黒兵衛がいない日々 2008年

11/29
曇後晴
炬燵から出られない。
氷雨の日に限って、どういうわけかくろとの散歩を思い出す。
なんかとっても可哀想なことをしていたのかと。
本人は苦もなく、むしろ勇んで出て歩いていたのだけど。
晩年、くるくる回って真っ直ぐ歩けなくなった。
ああ、とうとう痴呆現象か。
そう思いつつも、いやなに、きょうだけのこと。真っ直ぐ歩くこともあるし。
徘徊なんてこんなもんじゃない。
そう自分に反論していた。
なかなかくろが老いたことを認めてあげられなかった。
顔つきも毛並みも、毎日見ているせいか、以前と少しも変わらなく見えたし。
それもこれも欲目だったんだろう。

霜が降りる前に、芝生も根付いてどうにか庭が様になった。
レンガの階段を上がった小高いところがくろとむくの霊園…のつもり。
墓標はない。建てる予定もない。
代わりにプラスチックのスヌーピーご飯茶碗が転がってる。
春になれば、色んな花が咲いて賑やかになるだろう。
拡大すれば、門柱(?)の脇にレンガのワンコmonumentがわかるのだけど。
素人造園にしては気に入って、自分もここで休みたいと思った。
11/08
早いもので、涼しさを通り越して寒いと思うほどの季節になってしまった。
それでというわけでもないが、ネットで購入したこの子を抱えて寝ている。

ペンダント型のカロートも考えたが、結局ぬいぐるみにした。
左脇の隠しポケットに、ハート型のロケットが忍びこませてある。
そこに小さな遺骨を入れた。

顔がくろを思わせるところがあって、愛着を越した感情移入をしてしまう。
ロケットの作りもよくてお気に入りだが、\16,000はそれにしても高い。
ペットも高齢化が進み、これからはこの手のビジネスが狙い目になるのだろう。
09/23
昨日病院に行った。
4、5日前からいがらっぽく、痰がからんでしょうがない。
軽い風邪なのだけど、喫煙者だから身内が咽頭癌では?と気を回す。
大病院だと薬一つもらうのに4時間以上かかるので閉口する。
それはどうでもいいのだけど、問診でまいった。
アレルギーか何かを疑ってか「ペット、何か飼ってます?」と訊かれた。
「2月まで飼っていました」と余計な答えをして切なかった。
08/26
はっきりしない日が続く。
先日パンジーの種を蒔いたところだから、この低温と雨はちょうどいいけど。
遊びに来ていた台湾夫婦が帰って、ほっと一息。
接待らしいことを特にしたわけでもないが、体がだるい。
午前の小学生、午後の内モンゴル女性相手の授業を終えて、うたた寝をした。
そのとき、はっきりとくろとムクの夢を見た。
散歩に行こうというムクとベランダに出たら、くろが下界を見ていた。
そんな短い夢だった。
どうもトイレにふたり(?)の写真を並べてあるせいのようだ。
それにしても、とても嬉しかった。
ずっと見ていたかった。
08/22

右下の「いっしょ」の文字と肉球が見えるだろうか。
カロートを入れるところはこの下にあって底は土。
きょう、その土にくろの遺灰を少し分けて混ぜ込んできた。
先に行って墓守をしてもらおうと。
おい、死んでも仕事をさせる気か!ってぶつぶつ言っているだろうか。
07/31
あれから初めて、というか、くろを知ってから初めてくろの夢を見た。
しゅるしゅるリーシュで散歩をしていた。
草むらに入り込んで用を足しそうになり、慌ててリーシュを手繰った。
じゃないと、後始末が大変だからだ。
新聞紙をお尻の下に敷いていると、見知った人が来た。誰だかは不明。
その人が、犬の世話についてうんちくを垂れて、うとましかった。
で、「この子は明日死ぬんです」と教えた。
「今夜からひどい下痢と嘔吐をして、明日の朝死ぬんです」
それを聞いてその人は黙りこくった。
溜飲を下げた。
変な夢だった。
せっかく夢に出てきたんだから、顔を舐めて欲しかった。
せめて体でもこすりつけてくれればいいのに。
また会えるだろうか。
07/19
きのうまで鬱陶しい蒸し暑い日が続き、きょうはいやというほどの照りつけ。
シャワーなくしては寝られない。
その風呂場で、うんちまみれのくろを洗った記憶が甦る。
そしてまた涙があふれる。
いつまで続くのだろう。
くろと一緒にシャワーしたり風呂に入ったりしたのは私だけ。
それがちょっと嬉しかったりする。
神妙な顔をして洗わせた時期もあれば、逃げ回った時期もあった。
さあもう出ていいぞ、とドアを開けると飛び出して水気を弾き飛ばした。
その一つ一つがきのうのことのようだ。
こんな風に書くと、あたかも愛犬思いのいい人のように聞こえる。
昨夜、蒸し風呂のような道を歩いて帰って来た。
その途中、くろの介護がもうないのだと思ってほっとした。
もしあれば足取りはさらに重くなっただろう。
いいときに死んでくれた。
そう思う自分もいる。
ひどい飼い主だ。
しかしどちらも自分である。
07/14
東京ではお盆だ。
だからというわけでもないが、やっと墓石に刻む文字を決めた。
昔は南無弥陀仏とか南無妙法蓮華経だった。
近年は○○家先祖代々乃墓が主流だ。
近頃は縦直方体ではない自由な形状の墓石が増えつつある。
それに伴い文字も多様化してしている。
それでもうちのと同じものはないだろう。
【思い】を中央に、右下隅に【いっしょ】の文字と肉球という趣向。
表に家名を記さないから、一見どこのうちの墓だか分からない。(笑)
もちろんくろの遺灰も混ぜ込んじゃう予定。


長坂の家の庭造りに精を出して、どうにか格好が付いてきた。
ハーブを多用して、イングリッシュガーデンを目指した。
遊びに来た知人がそれを見て「くろちゃんの霊園みたい」と評した。
言われてみると確かにそういう感もする。
そのうち築山風に小高くしたところに遺骨を埋めてやろう。
日当たりも見晴らしもいい絶好の場所で、代わりに入りたいくらいだ。
一、二匹だが蛍も舞うし、可愛い蛙も遊んでいる。
先日、バラの花びらの下で雨宿りしているのがいた。
一眼レフがあればいい写真になったのだが携帯しかなかった。残念至極。

06/30
昨日はこれでもかという勢いで降っていた。
その雨の中、4年に一度オリンピック年に開く小学校の同窓会に行った。
そこで不覚にも落涙してしまった。
別に旧友に会った懐かしさからではない。
犬好き同士が寄ると、自然とそっちの方に話がいってしまうからだ。
そして「うちのが1月に…」「うちのネコがあれから…」という話題に。
そうなればどうしてもこっちも「実は…」と話をせざるを得なくなる。
互いに傷を舐め合って話していて、気がつけばどちらも眼が赤い。
「色々あったけどあの子にはほんとに癒されて…」という者がいた。
確かに色々あったが、くろがいたから乗り越えられたと思う。
「それだけ世話してもらったら、きっと喜んでいると思うわ」
「いや、世話をさせてもらって喜んでいるのはこっち…」そこまで言ったが後が続かなかった。
「死んですぐまた別のを飼うのがいるけど、あれはどうかなあ」
と疑問を投げかけるのがいた。
人それぞれ解決方法が違っていいけど、私もその気になれない。
そこで思わず詭弁が口を突いた。
「母親が死んだら、新しい母親が欲しいと思うか?」と。
即座に、それは話が違うと否定されたが、自分ではうまいと思っている。


惜しみつつ車を買い換えた話をした。
すると「うちの子が『ドアを開けたら○○ちゃんが乗ってきた』というのよ。きっと子どもには見えるのよね」という話を聞いた。
にわかには信じられないが、そんなことがあってもいいし、あって欲しいと思う。


仕事が手につかない。眠れない。激やせになる。
そんな風にはなっていないから、ペットロスシンドロームではないんだろう。
仮にそうだったら、ペットロスシンドローム万歳だ。
06/19
どんよりした日が続く。
梅雨明けなんかずっと先らしい。


ちょうど一年前の6月の記録を読み直した。
「あの日」の前夜の様子についても克明に記してある。
くろは体調が悪くて苦しんでいて、私はおろおろ取り乱していた。
よく乗り越えたものだと思う。


「あの日」の「そのとき」について、もう少し書いておこう。


そのとき、くろから1.5m以内に、夫婦と長男3人いた。
朝っぱから確定申告がどうのこうのと話していた。
小康状態のくろは、外見にはすやすやと眠っているようだった。
「ひとが生きるか死ぬかってときにうるせえなあ」と思っていたかも。
ふと気になって見た長男が「くろ、おかしくないか」と言った。
まさかと思いながらも、念のために呼吸を確かめた。
だいぶ前から、見ただけでは息しているのかどうかわからない。
毛布を剥いで、肋骨が浮き出た胸に手を置いた。
微動だにしなかった。それでも信じられなかった。
「死んでいる」
固唾を飲んで取り囲んでいる二人に告げた。
「うそ?」「ちゃんと見た?」と信じない。
呼吸が停止している。瞳孔が開いている。だから確かだ。
そう説明する私でさえ信じられずに、何度も確認したほどだ。
本人も自分が死ぬことに気がつかなかったのではないか。
眠っていて、うっかり息をするのを忘れたとか。
そんな感じの最期だった。
くぼんだ目を閉じさせるのはさほど困難ではなかった。
撫でさすっただけで、目を閉じてくれた。


3人もその場にいたのは偶然としか言いようがない。
この時間帯は、いつもなら、当直を交代して私は寝てしまう。
それがぐずぐず起きていた。
前夜のくろの様子が気がかりで、息子はその場にいた。
娘は階下で眠っていた。
死んでしまった以上、慌てて起こすこともないと思った。
しかし妻が「知らせてあげよう」というので、内線で伝えた。
すぐに起き出してやってきた。
「そうなんだ・・・がんばったね、ありがとう」とすぐ納得した。
考えてみれば、長い老後生活の中で、娘も息子もいない日々は多かった。
だから、「そのとき」に家族全員が居合わせただけでも奇跡的だった。
だれかは起きているにせよ、しばらくそばから離れることもある。
そんなときに息を引き取っても全く不思議ではなかった。
それがよりによって、枕元でわいわいがやがやしているときに…。
寂しくなくてよかった、と思ってくれているだろうか。
こちらとしては、できることなら「そのとき」一声掛けて欲しかったが。


4ヶ月も経ってまだこんなことを書いているなんて。
もっと前の、元気だったころのことを思い出したい。
06/14
快晴
梅雨が明けたかと思わせるようなこの二日間の天気。
炎天下で庭仕事に夢中になっていた。
老人は脱水が恐いから、30分ごとに水を飲む。
吸収しやすそうなので、ポカリスエットを飲んだ。
ポカリと言えば、くろの末期を思い出さざるを得ない。
ポカリだけで生きながらえたと言っていい。
それでも末期は脱水症状が甚だしかった。
老衰と言うより、脱水と栄養不足の単なる衰弱死だったのではないか。
もっと懸命にケアしていてあげていたら、もう半年、いけたのでは。
今になってみると、いたらぬ自分を責めたくなる。
しかし、当時は肉体的にも精神的にも限界に近かったように思う。
いや、もう少しがんばれたかな。


岩手・宮城でM7.2という大地震。
四川省のに比べれば赤ちゃんみたいなもんだが、現場は大変だろう。
当事者にとって災難の規模は関係ない。


一昨日、自宅に近い小さな霊園の墓地を衝動的に買った。
正確には墓を買ったわけではなくて、永久使用権を得たというべきか。
30年前にも、友人の付き合いで埼玉に買ったからこれで二つめ。
埼玉なんか遠くて敵わないという妻に押し切られた。
自分より私が先に逝くものと決めている。
不信心の私は、散骨かなんかでいいと思っているのだが。
どうも墓石がないと、格好が付かないらしい。
家紋の代わりに、犬の横顔を彫り込んでもらおうと思っている。
花台は左右一対だから、ムクとくろでちょうどいい。
06/06


車を買い換えることになり、来週新車が納車される運びになった。
くろの思い出がいっぱい染みついているだけに、手放すのが惜しまれる。
車種は同じだが車両番号は変わる。
せめて、と車両番号を**96(くろ)にしてもらった。
いつまでも引きずっていてはいけないのだろうが。


くろがいない今、なんで「黒兵衛の小屋」を続けているのだろう。
そう自問することがある。
大義名分は、同様の道をこれから歩むかもしれない人の参考に。
正直な、本音の答は、未練。多分そうだろう。


時折ここを訪れてくれるくろ似の子が、重篤な病を患っていると知った。
病と闘っている本人はもちろん、見守るしかない家族も苦しかろう。
つぶらな目でじっと見上げるだけで、何もいわないだけに・・・うん。


老いを自覚してもなお、憎まれ口を叩いてやまない老母にはお手上げ。
ただ苦笑して、はいはいとなだめすかすしかない。
06/02
早くも梅雨寒なのか。先日は長坂ではセーターとストーブが必要だった。
今年もすでに6月に突入しているが、我が家の時計は進まない。
確実に進んでいるのは、恩師と母の老化具合か。


昔録画したままのビデオを妻が整理している中で、家族旅行が出てきた。
その中でムクが美ヶ原高原でキタキツネごっこをしたりしていた。
くろのビデオがほとんどない。撮っておけばよかった。
でも画像はかなりある。ムクの写真はとても少ない。
デジカメのおかげだろう。
05/26
快晴
すべてのことが、ついこの間のような気がしてならない。
13年間はそう短い期間ではないのだが、終わってみるとあまりにも短い。


納骨をまだしていない。
遺影代わりのプリンター出力の写真と骨壺が、出窓のところに置いてある。
花も陰膳もない。
食器と水筒と、線香立てがあるだけ。


火葬したのは息を引き取ったその日だった。
朝まだベッドの中で温かかった体が、夜には灰になって骨壺に入った。
なにもそんなに急ぐこともなかったのだが、その前後は多忙だった。
私の予定表を見て、計算尽くで息を引き取ってくれたとしか思えない。
その木曜日だけが、ぽっかり暇だった。
すぐに火葬と決めたのは、何日も亡骸と過ごす勇気がなかったからだ。
もう死んだのだ、ということを自分に言い聞かせたかった。


火葬にするか、土葬にするかで娘と一悶着あった。
葬儀をどうするかということでも討論した。
宗教観というか、生命体に対する考え方の違いは、親子といえ様々。
ムクの法要をしてもらった両国の回向院に行く案もあった。
電話で火葬や法要の方法を尋ねたところ、悼む心にピンと来なかった。
寺から焼却場に運びやすいように段ボールに入れて来いという。
そのひとつだけで、拒絶反応が起きてしまった。
とにかく神経がカリカリして苛立っていた。
悲嘆に暮れるのはずっと後だった。


結局、前々からインターネットで調べておいた業者に電話した。
お別れに、というわけでもなかったが、昼しばらく添い寝をした。
ペット火葬車が来たのは夜8時ごろだった。
隣がコインパーキングなので、家から電源を引いてしてもらった。
取り乱さず、冷静に、事務的に、業者に対応した。
人前で涙をこぼすまいと心に決めていた。
それでも、焼却炉に入れるときは耐えきれなかった。
着火して炎に包まれたときは、自分の体が焼けただれる思いだった。
仕方がないことなのだろうが、焼却炉の内部が薄汚くて可哀想だった。


今は骨壺の中。
体重5キロ弱で予定した壺では、骨が多くて入りきれなかった。
体重は小型犬並みになってしまったが、骨は中型犬のままだった。


分骨を考えている。
しかし分骨をすると、体がバラバラになってしまうようで、抵抗がある。
仏教としてはなんら問題ないとされているのだが。


こう淡々と書き連ねていても、思い出したようにぶわっと涙が溢れる。
やはりこれもペットロス症候群なのだろうか。
05/24
丸三ヶ月。
その後、残された人々はどうしているか。
と、気に掛けてくれている人がいるといけないので少しずつ書いてみる。
表面上は、何事もなかったように毎日が過ぎている。
静かに…というより、慌ただしく。
思い出すと心が痛くなって、尋常な生活ができない。
そういって、写真その他を全部しまってしまう人がいる。
うちはあちこちに写真が置いてある。
毎日線香を立てて祈る人もいる。
うちは思い出したように、ごくたまに線香を立てる。
犬と飼い主の関係は千差万別であるように、その死後も様々だろう。


この三ヶ月間で、くろのネット友だち二匹の訃報に遭った。
なにも同じ年に逝かなくてもよさそうなのに。
十数年の付き合い。奇縁というべきか。
橋の向う側の方が、賑やかなのかもしれない。


スクリーンセーバーをくろ画像にしている。
次から次へと思い出が蘇る。
あの頃は楽しかった。
欲目で見るから、くろも生き生きとして楽しそうだ。
あのとき、ああしてあげればよかった。
あんなことしなければよかった。
懐古と後悔が交互に押し寄せる。
後の祭りだ。
親思いの子は、親の死後、同じような思いに駆られるのだろう。


肛門からうんちを絞り出す感覚は、まだ指に残っている。
それが懐かしい。
でも、これも日が経つにつれ薄らいでいくのだろう。
家からくろの匂いが日に日に消えていく。
車を買い換える話が出ている。
それはいいが、くろの鼻水で汚れた窓ガラスを取っておきたい。
車内を掃除して、ころんと出てくるうんちは捨てたくない。
くろが座っていた助手席を外したい。


やっぱりまだくろのことを書くのはつらいなあ。
03/01
風邪を引いたらしい。
一昨日から妙に背中が寒く感じて、きょうは鼻水が止まらない。
くろがいたときは、ほとんど風邪も引かなかったのに。
気が緩んだか。
夜中の当番の習慣が抜けず、深夜になってもなかなか寝付けない。
寝付けないと余計なことを考えるから、ますます寝付けなくなる。
そのうち体内時計も修正されるだろう。
02/29
初七日に合わせたかのように、台湾舎弟の娘が28日の夜やってきた。
よい気分転換になった。
不信心だけに、初七日の法要もなにもしなかった。
しかし閻魔大王も、くろは特別扱いしてくれるだろう。
滅多にしたことがない初詣で、安らかな最後を祈願した。
それが叶えられたのだから、お礼のお参りはしておくつもりだ。


若かりし頃の黒兵衛日記(きょうの一吠え)をリンクアップした。
日記を読み直したり、HDに保存されている画像を見直したりした。
しみじみとした懐かしさを覚える。が、不思議と涙は出ない。
3年前には400m走に出場していた。
2年前はまだ屋上を駆け回り、3月には西伊豆の桜並木を散歩している。
劇的な変化が見られたのは、一昨年の7月以降。
ちょうど1年前の2月に、とうとう立ち上がれなくなった。
あっという間のこの2、3年だった。
02/28
忘れる前に書いておかなければいけないことがある。
あの日の晩、ひとりベランダに立ったとき、ふと魔が差した。
くろを抱いて、ここから飛び降りようと思った。
悲しみのあまり…ではない。はかなみ絶望して、でもない。
理由は今もって不明。
強いていえば、くろの安らかな最後にほっとしたからだろう。
あの世でも一緒にいてあげたいと思ったのかも知れない。
「自殺」という言葉は浮かばなかった。
気持ちがふわふわーとして、ただ抱いて飛び降りたくなっただけ。
部屋に戻ったときには、その思いは消えていた。
天涯孤独の独り者だったら、そうしていた可能性が高い。
愛犬を喪ったら、ひとりになってはいけない。ひとりにしてはいけない。
ここを読んだ人たちに伝えておきたい。


安楽死については何度も考えさせられた。
最後の注射は、自分でする覚悟もしていた。
しかしその前にくろは逝った。
犬の死になんらかの意味を見出したくなるものだ。
私につらく苦しい作業をさせまいと、くろは自分で命を絶った。
そう思うと不憫で不憫で。
切なくて哀しくなる。
最後まで世話の掛からない奴だった。これは事実だ。


介護が大変でしょうと、多くの人にいわれた。
確かに部屋中がうんちだらけになったときは、大いに慌てた。
腰を支えての散歩に、腰が痛くなった。
電気ストーブひとつで、ガレージで一緒に野宿したのは寒かった。
しかし苦痛でもなんでもなかった。
つらいと思ったときは一度もなかった。
どこか楽しんでいたように思える。
世話をする機会を与えてくれたことに、感謝さえしている。
終わったからいえるのだろうか。


部屋が乾燥していることに、もっと早く気付いてあげればよかった。
それだけが心残りだ。


きょう、くろの食事用に注文していたシリコン製のスプーンが届いた。
一度も使わずに終わってしまった。
位牌の前に置いたスプーンが恨めしい。


この日に備えて、何回シミュレーションしただろう。
いつか必ずやってくる。
覚悟しておこう。取り乱してはいけない。
そう思いつつ散歩して、落涙したものだ。
その効果があったのか、なかったのか。
突然で、凄惨な死に方だったムクの時は、身を引き千切られる思いだった。
文字通り身悶えて慟哭した。
今回は、ただただ寂しくて泣けてくる。
雄々しく頑張った生き様に敬意し、楽しかった毎日に感謝して涙が出る。
02/27
くろが骨になった翌日、現地ボランティアの方に訃報を出した。
妻が書類を整理していて、その方からのFAXを偶然見つけた。
それがなければFAXできなかった。不思議なことだ。
ムクの時も、もらい受けた方に奇跡的に連絡が取れて報告ができた。
そのFAXは1995年10月17日付だった。
そこには21日の伊丹17時15分発106便で羽田に到着する旨記されていた。
懐かしかった。
羽田まで全員で迎えに行ったのが、つい昨晩のように思える。
きょう、その方から丁重なメッセージが届いた。
知らなかったくろのすごさ、偉さに感動して、涙なしでは読めなかった。
やはりくろは私たちだけのくろではなかった。
02/25
明朝退院する老母を、九段坂まで引き取りに行かねばならない。
くろが怪しくなったときに前後して、肺炎で緊急入院した。
くろが身代わりになってくれたというが、どんなもんだか。
九段からお堀端経由で東麻布まで歩いて帰ってきた。


早いものであれからもう丸5日経った。
最愛の友を喪っても、否応なしに日は昇り落ちる。
食べて寝て、テレビを見て、パンを焼いて…日常生活はこなしている。
かなり正常に(今までと同じように)こなしているつもりだ。
嘆き悲しんでばかりいられない。
それでもふわふわと宙に漂った感覚の毎日。
だから、あれからもう5日経っていると今気がついて、驚いている。
気はしっかりしている。涙も枯れ果てた。・・・つもり。
話しをしたり、何かをしているときはいい。
だが、ひとりになったとき・・・だめ。
地下鉄でも、電車を待っているとき、席に座ってほっとしたときが危ない。
たらーっと涙と鼻水が流れる。
幸い花粉症の時期だから、目が赤くても怪しまれることはないだろう。
贈られてきた花を眺めていると、心が和む。
弔花にそんな効用があるとは今まで知らなかった。
ありがたいことだ。


そのときのこと、葬儀のこと、埋葬のこと、などなど。
これから同じ道を歩く人のために記さなければいけないと思う。
悔やみのメッセージへのお礼もしなければいけない。
でも、まだその気力が出ない。
もう少し時間をもらおう。

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