政宗のルーツ

1.伊達氏系図

5.伊達氏中興の祖 初代「伊達政宗」

2.源流の地

6.奥州守護職 伊達植宗

3.伊達氏の始祖

7.天文の乱 伊達晴宗

4.伊達郡

8.不運の16代当主 伊達輝宗

家系図

     

源流の地

 伊達氏は「伊達」を名乗る以前は「中村氏」または「伊佐氏」と名乗っていた。よって源流の地も2つの説がある。

 

 1.下野国中村荘で現在の栃木県真岡市あたり。

 

 2.常陸国伊佐荘で現在の茨城県下館市あたり。

  

伊達氏の始祖

 伊達氏の始祖は「朝宗」という説が通説となっている。しかし「宗村」という説も存在している。2つの説が存在する原因は「常陸入道念西」という法名の人物にある。伊達氏の文献上では「念西」が伊達氏の始祖として明記してあり、しかしその「念西」が朝宗であるという文書と宗村であるという文書が存在している。「伊達正統世次考」、「寛政重修諸家譜」では朝宗。「寛永諸家系図伝」では宗村。

 

伊達郡
 

 文治5年(1198)源頼朝による奥州合戦(奥州藤原氏との戦い)において常陸入道念西は4人の息子を伴って頼朝軍側に参戦。主なる18人の首をとり、功をあげた。念西はその功労として頼朝より陸奥国伊達郡(現在の福島県伊達郡)を賜わった。それ以来伊達氏を名乗る。

 

伊達氏中興の祖 初代「伊達政宗」

 伊達家には「政宗」と名乗る人物が2人いる。1人はもちろん「独眼竜」の政宗である。そしてもう1人は伊達家中興の祖といわれる9代伊達政宗である。この初代政宗は三度にもわたって関東公方足利満兼が治める鎌倉府に反抗した。明徳3年(1392)京都の室町幕府が関東に鎌倉府を置き陸奥国と出羽国を鎌倉府の直轄にあてていた。要は日本に政府が2つ存在していたようなものであった。いつの頃からか京都と関東に対立感が生じ、初代政宗は京都側についていた。初代政宗の正室は室町幕府将軍足利義満の母の妹である。鎌倉府は初代政宗に伊達郡をよこせと言い、これがきっかけで鎌倉府への反抗、俗にいう「政宗の乱」が始まる。初代政宗の代で領土の拡大がかなり進む。

9代伊達政宗公(大膳大夫)の墓 山形県東置賜群高畠町

写真提供:米沢市在住の山口様よりいただきました。

 伊達家17代当主として生まれた梵天丸に父輝宗が「政宗」と名付けた背景にはこの先祖の勇猛さにあやかったことによる。


奥州守護職 伊達稙宗(たねむね)(1488〜1565)

 伊達家14代当主。政宗の曾祖父。稙宗が奥州を中小国がいつまでも入り乱れる混沌とした状態にさせた張本人といわれている。

 稙宗は「稙」という名だけあって、文献上わかっているだけでもなんと11男6女、合計17人の子供をつくった。そして奥州の諸豪族である相馬氏、芦名氏、大崎氏、二階堂氏、田村氏、桑折氏、亘理氏、等へ政略結婚をさせ、いわば「伊達ネットワーク」を確立せんとした。これが裏目に出て各豪族が合戦となっても親戚筋のため結局決着がつかずどこかの家が間に入り、和睦となる。中央では足利幕府が衰退しはじめ、上杉、武田、織田、徳川、等、錚々たる面々が新しい時代に向かっていた時期に奥州では細々した小競り合いがおこなわれていた。

 稙宗は子供造りもさることながら政治的な面でもやり手であった。曾祖父11代 持宗以来莫大な費用を幕府へ投じてきたが、植宗の代でついに「奥州守護職」という位を幕府より得ることとなる。力の衰えた幕府からの守護職は実際はあまり意味のないものであったが、奥州は伊達家が統治するという名目を形だけでも得たのである。そして稙宗はこの奥州守護職を大いに利用し、さらなる伊達家の勢力拡大に力を注いだ。

 なお、稙宗は「塵介集」(じんかいしゅう)といういわば法律を制定し、国の経営をおこなう。なお、この「塵介集」は当時の各国における分国法の中で最も詳細に法体系が記されており、全文171条からなっている。

 

天文の乱 伊達晴宗(はるむね)(1519〜1577)

 政宗の祖父晴宗と曾祖父稙宗との間でおこった大乱で、奥州の諸豪族を巻き込んでの合戦である。ことの起こりは稙宗が息子の実元(成実の父)を越後の上杉家に養子に出すと言い出したことである。晴宗は一門の実元を養子に出すことは伊達家の戦力が弱体化しかねないと言い、あまりにも勝手な父親の行動に不満が生じ、父親の稙宗を幽閉した。稙宗の家臣が植宗の救出に成功し、そして合戦となる。結果は将軍足利義輝の停戦命令による和睦に終わる。

 晴宗は大乱の整理をしはじめると同時に居城を米沢城に移す。

 

不運の16代当主伊達輝宗(てるむね)(1544〜1585)

 天文の乱の影響は大きく、輝宗の代になると伊達領もかなり縮小しており、領土の拡大どころか領土を守ることに専念せねばならない状況であった。とくに相馬氏の侵略が激しく、かなりの苦戦を強いられていた。

 羽州最上氏の最上義光の妹である正室の義姫(政宗の母)とは稙宗による政略結婚であったが、最上氏がその結婚を簡単に了承した背景には実は伊達家のっとりを企んでのことであった。

 伊達領を執拗に侵略してくる諸豪族はすべて輝宗にとっては親戚筋であり、なおかつ輝宗は信心深い人物であったという。そのような輝宗には相手に対しとどめを刺すような戦はできず、ひたすら防戦の体制は仕方がなかったものと思われる。そのような自分を知っていた輝宗だからこそ41才という若さで息子の政宗に家督を譲り、隠居の身となって、羽州の雄である最上氏の血を引く政宗に何かを変えてもらう期待を込めて伊達家を託した。また家督相続を急いだ理由のひとつとして、政宗の弟である小次郎を擁してその小次郎に家督を継がせようとする家臣達がおり、そのような家臣達の野望を食い止める必要があったことも考えられる。

 ある日政宗のすさまじい戦に対し畠山義継が数人の家臣を引き連れて降伏を願い出た。政宗は鷹狩りに出ていたため、輝宗が政宗の代りに話を聞くこととなった。話もひととおり終わり、輝宗は自ら義継を見送ろうと義継とともに歩いて行くと、突然義継は懐に忍ばせていた短刀を輝宗の首へ突きつけ、そのまま輝宗を拉致した。その場には留守政景、伊達成実もいたが、瞬間の出来事であったため成す術がなかった。事件を知った政宗も現場へ急行した。しばらくして伊達領と畠山領との国境である阿武隈河沿いまで来ると、輝宗はただ見守るしかない伊達の家臣団に「私を義継もろとも撃て!さもなくば末代まで伊達の名を汚すことになるぞ!」と叫んだ。輝宗は伊達軍の一斉射撃によって命を落とし、隠居後1年余で政宗の将来を見守ることなく不運な死をとげることとなった。なお、このとき射撃の指揮をとったのが政宗という説と政宗不在説より成実という説がある。

 

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