3.輝宗拉致事件の真相は
政宗の小手森城に於ける撫で斬りは奥州の諸大名に充分すぎるほど恐怖感を与えた。なかでも大内定綱と行動を共にしていた畠山義継は何度も政宗に許しを願い出た。しかし政宗は素直に赦すことをしない。義継は藁をも掴む思いで政宗の父である輝宗に願い出たがなんと義継は輝宗を拉致してしまう。

この拉致事件にはさまざまな憶測が絡み合っているが、大まかに2つの説に分かれる。

1つは定説のままで義継の計画的犯行である。これに関しては説明の必要はないだろう。そしてもう1つの説がなんと政宗による陰謀で、実は政宗が義継へ輝宗の拉致をけしかけたという説が存在する。この説はあまり考えたくないところであるが、事件の真相というのは現代社会でもなかなか解明できないものである。ではあえて何故政宗の陰謀なのか、簡単に解いてみたい。

政宗は家督を相続して以来自分流のやり方で伊達の勢力を拡大していた。その最たるものが信長ばりの「小手森城の撫で斬り」であったのだが、この戦術は父である輝宗にとっては到底納得のいくものではなかった。輝宗は人一倍慈悲深い人物である。「撫で斬り」に関してはもうしてしまったことなので何も言いようがなかったが、義継の降参に関しては再三政宗と論争になった。かつて輝宗は義継から援軍を得たことがあり、義理があった。政宗へは義継に対し素直に赦すことによって義継が真に伊達家の家臣に下ると説いた。しかし政宗は「その優しさが父上の甘いところ、伊達家の命取りとなるのが目に見える。この奥州でも戦の方法は変わったのだ」と強く反発した。

このような政宗の態度は輝宗につく家臣としては反感を抱くようになった。ただせさえ政宗の家督相続は早すぎると、納得していない輝宗の家臣は多い。また弟の小次郎につく家臣達も無視できないものであった。輝宗は隠居したとはいえ、まだ42歳である。その家臣達もまだまだ働き盛りである。このままいけば父子の争いが勃発してしまう。伊達家の歴史は父子の争いの歴史でもあった。特に政宗の曾祖父植宗と祖父の晴宗の「天文の乱」は有名である。政宗としては当然父と争いたくはない。しかし伊達家中の反政宗の動きが活発になりつつある。ならば輝宗を不可抗力のもとに失う状況を画策すればよい。政宗が父に対してこのようなことを考え得る可能性は充分にある。政宗は権謀術数に長けた武将である。何にもまして政宗の身体にはそれこそ権謀術数に長けた「最上氏」の血が流れているのである。この「最上」の血が父輝宗と相容れなかった原因ではなかったのか。義継の家臣が輝宗の屋敷に向かう途中、足軽達が刀を研いでいるのを見て「何をしているのか」と尋ねると、「義継の首を取るためだ」と笑いながら答えたという。この冗談を真に受けた義継は「もはやこれまで」と輝宗の拉致に踏みきった。そして輝宗を人質に政宗に対し形勢逆転を図ろうとしたが、政宗は輝宗を打ち殺してしまう。さて、足軽の言った内容であるが、冗談とはいえ足軽という身分のものがそんな軽はずみなことをはたして言うだろうか。義継が伊達へいくら降参を願い出る途中とはいえ、一国の主である。尋ねられたのなら神妙な顔で「ただ刀の手入れをしているだけです」と答えるのが普通である。さらにおかしいのは刀を研ぐのなら見えないところでやればいいのである。このような監督不行届的な行為があえてなされていたのなら、中間管理職ではなくトップが認めていたとしか考えられない。

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