今の熱帯魚店では、客が水槽から自分の気に入った魚を掬い取るというようなことは考えられません。
というよりも、客が指名しない限り、店員が独断で売る魚を勝手に選ぶというのが余りにも普通になっているので、こんな上手いシステムの存在にさえ気がつかないというのが本当の所でしょう。
お金を払う所には、当然ながらレジスターというような今風のものは無く、“そろばん”がひとつ、無造作に置かれているだけです。
そろばんの置き場所は、たぶん決められているのでしょうが、だいたいこの辺という決め方であってほしいなどと考えながら、たくさんの水たまりがある場所を後にしました。
建物の中に入ると、ショップと表現してはいけないかのような感じのするお店があります。
私はその場所を売店と呼ぶことにしました。
その売店には、魚の餌や、器具類、水槽などが並んでいます。
やはりそこも、古き良き時代を感じさせる空間でした。
遠い昔に見かけなくなってしまった“ステンレス枠”の水槽が、今風の値札を貼られて並んでいました。
その空間には不釣合いな、今風の値札が目につき、ついつい値段を確認してしまった自分に、少々嫌悪の感情をおぼえながら、ステンレス枠の水槽に貼られた黄ばんだシールを目にし、少々安心したというか、慰められたというか、気がね無くその空間を後にする事が出来ました。
コンクリートの塀に閉ざされた“そこ”から出ると、いつもと同じ太陽を浴び、同じ風を受けました。
言うまでも無く、私に抱かれている子供の、腕をつかむ手から力がふっと抜けました。
〜 おわり 〜