青葉城(仙台城)跡

 

 

 

 慶長5年(1600)、関ケ原合戦直後に築城を始める。それまでの城であった岩出山城は藩政を行うには北に寄りすぎ、街道からも離れており非常に不便であった。政宗は石巻等いくつかの新城の築城地を候補に挙げていが、街道への便よく、海、山ともほどよい距離にある千代城を再興することで新城とした。「再興」であるのは、もともと千代の地は国分氏が治めており、仙台城は千代城跡を利用したものと伝えられているからである。なお、「千代」を「仙台」と改めたのは政宗である。家康へ遠慮する意味から「太平の世に天守閣はいらない」と天守閣を設けなかったといわれているが、実際の土地の形状をみれば一目瞭然で、天守閣など設けなくとも充分城下の様子が見てとれる。広瀬川が堀の役目を果たす自然の段丘そのものが城となって形成されている。秀吉の聚楽第から移した大手門、千畳敷の大広間等、奥州の覇者、60万石の大大名にふさわしい城であったことは慶長10年(1605)に仙台を訪れたイスパニヤ使節セバスチャン・ビスカイノの「金銀島探険報告」に次のように記されている。

「城は被国(日本)の最も勝れ、また最も堅固なるものの一にして、水深き川に囲まれ、断崖百身長を越えたる厳山に築かれ、入り口は唯一つにして、大きさ江戸と同じくして、家屋の構造は之に勝りたる町を見下し、また二レグワを距てて数レグワを望むべし」

 天保3年(1646)、寛文8年(1668)の相次ぐ大地震と昭和20年(1945)の仙台空襲により仙台城の構造は皆無となった。現在は仙台城跡への入り口に隅櫓が復元されているのみで、その他は城らしい建築物は無く、城跡には資料館、土産物屋がある。もともと天守閣がなかったことを考えると会津若松城や大坂城のような復元は無理なのかもしれない。天守台といわれる広場には政宗公の騎馬像が仙台の街を見守っている。

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