その26 「声の主」
焼けるような暑さの中、唯一日差しをさえぎってくれている木の下で、信号が青になるのを待っていると、まわりの音を全て打ち消し、まるでその木のまわりだけが真空状態になったのではないかと思えるほどの大音響が響き渡りました。
ジ〜ン ジン ジン ジン ジン ジン ジ〜〜
ふと見上げると、その木の太い幹にしがみついた一匹のセミを見つけました。
羽を透かして真っ黒な体が見えます。
音と同じリズムで体を動かしているところを見ると、あのセミがまぎれもなく声の主です。
たった1週間という短い命しかないという事を知ってか知らずか、子孫を残すという自分の役割を全うしようと、全身を使って精一杯大音響をしぼり出しています。
命というエネルギーを全て使い切ろうとしているようです。
自分の命は今日終わるかもしれないのに。
木の横を自転車が通りかかると、声の主は声を出すのをやめてしまいました。
そんな声の主の姿を見ると、大変申し訳ないような気持ちになってしまいました。
そろそろ信号が変わる頃だろうと思い、一瞬目を離したすきに、声の主の姿はどこかへ消えてしまっていました。
もう二度とあの声の主と出会うことはないでしょう。
〜おわり〜