小平の水道 もどる
東京の水道の歴史(東京都水道局HPより
http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/pp/rekisi/s_history.htm
1 承応元(1652 )年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立て、
町人の庄右衛門、清右衛門兄弟の提出した設計書の検討及び実地踏査の結果、
工事請負人を庄右衛門、清右衛兄弟に決定し、総奉行に老中松平伊豆守信綱、
水道奉行に伊奈半十郎忠治(没後は半左衛門忠克)を命じました。
承応2(1653 )年4月4日着工、11月15日羽村取水口から四谷大木戸までを
白堀でわずか8か月(この年は閏年で6月が2度あるため8か月となる)
で掘り上げました。羽村から四谷大木戸までは約43 キロメートル、
標高差はわずか約92メートルの緩勾配を、羽村からいくつかの段丘を
這い上がるようにして武蔵野台地のりょう線に至り、そこから尾根筋を
巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する自然流下方式による導水路で、
工事には多くの労力が費やされたと思われます。承応3(1654 )年6月には
虎ノ門まで地下に石せき樋ひ・木もく樋ひによる配水管を付設し、
江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の台地や芝、京橋方面に至る市内の
南西部一帯に給水しました。玉川上水開設から3年後の明暦3(1657 )年、
江戸の町は火災(明暦の大火。俗に振袖火事)により大半を焼失してしまいます。
このとき江戸城天守閣も焼け落ちてしまいました。幕府は、この災害を契機として
大幅な復興再開発を行い、江戸はさらに周辺部へ拡大発展します。
拡大した江戸周辺地域に給水するため、万治・寛文年間(1658〜1672 年)に
亀有(本所)上水、青山上水、三田上水が相次いで開設され、
元禄9(1696 )年には千川上水が開設されます。
亀有上水は中川を水源とし、他の3上水はいずれも玉川上水を分水して
水源としました。亀有上水は本所・深川方面に、青山上水は
麻布・六本木・飯倉方面に、三田上水は三田・芝方面に、
千川上水は本郷・浅草方面にそれぞれ給水されました。
このように、元禄から享保にかけて6系統の上水が江戸の町を潤していました。
ところが、8代将軍吉宗の時代の享保7(1722 )年に亀有・青山・三田・千川の
4上水が突然廃止されてしまいます。これは当時の儒官、室鳩巣むろきゅうそうの
「江戸の大火は地脈を分断する水道が原因であり、したがって上水は、
やむを得ない所を除き廃止すべきである」という提言が採用されたものであると
いわれています。また、上水を廃止しても、堀削技術の向上によって堀井戸から
清浄な水が得られるようになったことや、水道維持の困難性なども理由の一つに
挙げられていますが、幕府直轄領である武蔵野の新田の田用水への配慮から、
上水を廃止したのではないかという説も今日では有力となっています。
こうして江戸時代の後半は、神田上水と玉川上水が100万都市江戸の人々の
暮らしの基盤となり、この2上水が江戸から明治へと流れ続けていきます。
2 文明開化と江戸上水明治維新を経て、東京は近代国家日本の首都として
新たに歩み始めました。文明開化のかけ声とともに、欧米の諸都市を目標とした
街づくりが行われました。新橋・横浜間に鉄道が開通し(明治5(1872)年)、
銀座には煉瓦街が誕生して(明治6(1873) 年)ガス灯が輝く
(明治7(1874) 年)など、東京の風景は急激に変化していきます。
しかし、地下を流れる水道は依然として江戸時代の神田・玉川上水のままでした。
当時は浄水処理がほどこされていない河川水そのものが地下に埋設された
石せき樋ひ・木もく樋ひによって市内の上水井戸に配水されていたのです。
しかも、維新後の混乱で水道を所管する組織が変転し、上水の管理が
一時おろそかになってしまいました。玉川上水路に通船を許可したり
(明治3(1870 )年〜5(1872) 年)、水道料金の徴収も行われないという時期
(明治7(1874) 年まで)もありました。
十分な補修も行われない木樋は腐朽し、水質は悪化しました。
また、上水は自然流下で圧力がないため、火災の消火に威力を
発揮することはできませんでした。このため、上水の改良、特に鉄管による
有圧水道の創設が求められるようになりました。
明治7(1874 )年、政府は上水の改良の検討を始め、
内務省土木寮雇ファン・ドールンに改良意見書や改良設計書を提出させます。
一方、東京府も明治9(1876 )年、東京府水道改正委員を設置して、
上水改良の方法や費用を調査し、明治10(1877 )年に
「府下水道開設之概略」としてまとめ、明治13 (1880 )年には
「東京府水道改正設計書」も作成しました。
ファン・ドールンや東京府水道改正委員の設計は、いずれも原水を
沈殿、ろ過して鉄管で圧送するというもので、東京近代水道の原形がここにようやく
示されたことになります。しかし、近代水道の創設には巨額の費用を必要とし、
また道路整備など都市計画全体との調整を図ることが必要なため、
さらに検討を加えていくこととなりました。東京府は、近代水道創設の検討を
進める一方、既存の木樋、上水路の補修を行い、水源汚染の取締りを強化する
などして、飲料水の安全確保に腐心していました。こうしたなかで
明治19(1886 )年、コレラの猛威が東京を襲いました。それまでにもしばしば
コレラの流行はありましたが、この年は死者が1万人近くにも及ぶという事態で、
加えて水源である多摩川沿岸でコレラの汚物流出騒ぎも起こり、
上水の信頼は大きく揺らぎます。このことが近代水道創設促進に拍車を
かけることとなりました。
3 東京近代水道の青写真明治21(1888 )年8月、東京の各種都市施設を
整備するため「東京市区改正委員会」が政府に設けられます。
同委員会は、上水改良は現下の急務であるとして、内務省衛生局雇間技師
バルトンを主任とする7名の設計委員による改良水道の調査設計に着手します。
同年12 月には第一報告書が作成されました。ほぼ時を同じくして、
民間による東京水道会社設立の動きがありました。横浜水道を設計した
英国技師パーマーがこの設計に携わっており、設計案を内務省に提出します。
東京市区改正委員会は、バルトン等の設計案と、パーマーの設計案の比較検討を
ベルリン市水道部長ヘンリー・ギルに依頼し、さらに来日中のベルギーの
水道会社技師長アドルフ・クロースにも意見を求めるなど幅広くかつ慎重に
調査を進めました。明治23(1890 )年3月、バルトン等設計委員は、
それまでに示された諸見解を踏まえて第二次報告を作成します。
その概要は、玉川上水路により多摩川の水を千駄ヶ谷村の浄水工場に導き、
沈殿・ろ過した後、麻布及び小石川の給水工場へ送水し、浄水工場に併設された
給水工場を含めて3箇所の給水工場からポンプ圧送あるいは自然流下で市内に
配水しようとするものでした。明治23(1890 )年7月、この案は内閣総理大臣の
認可を得、東京府知事により告示されますが、明治24(1891 )年11 月に開設された
東京市水道改良事務所の技師・中島鋭治によって再検討され、変更されます。
その内容は、浄水工場設置場所を淀橋町に、給水工場設置場所を本郷及び芝へと
変更し、和田堀、淀橋間に新水路を築造するというものでした。
こうして東京近代水道創設の青写真は整い、あとは着工を待つのみとなりました。
4 近代水道起工式明治26(1893 )年10 月22 日、淀橋浄水工場建設予定地で、
改良水道起工式が盛大に挙行されました。参列者のために上野駅及び新橋駅から
特別列車が仕立てられ、来賓は3 千余名の多数に及びました。しかし、
府知事の設計告示(明治23(1890 )年7月)から既に3 年以上もの年月が
経過しており、起工式に至るまでには様々な紆余うよ曲折がありました。
設計告示後の明治23(1890 )年9月、市会は水道建設及び関連する道路建設等の
費用総額1千万円の市区改正予算を全員一致で可決しました。事業期間は、
明治24 年度から5 年間で、財源はすべて公債でまかなうこととしました。
当時の東京市の一般財政の規模は50 万円程度に過ぎなかったので、
5 か年継続事業とはいえ1 千万円にものぼる市区改正予算は巨額なものでした。
公債発行に当たって、市の公債が政府の公債と同等の価値を保証されるよう政府に
働きかけましたが、思うようにいかず約1 年が経過してしまいました。
やむを得ず明治24 (1891 )年10 月に、市は政府の許否にかかわらず市公債の
募集を開始しました。公債発行の遅延で、当初予定した明治24 年度の工事開始は
見送られましたが、この間、巨額な工事費を投じてまで水道を建設する必要はない
との意見を中心とした工事反対の世論が高まってきました。このため、公債募集を
開始したにもかかわらず、着工できない事態となりました。こうした事態を
打開するため、市会は市区改正経済審査委員を選任し、問題点の調査検討を行う
こととしました。同委員は、「水料」収入方針を明確にし、道路事業の財源の一部を
水道建設に充て、また公債の一部募集延期、配水工費の分納・助成等を決める
などして市民の納得を得るよう務めました。こうして、明治25(1892 )年4 月に
至り、市会は前年12 月に提案された用地買収の案件をようやく
可決することができました。
用地買収は、淀橋に限らず本郷、芝、新水路予定地等施設建設予定の各所で
難航しますが、買収完了を待たずに明治25(1892 )年9 月、
淀橋工場仮事務所盛土工事に着手し、12 月から本工事が開始されました。
一方、水道建設に要する鉄管は、総重量4 万5 千トン余に及ぶ膨大な量であり、
当時の国内の鉄管生産体制からみて、多量の鉄管の調達方法は大きな課題でした。
外国製品の採用も視野に入れ検討した結果、国産品の採用にふみきり、
明治26(1893 )年4 月、新規に創立された鋳鉄会社と契約を締結しました。
契約後、鉄管に表示する記号を画数の多い日本文字から簡単なマークに
変更したことをめぐって、市参事会と市会は一時混乱しますが、
明治26 年度に入って施工体制は軌道に乗り、この年の秋、
盛大に起工式を開催することができたのです。
5 近代水道の完成近代水道の第一歩である創設水道の建設は、盛大な起工式も
済ませて順調に進むかにみえました。しかし、鉄管の納入をめぐって思わぬ
事態に直面します。東京市はすでに国産品の鉄管を使用することとしていましたが、
契約した製造業者の体制が十分に整わず、鉄管の納入が大幅に遅れるという
事態になりました。やむをえず明治27(1894 )年2月に外国製品も購入することを
市会で決議し、ベルギーやオランダの鉄管を購入することとなりました。
鉄管問題はさらに悪化し、国産品製造業者が東京市の検査で不合格となった
鉄管を合格品と偽って納入するという不正事件を引き起こすに至ります。
明治28(1895 )年10 月、この事態が明るみに出て刑事事件となり、
府知事の辞職、市会の解散などの政治問題へと発展しました。このため、
すでに布設した鉄管を掘り起こして再検査を行うという面倒なこととなり、
工事の進ちょくに影響を与えました。また、明治27(1894 )年8月には
日清戦争が勃発したため、資材や労働力の不足、諸物価の高騰等に苦慮し、
工事の進行は予定どおりには進みませんでした。しかし、幾多の障害を克服して、
新水路の築造、淀橋浄水工場、本郷・芝給水工場の建設、鉄管布設工事は進められ、
明治31 年(1898 )秋ごろまでには創設水道の主要施設がほぼ完成しました。
こうして、明治31(1898 )年12 月1日、淀橋浄水工場から本郷給水工場を経て
神田、日本橋方面に初めて近代水道が通水されることとなったのです。
給水範囲は、その後、鉄管の敷設にあわせて順次拡大され、明治32(1899 )
年末までにほぼ当時の市内全域に及び、この年の12 月17 日、淀橋浄水工場で
創設水道の落成式が盛大に挙行されました。近代水道の通水に伴って、
江戸・東京の人々に親しまれてきた神田・玉川両上水はその役割を終え、
明治34(1901 )年6月に市内への給水を停止しました。
近代水道創設に当たって計画した施設の給水能力は日量17 万立方メートルでしたが、
建設の途中で増強され、完成時には日量24 万立方メートルに達しました。
創設水道の施設がすべて完成するのは明治44(1911 )年のことですが、
このときには早くも拡張計画の準備が進められていました。
6 大正期の拡張事業東京市の創設水道は、当初計画していた施設能力を増強して
明治44(1911 )年にすべての工事を完了しました。しかし、増加の一途を
たどる東京市の水需要は創設水道の施設能力ではまかないきれないことが
既に明らかとなっていました。このため東京市は、創設水道の工事完了を目前にした
明治42(1909 )年4月、水道拡張の調査を東京市区改正委員会に依頼し、
委員会は中島鋭治工学博士らにこの調査を嘱託しました。中島博士は
明治44(1911 )年12 月、調査の結果を2案にまとめ市区改正委員会に報告します。
第1案は大久野村(現在の日の出町)に貯水池を設けるもので、第2案は村山に
貯水池を設けるものでした。両案とも多摩川上流で取水し、貯水池を築造して
貯水する点は共通ですが、その位置の違いにより工事の難易、費用、水質等に
差がありました。市区改正委員会は審議の結果、明治45(1912 )年5月に
村山貯水池案を採用することに決定します。村山貯水池案の概要は、多摩川の水を
羽村で取り入れ、村山貯水池に導いて貯水し、ここから境浄水場へ導水して
浄水処理を行い、和田堀浄水池を経て市内へ給水するというものです。
この水道拡張計画は、大正元(1912 )年9月に内閣の認可を受け、
翌2年6月には市会の議決を経て、大正2年度から8年度に至る継続事業として
総工費2,072 万円をもって施行することとなりました。この拡張事業は、
その後第二、第三の拡張事業が実施、計画されることとなったので、
後に第一水道拡張事業と称せられることとなります。
大正2(1913 )年11 月に水道拡張事務所を設置して測量調査を開始し、
設計に多少の変更を生じましたが、大正5(1916 )年6月には村山貯水池の
起工式を挙行して下貯水池の堰堤工事に着手しました。その他の工事も
逐次起工されました。羽村から村山貯水池に至る羽村村山線や、村山貯水池から
境浄水場に至る村山境線の隧道工事では、多量の湧水のため苦労を重ねました。
しかし、こうした施工上の課題のほかに工事の進行を妨げたのは、
第一次世界大戦による経済の混乱でした。大正3(1914 )年、欧州で勃発した
大戦は4年後に終結しましたが、その影響は我が国の経済にも及びました。
拡張工事を進めるに当たって材料、労働力の確保が困難となり、公債の発行も
予定どおりに進まず、大正6(1917 )年には事業年度を2か年延長して
10 年度までとする措置を講じました。大戦後も経済の混乱はおさまらず、
大正9(1920 )年には、事業を2期に分割して実施するということに改めました。
すなわち、第1期工事を事業費3,610 万円として大正2年度から大正12 年度まで、
第2期工事を事業費1,150 万円として大正13 年度から大正17 年度までとしました。
ようやく経済状況も落ち着き、拡張工事は円滑に進行して、第1期工事が予定どおりに
完了するという見通しがたったとき、大正12(1923 )年9月1日、
大地震が東京を襲いました。このため、第一水道拡張事業第1期工事は、
予定の工期を1年延長して大正13 年度に完了しました。
7 第一水道拡張事業完成関東大地震(大正12(1923) 年9月1日)は、
東京に壊滅的な被害を与えました。水道施設も各所で破壊され、広範囲にわたって
断水を余儀なくされました。東京市は全力をあげて応急修理にあたり、
ほぼ通常の給水状態に復旧したのは3か月後の12 月のことでした。
第一水道拡張事業第1期工事は、大正13 年度をもってひとまず終了しましたが、
震災の混乱でとても第2期工事に移れる状況ではありませんでした。
第1期工事で施工を完了した主な施設は、羽村村山線(導水路)、村山上貯水池、
村山下貯水池堰堤の下半分、境浄水場、境和田堀線(送水管、導水路の一部)、
和田堀浄水池等でした。これによって、日量約14 万立方メートルの施設能力が
増強されました。しかし、所期の給水を確保するためには村山下貯水池堰堤の
残工事等を一刻も早く完了させる必要があるので、帝都復興事業としての
水道復興費を充て、水道復興速成工事を大正13 年度から施行しました。
この工事によって昭和3年度までに村山下貯水池が完成し、境浄水場の施設能力が
増強され、和田堀浄水池と境浄水場間の送水管が整備されました。一方、
第一水道拡張事業を完遂させるため、当初の計画を見直し、新たに山口貯水池の築造、
和田堀浄水池増強、配水管布設延長の増加等の変更を行い、これに当初予定の
残工事をあわせて第2期工事を施行することとしました。第2期工事の設計は
昭和2(1927 )年8月に内閣の認可を受け、各工事が順次着工されました。
山口貯水池堰堤盛土工事は昼夜3交代で行われるなど順調に進みましたが、
配水管布設工事における用地買収の難航や道路関連工事の遅延等により
第2期工事全体が完了したのは昭和11 年度となりました。
こうして大正2(1913 )年に開始された東京水道最初の拡張工事は、
24 年の歳月を経てすべて終了しました。山口貯水池の通水式が行われた
昭和7(1932 )年10 月15 日の直前、10 月1日に東京市は隣接5郡82 町村を
合併して市域を拡張し、いわゆる「大東京市」が誕生しました。旧東京市の周辺は、
大正半ば頃から市街化が進み、大震災後はさらに都市化の進展に拍車がかかりました。
このため近隣町村でも相次いで水道が創設され、町営8水道、町村組合経営2水道、
民間3水道の13 の水道が経営されていました。合併に伴い公営の10 水道は
東京市水道に統合され、民間の3水道も昭和20(1945) 年までに順次東京市に
買収されました。これにより、現在の23 区にほぼ匹敵する範囲を給水区域とする
東京水道の原形が形づくられたのです。
8 相次ぐ拡張事業第一水道拡張事業は、東京水道の施設能力を創設水道の
ほぼ2倍に相当する日量48 万立方メートルに増強しようとするものでした。
しかし、東京の急激な発展や1人当たりの水使用量の増加等によって給水需要は
増加の一途をたどり、第一水道拡張事業の完了(昭和11 年度)を待たずに
新たな拡張事業が計画されることとなりました。昭和2(1927 )年10 月、
新たな拡張事業を調査審議するため、市長の諮問機関として
東京市臨時水道拡張調査会が設置されます。調査会は、利根川・江戸川、荒川、
相模川を水源とする拡張案を順次調査検討しましたが、いずれも水利権との
関連等から不調に終わり、最終的に多摩川を水源とする拡張案がまとめられました。
この拡張計画は、小河内貯水池及び東村山浄水場の建設を主体とし、
日量42 万5千立方メートルの施設能力増強を図る第二水道拡張事業として、
昭和7(1932)年7月13 日、市会の議決を経ました。翌8月末までに、
関係法令に基づく認可申請も済ませ順調に推移するかに見えましたが、
多摩川下流で農業用水を取水している稲毛川崎二ヶ領普通水利組合の異議により
認可が大幅に遅れ、昭和11(1936 )年7月に至ってようやく関係法令に基づく
認可がそろいました。一方、小河内貯水池の建設によって水没する小河内、
丹波山、小菅の各村民は、昭和6(1931 )年6月に計画が発表されると
当初は建設に反対しましたが、やがて東京市民のためということで協力の立場に
たちました。そして近々開始されるであろう土地売却、移転に備えて農作業などの
生活の段取りを取っていました。しかし、二ヶ領用水の問題で事業は一向に
進展しないまま数年を経過したので、土地は荒廃し、生活にも困窮する事態と
なりました。このため、村民は関係機関に何度となく陳情を繰り返し、
事業の早期開始を必死の思いで訴えました。昭和11 年に拡張事業が開始されると、
市と関係者との間で移転補償、用地買収の交渉が始まりましたが、
なかなか合意に達せず、用地問題が解決したのは昭和13(1938) 年6月でした。
こうして、この年の11 月12 日小河内貯水池の起工式を行うことができました。
第二水道拡張事業は、20 年にもわたる長期計画であり、しかも事業開始が
遅れていることなどから、その間の応急措置として、金町浄水場、砧下浄水場の
増強により日量27 万6千立方メートルを確保しようとする水道応急拡張工事が、
昭和11(1936 )年8月に着工されました。また、既存の施設を改善して、
少しでも給水量を増加させようとする配水施設拡張工事が、昭和13(1938 )年3月に
着工されました。さらに、第二水道拡張事業が計画どおり完成したとしても
東京市の安定給水確保は困難であるとして、新たな水源を調査するため市長の
諮問委員会として水道水源調査委員会が昭和12(1937 )年4月に設置されました。
委員会は、関東周辺のあらゆる水源を調査検討し、昭和15(1940 )年10 月、
利根川を水源とする第三水道拡張計画案を答申します。第三水道拡張事業は、
日量156 万7千立方メートルの給水を目標とし、13 ヶ年の継続事業として
昭和16(1941 )年3月に市会の議決を経て、5月には所定の認可申請を行いました。
この他、相模川を水源とする川崎市の余剰水の分水を受け、給水不足の著しい
城南方面の給水を強化しようとする城南配水補給施設事業が、
昭和19(1944 )年1月に認可されました。このように、昭和に入って拡張事業が
相次いて計画、実施されました。しかし、昭和12(1937 )年7月に始まった
日中戦争、昭和16(1941 )年12 月に突入した太平洋戦争により事業は
次第に厳しい局面に直面し、昭和18(1943 )年以降、第二水道拡張事業、
応急拡張事業、配水施設拡張事業はいずれも中止を余儀なくされ、
第三水道拡張事業は認可を受けないまま、城南配水補給施設事業は
着工に至らないまま終戦をむかえました。
9 戦後復興と小河内貯水池の完成戦災によって東京は焼け野原となりました。
水道施設も大きな被害を受けました。導水路、浄水場、配水管等の基幹施設は
壊滅的被害を免れましたが、家屋の火災等によって給水装置の約70 %を失いました。
このため焼け跡のいたるところで漏水が発生し、漏水率は80 %にも及んだと
推定されます。あたかもザルに水を注ぐようなありさまでした。やむをえず
給水管(鉛管)の先端を叩きつぶして漏水を停止させるという、
被災直後から行われていた応急作業を続け、昭和20(1945 )年10 月までに
焼失区域全域に応急措置を施しました。次いで、漏水防止事務所を設置し、
本格的な漏水防止に向けて順次体制を強化して昭和24(1949 )年3月までに
漏水率を30 %程度までに改善させました。こうした戦後の混乱に追い討ちを
かけるように昭和22(1947 )年から24(1949 )年にかけて連続して台風が
関東地方を襲いました。出水、激流等によって水道施設の機能が損なわれ、
断減水を余儀なくされました。このような戦災や台風被害に加えて経済の混乱など
極めて厳しい状況の下にありましたが、水道の戦後復興は着々と進められました。
局内、局外のさまざまな検討を踏まえて、戦争で中断されていた拡張事業が
再開されます。まず、応急拡張事業が再開されました。金町浄水場、砧下浄水場の
増強を主体とするこの事業は全工程の40 %を残して中断されていましたが、
その残工事に配水施設拡張事業で計画されていた杉並浄水場の増強等を加え、
昭和23(1948 )年8月に工事再開に至り、昭和28(1953 )年3月に事業を
完了しました。応急拡張事業再開の翌月9月、第二水道拡張事業の根幹施設である
小河内貯水池建設工事が再開されました。ところが、工事再開に先立って
思わぬ問題が生じていました。それは用地問題です。
都では買収済み用地内の農地について、食糧増産の必要から小河内、丹波山、
小菅の各村民に自主的耕作を許可していました。ところが昭和21(1946 )年に
農地改革の一環として「自作農創設特別措置法」が公布されると、
都はいわゆる不在地主であるとの解釈から地元の農地委員会等が逆に都有用地を
買収しようとする手続きをとりはじめました。それでは小河内貯水池の建設は
不可能となってしまいます。都は、地元各村、山梨県等への説明説得を精力的に
行い、農林省等への折衝も重ねた結果、昭和24(1949 )年2月までに農地の難問は
ひとまず決着が図られました。その後も引き続き水没補償問題や移転の善後措置等を
地元と協議し、昭和26(1951) 年3月に小河内村と、昭和27(1952 )年7月に
丹波山村、小菅村と覚書が交わされ多年の懸案はほぼ解決されました。
小河内貯水池建設には、資金、機材の調達難、大規模工事施行に伴う新技術の
開発、導入等種々の難問題に直面しましたが、関係者のたゆまぬ努力により、
昭和32(1957) 年11 月26 日には竣工式を迎えることができました。
着工以来20 年余の歳月を経て完成した小河内貯水池は、都民の公募により
「奥多摩湖」と呼ばれるようになりました。戦後再開された拡張事業には、
以上のほか相模川系水道拡張事業があります。戦前、城南配水補給施設事業として
認可を受け、未着工となっていたものです。戦前の計画は川崎市からの浄水の
暫定分譲でしたが、これを原水の永久的分譲に改めて再開することとしました。
しかし、分水協定の改定をめぐって、都、神奈川県、川崎市の交渉は難航しました。
しかし、当時の城南地区の厳しい給水状況を一刻も早く改善するため、
分水協定の改定を待たずに、昭和25 年度に着工に踏み切りました。
昭和28(1953 )年3月に多摩水道橋が完成し、昭和30(1955 )年2月には
分水協定書が改定され、昭和34(1959 )年3月にはこの事業の主体施設である
長沢浄水場が完成しました。こうして相模川からの水は、日量20 万立方メートルの
水道水となって城南地区に配水され、低劣な給水状況は大幅に改善されました。
10 危機を乗り越えて「安心」へ向かって歩み続ける東京の水道小河内貯水池の
完成に続いて、昭和35(1960 )年には東村山浄水場が通水を開始しました。
しかし、東京の水需要は高度成長経済による人口や産業の集中、生活様式の
多様化等に伴って急激に増大してとどまるところをしらず、加えて、この時期の
多摩川は毎年のように渇水に見舞われました。降水量が少ないうえに、
過大放流を強いられた小河内貯水池はたちまち底をついてしまいました。
急増する水需要の当面の対応として、金町浄水場の施設能力を増強させる方策が
とられました。江戸川からの取水を増加させ(江戸川系拡張事業、
日量9 万5 千立方メートル、昭和38(1963 )年通水)、また中川の余剰水を
江戸川へ導いて取水する(中川・江戸川系緊急拡張事業、日量40 万立方メートル、
昭和39(1964 )年通水)といった事業があいついで行われました。一方、根本的な
対応策として、東京にとって長年の悲願である利根川からの取水に向けて着実な
努力が払われていました。昭和38(1963 )年11 月に利根川系拡張事業の認可を受け、
昭和39(1964 )年4 月に起工に至ります。ところが、この年は昭和36(1961 )年から
毎年続いていた多摩川の渇水が、最大の危機に直面しました。5 月から雨が少なく
7 月には極めて深刻な事態となり、10 月開催の東京オリンピックへの影響が
心配されました。7 月22 日、国、水資源開発公団、都の関係各者で
東京都水不足緊急対策会議がもたれ、利根川からの通水を1日も早く行うことが
最良の策であるとの結論に至ります。文字どおりの突貫工事で、公団は秋ケ瀬取水堰と
朝霞水路の工事を、当局は朝霞・東村山浄水場間の原水連絡管工事を急ぎ、
8 月25 日には荒川の水が東村山浄水場に導水されたのです。
昭和40(1965 )年3 月に利根川・荒川間を結ぶ武蔵水路がほぼ完成し、
ここに利根川からの取水が実現されました。その後、4次にわたる
利根川系水道拡張事業によって、朝霞(昭和41(1966 )年)、
小作(昭和45(1970 )年)、三園(昭和50(1975 )年)、
三郷(昭和60(1985 )年)の各浄水場が新設、増強され、既設の金町浄水場も
増強されました。また、給水所、幹線網等も整備されました。
新しい浄水場が次々と建設される一方、昭和40(1965 )年3 月、
東京近代水道のさきがけとなった淀橋浄水場が新宿副都心計画の具体化に伴い、
その機能を東村山浄水場に移して廃止されました。
日量24 万立方メートルの施設能力でスタートした東京の近代水道は、
現在では日量696 万立方メートルで世界有数の水道に発展しました。
東京の水道は、ライフラインとして都民の暮らしを支え、都市活動に
不可欠なものとなっています。しかし、頻発する渇水、水源水質の悪化、
震災時の給水確保、施設の老朽化等多様な課題をかかえています。
将来に向けて安全でおいしい水を安定して供給していくため、
江戸・東京水道の先人たちが築いてきた偉業に学びつつ、
新しい社会の潮流を踏まえて東京の水道は「安心」に向かって歩み続けます。
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