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庄原市議会は1日の本会議で、「ジェンダーフリー教育の排除を求める請願」を県内15市の議会で初めて採択した。 請願は、「各地の教育現場で男女共同参画社会推進に名を借りて男らしさ、女らしさまでも否定するジェンダーフリー教育が行われようとしている」とし、「庄原市では同教育の例は少ないが、真の男女共同参画社会実現のための教育推進」を求めている。 討論では「同教育は、こいのぼりや、ひな祭りなど伝統文化も否定するもの」「男女差別の解消は既に国民的合意がある」など三人が採決に賛成。一方で「男女共同参画社会づくりが進んでいるが、女性の地位はまだ低い」「ジェンダーフリーの意味するものをもっと研究すべきだ」など三人が反対した。挙手採決の結果、賛成11、反対6だった。 討論に先立つ質疑で、庄原市については、小学校での男女混合名簿の採用が同教育に当ると示唆する発言が請願の紹介議員からあった。市教委は十年以上前から採用しており、同教育に基くものではないとしている。 請願は「日本会議広島」(安佐南区)が提出した。全国では鹿児島県議会などで採択されている。 「クリック」 ジェンダーフリー教育 一般的に、生物的性差を否定せず、社会的・文化的な性差別解消を目指して行われる教育。性別により特定の役割、能力などを要求したり制限したりせず、それぞれの個性と能力の発揮を尊重するとしている。 【以上引用終わり】 |
■教育現場の「闇」に命を落とした校長
今年三月九日、民間出身の慶徳校長が自殺された。痛憤の思いである。■教職員組合の民間校長への異常な仕打ち
慶徳校長の死は、是正指導以前の広島県公教育の実態が今も残存していることを示すものであり、この実態を徹底的に究明し、「異常」を 正していくことが何よりも急務である。■県民から寄せられた内部告発の手紙
慶徳校長先生を死に追いやったもの、それは教職員組合の組織的・継続的で執拗な「いじめ」であったことを、私は確信している。 それは、現場を知る多くの県民の思いであり、私の手元には、次のような匿名の内部告発の手紙が届いた。■教育基本法第十条の改正が急務
ところで、広教組はしきりに県教委・市教委が、「たった二日の研修で現場に出したのが間違いである」ことを強調し、県教委・市教委 の責任を追及している。教育委員会に全く落度がなかったとは言えないだろう。しかし、一義的にその学校で共に働いていた教職員が、 自らには全く非がないかの如くに振舞うのは実におかしな話である。世の中で今、子供たちの心が荒れて様々な事件が発生しています。こういう 種々の問題が起きてくると、心の教育が大事だとか、宗教的な教育が大切である とか、騒がしくなってくるものの、心の教育とはどうするのか、宗教教育とは何 をもってそういうのかと問われれば、大方の人は答えにつまってしまうでしょ う。
学校では天台宗を最澄がいつの時代に開いたとか、空海が真言宗を高野山に開 いたとかは教えても、二人の説いた内容がいかなるものかは教えられない。受験 の知識のみに汲々として、仏教そのものの教えを先生も知らず、外に出て近くの 住職から話を聞いても良かろうことを、教育現場に宗教を持ち込むことの非難を恐れ、心の 教育に取り組むことが出来なかった責任はだれにあるのか、私は知るよしもな い。次の一文を読んで頂きたい。
空き缶に活けられた一本のコスモス
日蓮宗のある住職は、子供さんたちが成人し家庭をもったので三人の里子を預 かっているのだそうです。ある日のこと、子供たちの部屋を掃除しに行った奥さ んがいつまでも戻ってこないので、部屋に行ってみると、今年四歳になる智子 ちゃんの机の前で肩をふるわせて泣いています。「どうしたの?」と声を掛ける と黙って机の横の本棚を指差しました。本棚といっても学生用のそれではなく、 四歳の子がその日着るものを下の段にいれ、上段には絵本がおいてあるといった ものなのだそうですが、奥さんは上の段を見ろというのです。 「何があるの?」と覗いた住職は、おやつにあげた缶ジュースの空き缶にいけ た一本のコスモスの花が目に入りました。更にその後ろに一枚の絵がはりつけて あります。「何だろう」とよく見てみるとその紙には四歳の智子ちゃんが幼稚園 で習ったばかりの字、鉛筆をなめなめ、カ一杯「おかあさん」と書いた字があり ました。この智子ちゃんは寺に来る半年ほど前にお母さんを亡くしているので す。またお父さんもいないという事情から里子にきたのですが、寺に来てお檀家 の人たちがお墓参りする姿を見たからでしょうか、亡きお母さんにお花を供えて いたのです。きっともみじのような手を合わせ南無妙法蓮華経と唱えただろうな と思ったとき、住職も奥さんと一緒に泣いていたといいます。しばらくして「き れいな花瓶持ってきましょうか」という奥さんに向かって、住職は「この世の中 でこんな美しい花、こんな素晴らしい花瓶はないんじやないか。こんな心のこ もったお位牌、こんな立派なお仏壇はないんじゃないか、このままそっとしてお こう。亡きお母さんの喜んでいる顔が目に浮かぶよ」
先祖や仏神への敬虔な心を養う教育を この話は形にとらわれ、心をおろそか に生きることのむなしさを教えてくれるとともに、この女の子の心は学校の中で 培われていくものではないことがわかるでしょう。仏様や神様のものの見方はど こが違うのか、それは損得ではなく善悪の眼でもってすべてを見ることが凡人と の違いなのです。うまく生きることのみ教え、よりよく生きることの素晴らしさ を教えることさえ出来なくなった今、心の教育も宗教教育も一朝一タに出来るも のではありません。
霊感商法の被害に遭った人々やオウム真理教に走った若者たちの共通点は何 か。家に仏壇がなく、家族と共に寺や神社にお参りしたことがなかった、とは被 害者弁護団の弁護士の言葉なのです。
国歌も国旗も否定しながら、その体制から禄をはんで、恥ともしない教師に立
派な子供を育てるカはないでしょう。連綿と先祖から続いたこの命の尊さを親と
子、先生と生徒という大切な出会いの中で、見つめ直す時がきていると思いま
す。カエルの解剖で自然科学を学ぶことより、カエルの命を大切にする教育がい
かに困難であるか。そのためには、親と子が先祖の墓に詣でることも教育である
し、修学旅行で京都や奈良に行き,社寺の仏神前に立てば、自然に頭を垂れて、
手を合わせる姿を先生自身が生徒に見せることが出来るかが問われているので
す。
合掌
★一人ひとりの人格を認めることの大切さ
(篠栗南蔵院住職 林 覚乗氏 法話より2)
今、昔話の内容が変わってきているのをご存じでしょうか。例えば、兎と亀の 話は、勢力を続けることが大事で、努方を続ける人間が幸せになるのだ、と思っ ていたのですが、「寝ている兎を起こさなかった亀さんは根性が悪い。だから、 起こして一緒に走っていく優しい亀さんになりましょう」という教え方があるそ うです。これは、今の世の中の変な平等主義ではないだろうかと思います。 何が大事かというと、一緒にゴールインすることではなく、兎には兎のそして、 亀には亀の、生きる道があるし、能カがある。このことを認めてあげることが、 本当の平等ではないだろうかと思うのです。
十二月は終業式があり、子供たちが通信簿をもらってきます。数年前ですが、 地元のテレビ局から出演依頼がありました。「終業式で子供たちが通信簿をも らってくる前に、悪い通信簿の上手なしかり方を教えて下さい」ということでし た。テレビ局で話を聞いて愕然としたのですが、親が「あんたのお兄ちゃんは、 もっとよくできた」とか、「お姉ちゃんはもっといい成績ばかり取ってきた」と か「近所の○○君はもっといい成績を取っているらしいね」と比べているので す。兄弟であっても一人の人格ですから、別人です。それを別人格と比べられた ら、本人はとてもつらいだろうし、だめだという、レッテルを自分で貼ってしま うかもしれません。これが「あなたは一学期はこうだったのに、二学期はどうし たの」と言われたら、自分の勢力のなさに気がつく子供はたくさんいると思うの です。しかし、能カも育ちもすべて違う人間と比べられて優劣を決められたら、 どうしようもない。
世の中には、支えてくれる人がいるから、自分が成り立っていることに気がつ かない人がたくさんいるのです。一番の子供は、すべて一番と思っているから、 世の中に出たときに挫折することが多くなってくる。四十番の子供は決してつま らない人間では なく、四十番という役割を果たしている。そのときに、一生懸命努カした四十番 かどうかということの方が、もっと大事になってくるのです。われわれは単純に 一番と四十番の子供を比べて、一番は優秀だ、四十番はつまらない、というレッ テルというか烙印を押してしまう。そういうときに、四十番だったら、三十九人 を支えてやっている優しい子供だと思うような発想の転換が、必要になってくる のではないかと思うのです。
一人ひとりの子供に生きる世界があり、それぞれの能カがある。そして、そ
の役割がある。そのことを認めてあげることが今、大事なことだと思うのです。
合掌