


政宗の霊廟。別名、霊屋(おたまや)。寛永13年(1636)4月18日、70才になった政宗はホトトギスの声を聴こうと家臣を伴って経ケ峰を散策した。死期を悟りはじめた政宗は側にいた奥山大学に自分の墓は此処に定めたいとつぶやいた。そしてその直後の20日に仙台を発ち、25日に日光東照宮を参拝、その後5月24日江戸邸で波乱の生涯を閉じた。遺言どおり遺骸は経ケ峰に埋葬、翌14年10月24日瑞鳳殿落成となる。
昭和6年(1931)に国宝に指定された霊廟瑞鳳殿は第二次大戦の際の仙台空襲によって焼失した。この焼失した瑞鳳殿は桃山様式の豪華な建築物で黒漆塗りを基調としており、日光東照宮のようなきらびやかさはなく、政宗のシックな性格を表していた。しかしなんとその黒漆の下には金箔で覆われた本来の瑞鳳殿の姿が隠されてあったようで、時代が経つと金色に輝くという演出がなされていたという。
瑞鳳殿再建は昭和49年(1974)に着工。それに先立ち墓室の学術調査がおこなわれた。石灰に埋もれた政宗公の遺骨はほぼ完全な形で保たれており、その他30余点の副葬品が発掘された。
戦前までの瑞鳳殿(国宝時代)の様子については「政宗いろいろ」の「旧瑞鳳殿(国宝時代)の絵はがき」をご覧下さい。
瑞鳳殿の向かって右側には満海上人の供養碑がある。政宗は幼いころから「満海上人の生まれ変わり」といわれた。遺言どおり経ケ峰を墓所とすべく基礎造りのため地面を掘ると、なんと満海上人の墓石が現れたという。これを知った仙台藩の人間は「やはり殿は満海上人の生まれ変わりであった」と、あらためて思ったという。事前に政宗が満海上人の墓の存在を知ったうえで場所を指定したのか、それとも用意したものなのか、真実の程は定かではないが、満海上人の墓の存在は事実である。
瑞鳳殿へ向かう石段を上っていく途中に瑞鳳寺がある。政宗公の菩提寺として2代藩主忠宗が政宗公の亡くなった年の9月に建立、政宗公の御位牌が安置されている。
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