(お父さんの懺悔録より)

― 今は亡きムクに捧ぐ ―  


黒兵衛(くろ)が来る前に、ムクという、可愛いくて気位の高いワン公がいた。

ムクのこと

 それは、子供たちがまだ小学生だったころのこと。ふと犬を飼いたくなった。
 もう記憶も定かではないが、きっかけは恐らく、小学校4年生の娘にせがまれてのことだと思う。お決まりの「面倒はお前が見るんだぞ」「うん」という、何の保証もない親子の約束が交わされたことだろう。
 私も妻も犬のいる家で育った。その楽しさは知っている。子供たちにも犬との生活を経験をさせてあげたい。情操教育にもいいはずだ。そんな思いがあった。が、なーに、それは親自身への単なる口実なのだと、裏の自分が苦笑していた。
 血統書付きの子犬を買う金が惜しかったわけでもなかろうが、犬を飼う決心をした後、ケンネル歩きをした記憶がない。「犬」、その一字だけで十分だったのだろう。
 「子犬あげます」という新聞の三行広告を頼りに、荒川の眼科医まで貰いに行った。
 柴犬と雑種の間に生まれた、由緒正しい雑種が5匹。その中で仲間外れのようにいた黒っぽい雌をもらった。それが「ムク」。

ムク幼犬

 我が家は7階建てのビルの最上階にある。初めはその家の外(とはいえ、建物の中だが)で飼っていた。が、いつとはなしに、家族で唯一、泥足のまま部屋に出入り自由の特権を得ていた。
 あまり外界との接触はなかった。
 トイレは屋上の小さな築山の中。普段は家の中と屋上を出たり入ったりして、時折訪れる蜂や小鳥を相手に、一人で遊んでいた。エレベーター機械室への階段を上って、地上の様子を眺めていることも多かった。
 公園で、子供にいじめられた幼児経験からか、あるいはあまり外に散歩に連れて歩かなかったせいか、閉鎖的で、来客を吠え、まれに噛み付くような、神経質な犬になってしまった。それでも、野山に旅行に連れて行くと、とても嬉しそうに跳ね回って、一緒に遊んでくれた。
 犬に対しては社交的で、どんな犬にも尾を振った。
 散歩で牡犬が繋がれているのを見かけると、甘く切ない声を出すのが常だった。
 処女のまま老境を迎えた。
 牝犬として一花咲かせたいと思ったのか、家族がみな留守をしているとき、7階から階段で降り脱走した。玄関のドアは自動で難なく外に出られたらしい。
 由美子が夜になってムクがいないことに気がついた。父親の胃癌手術の入院のごたごたで、それまでムクのことをすっかり忘れていた。いつもは閉めている階下への柵を、うっかり閉め忘れたのもそのためだった。
 ムクがいなくなったとの知らせを、茅ヶ崎の別宅で聞いた。努めて冷静に、楽観的に考えようとしたが、受話器を持つ手が不安で震えた。
 思い当たるところを電話で伝え、子供たちに探させた。
 帰趨本能で、きっとふらりと帰ってくる。そう信じようとした。が、なかなか、見つかったという連絡は来ない。
 前の晩の散歩で、横断歩道の信号待ちをしているとき、「赤信号で渡ると危ないんだよ。万一お前が独りで歩くときは注意しないと」と、理解できるはずもない犬を相手に、話したことを思い出していた。
 二時間も経ったろうか。産業道路の交差点で、ムクの死骸を見つけたと、震える声で息子から電話があった。
 おびただしい数の大型トラックと乗用車に轢かれ、骨と肉は広い範囲に砕け散り、犬の形はまったく無いという。だからこそ発見に手間取ったらしい。
 息子と娘は、クラクションを鳴らして走り過ぎるトラックのヘッドライトを頼りに、泥と化した肉塊をおいおい泣きながらかき集め、東京湾まで運んで弔った。
 遺骸のないまま、両国の回向院で供養をしてもらった。ムクの供養というより、不注意な飼い主としての懺悔の儀式だった。
 法要を終えたその日、頂いた荒川の眼科医に報告せねばと、十年前の記憶をたどり訪ね歩いた。しかし何年も前に引っ越ししていなかった。
 近所の人に消息をうかがったりして、奇跡的に連絡が取れた。最後の様子を報告しているうち、涙にむせて言葉にならなくなってしまった。
 「可愛がってもらって、あの子も幸せだったでしょう」というお言葉に、ありがたくて、そして申し訳なくて、また泣いた。

むく晩年
奇しくも撮影日は事故前夜だった

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