政宗は元服した頃から「信長のようになってみたい」と言っていたという。奥州の田舎では中央で躍進目覚ましい織田信長の名声が鳴り響いていた。信長の武田軍に対する鉄砲の戦術は政宗にとって田舎の合戦のはがゆさを強く感じさせていた。織田信長が本能寺に没したのは、政宗が相馬氏との合戦に初陣として加わったその翌年のことであった。少年政宗はあこがれの信長の死に落胆したと同時に、自分にも天下が回ってくる可能性があるのではと感じはじめた。それにはまず奥州を一日も早くまとめあげ、関東へ向かい、その後は京へと上る。天下人政宗計画が実行されていくのである。
奥州の制覇は大内定綱の支城である小手森城からはじまった。そしてこのときの行動こそが信長の比叡山焼討ちのごとく女性や子供も容赦無く撫で斬りにするというものであった。中央での合戦ならいざ知らず、奥州の片田舎においてのこの政宗の行動はまさに織田信長の再来のような恐怖感を近隣の諸国に植え付ける結果となった。ただし政宗はけっして信長の恐怖政治を尊敬していたのではなく、信長の合戦におけるオリジナリティ溢れる戦術の発想に尊敬の念をいだいていたと思われる。そして政宗自身も伊達戦法を練った。そのひとつが大坂夏の陣における「騎馬鉄砲隊」である。馬上から鉄砲を打ちまくるという西部劇さながらの戦術を使い、かなりの好結果を得た。揺れる馬上からの命中率は低かっただろうが、敵軍にとってはものすごい勢いで銃が迫ってくるのだから脅威である。
政宗自身が「あと20年早く生まれていれば」と悔やんだというが、信長を参考にした政宗としてはその信長と戦ってはたして勝てたであろうか。やはり歴史には「もしも」は無いのである。
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