徳川家康や前田利家等、重臣達が見守る中、政宗の一揆扇動の裁判がおこなわれた。氏郷がひととおりの内容を話した後、秀吉は密書を手に取り、政宗に詰問した。「この手紙に書かれた花押(サイン)はまさしく政宗の手によるものだ」と険しい顔つきで政宗を睨んだ。すると政宗はひょうひょうと言ってのけた。「わたしの花押は鳥のセキレイを模しております。さて、わたしは常々この度のようにわたしの書の偽物が出ることを想定し、自分の手紙である証拠としてセキレイの眼の部分に針で穴を開けておく習慣をつけております。このことは主たる家臣達も右筆どもも知らぬこと。よって関白様の手にある密書のわたしの花押に穴が開いていればわたしの記したもの、なければ偽物です。さあ調べてみてください」こう政宗に言われた秀吉は以前送られた政宗の手紙と、今回の密書の二通に書かれた花押をじっくり比較した。そしてその結果は、「なるほど、この手紙の花押には穴が開いておるが、この密書の花押には穴があいておらん。よし、これで政宗の疑いは晴れた。政宗は無実である」裁判は政宗の勝訴という結果になった。さて、この秀吉と政宗のやりとりのことなのだが、歴史上のエピソードのためドラマチックになっているのだが、はたして政宗は本当に一揆の扇動をしていなく、密書も偽物であったのだろうか。実際はそうではなかったと思われる。何にもまして戦国の当時も現代も裁判は極めて厳しく行われるものであり、豊臣政権に対するクーデター事件が花押の穴の有無ぐらいで解決するとは極めて考えにくい。
秀吉は花押に穴が開いていようといまいと、政宗を咎める意思はもともとなかったのではないのか。秀吉は面白い人間、いや、能力のある人間が好きであった。だからこそ秀吉の出世は血を流しあう戦いより人と人との交渉によって政治的に相手を降参させて得たものなのである。そのような秀吉にとって人材の確保は必須であり、リクルート先は狭い日本国内では残すところ奥羽以北のみとなってしまっていた。そしてその地に存在したのが伊達政宗という大学卒2、3年で準大手企業をバリバリ経営している若者だったのである。この若者は秀吉が見込んで奥州におくりこんだ織田信長の娘婿の「麒麟児」と云われる蒲生氏郷をいとも簡単に翻弄させてしまった。秀吉としては本来奥州の田舎武士達に上方の武士の実力の程を見せ付けてやる気概もあったであろう。
秀吉と政宗とでは当時としては親子以上に歳の差があり、秀吉としてはこのやり手の若者を自分の下に置き、充分教育できる時間があるものと判断した。よって今殺すよりは生かした方が豊臣政権に利益があるとして、政宗は無実である内容の判決を下したのである。また秀吉としては政宗の経営手腕もさることながら、先の小田原における白装束での参陣を目にして以来「この小僧は面白い」と思えたことも加味されるところと思う。
よって政宗謀反の無実は天下人である秀吉に対し「花押に針の穴があるかどうか」とふてぶてしく主張した政宗の器量に免じたものであった。
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