「関ヶ原の合戦」、ついに日本全土は統一の時代を迎えようとしていた。石田三成率いる西軍、徳川家康率いる東軍、この日本国内の歴史上において最大の戦争(合戦)は徳川軍の圧勝に終わり、徳川幕府300年の礎を築くことになるのである。さて、この大合戦に伊達政宗は参加していたのか。これについては参加していたような、していないようなという結論になるであろう。その理由は家康が政宗に宛てた一通の「覚書(おぼえがき)」が物語る。内容は東軍を北からの驚異、いわゆる上杉を牽制して、東軍の勝利へ結びつく働きに努めたうえで、東軍の勝利が成った暁には伊達家のかつての領地である、刈田、伊達、信夫、二本松、塩松、田村、長井の7カ所を与えるというものであった。これら7カ所を合わせると49万5千8百石となり、当時の領地58万石と合わせると「100万石」を超えるのである。世に言う「百万石のお墨付」である。これほどの褒美を用意せねば政宗という男は全面的に味方にならぬだろうと家康は考えたのである。言い換えれば、政宗は関ヶ原の合戦に対する東軍への協力的態度が極めて曖昧であった。なぜなら政宗にとって勝利は西でも東でもどちらでもよかったのである。だからこそ豊臣方とも書簡を送りあっていたし、なんと上杉とも密約を交わしていたという説もあったりする。家康としては信長を知り、秀吉を知ったことで完璧なまでの天下人としての才覚を身につけたと自認し、だからこそ政宗は自分には秀吉時代のような生意気な態度はとれまいと思っていた。しかし政宗はあいかわらず政宗なのであった。「百万石のお墨付」を与えられた政宗はかなり興奮したであろう。その興奮が余計なエネルギーとなって、なんとこの大合戦のどさくさに紛れて東軍方である南部領へ攻め入るのである。名目は南部領の一部である和賀郡の元領主和賀忠親(わがただちか)へ援軍をすることで和賀郡の奪回を図ることであった。これが「和賀一揆」である。なぜ和賀忠親にそんな協力をしたのか、簡単に説明すれば、秀吉による小田原参陣要請にたいし和賀家の当主であった忠親はまだ幼少であったため、代理人を使わしたのだが、それが秀吉の機嫌を損ねたらしく、和賀家の領地は没収となった。そのことを知った政宗は忠親へ同情心を抱き、忠親を伊達領に住まわせ、旧領奪回のチャンスを得るべく面倒を見ていたのである。そしてこの関ヶ原の合戦こそチャンスと見たのである。さて、この旧領奪回作戦はどうなったのか、結果は大失敗に終わる。さて天下の大合戦が東軍の勝利に終わると政宗は家康からの覚書の内容の実行を当然待った。しかし政宗への褒美は自力で奪取した刈田郡の2万石のみであった。覚書では約50万石である。だが政宗は詰め寄ることができなかった。なぜなら「和賀一揆」の件があったからである。家康も当然褒美減俸の理由を説くことはしなかったであろう。
少し論点を変えてみよう。はたして政宗は覚書を信用していたのだろうか。多分、いや、まったく信用していなかったのではと思う。政宗は戦国大名と呼ばれても天下統一を目前に控えた戦国晩年の寵児である。単なる兵力を用いての合戦の時代ではなく、政治力も必要な時代となっていた。そして政治には相手を味方に付けるべく「おいしい話」をすることが常となるのである。よって政宗は覚書などあてにせず、自力で領地の拡大を目論んでいたのであろう。そのためには「和賀一揆」は好都合であった。ちなみにその領地拡大だが、政宗としては奥州の盟主たる気概で北を目指していたと思われる。だからこそ前文でも書いてあるように上杉との不戦同盟もありえた。なぜなら上杉は旧領「越後」の奪回を願っていたからである。お互いの利益のため直接の戦いは控え、兵力を温存しておく。そして関ヶ原の合戦が終わり、どちらが勝とうが勝利者側も損失が大きく、また疲れ果てているため、伊達、上杉の2者は十分関ヶ原の勝ち組に対し合戦に臨めると判断していたであろう。政宗は言うなれば徳川へ謀反を企てたのである。天下人家康は伊達家を潰しても道理は成り立つのである。しかし2万石とはいえ加増となった。政宗は「もーけもん」と思ったであろう。ちなみに江戸初期の仙台藩の石高は実は100万石に達していた。仙台米が江戸の標準米になったぐらいである。政宗は幻の「百万石のお墨付」を広大な耕地開拓により己自身で実現したのである。
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