[戻る]
2001年

[98] 今年、最後の・・・ 投稿者: 投稿日:2001-12-30 (Sun)
明日からこの『エッセイ』も正月休みをもらい
来年の4日から書き始めようと思っています。
2001年、S−PROJECTのホームページを立ち上げ
約4500回のアクセスをいただいている事に感謝し、これからも
より一層、勝手気まま、思いのまま、書き綴っていきたいと思いますので
来年もどうかよろしくお願いします。
物質が豊かになっていく反面、人の情、人情が希薄になっていっているように
「今の日本」が映ってなりません。核家族化をもたらしたのは
物を一人一人の人間が持ちたいという事から来たものではないかと
感じています。よかれあしかれ、昔の物が今のようになかった時代には
テレビ一台を家族何人もで共有して見ていました。車も家に一台しか
なかったから家族みんなでドライブに行きました。
狭い家でも家族が寄り合って暮らしていました。寒さでノラ猫ちゃんたちが
体を寄せ合い、暖をとっているかのように。
私の望みは、いかに「情」のわかる人々がこの社会に増えて、笑顔のたえない
明るい社会になっていけばなぁということです。
「思いやり」という言葉がありますが、一方的な「思いやり」は偽善であり
思いを受け取る側の事を配慮した「思いやり」でなければ本当のものとは
言えないでしょう。そして、その受け手に対する配慮する気持ちのことを
人間の「情」と呼ぶのではないかと思っています。
今年の私のスローガンは『凛として人に優しく』でしたが
来年の四日には新しいスローガンを決めてこの場を借りて
発表させていただきたいと思っています。
本当に今年、出会った人々(実際にお会いした方、ネットでこちらに
来られた方)に感謝の気持ちでいっぱいです。
同じ時代をすごしているだけで凄いことなのに
何かの縁でここまで、たどり着いていらっしゃるのですから。
出会ったすべての方々にとって「いい年」でありますように。
祈ってやみません。どうか良い2002年を。そしてS−PROを
今後ともよろしくお願いします。では。


[97] 徒党・集団論 投稿者: 投稿日:2001-12-28 (Fri)
徒党をくむのが大嫌いである。
一匹狼がいいとも思わないが、自分流・自己流の人物でいたいと
いつも思っている。だいたい世の劇団の成立過程をみても
同じ学校出身のクラブ活動でいっしょだったミーちゃん・ハーちゃんといった
仲良しクラブの「自分ひとりではどうしようもできない」弱い人間たちが
集まって劇団をつくる例が多い。それは、それで自然の成り行きで
苦言を呈しようとは思わない。問題はその後である。
頭のいい指導者というか船頭がいるかいないかで、その集団が
つぶれるか発展するか決まる。馬鹿なアホな船頭を持てば
その集団を守りたい・崩したくないという狭い視野しかもてないため
血を入れかえなくなり息苦しくなり、その集団は必ず滅びる。
利口で賢い船頭であれば、いろいろな血をいれかえたり、自分の集団の中に
いる人間などを外部に出向かせたり、いろいろと空気を新鮮にする作業を
する。おおまかに分けた、この「二つ」の道のうちどちらを選択するか
これが問題である。
演劇にかぎらず、今の特に、十台後半から二十台前半の人の「情」を
わからない人間が馬鹿な船頭になるケースが多いという感じがする。
まぁ、この年代で人をまとめてゆくには無理があるからなぁ。
人にたいする優しさもなく人間としての「情」もないから
麻原オウム教祖のように偉そうなことを言うことはできる。
それを虐めを受けてきた弱い人間なんかはマインド・コントロールを受けて
いいなりになって自分を見失う。
そういう状態になっている人々をどのように救ったらいいのか
考えてみても洗脳から解き放つには時間がかかるように思える。
いつか、いつの日にか地獄に落としてやるからな、その悪・船頭を!
君は弱くない。自分の足でこの大地にたつことができるんだよ!
闘いは、今、始まったばかりである。


[96] ビートルズ世代 投稿者: 投稿日:2001-12-26 (Wed)
今年、亡くなった人の中でで私がとっても残念に思っている人物が一人いる。
それは、「ジョージ・ハリソン」である。
歌謡曲(アイドル系)しか知らなかったのは小学時代だった。
テレビしか音楽ソースがなかったからであろう。
中学生になりラジオを聞くようになった。
今までと違う音楽がいっぱい流れてくるではないか。
ラジオ聞くのが楽しみでしかたなかった。その時、初めて買ったアルバムが
オリビア・ニュートンジョンの「カントリーロード」や「ジョリーン」とか
入ってるものだった。まぁ洋楽に出会ってウキウキいてる「ちょっとませた
中学生」って感じでしょうか。そんな頃、ビートルズに出会った。
友人の松本悟君が私にいきなり(本当に突然に)「これ貸したるわ。」
と言って持ってきたのがビートルズの赤と青のアルバムだった。
彼は音楽好きの姉の影響で早くからビートルズを聴いていたようで
本当にいろいろと詳しかった。
「真剣に聞けや。ほんまにええから。ちなみに俺がこのアルバムで
一番ええと思ってるのは『I am the WALRUS』やけどな。」
当時から人の言うことを素直に聞く私であったから、彼のいうとうり
真剣にこのビートルズのアルバムを聞いてみた。
全部で54曲あった。赤が初期で青が後期のものであった。
感想は言葉にできないほど「感激」したものだった。
「なんじゃこりゃ。なんじゃこりゃ。」の連発って感じで
どの曲を聴いても新鮮であり、飽きることがなかった。
それ以来いままで、ことあるたびに「ビートルズ」の曲が浮かんでくる。
京都は百万遍を西に少し入ったところに「RINGO」という喫茶店がある。
いつもビートルズの曲が流れていた。いきつけではなかったが
月に何度かは行っていたことを思い出します。
ちなみに余談ですが、そこのピザは絶品でした。行かれたらどうぞ。
今、残ってるのはもうこの店の名前の方と「ポール」だけになって
しまったのは心さみしいばかりです。
初めて涙した曲もビートルズだったし、学生の頃からはじめた芝居で今まで
一番よく使った曲も多分ビートルズであっただろうと思います。
あの時、悟君の言葉を信じてよかったと思っています。
彼らに出会わなかったなら、つまらない人生になっていたろうなぁ。


[95] 夢破れたクリスマス・イブ 投稿者: 投稿日:2001-12-24 (Mon)
そうだったのか!今年のキー・ワードは「テロ」だったのか。
アメリカ・ニューヨーク・マンハッタン・・・・
昨日の有馬記念の結果が一着「マンハッタンカフェ」二着「アメリカンボス」
馬連1−4で48650円でした。千円かけたら二分半後には
約五十万になっていたことになります。
当然、はずれたわけでありますが、そういう世相を読んだ馬券として
内親王愛子さんの生まれた日12・1から「1」−「12」というのを
考えたのですが、そんなアホみたいなのが来たら真剣に考えてる方に
悪いと思い、買わなかったのです。
それが・・・・アメリカ・テロ・ニューヨーク・マンハッタンだったとは。
宝くじは、あまりにも他力的で買わないし、パチンコも裏で操作してると
思っているのでやらない私にとって、有馬記念は、唯一の楽しみであり
少しの「夢」みれる時間であったのだけれど・・・
「やっぱり人間はこつこつと働かなきゃいけないのです。」
いつも負けるたびに、そう思います。
年末は31日まで仕事する予定になっています。
夢はいつまでも夢として地道に頑張ろねば。
クリスマス・イブには小さなショート・ケーキを食べました。
今の謙虚な気持ちのあらわれのような「小さいケーキ」です。
おごりたかぶらず、謙虚な毎日、来年のテーマがひらめきました。
それは「美しき清貧」・・・これでいきましょう。
負けたときには真摯になる自分がこう言っています。

[94] 総決算 投稿者: 投稿日:2001-12-22 (Sat)
12月も20日を過ぎ、残すところ後九日です。
競馬の世界では明日、今年の総決算として第46回有馬記念が中山競馬場で
おこなわれます。私はパドックを見て、ベットするので決めていませんが
今の段階では、TMオペラオーから人気薄のノーマークの馬へ5点くらい
買おうかなぁと思っています。
「終わりよければ総て良し」という言葉があるように、最後のG1を
的中して2001年を締めくくりたいものです。
今年のG1競走はあまりかんばしくなく、秋の天皇賞だけ単勝と連勝とワイド
を取ったくらいで、あまりいい思い出はないです。
今年は仕事もS−PROの活動も大変、忙しかったので
競馬を京都にいたように真剣にやってなかったので成績はよくなかった気が
しますが、やめようと思ったことは一度もありません。
それは、考えに考え抜いて予想をして、それが的中したときの満足感は
なにものにもかえがたいものがあるからかもしれません。
ギャンブルというよりも好きなことを続けるためには
予想も的中しなければ続かないという感覚でやっています。
芝居もいつもいつも赤字だったら続かないですもんね。
好きなことは、いつまでも永久にやっていたいです。
その意味で明日は。。。


[93] 講演会 投稿者: 投稿日:2001-12-21 (Fri)
今日は仕事すんでから、とある講演会に行ってきました。
講演会といっても難しい、おかたい講演ではなくオーストラリアの
アデレード市から日本に中学校の講師として家族で来ていらっしゃる
「アマンダ」さんによる、自国と日本との違いをスライドを使って
簡単に紹介してくださるといったものでした。
アデレード市はオーストラリアの南に位置し、緑の美しい街に見えました。
海と山に囲まれた、とっても自然豊かな印象を受けました。
彼女の話を聞いて、面白かったところは、オーストラリアでは
男性はビール4杯、女性は2杯まで飲んで車に乗ってもいいそうです。
とってもオーストラリアらしく「おおらかな法律」です。
日本は最近、飲酒運転の罰則が厳しくなったばっかりなのに。
道が広いし、そんな車も多くないので、みんな飛ばしまくっている
そうです。日本みたいに渋滞もないのでしょうね。
なんとかしてくれ!朝日橋!・・・・誰もこんな事、言わないのでしょうね。
また彼女が日本に来て驚いたことが、たくさんあった話をしてくれましたが
その中で、私が興味をもったのは、オーストラリアの小学校や中学校の
運動場と日本の運動場とは大いなる違いがあるということでした。
それはオーストリアの運動場は全部、芝をはっていて日本の様に
土じゃないということでした。彼女が日本の運動場をはじめてみたとき
ぎょえ!なんだこれは?と思ったそうです。
日本の運動場が今からすべて芝生を植えたとしたら、明るい学校に
なるのかなぁと、唯、単純に思いました。
日本の学校って、とくに高校までだけど、何か暗い感じがするのは
私だけでしょうか?
今日はすこしだけ「どこかに旅行した」感じになりました。
いろんな人々との出会い・・・大切にしたいものです。

[92] 阪神タイガース 投稿者: 投稿日:2001-12-20 (Thu)
小学校4年生の時、秋のバス旅行で行ったのは「阪神パーク」だった。
そこに入園してすぐに、江夏のサインボールと田淵のペナントを買った。
それで「お小遣い」を使い果たしジェットコースターや観覧車などの
乗り物にのる「お金」は一銭も残ってなかった。
それで満足だった。憧れの野球選手の記念の品を手にするだけで。
虎年生まれでもあるが、周りが皆(兄や祖母など)、巨人ファンだったので
ひねくれていた私はアンチ・巨人になっていったのではないかと思う。
特に田淵の大ファンで阪神パークで買ったペナントは大学いくまで
部屋にずっと飾っていた。あの対空時間の長い綺麗な放物線を描いた
ホームランは今も私の目に焼きついています。
その田淵が今日、コーチとして阪神に戻ってくる発表をし
FAで大学の後輩の片岡が阪神にくることを発表し
もう今日は正月とお盆が一度にやってきたようなハッピーな一日でした。
来年こそ・・・・・最下位脱出!
甲子園に足を運んで応援する機会が多くなるような気がしています。

[91] 現代クリスマス考 投稿者: 投稿日:2001-12-19 (Wed)
いつからでしょう。クリスマス(聖夜)をカップルで一緒に過すという
風習というか慣習というか、まぁ私にとっては、わけのわからないことです。
日本人は本当に「バカ」だと思いますね。本質をいつも問わず、理解もせず
気分とか雰囲気だけで物事をとらまえる傾向にあるんじゃないでしょうか。
「ひとりきり」のクリスマスでもいいじゃないですか。
そのひとりきりの聖夜に本棚に埋もれていた『聖書』をこっそり
ひっぱりだし読んでみるのはどうですか。ひとりで教会に行って
賛美歌を歌ってみてはいかがですか。
このままでいくと日本の「聖夜」は何年かすると「性夜」に変わってしまい
そうです。
私の家の場合、クリスマスといって別に変わったこともせず
普通の時が流れています。ちっちゃなケーキを二つ買ってきて
夫婦で食べることくらいですか。ひとりものの時も「クリスマス」だからと
いってデートもしたことないし、プレゼントも贈ったことないし
あえていうなら「クリスマス・カード」を贈ったことくらいですか。
はやくこの浮かれた「クリスマス・ウィーク」が済み、街が普通の雰囲気に
なってくれたほうが落ち着いて生活できるような気もしています。
クリスマス・幻想に酔う・甘い夜

[90] イタリア 投稿者: 投稿日:2001-12-18 (Tue)
昨日、イタリアン・レストランに行きました。
最近、どこへ食べに行っても、何を食べても、これや!って
いうのがなかったのですが、イタリア料理を久しぶりに食べてみて
自分が求めてたのは「これ」やったのかと思いました。
まず前菜がいろいろとあっていいですね。モッツアレラやカマンベール
とかチーズの種類が多いし、また生ハムやサラミやソーセイジなどの
豚肉の加工品もいっぱいあって酒飲みには「あて」にはこまりません。
美味しいお酒が飲めます。イタリアの人、概してよく飲まれるから
こういった「あて」の種類も多くなったのじゃないかなぁと
勝手に思っています。前菜たべてから、パスタとメーンの肉料理へ
ゆくのですが、パスタにしてみても特にいいなぁと思うのが
魚介類と一緒にして食べられるっていうのがいいです。
ボンゴレが大好物です。京都の河原町・今出川下ったところに
『セカンドハウス』っていうスパゲティー屋さんがあって
そこのアサリ・キムチ・スパにはまってから、スパゲティーには
アサリがないといけない体質になってしまったのかもしれません。
イタリアは日本と同じ縦に細長い国で気候もよくにていて
私的には親しみがわく国であります。まだ訪れたことはありませんが
いつか「イタリア食紀行」って感じで訪問したいなぁと思っています。
そのときまで「オーソ―レ・ミーヨ」イタリア語でちゃんと歌えるように
しておかなくては。覚えられなくても・・・そのときはケセラセラって。

[89] 食事はやっぱり・・・ 投稿者: 投稿日:2001-12-17 (Mon)
あなたは何人と食事をしていますか?
ひとり?ふたり?さんにん?よにん?
最近、大勢の人数で食事をすることがそこそこありました。
そこで気づいたことですが、やっぱ沢山の人と食事をすると
とっても食べ物も美味しいし、お酒もすすむし、話もいっぱいしるし
そうして時間をかけて食べるから消化もよくなるし・・・
いいことばっかしの気がしています。そこで人間の「幸せ」とは
という観点から、この事柄を考えてみます。
大金持ちだけれど、いつもひとりで食事している人と
貧しいけれど、いつも二人以上で食事している人では
どちらが「幸せ」なのだろうかなぁ?
お金は多くあったほうがいいけど、今の私だったら、後者の方が
お金ないけど「幸せ」だろうと思います。
日本人って食事する時間も短いし、一人でインスタント食品なんかで
済ますことが多くなってきているような気がします。
核家族化が進行して、こうなったかもしれませんが
これからは家族がだめなら友達でもいいです、ひとりではなく
いろんな人となるべく食事して生きていけたらなぁと思います。
今日はとってもちっちゃな「幸せ」論でした。

[88] 横断歩道 投稿者: 投稿日:2001-12-16 (Sun)
横断歩道がある。幅5mくらいの横断歩道である。
信号があるが、左右確認すれば簡単に安全にわたることができる。
そこでの話。
4歳〜6歳くらいの子供と母親が手をつないで、この交差点にやってきた。
信号は赤である。パターンを三つ示しますのであなたはどれでしょう?
A)赤だけど左右確認して交差点をわたる母親
B)赤であろうとなかろうと道幅が5mくらいなのでわたってしまう母親
C)赤なので必ず止まり、青に変わってから横断する母親
こんなの決まってるやん。三番目やん。守るのあたりまえやん。
皆、まもってるわ。三択で交通ルールの解答を選ぶみたいな書き方を
してるので、(C)という人が多いかもしれません。
しかし、実際には、(A)が60%、(B)が30%、(C)が10%
なのです。仕事柄、巡回をしていて数えた経験から、この数字には
信憑性があると思って頂いていいと思います。
そういった景色を見るたび、交通ルールを守らない人々が多いとか
そういうことよりも、そのときの子供はどう思って、赤信号の歩道を
横断しているのかということを考えてしまいます。
多分、家庭や学校では赤信号では必ず止まりなさいと教えられていると
思います。それが自分の母親が、そのルールを守らずに
その歩道を赤でも渡ってしまっているという事実をかいまみたとき
子供たちは大いなる戸惑いを感じるのではなかろうかと思います。
言葉という意味で子供は育つのではなく、母や父の背中を見て子供は
育つような気がしています。
まだ私は父親にはなっていませんが、この事を戒めて生きていかなくちゃ
いけないと思った『5mの横断歩道での出来事』でした。

[87] 睡眠 投稿者: 投稿日:2001-12-15 (Sat)
寒い日が続いています。姫路という場所は案外、天気予報の気温予測を
みても最低気温が神戸・大阪にくらべ低いところです。
京都と似た感じで本当に寒いです。お家ではホット・カーペットをしき
石油ファン・ヒーターをつけていますが、それでも「寒さ」を感じるのは
もう年齢のせいなのかなぁ。そして、そのカーペットの暖かさに誘発されて
テレビなんか見てると、すぐに眠くなってしまうのです。
今日は休みで9時前に起きたものの、11時くらいにテレビを見ていたら
猛烈な睡魔が襲ってきて、倒れるように寝てしまいました。
夜は夜で、外食して八時くらいに帰ってきて、コーヒーのんでパソコン
しようとしたら、また睡魔が襲ってきて、どてんと寝てしまいました。
疲れているのもあるでしょうが、私の場合「寒さ」と「睡眠」というのは
関係があって、ある一定の気温を下回ると、もの凄い睡魔を覚えるように
体ができているのかもしれません。
「体」も「体質」もだんだんクマみたいになってゆくのが
ちょっと怖くなってきているのは事実です。
「冬眠」しないように暖かくして活発に動けるようにしておく必要が
あります。もう一台、山田デンキにファンヒーター買いにいこうっと。

[86] ZEROにいくらかけても・・・ 投稿者: 投稿日:2001-12-14 (Fri)
現在、S−PROとして二回目の公演の練習や準備をしているのですが
その段階で一回目と違うなぁということを述べてみたいと思います。
それは抽象的な言葉ですが
『「0」にいくらかけても 「0」であり
 「1」に何らかの値のある数字をかけると その数字になる』
という事を如実に感じています。
「0」から立ち上げたこのPROJECTですが、一回目はもう本当に
大変でした。練習場所やら姫路のホール事情やら他の劇団の方々のこととか
まぁ全然知らないでスタートしたものですから。
その一回目を経て二回目になっているわけですが、芝居作りの面では
同じように大変さは変わりないでしょうが、いろいろな知識の面では
少し余裕を持って進行できるかなといった感じです。
また人的な面でもひろがりを持つことができるようになったのも
嬉しいかぎりです。
一回目の「ドラキュラ」(S−PROJECT第1回公演 2001夏)が
「1」という数字を生んでくれた気がしています。
昨日も「ドラキュラ」に出演した前田梓さんが遊びに来てくれました。
一度、同じ時間を過ごした仲間といった感じで練習場のドアを
開け、彼女の姿を見たときには年甲斐もなく嬉しくなってしまいました。
たまたま昨日は今回に芝居にメーンで参加する女性の方が体調不良で
休んでいたので、彼女にその役柄を読んでもらいました。
久しぶりに彼女の読む声を聞いて、あの頃(「ドラキュラ」で必死で練習
した頃)が甦ってきました。膝にあざをつくって練習した「あの頃」を。
私は見かけによらず感傷的なもので、すぐ昔を振りかえってしまう傾向が
あるのですが、それはそれで自分としてこの性格が好きなところで
いつまでも「あの頃」を財産にして生きていこうと思っています。
そして彼女が読む声を感傷的に聞きながら、またひとつ思うのは
「0」と「1」には本当に大きな違いがあるものだなぁ、、、と。
一回やってて良かったなぁ、、、と。
なぜかはっきりとは説明できないのですが、そう思ってしまったのです。
多分、その時の空気というか雰囲気というか
何も考えず、無になって練習を見ることができるというか
肩をはらずに、素直に音として耳に入ってくるというか、、、
そんなところでしょうか。漠然にいうとしたら。
こういった人のつながりを今後も大切にして「1」から「2」へ、そして
「3」と徐々に、この街でひろげていけたらいいなぁと思います。
もう『ZERO』に戻ることはないのですから。




[85] リズム感 投稿者: 投稿日:2001-12-13 (Thu)
新しく書いたシナリオを渡し、役者の人々に読んでもらっています。
その時、目をつむって彼らが発する音を聞く作業をします。
千差万別、いろんなリズムで各々読んでいます。
自分勝手な自己流のリズムで各自、読んでいるものだから
対話のところなどは不協和音って感じで聞き苦しいところもありました。
しかし、何度も何度も大声だして、気合入れて読んでいくうちに
それがしだいに薄れていきました。きれいなハーモニーまではいかないものの
不協和音からは脱したかなと思うくらいに。
人間には根源的に調和しようという意識があります。
何度も読んでいくうちに、相手のリズムと自分のリズムが同化してゆくように
自然となっていくものだなぁと感心しました。
しかし、いろんなリズムを引き出しにもってないと、いくら調和しよう
としてもテクニック的には無理なものがあります。
だから、役者をやる方にはいろんなリズムをだせるように
色んな音楽を聴いてほしいなぁと思いました。好きな音楽ばかり聴かずに
たまには「おっちゃん」の好きな演歌を聞いてみるとか、インド音楽を
聞いてみるとか、、、etc
シナリオを書いた作家、とくに演劇としてシナリオを書いた作家の
ほとんどの方が、一行一行の文において、口にだしたときのリズムを考えて
台詞を書いています。いい作品のほとんどが、心地良いリズムを
かもしだしているといっても過言ではありません。
その「心地良いリズム」を大切に表現するのは役者であり
その音を指揮するのが演出家であると思っています。
今回の芝居は、特にリズム=命みたいなところがありますので
役者、演出家、双方ともこのことを肝に銘じなければ。

[84] 忘年会 投稿者: 投稿日:2001-12-12 (Wed)
今日は忘年会でした。前にもここで書いたように焼き肉屋さんで行いました。
忘年会・新年会のシーズンということで姫路市内の飲食店では、だいたい
どこも飲み放題のプランをつけています。今回も飲み放題で時間制限なしで
あったものだから、うちの会社の人々のよく飲むこと。恐れ入りますって
いった感じで、グビグビ・グビグビとビールやお酒を飲まにゃ損のように
胃袋に入れてゆきます。ついつい私も大勢で飲む楽しさから、普段より
おおくビールを飲んでしまいました。
「忘年」という言葉を聞いて、私の2001年で忘れてしまいたい嫌な事は
なんだったろうと帰ってから、ふと思いました。
今年は、今まで生きてきた中でも「いい年」の部類で結構、充実していた
一年であった気がしています。一年前から準備していたS−PROJECT
の活動を始められ、公演を生まれた街・姫路でうつことができたし
仕事の面では、人数の多い部署への配置転換が二月にありましたが
何とかそこでも、やっていけるかなぁという自信めいたものが、最近
でてきたし、、、なんだろうなぁ、忘れたいことって、、うむうむうむ
しいてあげるならば「大好きな阪神タイガースの今季の成績」と「自分の
PATでの今季の成績」くらいでしょうか。

[83] 何になりたかったの? 投稿者: 投稿日:2001-12-11 (Tue)
この職業でなかったら何になってましたか?とか何になりたかったのですか?
とか聞かれることがあります。
幼い頃は「野球の選手」になりたかったけど、朝起きるのが苦手な私は
地域の野球クラブに入ったものの、早朝練習がいけずに二ヶ月で
やめてしまった。根性がなかったことと、本当になりたくはなかったのかも
しれません。今、39になって思うのは、「詩人」になりたかったなぁと
思うくらいですか。今からでもなろうと思えばなれるかもしれませんが
それほど言葉にたいして緻密に接していない期間が長いと無理だと
思います。エセ詩人(職業としていない意味で)として頑張るしかない
のでしょうね。演劇に大なり小なり携わっているのも、言葉を使って
表現できる世界が演劇にはあるのだからでしょうか。
人様が書いたシナリオを読んで、ドキッとさせられたり、たまにですが
自分で書いた文章がやけに「いい感じ」のときなど嬉しくてしようが
ありません。もっともっといろんな事や人々に出会って感動を重ねて
それを伝えられるようになればなぁと思っています。
《エッセイ・言葉についてー寺山修司ー》
「言葉を友人に持ちたいと思ったことがある。それは旅路の途中で自分が
たった一人だということに気がついたときにである。」
「たしかに言葉の肩をたたくことはできないし、言葉と握手をすることも
できない。だが、言葉もいいようのない、旧友のなつかしさがある。」
少年時代、私はボクサーになりたいと思っていた。しかしジャッ
クロンドンの小説を読み減量の死の苦しみと「食うべきか、勝つべきか」の二者択一を
迫られた時、食うべきだと思った。Hungry Youngmenは
Angry Youngmenにはなれないと知ったのである。
そのかわりに私は詩人になった。そして、言葉で人を殴り倒すことを
考えるべきだと思った。詩人にとって言葉は凶器になることができるからで
ある。私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中を
ぐさりと一突きするくらいは朝飯前でなければならないな、と思った。
だが、同時に言葉は薬でなければならない。さまざまの心の痛手を
癒すための薬に。エーリッヒ・ケストナーの「人生処方詩集」ぐらいの効果
はもとより、どんな深い裏切りにあったあとでも、その一言によって
なぐさむような言葉。。。


[82] 芸のない芸能人の末路 投稿者: 投稿日:2001-12-10 (Mon)
田代まさしがまた逮捕された。今度は「のぞき」である。
音楽からお笑い芸能人に転身してバラエティー番組によくでていた。
結構、面白くて志村けんの番組とか見ていたが、やはり芸のなさが
悲しいかな、ここにきてでてしまったのだろう。同じパターンでは
人は笑ってくれない。優秀なブレーンもトンネルズやウッチャン・ナンチャン
のようにいない。(企画でしか生きていけない芸能人は多いですね)
彼の趣味の問題だけではないと思う。分別のつく大人である。犯罪かどうかは
理解していると考えると、彼がこのような事をまたしでかした背景には
自分の限界を感じ、あせり、そのストレスなどによって情緒不安定になり
しだいに犯罪かどうかという良識がなくなっていったのではないでしょうか。
今、テレビのお笑い番組などのバラエティーを見て、私はあまり笑わない。
だって面白くないから。それは笑わそうとする意図がみえみえであり
そこに登場しているキャラクターが全然面白くないからである。
テレビなどのマスが発達して、そこで受けるには最大公約数みたいな
中途半端で芸のない芸能人でいいのだろうけど、それでは彼らは
でてきては消えるだけの存在で終わってしまう。
消えかかった芸能人の中で性質の悪いのが「くだらない犯罪」を
おこすのである。こんな下衆な話はもう見るのも聞くのもこりごりである。
要はテレビというシステムの問題と受け手の感度の問題かなと思う。
芸のない芸能人を排除し、真の芸人が幅を利かすようになることを願ってやまない。



[81] 新聞休刊日 投稿者: 投稿日:2001-12-09 (Sun)
今日の新聞を開く。いつものところにテレビ欄がない。
そうなのか、明日は休刊日なんだとわかる。
月極で新聞代払ってるのに、損した気分になってしまう。それと明日に
新聞がこないので少し寂しい気にもなる。学生の頃、徹夜をしていて
朝はやく新聞が来るのを楽しみにしていた時期もあった。
あまり意味はないのだが、まっさらの新聞を自分が初めて目をとおすのが
好きである。実家に帰ると父親が早起きでいつも彼が新聞を見たあと
テレビの部分とそれ以外の部分を分ける癖?があって
いつもと勝手が違いイライラしてしまう。それと読んだ後、最初の状態に
戻さずに見たままの状態で置いてあるのもイライラする。
次の人の為に表紙の一面の部分に戻しておくのが常識だと思うのだが。
まぁ何をいってももう「あの歳」になって直らないので諦めてもいるのだが。
新聞配達している皆さんにとっては、朝唯一ゆっくり過ごせる日が
この休刊日であります。しかし、次の日には夕刊があるので丸一日休みという
わけにはいかないことを考えると新聞配達は大変な仕事だと思います。
正月の何日かくらいでしょうか丸一日くばらなくていいのは。
寒い寒い冬の朝にわたしたちの所まで活字によるニュースを届けてくれる
全国の新聞配達のみなさん!!風邪をひかずにがんばってくださーい!!
ありがたく読ませて頂いております。感謝の気持ちを持って。

[80] 携帯電話 投稿者: 投稿日:2001-12-08 (Sat)
今日、携帯を新しくしました。503シリーズに機種変更しました。
理由はただひとつ。前の携帯電話のアンテナが折れていて、通話中も
よく聞こえなかったり、途中で切れてしまったりと
電話の基本である「話す」・「聞く」といった部分に不都合が生じてきたから
です。それにしてもまぁ色々な機能の付いた電話が携帯ショップで
売られている事でしょうか。本当に目移りします。
耳と口までの距離が長い、顔の大きな私としては
蓋がパコッと開くタイプがいいなぁと思ったのですが
それが高いことなんのって。今まで使っていた会社のをグレードアップ
したら合計で三万五千円くらいかかってしまうということで
やめました。私は、そこまでして携帯にお金をかける価値観を持ち合わせて
いないのでしょう。503でも一番安いものにしました。
でも前のより画面大きいし、同じカラーでも鮮明だし、アンテナついてるし
結構、家に帰って来ては、しげしげと眺めながら、ほくそえんでいます。
やっぱ携帯と畳と○?は新しいほうがいいのかも・・・・
そんなこんなで真新しい電話の機能と格闘しながらの一日でした。
たわいもなく今日が終りそうですが、明日からは忘年会ウィークに
入ってゆくので、気合をいれなければなりません。
私は酒を真剣に飲むときは、気合いれて飲む性質なものですから。
朝一番で胃腸薬を買いにゆくことにしようと。

[79] 本日のニュースから 投稿者: 投稿日:2001-12-07 (Fri)
今日は久しぶりの連休だったので車の洗車をしたり、買い物をしたり
まぁ普通の平凡な一日を過ごさせてもらった。
たまには仕事や芝居の活動を離れて、ご隠居のような一日もいいものかなぁ
と自分で煎れた緑茶を飲みながら、感慨深く思った「師走の一日」でした。
「愛子」
ちょっと古臭い名前だと思った。直感的にそう思いました。
母の姉、つまり叔母さんが「愛子」といいます。
彼女は大正生まれで今も健在です。彼女のイメージが強すぎるのか
なぜかそう思ってしまうのです。
「星野監督・阪神要請」
あまりにも阪神という会社が節操がないという感じですか。
この会社には「ヴィジョン」という言葉を辞書にもたないのだと思います。
球団を立て直すという前に阪神という親会社を立て直してください。
それからです。
「偽札446枚・大阪で」
師走らしいニュースです。姫路でも最近、中心部で強盗事件が起こりましたが
本当にこの時期になると多いです。
テレカを狙ったというのが、ちょっぴり笑ってしまいました。
テレカってまだ売っていたのですね。売ってる自販機探すの大変だったで
しょうね。それと表と裏を別々に印刷して、それを張り合わせる労力は
これまた大変だったでしょうね。紙幣の偽造っていうのは
罪がとっても重いのですから、その「労力」に見合ったお仕事だったか
どうかは、彼らがどこまで逃げられるかにかかっています。
走って走って逃げましょう。師走にふさわしくね。

[78] シナリオ 投稿者: 投稿日:2001-12-06 (Tur)
今、来年の公演に向けてのシナリオを書いています。
原作はあるのですが、その活字化されたものをいっさい見ずに
今の時代にあうように脚本を書いています。
活字化されたものは見ないかわりに、とある友人から送ってもらった
「つかこうへい事務所」の「熱海」のゲネプロのビデオと
お恥ずかしいのですが自分が学生の頃にやった「熱海」のビデオを
参考にしながら書いているしだいです。
ビデオで音とりながら書くのは初めてなのですが、これがけっこう大変で
やけに時間がかかったり、調子よくすすんでいると、その時代のワードが
突然でてきて、これを今に照らし合わせるには文脈から相当前のところから
書き改めなくてはならないとか・・・・・とにかくややこしいものです。
三歩進んで、二歩下がる。。。こういう感じですかねぇ。
しかし、こういう作業をしていると音でどんどん入ってくるから
ゲネプロのビデオからの音は本当に参考になります。
いい役者のいい音を聞いて、演出ができることを喜んでいます。
しかし、これを実際に今度出演する役者にどのように伝えていくか
また動きとともにいい音をだせるかどうか、心配な点もありますが。
苦心して、悩んで、考えぬいて、いいシナリオにできればと思っています。
まだまだシナリオは前半まで、苦悩する日々は12月いっぱい続く。

[77] 世の常? 投稿者: 投稿日:2001-12-05 (Wed)
今日、阪神の野村監督夫人である野村沙知代が逮捕された。
脱税をしていたらしい。スポーツ新聞的にいうと今日がXデ―だったわけで
ニヶ月前からスポニチではこうなるということが記事になっていたので
驚きはありませんでした。だいたい金持ちは金に汚いというのが
世の常であります。ご多分にもれず今回もそういう嫌らしい金持ちの話だった
とすれば、あんな大きくマスコミで取り上げなくてもいいと思うのです。
私が今回のこの事件で面白いと思っている部分は、『母と子の絆』という
これも世の常ではきってもきれないものといわれていますが、それが
沙知代と前夫との間に生まれた子供であるケニ―野村氏との間にあったのか
どうかという事くらいでしょうか。
ケニ―氏にとって、いくら醜い汚い事をしていても母は母です。
その母を告発し、またマスコミにテープを開示して自分たち親子の恥を
さらすようなまねにでたのは、いったい何なのでしょうか。
多分、沙知代のこうした行為は今にはじまったわけではないと思います。
それが今年になって、ケニ―氏がこのような態度にでたのは、どうしてか。
これを考えるキー・ワードとして異父弟のカツノリの結婚を考えるのは
飛躍しすぎでしょうか。カツノリが結婚したのは約一年前くらいだと
記憶しています。そして彼女はその妻とともにマスコミに頻繁に
出演したり、たいへん可愛がっていた。今まではカツノリだけを愛していた
存在であった母がカツノリの家族(将来的にはカツノリの子も含んで)を
愛し、大事に思うようになってきた。ケニ―氏は母の微妙な心の変化に対し
嫉妬ににた感情を持つようになった。また今までおさえていた憎しみが
その事が引きがねとなって表面に露出していった。
あくまでも憶測なのですが、私は人がこのような行動(ケニ―氏の行動)を
とるときは「情」がからんでいると思わないとやっていけない人間なので
このような勝手な分析になってしまいました。
本当の絆をたもつためには、母にまっとうな人間になってもらいたかった
のかもしれません。
脱税しているやつらは世の中に数え切れないくらいいます。
しかし、親子の絆や親子の情のない親子関係で暮らしている人々は
そう多くはないと思います。このことに「この事件」の哀れを
感じずにはいられません。
 ♪色あせたアルバムの中で微笑む母と子の 永久に変わらぬ愛だけが
  この世の中でただひとつ あきらめないで時が過ぎても
  互いに 寄り添う 血と血の絆(by S・Tanimura)


[76] 助けられた言葉 投稿者: 投稿日:2001-12-04 (Tue)
このエッセイで前に寺山修司氏が人生において助けられた言葉として
「花に嵐の例えもあるさ、さよならだけが人生だ」という言葉を
紹介しました。では私の場合、つらいときやどうしようもなく落ちこんだ時
思いおこす言葉はなんだろうと考えたとき、ひとつだけいつも心にある言葉
があります。それは「何を食べ、何を飲み、何を着ようとも思い煩うな」
という聖書の言葉であります。
中学から高校、大学とカトリックの学校にいってはいましたが
この言葉に本当に出会ったのは、その後だったのはなんとも皮肉ですが
どこか私の脳裏のかたすみにあったのかもしれません。
芹沢俊介氏の「システムからの贈り物」という本を読んだときに
現代の高度消費社会という物質がありあまっている時代の中で
自分を見失わずに生きていくには、その言葉が重要ではないだろうかと
筆者が述べていました。
私はその頃、自分の将来にたいしてどのように生きていこうかどうか
迷っていました。大学はでたものの就職はしたものの
これが私の望んでいたものかどうか、疑問がわきあがってきた頃でも
ありました。まわりを意識しすぎていたのもこの頃でした。
自分と社会や周りにいる会社員との乖離をいつも感じていました。
孤独感が毎日わたしを襲ってきます。
そんな時にこの言葉に出会ったのです。
自分がどのように見られているかとか、この社会の中で
どのような位置取りにいるかとか、そんなことはどうでもよくて
自分の内部的な客観がいかに重要であるかを思うようになりました。
あるがままの自分を素直にだしていけば何も悩むことは
ないのではないかと。
「何を食べ、何を飲み、何を着ようとも思い煩うな」
三ヵ月後、所属している輸入原料課の部長に辞表を提出しました。
何の未練もなく新しい世界へ行こうという決心がついたのも
この言葉のおかげです。

[75] インターネット・カフェ  投稿者: 投稿日:2001-12-03 (Mon)
このエッセイを書き始めて、初めて家のパソコン以外から書き込みを
しています。姫路の大劇という映画館の東側に最近NEPPALAという
インターネット・カフェができました。そこから今日は書き込んでいます。
その前に仕事帰りということで「一休」という立ち飲み屋で焼酎のレモン割り
をひっかけています。少しほろ酔い気分です。
しかし、姫路という地方都市にもこのようにインターネット・カフェが
できてきた現状を考えるとネット化はどんどん地方都市にも浸透している
ことがわかります。生まれたときは、携帯電話やこうしたパソコンが
こういう風に普及するなんて思った人は何人いるでしょうか。
ただ大学生の頃(今から約二十年前くらい)に同志社大学の理工学部の先輩
の下宿に遊びにいったとき、彼が必死で「0」と「1」という数字を使って
「ボーリング・ゲーム」を機械(今でいうパソコンでしょうね、そのとき
私はそれが何だかわからなかったんですが)に打ち込んでいた姿を
思い出します。私は何が何だかチンプンカンプンでただ彼が作った
「ボーリング・ゲーム」で高得点をだすことだけしか考えなかった
田舎者の兄ちゃんといった感じでした。
今の時代、高校生の方でも自分のホーム・ページを持つ時代です。
なんと時代というものは、私たちの思いよりも速く進んでいること
でしょうか。歳を重ねるたびにそう思う今日この頃です。
中島みゆきの「時代」を聞いて今日は眠ることにでもしましょう。

[74] 師走 投稿者: 投稿日:2001-12-03 (Mon)
はやいものでもう師走である。あっという間に一年がたつものである。
先日、知人と話していたとき、どうして他の月は「弥生」とか「皐月」とか
「神無月」とかいわないのに12月だけは「師走」と皆言うのだろうと
いうことになった。多分、「師走」というニュアンスがぴったしなのだろう
と思った。確かに私自身でもこの月は忘年会やクリスマスや正月の準備や
練習やシナリオの書き上げやもう大変なくらい忙しいのである。
まぁ11月に風邪をひいて、その免疫はあるので体は大丈夫だとは思うが。
終り良ければすべてよし!という言葉がある。
この最初の世紀の最後の月を締めくくって新しい年を迎えたいものである。
このエッセイを読まれた皆様も、この「師走」を走りぬけて
今年は良かったぞ!と胸を張って言える事を祈っています。

[73] 誕生 投稿者: 投稿日:2001-12-01 (Sat)
今日、皇太子の子供が生まれた。女の子だった。
その話を職場で聞いて、弟の家も女の子だったし、「またか。」といった
感じで、マスコミがニュースで流す「大喜びの民衆」のひとりには
なれそうにない。「ふーん、そうなの」といった感じでさらりと自分は
している。その子供のことを「新宮様」と呼ぶんだなぁ・・知らなかったなぁ
そんな感じです。いち人間として、いち「新しい」人間の誕生を喜んでは
いますが、馬鹿騒ぎして喜ぶ感覚ではないのも事実です。
今日、午後7時からとっても見たいテレビ番組があって、それを
リアルタイムで見れないので録画をしていた皆さんはどんな気持ちでこの「誕生」の物語を
家に帰って御覧になるのでしょうか。
―『誕生』―
  君が生まれいでたとき 父さんはね 
  君の背中に 十字架を見たんだ
  その透明な十字架をみたとき 
  君が生まれた喜びや母さんへの感謝の気持ちがね 
  どこか遠くへいってしまった
  あとに残ったのは どんな気持ちだったか
  よく覚えてないんだよ
  その日 覚えていることは 雪が降っていたことと
  手の震えがとまらなかったことかな
  そして・・・「寒さ」で震えていたのではないことも
  
  

[72] 幕開け 投稿者: 投稿日:2001-11-30 (Fri)
今日で勉強会は最後だった。一週間に一回という形でやったが
それなりに有意義な形で終れたと思う。演劇が初めてという方もいらっしゃり
その人々が少しでも能動的に動けるようになった気がしている。
今日は来年の公演のレパの冒頭部分を読んでもらった。
「熱海」といえばチャイコフスキーの「白鳥の湖」が冒頭に流れるのが
定番なのですが、エスプロ版と銘うっている以上、それは使わない方向で
考えている。練習している部屋を真っ暗にして、幕開けの候補の曲を
かけてみた。その曲のボリュームをぐいと大きくしていく。部屋のあかりを
つける。そして木村伝兵衛部長の台詞である。
大音量に負けない大きな強いトーンで台詞を言ってもらう。
何人もの人にその幕開けのシーンをやってもらった。
曲のタイトルは今は言えないが、違和感なく「すっ」とそのシーンに
とけ込んでいくような曲だった。うむうむうむ・・・・・これで大丈夫。
私の「心変わり」さえなければ、この「幕開け」で行こうかなと思った。
芝居ではいつも、最初と終りのシーンは本当に気を使う。
何度も何度も推敲を重ねるのも、この二つのシーンではないだろうか。
この二日間、睡眠時間平均2・5時間であった。
シナリオが書けたのは、最初の2ページなのは、『私的な推敲』によるもの
である。でも今日、実際、皆に声を出して、読んでもらい、音楽もつけると
想像した以上に、しっくりいった。これも推敲のおかげなんだろう。
また明日から推敲の日々が公演が終るまで続く。
今日は6時間睡眠くらいしなければ明日の仕事もたなくなるかもしれません。
明日のために「そっとおやすみなさい」です。
明日の幕開けが、静かで、すがすがしいそれでありますように・・・・・


[71] 主体のない人々 投稿者: 投稿日:2001-11-29 (Thu)
狂牛病がマスコミで取り上げられると、牛肉を食べなくなり
ニューヨークでテロが起こると、海外旅行に行かなくなる。
日本人って、右にならえ型の人たちが多いのですかねぇ。
日本人=主体のない人々 という感じがしてならないです、ほんと。
主体がないから、どの地方の駅前なんかに行っても同じような町並が
存在するばかりである。
没個性を町並みや人々の服装(ファッション)から感じるのは
私だけでしょうか。
その要因としては、やはり画一的な教育制度と間違った平等主義があるように
思えます。
そろそろ忘年会の季節です。
われわれの会社の忘年会の幹事はわたしなのですが
ここは、あえて「焼肉」屋で忘年会をすることにしました。
狂牛病をこわがっていては、なにも食すことはできません。
正月はニューヨークにでも・・・・・・これは失礼、行きたい気持ちは
やまやまなのですが、経済的にちょっと無理です。
あまり情報に敏感すぎるのも人生らくに、たのしく生きれないことも
あるので、みなさん、そのへんのバランスはうまくとりましょうね。

[70] 銀行が大嫌い 投稿者: 投稿日:2001-11-28 (Wed)
大学の就職の頃、友人の多くが都市銀行に内定していく姿を横目でみながら
なんで皆、そんなにまでして行きたいのだろうと疑問を覚えていた。
確かに給料はいいかもしれないが、転勤が多く、仕事も人のふんどしで
すもうをとるような感じがして、私はどうも好きにはなれなかった。
バブルの少し前の売り手市場だったので、こんなやつが?というものまで
金融機関に内定していった。それから17年くらい経つけれど、当時銀行に
入った人々はリストラにあわず、窓際にもならず、仕事をしているのか
どうか大いなる?マークを持たざるをえない。
今日も振込みに銀行までいったが、同じ銀行同士でも手数料を315円も
とる。しかも全部、私ひとりで機械でおこなってである。
人様に仕事させてなんで金を取るのだ!ええかげんにしろ!といいたくなる。
もうかったときには、なにも企業として社会に還元もしないし
おのれが赤字のときは政府(国民)の金で穴埋めしてもらう。
そんな会社がどこにあるのだろうか。
はやくもっともっと合理化して膿をいっぱいだして
預金者にサービスのよい方向に改善してほしいものである。
どの手数料もゼロにして、納得いく形で営業をしてほしいものである。
27日の朝刊で不良債権処理に伴う損失が計6.5兆円になったという
記事を読んだ。ざまーみろって気もするが、それをまたいつか国民に
おしつけられるのかと思うといい気になってもいられない。
はやくつぶすところはつぶして、自分の足でしっかり立てる企業になって
社会に「なにか」を還元してほしいものであります。
その「なにか」は「心の豊かさ」につながるものにしていただいたい。

[69] ラジオ 投稿者: 投稿日:2001-11-27 (Tue)
初めてラジオを買ったのは小学生5年のときだった。
家にテレビが一台しかなかった。家族のなかの序列で一番べべたの「私」には
選択権がなく、両親や兄がいないときにしか好きなTV番組は見れなかった。
両親や兄がいないときなんてほとんどないから、ほとんど何一つ見れなかった
というのが事実である。そんなとき、一緒に嫌な番組を見るより、自分の
部屋にはいり、ラジオを聞いていた。そんな毎日が何年か続いた。
そうしていると不思議なもので、テレビを見るよりラジオを聞いて
何か別のことをするのが自然なことのようになっていった。
それ以来、テレビを自由に見れる状況になっても、あまりテレビを
見なくなった。見るのはニュースとスポーツとドキュメントくらいで
一日に見る時間も一時間強くらいだろうか。
ラジオやCDやMP3などで音楽を聴いてパソコンの前にいるというのが
家で過ごす時間の大半である。
幼い頃の家庭環境(テレビにまつわる)が今の生活に影響を及ぼしている
と思うと自分ではどうしようもないところで「癖」というか「生き方」が
決まっているのかなぁと少々怖さを感じずにはいられない。
まぁラジオ聞く「癖」くらいならいいか・・・誰にも迷惑かけてないし。
今日もシナリオを書きながら、ラジオを聞いていた。いやラジオ聞きながら
シナリオ書いていた。
あまり昔からパターン変わってない、成長のない自分が今もいるのである。

[68] 夜汽車 投稿者: 投稿日:2001-11-26 (Mon)
子供の頃、今は廃線になったJR「飾磨線」に汽車を見に行くのが
好きだった。その頃はまだSLが走っていた。C12という小型の
蒸気機関車が走っていた。
祖母が生野にいたので、播但線に乗ってよく遊びにいった。
トンネルに入る前に必ずアナウンスが流れる。
「窓を開けているお客様、トンネルに入ります。煙がはいってきますので
 窓をお閉め下さい。」と。あわてて母親と窓を閉めたことを覚えている。
年が経ち、ひとりで列車に乗って、どこかへぶらっと行くのが好きになった。
とくに夜汽車にひとりのって車窓からぼんやりと外を見るのが好きだ。
高校卒業のとき、ひとり西日本一周の旅に出た。
姫路から四国へいって、四国を一周して、船で九州へ渡った。
九州各地をまわって、最後に「長崎」へ着いた。
長崎の親戚の家に2泊ほどして帰る日のこと。
長崎発、寝台特急「あかつき」に乗りこんだ。私がはやめに乗車してから
ひとりの、年のころなら二十歳前の女性が乗り込んできた。
発車する前、私は長崎の夕景を眺めていた。彼女も外を眺めていた。
すると彼女の友達らしき人々が十人くらい、その列車に近づいて、彼女に
手を振っている。彼女も笑顔で手を振っている。
なかなか微笑ましい風景だなぁと思った。
列車の出発する時間になった。私はずっと彼女とその友人を映画のヒトコマ
のように見ていた。彼女は「この街」をでてどこに行くんだろう。
彼らとの本当の関係はいったいどうなんだろう。
就職のため?就学のため?それとも・・・・・・
いろんな想いが私の脳裡をかけめぐる。プラットホームを離れても
彼女はずっとずっと外を眺めていた。
笑顔が消え、瞳から涙が流れてるのがわかる。ハンカチをとりだしている。
そのハンカチで静かに頬をつたうものをふいている動作がなんともいえず
淋しい。結局、彼女は長崎の市街をでる何分かの時間、窓の外から
目を離すことはなかった。夜のとばりが落ち、消灯の時間がきても
眠れなかった。通路の部分の簡易的な椅子をおろし、そこに座って
長崎駅でのできごとを車窓からみえる外の町の灯りをぼんやり見つめながら
思い出していた。ゴトン、ゴトンという夜行列車特有の音を耳にしながら。
「別れ」があれば「出会い」があるという希望を胸にどの場所にいっても
頑張ってほしいと彼女にたいして思った。
とある「夜汽車での物語」・・・「あかつき」3号は東へ東へ向かっている。
わたしのいろんな想いなんておかまいなしに。
『夜汽車』
ぼくの詩の中を夜汽車がはしっていく
その夜汽車には たぶん おまえが乗っているのだろう
でも ぼくはその夜汽車に乗ることはできない
かなしみは いつも外から 見送るものだ

[67] 生まれた場所を遠く離れて 投稿者: 投稿日:2001-11-25 (Sun)
いつもいつも考えていたこと・・・・・どうしてここにいるんだろう。
姫路という場所はわたしの生まれた場所
その場所を18のときに離れた。
なぜ離れたんだろう。愛する家族と離れて、親愛なる友とも別れて
大学にいくためじゃないか・・・・じゃあなぜ大学に行ったんだ
大学は自分の強い意志でいったのだろうか。
そうでもない。ただなんとなく、ほんとになんとなく。
なんとなくという理由でこの愛する場所を離れたのだろうか
そうかもしれない。なんとなく生きていたのだろう。高校までは。
大学時代に住んだ街を大好きになった
愛する人もできた、友人もいっぱいできた。
就職してこの街も離れなければならなくなった。
なぜ大好きな「この街」を出て行くかなければならないのだろう。
一人で自立して生きるため?
この街でもここで仕事したら生きていけるじゃないか、とも思った。
全国的な企業をなぜ選んだ?安定を求めたのか、そうなのか。
いや、なんとなく、なんとなく。大学までいってまだなんとなくかぁ
情けないなぁ、と「もうひとりの自分」が言っている。
それから住む場所が転々と変わった。変わった場所でも友達がいっぱい
できた。でもなぜか虚しい、空虚である。
本当にこの場所が自分のいたい場所なんだろうか。
いつもいつも考えていた。
2年半前、母親の体調が悪くなった、急なことだった。
自分勝手なことばかりしていた。なにかできないかと思った。
そのとき「そばにいてあげよう。」と思った。
できることは、それぐらいだと思った。
今、この生まれた街に戻ってきて、なぜこの場所にいるのかという
疑問を抱くことがなくなってきた。
なんとなく生きている感じもしなくなった。
実感を持って「この場所」で生きていけることに感謝したい。
ずっとここにいたら、こういう風に思えたかどうかは疑問があるが。

[66] 私のセオリー 投稿者: 投稿日:2001-11-24 (Sat)
《恋愛編》
離れても「愛」があればという言葉は嘘
離れたら終るでしょう、いや、終ります、必ず。

ブスの女が言う「可愛い子紹介するから」というのは嘘
ブスが連れてくるのは、必ず「ブス」な女である。

追いかけているうちが「華」、追いかけられるようになったら
逃げたくなるのは自然のことです。

《演劇編》
理論ばかり言う頭でっかちな演出家は信じるな

演劇を見ずして演劇を語るなかれ

オールマイティな役者より一つでも突出した才能をもつ役者になれ

《賭け事編》
自分の経験則をもて。負けた時こそ、次の勝利への始まりである。

一か八か!賭け事の原点を忘れるな。

記憶力のない者はギャンブルをやめなさい、負けるだけです。

《人生編》
世の中のひとは、なんとも言わば言え。我が為す事はわれのみぞ知る。

人生に正解はないのです。

[65] 3連休? 投稿者: 投稿日:2001-11-23 (Fri)
今日から3連休です。姫路の街にもお城へゆく方が多い一日でした。
それと「木下サーカス」があともうすこしで終りなので
それを見ようとした方々も多く、久しぶりに大勢の方々でにぎわって
いたように感じました。
暖かい気候は今週までで来週には寒気が入り込み、冬にもどるそうです。
せっかく風邪がなおりかけというのに、寒くなっては
また別の風邪をひいてしまわないかと心配が先にたちます。
今日は仕事をしてから、金曜日なので「芝居の基礎練習」をじっくり
しました。声を基本的にどのように出せばよいのかとか(腹式呼吸について)
パントマイムをするに際し、見ているものに的確に自分がやっていることを
伝えるという作業などなど・・・・・・基礎的なことを中心に行いました。
二人ペア―になって、その二人が考えた5W1Hをパントマイムによって
表現し、見ている他の人々にそれをあててもらうという形式で
やっています。この練習をやった当初はみんな戸惑いがありましたが
今は要領を理解してもらって、ウィットのきいたパントマイムを
するようになっていったのは大変嬉しいばかりであります。
役者たるもの、自分の感性でいろいろと独自に練習の時など
動けるだけ動いてみなければ、いざ本番のとき、なにかのアクシデントに
みまわれたときどうしていいか固まってしまう気がしています。
失敗を恐れずに新しいことにチャレンジしてこそ、役者として向上していく
のではないかと思っています。
どんどん前に前に突き進みましょう!じっとしていては
何も得られないことは明白です!
いい役者とは、動ける役者、ひたむきな役者、前向きな役者・・・・・
12月から本公演の練習開始するのですが、『いい役者』にいっぱい
お目にかかって、いつもウキウキ練習したいものです。
練習開始日まであと約一週間!!

[64] 十九歳 投稿者: 投稿日:2001-11-22 (Thu)
今日サティで買い物をしていて、前回の芝居の主役をやったI少年と
ばったり会った。かいものかごに食料をいっぱい買い込んでいた。
「家族のぶん?」と私がたずねると「いいえ、僕の分」と
彼は答えた。そのときの彼の顔はとっても無邪気であった。
彼は前回の芝居の中でも書いたが、新聞配達をしている。
天職だと思っているの?と聞くと「はい。」と答える。
とっても屈託のない表情をしている。
その裏側になにがあるのだろうと何故か思ってしまう。
高校でて親の金で大学いって、ちゃらちゃら女のケツを追っかけている
19歳が多い中で、夕刊くばって、その後、自分の生きるために
米やパンを買いこんでいる彼がいた。
同じフリーターでも芝居をやって女友達をつくってやろう、あわよくば
と思って芝居をしにきたものの、そんな雰囲気ではないことがわかり
一回こっきりで演劇を捨ててしまう腐ったヤツラがいるなかで
ひとり黙々と練習し、長い長い台詞を覚え、はいつくばって練習をし
ひとつの公演が終るとまた次の公演へと新たな道を模索して、大好きな
演劇を続けていこうとする彼がいる。
私は彼の為に何かできないか、考えている。
いろんな事情があると思うが、本当に彼の思うがままに
思う存分、自分のやりたいことを突き進んでほしいものだと思う。
頑張ってな!心からそう祈っている。
君はPUREだよ。いつまでも、いつまでも。

[63] はなし半分 投稿者: 投稿日:2001-11-21 (Wed)
明治30年生まれの祖母がよくいってた口癖・・・・「はなし半分」
ネット社会になり見えない相手と会話をしたりメール交換したりするように
なり、祖母のこの言葉の意味が最近わたしの中で真実味を増してきました。
「人はなんでもおおげさに言いたがるので、どんな話でもその二分の一くらい
の規模の話だと思って聞きなさいよ。なんでもすぐに一喜一憂してはならない
のですよ。」・・・・・こんな風に理解をしている。
ホーム・ページをオープンにしアドレスも公開にしていると
たまにだが変なメールやらが入ってくる。
それはまるで携帯の迷惑メールのように。携帯のは出会いサイトが多いが
パソコンのそれは千差万別だが、だいたいは人間の欲望を対象にして
俗に言う『おいしい話』がほとんどである。
父親がパソコンを始めた時、「絶対、クレディット・カードを入力して
変な買い物とかしたらあかんよ!」と言ったにもかかわらず
半月ほどして聞いてみると、しっかり(何かとは彼はいわない)引っかかって
知らず知らずに金を取られていたらしい。
相手が見えない気楽さの裏側には、どれだけの「うさんくささ」が隠れて
いるのだろうか。
ネットなどの擬似社会などで、相手の人間的な部分での資質などを
どのように測り知ればいいのかということが問題になってくるように思う。
じっくり時間をかけ、話・半分くらいに聞いて、常に冷静であることで
いろんなトラブルから逃れられると感じています。
実際に自分ではトラぶったことはないけれど、いつ自分の身に災難が
やってくるかもしれず、注意深く対応していこうと思うこの頃である。


[62] 39年間の憂鬱 投稿者: 投稿日:2001-11-20 (Tue)
今度の芝居では私が今まで生きてきた『39年間の憂鬱』を書こうと
考えている。そして、役者自身のそれぞれの私が知る限りの『彼らの憂鬱』も
重ねて、書くことができればと考えている。
『憂鬱』という言葉は少々難しいが、簡単に言えば『なんでやねん!
どやねん!なんやねん!そうなん!ほー、ほー、そうなん!
そやけどちゃうやろ!ちゃうってゆーてるやんけ!わかっとんか?』
てな感じですか。生まれた時、昭和だった。天皇がいた。
民主主義だった。父と母と兄と祖母がいた。・・・・・・・・・・
僕が「この時代の」「この場所の」「こういう状況で」といって
生まれてきてはいないんだ。すべて与えられたものだ。
そこが僕の出発点だとしよう。ではそのすべて受身の出発点から
いったい39年間、なにを能動的なことをやってきたのだろうか。
自主的に、自分の手で自分の考えで生きてきたのだろうか。
このことを考えるといつもいつも、『憂鬱』な気分になる。
なにもまだ出発点となんら変わっていない。何年生きても同じなんだろうか?
また『憂鬱』さが増幅する。
一人では動かないのはわかっている。だったらお前は呼びかけてみたか?
街に出て話そうとしたか?・・・・・・また『憂鬱』が大きくなる。
今度の芝居で私の日に日に大きくなっていく『憂鬱』の対象を
「国家権力」というものにする。
39年間生きてきて、国家権力にどのような思いをもっているのか
そしてどのように向かい合おうとすればいいのかを書いていかなければ
なにひとつ『憂鬱』は解決しないものになってしまう。
私なりにこの公演がすんで『すっきり』できれば成功になるのでしょうね。
国家権力以外にもそれぞれの事象での「なんでやねん!どやねん!
なんや!文句あるんか!そうか!で、なんやねん!・・・」
どんな事でも真正面から対峙して役者とともに戦う準備はできています。
細かい事言いたいのですが、それはお芝居でということで・・禁煙六日目

[61] 禁煙宣言 投稿者: 投稿日:2001-11-19 (Mon)
風邪をこじらせてから、煙草を吸わなくなった。吸いたいという気持ちにも
ならない。しかし、徐々に回復傾向がみられだした今日あたりから
一服したいなぁと思うこともしばしば。しかし吸わないと昨日、決心した限り
『断固として吸わない』『石にかじりついても吸わない』・・・・・
どんな誘惑にも負けず、最低3ヶ月は禁煙しようと思っています。
聞いた話なのですが体全体の細胞が入れ替わるのが、3ヶ月ということで
いちどニコチンまみれの体を清めてから、また吸い出してもいいのではないか
と思っている。今からちょうど3ヶ月後というのは、2002年の公演の頃で
あり、芝居が成功するために煙草をやめたということにしたら
わかりやすい3ヶ月ということになり、都合のいい理由にもなる。
煙草を吸わないで五日もすると、鼻が鋭敏になりいろんな匂いや香りが
いろんな場所でしてることに気が付く。ニコチンで隠されていた匂い
だったのか・・・・これは。いい匂いならいいけど臭い匂いなら
そのまま隠されたままであったほうがよかったかもしれない。
しかし真実の匂いを嗅がなければ、なにがよくて悪いのか判断できないし
結局、鼻が鋭敏になってよかったと思っている。
とくに車からでる排気ガスの臭いは、煙草やめたら強烈にいやな臭いとして
鼻についたのは紛れもない事実である。
どの臭いを嗅いで生きたら幸せなんだろう、山ごもりでもするか
と、ちょっと、ほんのちょっと、考えた11月19日だった。


[60] 芝居を見に、イーグレ姫路地下1Fまで 投稿者: 投稿日:2001-11-18 (Sun)
今日はわれわれも来年に公演するイーグレ姫路のB1にあるホールで
芝居があったので、それを見にいってきました。
まずは、もっと地下一階までに芝居をやっていますとかいう案内が
ほとんどなかったので、大変戸惑ってしまった。本当にあるのかいなぁ?
不安になってきたが、会場の入り口に人がいたのでホッとした
多分あるのであろう。お金を払ってホールへ入った。とっても新しくて
綺麗なホールである。約二時間くらいの芝居だった。
これからのシーズンにはぴったしの題材であり、キャラメル・ボックスの
作品をテレビでしか見たことがなかったので、実際に見て、ふむふむ
よくできた、女性の心をとらえる「つぼ」をもった、「いい話」ですね。
残念だったのは、芝居の内容もそうですが最後のカーテンコールにしても
もう少し他者に対する意識をもっていただきたかった。
友達や知り合いだけ呼ぶなら、公にせず、こっそりと秘密りに
仲間うちだけでやればいいのであって、外に向かっていくのなら
例えば、もっと会場までの説明の案内図などを書いたりするとか
最後も芝居の空気をつぶさないように、演出がでてこないとか
君たちが遊んでいるのを見に来ているのではないんだぞということを
感じて欲しい。
せっかく何らかの感動を与えたラストシーンから瞬時に変な空気をつくるのは
(他者としてそう思う。身内ならそうは思わないかもしれない。)
よくない。
凛として人にやさしく・・・・そういった芝居を目指せればなぁ。
芝居を生で観るとほんと、いろんな事を思うから
楽しいです。観劇は。姫路である演劇は行けるものなら全部行こうと
思ってしまった。うまいへた関係ないっす、舞台に毅然とした役者がいれば。

[59] 一枚の絵 投稿者: 投稿日:2001-11-17 (Sat)
絵を書くのは小さい頃から好きだった。低学年の頃、暇な時には
ノートのヨコに流線型の車とか新幹線とか怪獣(だいたいGOZIRA)とか
祭りの屋台とかいっぱいいっぱい興味のあるものをを書いていた。
絵を習ったのは幼稚園のときで小学校に入るとやめてしまった。
絵を習っていたからといって、絵を書いて品評会などに学校から
だすのだが全然、賞をとったことはなかった。
誰も俺の芸術性なんてわからないのだろうなぁと思っていたのかどうか
小学校の1〜5年くらいのことなのではっきり覚えていないが
多分、アホなヤツが選んでいたのだくらいは思っていた。
何度だしても佳作にも残らないには理由があるような気がして
6年生のとき、今までの自分の表現方法をいちから見つめ直した。
いいように書こう、誉められよう、みんなに喜ばれよう・・・・・
そんな思いがほとんどで絵を書いていた自分に気づいた。そして
一度、そんなこと考えずにありのままを書こう、ありのままを見つめよう
と思いたった。飾磨小学校の屋上から見える景色を書いた。
工場地帯からモクモクと煙があがっている。アンテナや電信柱の多い街並み、
私がこの作品で一番注意したのは家々の瓦を一枚一枚、丁寧に書いてやろう
ということであった。丁寧に外を見ると「家々の瓦」が一枚ずつ違った反射
をしていることに気が付いたからである。
美しく書こうとか気に入られようなんて考えず、がむしゃらに「ありのまま」
にちかづけるように書き、品評会にだしたら『金賞』をとった。
母親が喜び、すぐにその絵を飾るための額を買いにいったことを覚えている。
それ以来、自分というのが強くなったというか、個性が強くなったというか
気にいられるより、自分をありのままにだすことが重要だと
感じて生きるようになった。
やっとの思いでとった『金賞』の絵、ちょっと価値観かえてくれたような
・・・・・・・・たわいもない・ありのままの・姫路南部の街並みの絵!


[58] スピーチ 投稿者: 投稿日:2001-11-16 (Fri)
今日の勉強会で自分の自慢できるところ・セールスポイントを
スピーチするというをやってみた。人様の前で話すとき
中央・右・左と視線を置きながら話をすれば説得力あるスピーチになる
と昔、聞きましたが、話すのに夢中になって誰もそこまでやろうとする余裕は
なく、しゃべっていくうちに自慢話が悲惨話に変わっていったり
もうてんてこまい、見てるには楽しいスピーチでした。
「体の丈夫さ」を自慢した私は、まだ風邪の影響で
せきがとまらず、せきをするたびに腹筋が痛くなるほどである。
「記憶力」を自慢したO君は、昨日の事を忘れていたり・・・・
自慢っていうのはひとりよがりのものであっていいのです。
たんなる「思い込み」でいいのです。
思いこみの激しい人間ほど強いものです。
変な納得をいつものようにして練習終えて、ホッとしている。


[57] 旅日記 津山編 投稿者: 投稿日:2001-11-15 (Thu)
本日から、今まで旅をしたいいところを少し紹介します。

まずは西の小京都とも言われる岡山県津山市です。
少々季節はずれですが、津山にある鶴山公園の桜は本当に絶景です。
姫路城と違って天守閣はなく、石垣のみが残る城跡なのですが、
高台にあるその石垣を包むように桜が咲き、まるでピンク色のドームみたいで
なんとも風情があります。
姫路からだと車で1時間ちょっとというところなので、ぜひ来年の桜の季節には
足をのばしてみてはいかがでしょう。

[56] 50の手習い 投稿者: 投稿日:2001-11-14 (Wed)
今日、久しぶりに仕事からかえって
ゆっくりテレビでも見ようとしてから30分後に
知り合いのUさん(52歳)から突然の電話があった。
Uさんは夏の公演のときにも大道具の材木の運搬やら当日の公演の写真を
撮ってもらったり、車購入の際には各ディーラーに頻繁に連れて行って
もらったりとほんとに世話になっている人物である。
「何のようですか?」
「パソコンの事なんやけど・・・」
「パソコン、はじめはったんですか?」
「そや、娘がせーへんから、今はそのパソコン、わしのもんみたいや。」
「で、どうされたのですか?」  「まぁ、聞いてくれよ」・・・・・
こんな感じで話がはじまったが、彼がとらぶった事柄が理解できなかった。
ワードの使い方についてのことだと思うのだが、なにせ初心者だから電話で
説明するには限界がある。限界があるにもかかわらず必死でどうにかしてくれ
というUさん。なにひとつなにも解決しないまま、一時間三十分もTELで話をした。

パソコンを開きながら、ここクリックしたら、あそこクリックしたら、そこ?いや、あそこ?
・・・・・・・『私はサポート・センターか!』と心の中で突っ込みを
いれながらついつい彼の真剣さにまいり長時間になってしまった。
52歳からはじめたUさんのパソコン・ライフ、今後どのような展開に
なっていくのか、楽しみでありちょっと不安でもある。
今の真剣さを失わなければ楽しいパソコン・ライフが
手に入れられると思います。・・・・・がんばれUさん!!!



[55] 運転U 投稿者: 投稿日:2001-11-13 (Tue)
運転することが好きになるとついつい誰かを乗せて
どこかに行きたくなるのが私の性質である。
今日も仕事がえり、ひとりポツンと帰っていた55歳の隊員の筒井さんに
背後から自転車で近づき「今から、ラーメン食いにいくぞ!」
と言ってしまった。「なんでいくん?」と言うから
「決まってるやん、車でやん。」というと「ええで」と一言。
筒井さんは一人と一匹(愛犬たろう)暮らしなのである。
家がまぁまぁ近所なので私のガレージ付近で1時間後に待ち合わせをした。
そして待ち合わせ時間、私がその場所に立っていると
身長155cmくらいの小さい男が南から歩いてくる。
あっ、筒井さんだと思って声をかけようとしたが
何故か彼は三つ揃いのスーツを着ていた。その光景を見て
私の頭の中は???????????????のオンパレード。
「なんでラーメン食いに行くのにスーツやねん?」
「車にのしてもらうからやん」とわけのわからぬ返事をする彼。
まぁ仕事場でもおもろいおっちゃんだけど
私生活でも「けったいな一面」を見せてくれた。
愛車Fitに乗り、さっそうとスーツ姿のおっちゃんと
姫路の街へ繰り出した。どうも私の周りには
?なマークの人が多いのは何故なんだろう。類は類を呼ぶと言う言葉を
信じたくはないのだが。本日の走行距離28km。

[54] 運転 投稿者: 投稿日:2001-11-12 (Mon)
車の免許を取ったのは大学二回生のとき、今から18年前だった。
とってからは少しは運転したような記憶はあるが、京都や東京で
暮らしていたので車よりバイク(50cc)を主に乗っていた。
愛車Fit号が家にやってきたのは九月の半ばだった。
最初は妻が練習し、かなり上手くなり市内ではどこへでも
いけるまでになった。私は8月の公演で仕事を休んだので
そのしわ寄せで9,10月とあまり休みをとれなかったのと
気力がなかったのとで、全然練習しなかった。
妻が上手くなっていくのを横目でみて、心の中では「負けてたまるか」
と思いつつ、やっと来ました11月。休みが増えて11月に入ってからは
毎日のように姫路市内をドライブしている。最初は久々で不安でしたが
自分でいうのもなんなんですがセンスというか勘というか
運動神経というか、、、が結構いいのと、姫路出身なので道を知っている
という強みで上達もメキメキって感じで車を運転できるようになっている。
今日も今日とて姫路市内をぐるぐると約30kmくらいドライブしました。
情けないけど、まだ市内でてないんです。いつ市外へいけるのだろう?
いつまでも井の中の蛙であってはいけないとわかっていながら。
それには、まず目的地を決めなくては。。。。
まだまだFit号との闘いはーto be continued−


[53] 鍋奉行 投稿者: 投稿日:2001-11-11 (Sun)
冬はやはり鍋ですね。
本日の我が家の夕食も「鍋」であった。
野菜、肉、豆腐など、いろんなものをバランスよく
食べることができる「鍋」って健康的でいいです。
どの家庭にも「鍋奉行」という人がいて、食材のいれるタイミングとか
それが煮えて食べらるかどうかなど、小姑のように
口うるさい存在なんだけれど、当人は美味しい鍋を食べさしてあげようと
必死でいるから真剣なんでしょう。まぁ当然、我が家の「鍋奉行」は
「私」なんですけれど。
鍋を二人でつつき、酒をのんだら、いつもより酔いがまわり
寝てしまった。せっかくの日曜日の夜なのにもったいないね。
起きたら午前二時、汗びっしょりかいていた。
風邪がなかなかなおらない現状なので仕事もすこしつらいが
そんなこと言っても明日はくる。
また眠りにつき、明日の鋭気をやしなうことに、、、
あまり眠りたくないんだけどなぁ。複雑な心境で筆をおく。

[52] リストラ 投稿者: 投稿日:2001-11-10 (Sat)
あまり好きでない言葉である。
リストラされて、いくところがどこにもなくて警備業にやってくる方が多い。
私の管轄の部署に配置になるとき、施設のほうに履歴書を出さなければならず
それによって認められると本登録になり、正式にその部署で働けるようになる
のである。しかし今の状況は一日18名いるところ働きたい人が22人くらい
いて余剰人員がでている状況なのである。それを私が調整するというか
バランスを保つというか、まぁやりたくない作業をやっているのです。
今日は、その余剰人員の中から来年定年でこの施設につとめられない人に
対して今月中に辞職勧告するような作業をしなければならないはめに
なってしまった。嫌なご時世になったけれど、方針は方針でこれも
全体を考えると仕方のないことなのかなぁと腑に落ちないまま
納得してしまった私である。
20歳以上も年上の人にたいして、彼の生活がかかったことを言うのは
勇気のいることだけれど、今日は彼があまり真摯に仕事をしようとしない人で
あったので、心を鬼にして「今月までに」と言うことができた。
『リストラされた人たちが集う場所でのリストラ』
どう思われますか?現実はここまで来ているのかも知れません。

[51] 今日はしんどいながらも充実した日だった? 投稿者: 投稿日:2001-11-09 (Fri)
今日、起きてみると熱は下がっていた。これで一安心。
少し頭が痛かったがこれくらいは辛抱できる感じである。
午後12時にS−PROのメンバー、一人と待ち合わせリバーシティへ
いい年して「トイザラス」や「グランパパ」や「ディズニー・ショップ」へ
行って、ついつい童心に帰ってしまった。プ〜さんがパンダのぬいぐるみを
着て、キャップに座っているボールペンを買ってしまった。
今それがパソコンの横にあるが、かわいくて弟分として、これからの私の執筆
活動を支えてくれるだろう。よろしくな。
それからリバーをでて市民文化センターへ高校演劇祭を見に行きました。
夏の公演でいっしょに芝居をした東高校の前田さんと尾上さんの演出と演技を
見に行きました。詳細はいつかこのコーナーがエッセイに変わったときにでも
述べようと思います。今日のところはお二人さん、そして他の出演者の皆さん
お疲れ様でした。伝えようとしたことは伝わりましたから。
それから一緒に芝居を見にきていた天狼星のM氏と世間話を茶店でして
S−PROの勉強会へ。このころになると疲れが心地よさに変わり
ついつい口立てで台詞を役者の人に言わすという大胆な試みをしだした
私でありました。つかこうへい氏の練習のビデオは何回も見たことがありますが、
口立てでやるのは相当、綿密に前日に用意しておかなければできないと
思った今日の練習であった。思いつきでは途中で切れてしまって続かない
ものです。その後は、役者まかせのコントみたいになってしまった。反省。
練習終了後、疲れもピークに達し心地よさから幻覚っぽい爽快感に発展し
明日が仕事というのに飲みにいってしまった。こうなりゃやけくそ!
なんでもこい!といった感じでした。
今、家に帰りエスタック・イブを飲みパソコンに向かっている。
ほんと『疲れ』と『充実感』とが同居した変な一日でした。

[50] とうとう熱が。。。 投稿者: 投稿日:2001-11-08 (Thu)
昨日、深夜まで遊んでいたのがたたったのだろう。
とうとう熱がでてしまった。悪寒がして家に帰ってから布団に
巻きついていた。
妻が帰ってくるのをまっていた。こういうときは結婚していて
家族がいてよかったなぁと思う。学生のときは一人ぼっちで淋しかったな、
病気になったときには。
悪寒しながら今日は来年の公演をうつホールに使用金を支払いにいった。
その詳細については次回のプロジェクトのコーナーでちかぢか報告します。
明日は、文化センターにお芝居を見にいきます。
今から寝て明日にそなえます。熱だけは下げないと。

[49] 第1回エスプロ・メンバーと 投稿者: 投稿日:2001-11-07 (Wed)
今日は第1回に出演したS−PROメンバー4人(私を入れて)で
中華料理を食べにいきました。
9月から会っていなかったこともあり、いろんな話に花が咲きました。
今日来たメンバーは皆仕事を持っている人々なのでなかなか会う時間が
とれなかったのです。ビールを飲みたかったのですが、車を運転している
ので今日はやめておきました。飲む人は、「大丈夫ですよ。一杯くらい。」
みたいな感じですすめようとするのですが、今日は体調も風邪気味だったので
飲むのをやめ、隣で美味しそうに飲むのを見る側にまわっていました。
S−PROの今年度の忘年会ではおもいっきり飲んでやろうと
心に誓ったのでした。
帰りに参加した男の子を送るため、いつもとは違う道を通っていたら
赤い誘導灯が100m手前に見えました。工事なのかなぁと思って
近づいてみると、何と警察ではありませんか。いきなり「止まれ」の
サインを出され、車をとめ、窓をあけろといわれ、あけると
警察官が「私に向かって息をはきなさい。」と言うではないですか。
あぁ、よかった。60%くらい心の中ではビールを飲もうとしてたけれど
風邪で疲れていたので、飲まなくて正解だったなぁ。ホッっと一安心。
今日は「風邪」に助けられた一日でした。
でもはやくなおさないと・・・・・・背負ってるものがいろいろと。


[48] S’s Essay 休載のお知らせ 投稿者: 投稿日:2001-11-06 (Tue)
S’s Essayも今回で四十八回目になりました。
たわいもないことばかり書いてきました。ここまで読んでいただいた
すべての方々に感謝を申し上げます。「どうもありがとうございました。」
次回公演に向けての脚本を書かねばならず、このエッセイをしばらく
休載しようと思います。
こうして毎日、毎日、机に向かい、このホームページになんらかの戯言を
書いていく作業がとっても好きになりました。
エッセイのように力を入れなくて書ける日記をこのエッセイのページに
シナリオができあがるまで書いていこうと思っています。
明日から日記形式で書いてゆきますので、ご愛顧のほどよろしく。
エッセイ形式になる日がはやくなるのか遅くなるのかは
脚本の進み具合ということになります。
公演前日まで日記を書いていたらどうしよう・・・・・・
そんな不安を抱きながら、明日から《エス・プロ版》「熱海殺人事件」の
脚本つくりにとりかかろうと思っております。
既成の本をいっさい読まずに、今まで私が見た『熱海』のイメージをもとに
脚本を今の時代、今の自分のおかれている環境などと照らし合わせて
書いていこうと思っています。進行状況などは随時、日記のなかで
ご紹介してゆきますのでよろしく。


[47] 両親のアンケート用紙 投稿者: 投稿日:2001-11-05 (Mon)
お芝居を見に行く。するとたいていアンケート用紙がはいってある。
そのアンケート用紙には、まぁありとあらゆる思いが書かれている。
何本もの芝居のアンケートを読んだ経験からいわせていただくと
アンケートにはおおむね五つのパターンに分別できる。
1)友人・知り合いパターン・・・・・○○ちゃん、よかったよ!
2)ちょっと通ぶったパターン・・・・照明が暗い。役者のかつぜつ悪い
3)何でも肯定パターン・・・・素晴らしかった、よかった
4)何でも否定パターン・・・・よくわからない、面白くなかった
5)理知的・分析パターン・・・・あそこのシーンの意図は。。。。。
夏の公演でインターネットの募集を見て、参加した19歳の男の子がいた。
彼は高校時代、演劇をやっていたと自分では言っていたが、どうみても
そうはみえない。声優を目指していると云う。確かにアニメの声みたいに
しゃべるのだが、役者の声がでていない。舞台役者の動きではない。
どうなるかと思った。来ると云っていた練習にも休んだりすることもあった。
最初は一生懸命にやりますと言っておきながら・・・・・
そこで私は彼にメールをだした。
「あなたが練習に来ない事で多くの人に迷惑がかかっています。
 演劇というモノ作りに対する取り組み方、演出家との向かい合い方
 場面の構築のしかた・・・戸惑っていませんか?」と。
動きの多い役柄から、あまり動きのない役柄へのキャスト変更もかねての
メールだった。このメールから彼は別人になったような気が私にはする。
真剣になってくれた気がする。毎日毎日、夜遅くまで彼は練習にあけくれた。
台詞覚えもはやくなり、余裕もでてきたのか自分で考えて動くようにも
なっていった。19歳の憂鬱と対峙しながら。
一回目の舞台が終った。ホールの受付さんから私の楽屋にアンケートが
届けられた。その中に彼のご両親からのアンケートも混じっていた。
私は、その文章を読んだ。何とも言えない気持ちになった。
煙草をふかしながら、彼と一緒に練習した日々を思い起こしていた。
彼のご両親のアンケートには
『今まで、何一つ最後までやり遂げることがなかった○○○が(←彼の名前)
 今回はじめて、最後まであきらずに芝居をやりとげた気がしております。
 どうもありがとうございました。』と書かれていた。
どのアンケートのパターンにもあてはまらないアンケートを
読んだのはこれが初めてだった。それは私の人生において心に残るできごと
の一つになったのは云うまでもない。

[46] 十一人の少年 投稿者: 投稿日:2001-11-04 (Sun)
ここに盲いた女が一人ある。年は16、17。まん丸い色つきの眼鏡をかけて
遠く、あたかもずっと遠くに見えない視線をそそぐようにして
ポツンと座っている。ガード下。セメントで作られた階段状の土手の向こうは
河であろう。右と左にコンクリートを塗りこめた太い柱がある。
盲の女はその右手の柱の前にいる。
夕暮れ、街路灯の電気がともる。太い柱の影から、サラリーマン風の男が
ヌッと出た。男は、盲の女には気づかずに、ロイド眼鏡を取り、ネクタイを
解いた。背広を脱ぎ、ズボンを下ろし、カッターシャツの胸を両手で
広げるようにして分けると、青いシャツに赤くイニシャルで「S」と
染められた文字が見えた・・・・・・・・
北村想作『十一人の少年』の冒頭のシーンである。大学3年生の時、京都は
岡崎の京都会館別館ホールにて、この芝居を見た。
劇団の名前は「彗星’86」、もちろん作・演出は北村想である。
いままでみた芝居で一番よかった芝居をひとつあげろといわれたら
この会館で見た「このお芝居」をあげるだろうなぁ。
同じ芝居でも日によってできばえが全然違う。また個人的なことだが
見にいったときの体調とか精神状態によっても違ってくると思う。
この芝居自体の脚本と演出と役者と「この日の芝居のできばえ」と
「私の当日の精神状態」・・どれもパーフェクトに近いものだったのだろう。
この後、アマチュア劇団で同じタイトルの芝居を5回ほどみた。
役者は下手だし、演出は?だけれど感動はした。面白かった。
脚本がいいんだろうなぁ、もしくは最初のオリジナルの芝居を見た印象が
残っていてそれと重ねあわせてみているので、役者や演出の稚拙さをこえて
感動したのか、そのどちらかだろう。
どちらであっても最終的には「北村想」のおかげということになってくる。
10月後半からはじまったS−PROの勉強会のシナリオを読む
練習で、この「十一人の少年」を一度とりあげた。ひとりで机に
座り、台詞を目でおって読むより、いいですねぇ、声をだして音として台詞を聞くのは。
戯曲はこうでなくっちゃ!音として役者が言ったときに輝いてい
る台詞でなくっちゃ!・・・・・そう感じながらも、なかなか大
変な作業である。
男:  ああ、何て何て遠くへ来ちまったんだ。ここは世界の果てだぞ。
    と誰かが言いました。すると、また誰かが空を指さして言いました。
盲の女:あっ!星だ!小せえ星だ!小せえ星が出ただす。
男  :その星を見つけたのは、盲の少女でありました。その少女の名前を
    スモモと言いました。ス、モ、モと、言いました!盲の、盲の
    女の子が、最初にその小せえ星を見つけたのです。
    ええ、見えたのです。小せえ星が、見えたのであります!
(ほんとうに星がひとつでた。男と盲の女はそれを見ている。
 これからどんな物語が始まるのだろうか・・・・・・・完・・・・・・)


[45] 東京駅18番プラットホーム 投稿者: 投稿日:2001-11-03 (Sat)
「東京」という響きを聞くと、なぜか東京駅・新幹線のプラット・ホームを
思い出す。今でも、そこで起きた「いろんな場面」が私の脳裡を駆け巡る。
初めてひとりで東京へ向かったのは中学二年生の時だった。
千葉の誉田という所に従姉がいたので夏休みを利用しての旅行だった。
なぜ私ひとりで行く事になったのか覚えていないが、当時から変わり者だった
私であるから多分、自分からすすんで「ひとり」で行くと言ったのだろう。
従姉はわたしより14歳年上であり、その当時は、もう結婚していて
1歳になる子供がいた。確か姫路駅を午後1時くらいにでる新幹線に乗った。
東京に着くのは午後5時半くらい。着く時間に従姉が、私の乗っ
た「ひかり」の着くプラットホームまで迎えに来てくれる段取りである。
山陽電車には学校の行き帰り、ひとりで乗っていたが、新幹線に
初めてひとりで乗った時は緊張した。指定席を取っていたので、
その切符を見て自分の席を探しだすまで右往左往してしまった。
窓際がいいなぁと思っていたが、実際は三列シートの中央で隣が
両方ともサラリーマンという最低のシィチュエーションだった。
列車の窓から外の景色を見るのがとっても好きだったのに。
東京までその状況の中、じっと固まっていたように思う。
さりげなく外の景色を「おっさん」と目をあわさないように見ながら。
東京駅につくアナウンスが流れた。心が昂ぶっていった。あぁ、とうとう
東京なんだなぁ。東京につくんだなぁと思った。別に夢にまでみた東京と
いうのではなく、違う人種の人が住んでいるのではないかといった
自己防衛的なものだったかもしれない、今おもえば。
田舎者の播州人の中学生から見れば、ききなれない言葉や高層ビル群は
異国に見えたのだと思う。18番プラットホームに列車は定刻どうりに
到着した。サラリーマンたちに混じって、私は手に大きな「みやげ」と
ボストン・バッグをかかえて、やじろべえのように歩きだした。
乗降口から、そのプラットホームに降り立った。大勢の降りていく人たちが
自分の向かいたい方向へ歩いていく中、私は降りた場所にじっと佇んでいた。
人が多すぎて周りが見えない。従姉を探そうとしても無理なのである、「この
状況」では。しばらくして人の波が消えた。周りが見え出した。しかし・・・
誰もいない。げぇ!どうしよう!こんなところでひとりぼっちか!
あせりにあせった。でも祖母から行く前に、はぐれた時は動くなと
言われていたのを思いだした。ただひとり、東京駅18番プラットホームで
左右の手には大きなボストンバッグと大きな箱を持っている14歳の中学生
っていうのは今思うと格好悪い変な光景だと思う。
そのときの1分1分が長く長く感じられた。
15分ほどして、向こうの方から子供をちゃんちゃんこに背たろうて
走ってくる女性が見えた。従姉である。
見かけは少々野暮ったいのだが、私には天使に見えた。
ああっ、助かった・・と思った。多分、無人島に流されて何日も何日もして
船が見えたときの心境ってこういうもんだろうなって思った。
その列車は夏季の臨時列車だったので停まるホームが違っていたのだった。
彼女は違うホームで私を待っていたのだ。私が動転してちょろちょろして
しまったら、ややこしいことになっていたかもしれない。
明治の女性の言うことを大切にしていて「よかった」と思う。
それから何度、いろんな思いを胸にこのプラット・ホームに降り立った事か。
予備校短期講習、大学受験、劇団受験、劇団入団、就職活動、就職・・・・
どれをとっても鮮明に覚えている、このプラットホームに降りたったときの
ことや自分の心模様を。
次回の公演は、東京という場所も一つのキーになっている話なので
自分の「東京」に対する思いもこめられるように脚色・改作したいと
思っています。うまくいくかどうか・・・・・それは見てのお楽しみっと。


[44] 春夏秋冬 投稿者: 投稿日:2001-11-02 (Fri)
もうすぐ紅葉の季節。清水寺の夜の特別拝観でみる紅葉は絶景です。
朝・晩めっきり寒くなってきました。四月生まれの私にとって「寒さ」から
「暖かさ」への変化はとっても歓迎ですが、「暖かさ」から「寒さ」への
気候の変化は苦手です。風邪はいまのところひいていませんが、たまに
頭が痛くなるときがあります。深夜までパソコンしている日などとくに。
一番好きな季節は、桜のつぼみがほころびはじめた頃です。
満開ではダメ!あくまでもほころびかけが好きなのです。
そのほころびかけの桜の頃に別れがあり、出逢いがあり
いっぱいのドラマがくりひろげられるのが、「その頃」です。
そういう所も「その頃」が好きになった理由だと思います。そして自分が
生まれた季節なのでしょうか、四月になると心が自然と高揚していくのは
まぎれもない事実です。なんかウキウキ・ワクワクしていく自分がいる。
夏はあまり好きじゃないかなぁ、ビールは美味しいけど、だらだらと
してしまう自分に腹がたつから。秋は前半はいいけど、今くらいから
中途半端に寒かったり暑かったりする。祭りまでかな好きなのは。
冬はいいですね。ずっと一日中寒い日のほうがいいね。冬のくせに
暖かい日だと腹がたつ。一日中張り詰めた緊張感の中で生きていける。
でも最近、温暖化で暖かい冬が増えているのがとっても残念です。
日本には四季がある。どれだけその四つの季節のおかげでめりはりのある
楽しい生活が送れているのだろう。一年中、夏だったらと思うとゾッと
してしまう私である。泉谷の『春夏秋冬』の歌詞を紹介します。

   『春夏秋冬』
♪季節のない街に生まれ 風のない丘に育ち
 夢のない家をでて 愛のない人にあう
 人の為によかれと思い 西から東へかけずりまわる
 やっと見つけた優しさは いともたやすくしなびた
 今日ですべてが終るさ 今日ですべてが変わる
 今日ですべてがむくわれる 今日ですべてが始まるさ

[43] カレンダー 投稿者: 投稿日:2001-11-01 (Thu)
11月になりカレンダーをめくった。今年もあと一枚になってしまった。
なにかいつもの年よりも「でき事」がいっぱいあった気がする。
『S−PRO』を立ち上げたのが大きかったかなぁと思う。
立ち上げた事で様々な方々と知り合いになれたし、我が人生において
とっても充実した部類の「一年」になりそうである。
残るは、来年の公演の準備だけである。どういった演目を公演しようか
迷っていたが、昨日の中学生の芝居を観て何だか吹っ切れた気持ちになった。
我が我がというのを捨てよう!
こじんまりとした演劇らしい演劇をやろう!
客席と舞台がひとつになれるような芝居をしよう!
泥臭い、人間臭い、「情」のあるものにしよう!
上記の事をいろいろ考えた末、自作を捨て、既成のシナリオを脚色・改作して
公演することに決めました。
11月の中頃にそのタイトルとどのように脚色するのかという内容を
明記して、次回のプロジェクトの項目で発表いたしますので御覧下さい。
あと一枚のカレンダーの月日の間に着々としかもこつこつとアリさんのように
準備しなければ、年あけたら後二ヶ月しかなく、あせるのは目に見えている。
大変だけどあと二ヶ月、思い残すことなく頑張るしかないっしょ。

[42] 鯉のぼりの夢 投稿者: 投稿日:2001-10-31 (Wed)
今日、仕事が休みだった。久しぶりの休みである。
先日、お話した中学の文化発表会に行ってきた。
先生から午後二時半くらいから劇が始まると聞いていた。着いたのは二時十分
くらいだった。新しくなってから初めて市民会館に入った。昔は確か
「公会堂」と呼んでいたと思う。立派な会館の二階がホール入口である。
受付では学校の関係者らしき人々がたくさんいてはる。皆さん、スーツを
着てはるので、スニーカーとパーカーの私は入るのに躊躇してしまった。
思いきって受付に行き、「あのぉ、植村先生からお電話いただいた・・・
首藤という・・あのぉ・・そのぉ・・・お芝居を・・見に・・」
チケットがないので、入るのに、どのように言って入ったらよいのか
戸惑ってシドロモドロになってしまった。
「先生から聞いています。首藤さんですよね。これパンフレットです。
 どうぞ。」受付の方がそう言い、私の名前が書いてある封筒を手渡して
いただいた。正直、ホッとした。なんだかその一言で部外者から関係者に
なった気持ちになり、ホールのなかに入ってゆくことができた。
ホールの中にはいって驚いた。600人くらい入るホールは、学生の皆さんで
いっぱいである。こんなにいっぱいの中学生をまとめて見たのは、久しぶり
だった。受付の方のひとりが来賓席に案内してくれた。
そこに腰掛けている方々も私より年配の方ばかりで私と同世代の方は
見渡せど見渡せどひとりもいなく、ちょっと場違いな感じがして、その空間
に馴染むのに時間がかかった。席に腰かけたときは、次のプログラムにはいる
間の休憩の時間であった。しばらくして幕が開き、吹奏楽の演奏になった。
聴きながら、中学生の演奏にしては迫力があり、練習をよくやっているの
だろうなぁと感心した。ピンク・レディ・メドレーを組込んであり
全然知らない曲ばかりではなく、楽しく拝聴することができた。
それが終り、次が「お芝居」である。タイトルは「鯉のぼりの夢」。
在日の方をモチーフにした「お話」であった。在日の方以外にも現代では
いろいろな国の人々が日本に来られて生活をしている。
そういった方々と、どのように私たち日本人は向かい合えばいいのかと
いったことが、この芝居の「テーマ」になるのだろうと思った。
夏の私たちの公演の練習に遊びにきた子供達が舞台で頑張っている姿を
見て、あの時の彼女たちなのかと自分の眼を疑ってしまった。私がみた
恥ずかしがりやの彼女たちが、600人の見ている前で堂々と役柄を
演じているのだ。ほとんど詰まるところなかったのは練習の賜物だったのでは
ないでしょうか。最後のシーンで舞台の上から10mくらいの「鯉のぼり」が
舞い降りてくるシーンは、「やったね、先生。演出、ばっちり!」といった
感じで、見ている人々もスカッとしたと思う。一番、爽快だったのは私なの
かもしれないが。芝居がはねて会館をでて家に帰る間、自転車に乗りながら
いろんな事を思った。芝居をずっとやってきてよかったなぁとか
今日、舞台に立った彼女たち(出演者はすべて女性)が演劇の素晴らしさを
ずっと感じて生きていてくれたらなぁとか、下手であっても何かを一生懸命に
伝えようとする作業は気持ちのいいものだなぁとか・・・・・
来年の公演に向けて頑張ろう!という勇気を与えてもらった気がしている。
皆さん、お疲れ様。そして、どうもありがとね。


[41] さよならだけが人生だ 投稿者: 投稿日:2001-10-30 (Tue)
「花に嵐の例えもあるさ さよならだけが人生だ」
井伏鱒二の言葉である。学生の頃の寺山修司が影響を受けた言葉でもある。
彼は、この「言葉」についてこう書き記している。
「学生だった私にとって最初の『名言』はこの井伏鱒二の言葉である。
 私はこの詩を口ずさむことで、私自身のクライシス・モメントを何度
 乗り越えてきたか知れやしなかった。『さよならだけが人生だ』という言葉
 は、いわば私の処世訓である。私の思想は、今やさよなら主義とでも
 いったもので、それはさまざまの因襲と葛藤、人を画一化してしまう権力悪
 と正面切って闘う時に、現状維持を唱えるいくつかの理念に(習慣と
 その信仰に)さよならを言うことによってのみ、成り立っているような
 ところさえ、ある。」
彼のここで述べたことは、最近、私の心の中に膨らんでいたモヤモヤを
払拭してくれた。人生の折りかえし地点に来て、最近つとに考えていた事は
私が生まれから今まで何をなしてきたのだろうと自問自答することであった。
与えられることばかりで何もしていない。何も変えようとしなかった。
物質的に裕福な時代を生きてきたのだろう、何ひとつ捨てきれずに決別せずに
生きてきたのではないか。そういう思いが、精神的な消化不良をおこしていた
のだと思う。既成の枠組みの中でいくらアンチ・テーゼをとなえても
屁のつっぱりにもならない。枠組み自体から根本的に『さよなら』しなければ
無意味な人生で終る気がしてならない。
昨日くしくも「テロ対策特別法案」が可決された。今がいいチャンスだと
思う。憲法についても、良かれ悪しかれ、「さよなら」するものと
そうでないものを話し合う時期にきていると思うのだが。

[40] お知らせ 投稿者: 投稿日:2001-10-29 (Mon)
夏の公演「ドラキュラ」の出演者募集のチラシを配りだしたのが5月だった。
配りはじめて次の日に一本の電話がわたしの携帯にかかってきた。
女性の声だった。少し年配のように感じた。
彼女は中学の教師をされていて、学校で演劇を教えているということだった。
夏にもし時間があれば、参加したいのですがとおっしゃった。
実際のところ学校の先生のお仕事は、夏休みでも大変で、彼女が舞台に
たつことは実現しなかった。しかし、われわれの練習を児童のみなさんと
見学にこられたり、個人的に差し入れを持ってきていただいたりした。
この様ないい関係をこれからも、この姫路でたもっていければと思っている。
さてお知らせなのですが、彼女が教える中学の文化祭が10月31日に
あるという「お電話」をいただいた。場所は姫路市市民会館だそうだ。
彼女の作・演出で午後二時くらいから公演をその会館で行うそうである。
タイトルは「鯉のぼりの夢」だそうである。
もしよければ、当日時間がある方は見にいきませんか。中学生のういういしい
演技をみるのもたまにはよいかもしれません。
私も広い市民会館の端の席から彼らの演技を見てあげようと思っています。
スポーツに国境や性別や年齢の差がないように演劇もそうであると
思っています。プロもアマも舞台にたてば、一人前の役者なんだから。

[39] 19のままさ 投稿者: 投稿日:2001-10-28 (Sun)
今、浜田省吾の曲を久しぶりに聞いている。
初期の曲が好きだ。「19のままさ」という曲を聴いていて
自分の19歳のことを振りかえってしまった。
19歳の誕生日は浪人生だった。京都市中京区寺町夷川通りを西に20m
くらい入った家具屋さんの下宿にいた。昭和初期に造られた古い木造の建物
だった。一階には立命館の一回生の「永野くん」、二階には浪人生の私と
専門学校にかよう「師匠」となぜか呼んでいた男性の三人が住む下宿だった。
私だけがテレビを持っていなかった。見たい番組があれば「師匠」に
お伺いをたてて、「師匠」の白黒の小さなテレビを見させてもらった。
気を使うタイプなのでそのテレビをゆっくり落ち着いて見れなかったことを
覚えている。
とにかく貧しかった。一週間くらい食パンとインスタント麺で生活を
したこともあった。毎日,毎日が不安だった。毎日、毎日が不自由だった。
中学校3年のときに買ったラジカセから流れてくる音楽が唯一の娯楽だった。
予備校には「現代国語」の授業しかいかなかった。
その先生だけマニュアルではなく自分の言葉で教えていたからだと思う。
学校に行かない時は平安神宮の近くの図書館にいっていた。
勉強しなくてはならないのに、勉強とは関係ない本ばかり読んでいた。
この頃から「詩」を書いてたり、ちょっとした文章(エッセイもどき)を
書くようになった。希望が見えない不安の中で、いいストレス発散に
なった気がする。
19歳の一年はこんな感じで流れていった。当時は「空白」で「無意味」な
一年のように思えたが、今ふりかえると、生まれてはじめて自分と対峙した
貴重な一年だったように思う。
不安と絶望と不自由さの中、孤独とお友達になっていった一年でもあった。

[38] 名前 投稿者: 投稿日:2001-10-27 (Sat)
「正志郎」という字を書いて「しょうじろう」と発音する。
「志」という字をなぜ「じ」と発音するのか、父親が言うには
「次男として生まれたから『じ』と発音させただけ。」・・・らしい。
この世に生まれてきて、どの人も名前を得る。その名前には
ほとんどの場合、意味がこめられている。それを与えられた子供は
なぜ自分がそういった名前を与えられたかということを考える。
「母さん、どうして僕の名前は正志郎なの、それにはどういう
 意味があるの?」
「それはね、どんなことにたいしても、正しい事をこころざす男の人って
 いう意味があるのよ。あなたの名前には。」
幼い頃の私だったら「フ―ン、そうなんだ。」とわけわからずに納得
していたと思う。今のひねくれた私だったら「正しいことって何なの?
どういうことなの、ねぇ母さん。」と聞き返すんだろうなぁ。
名前をもらって説明を受けてから、両親がつけてくれた名前の意味のように
生きてゆこうと思って今まで来たような気がする。偽りなく。
自分の心の中で『正しい事』というのは、すこし傲慢に映るかもしれないが
自己が『正しい』と判断したことになるのではないかと思い出した。
その判断においてエゴイスティックや自己的「ご都合主義」にならないように
心がけてはいるのだが。はたしてどうだろう。こういったことは他人さまが
決める事だから。自分ではなんともいえない。
いざ自分の子供が生まれた時、どのような名前をつけるかというだんになると
多分、とってもとっても推敲に推敲を重ねて考えるのだろう。今からそう思う
どのような名前を付けても、きちんと言葉でその意味を説明できるように
してあげなくてはと思う。
未だ見ぬ君にひとつだけ。父さんの名前から一字とって君の名前をつける
タイプの人がいるけど。父さんはそれが大嫌いだからね。
君は私や母さんの分身ではなく君は君自身なんだからね。

[37] 播州の焼酎「あらき」 投稿者: 投稿日:2001-10-26 (Fri)
少し前、劇団天狼星計画の松岡氏と飲みにいった。
彼は大変お酒が強く大変ユニークな方で、うちのメンバーの恋の悩み事
にも快く答えてくれた。この場をかりて「そのせつは、どうもです。
また御一緒しましょうね。」と申し上げたい。
そのとき彼が、ビールの後にがばがば飲んでいた焼酎がある。
とっても美味しそうに飲んでいるので、私がそれなんですかとたずねると
「あらき」という焼酎とのこと。私もええかっこして飲んでいた
「TWO DOGS」をやめ「あらき」を一杯、注文した。飲んでみた。
正直、うまかった。口あたりがよくて、くせがない。
飲んでいくうちに、今までの直線的な「酔い」から、曲線的というか
ほんのりと今までの「酔い」を包み込んで円にしてくれる感じがした。
心地良かった。それ以来、「あらき」のファンになった私であった。
今日も「あらき」を口にして、今、ほろ酔いで文章を打っている。
ポワ―ン、ピュア―ン、フワ―ン、と仕事と練習(勉強会)で疲れた体に
響いて心地よいのである。
明日、大手前パーキングの前の酒屋で
播州の麦焼酎「あらき」を買って、ミネラルウォーターも買って
家でその焼酎の水割りを飲みながら「天皇賞」の予想をすることを
決めて明日を楽しみにしている私である。
酒屋のおっちゃんにいう台詞も決めてある。
「すいません、「あらき」という麦焼酎ありますか?
姫路の林田町でつくられていて、ヤエガキ酒造という会社が製造していて
飲み口がとっても・・・・・」
知っているかぎりのワードをいっぱい言って「つう」ぶってやろう!
一ヶ月前には、何も知らなかったことがばれないように。


[36] 勝負! 投稿者: 投稿日:2001-10-25 (Thu)
プロ野球でヤクルトが日本一になった。
第一戦で近鉄の先発が外人投手だったとき、多分ヤクルトが勝つのだろうなと
思った。勝負ごとに勝つには精神的な部分が大きなウエイトをしめると思う。
そういった意味でも初戦の先発は、調子にかかわらず助っ人に頼らず
日本人のシーズンを通じて精神的に柱になった投手を近鉄が起用していたなら
もっと違った展開になっていたのではないでしょうか。
精神的な部分の他にもうひとつ勝負ごとで何が重要なのかといえば
それは「経験」だと思うのです。喧嘩の強い人は、たんに腕っぷしが強い人
ではなく、「喧嘩なれしている人」である。
がむしゃらに、むやみやたらに戦うのではなく相手の急所を一発でしとめる
術を慣れているものは知っているのです。これは経験でしか得られない
ものだと思います。喧嘩を例にだして、少し野蛮でしたが、他の物事に
おきかえても、この「経験」というものがなければ「勝つ術」を身につける
ことは大変、困難なものになると思います。
芝居におきかえるなら(芝居には勝ち負けはないけれど、人様に感動を
伝えられる芝居かどうかというのを考えた時)、あほほど毎日,毎日、練習を
して年に1回の舞台にたつ役者とそこそこに練習をして年に5回舞台にたつ
役者を比較した場合、後者の方が「いい役者」になっていくと思う。
芝居がはじまって、かまえているお客さんと舞台との間の重い重い空気を
どれだけ解放しライトな空気に変えられるか、交じり合えることができるか
これなども「経験」でしか得られない貴重な類のものなんだろうなぁ。
「そうか!役者を育てるのは年に一杯、公演をうてばいいんだ!
 よし、来年は年に6回、2ヶ月に一回のペースだ!」(私)
「思いつきでなんでも言うの、やめてくれません。
 予算っていうのがあるんですから。ホント困ります。」(制作部)
こんな声が聞こえてきそうで。。。。ちょっと沈黙
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
でも、真実なんだけどなぁ。まぁ、いつになるかわからないけど
「何年後かにできればいい」という私の理想ということで
今日のところは、手をうっていただけないでしょうか。

[35] 「幸せ」って 投稿者: 投稿日:2001-10-24 (Wed)
「幸せ」を一番感じるときは、いつですか?
そういう質問をされたら,何と答えるだろうか。人間には様々な欲望がある。
その欲望を満たしたときに、その「幸せ」感を得るのだろうか。
食欲、性欲、物欲、出世欲・・・・・・・さまざまな欲
他の人のことはわからないが、私の場合、ちと違うような気がしている。
欲望を満たしたときよりも、どうやって「その欲望」を満たそうかと
一人、机に向かって考え事をしているときが、とっても「幸せ」だ。
例えば、芝居の話で恐縮なのだが、一所懸命、練習してできあがった舞台が
多くの人に喜んでもらえた瞬間よりも、多くの人に喜んでもらえるには
どのような本にするかとか、どのような配役にするかとか、どのような
音とか明りにするかとか・・・etc
こういったことをいちから夜な夜な考えている時がとっても「幸せ」である。
多分、他の事でもそうだと思う。旅行にいくことより、その前にどこにいけば
面白い旅行になるかとか、美味しいものを食べたときよりも、何をどのように
組合せば美味しいものが食べれるのだろうかとか・・・
「幸せ」を一番感じるときは、一人机に向かい「幸せ」のことを考えている
ときが一番「幸せ」なのだろう。
『幸福とは幸福をさがすことである。ージュール・ルナアルー』

[34] 男と女 投稿者: 投稿日:2001-10-23 (Tue)
大事な話が君にあるんだ 本など読まずに今聞いてくれ
僕達 何年つきあったろうか 最初に出会った場所もここだね
勘の鋭い君だから、何を話すかわかっているね
傷つけあって生きるより なぐさめあって別れよう

あなたが電話でこの店の名を教えた時からわかっていたの
今夜で別れとしっていながら シャワーを浴びたの悲しいでしょう
さよならの文字を作るのに タバコ何本並べればいい
せめて最後の一本を貴方吸うまでいさせてね

客さえまばらなテーブルの椅子 昔はあんなににぎわったのに
僕たち知らない人から見れば 仲のいい恋人みたいじゃないか
女はいつでも二通りさ 男をしばる強い女と 男にすがる弱虫と
君は両方だったよね

あなたの瞳に私が映る 涙で汚れてひどい顔でしょう
最後の最後の化粧をするから私を綺麗な思い出にして
席を立つのは貴方から 後ろ姿を見たいから
いつも貴方の影を踏み 歩いたくせがなおらない

「外は白い雪の夜」という吉田拓郎が歌った曲で詩は松本隆である。
この隆さん、「男と女」を書かせたら右にでるものはいないと個人的に
思っている。「今夜で別れとしっていながらシャワーを浴びた」というくだり
いいですね。とっても。グッときます。人の心ってとっても繊細で
いつも天秤のように揺れ動いている。ちょっとした言葉で喜んだり
逆に落ち込んだり。「男と女」ならなおさらその事は顕著だと思います。
今、巷では若い男女が堂々といちゃいちゃしている光景をよく目にします。
私個人的には、その事に対して大いなる嫌悪感はないのだけれど
彼らがこの詩のような男女のように繊細な感覚をもって恋愛をしているのか
どうか、そのことに大いなる疑問をもつのです。
細やかな心づかいができる人たちが電車の中で抱き合うでしょうか
白昼、公園のベンチで接吻をするでしょうか。
こういったカップルがもし結婚して子供ができ、その子供になんと言って
教育していくのだろうと思うと一抹の不安を感じずにはいられない。

[33] 雨の日の戯言 投稿者: 投稿日:2001-10-22 (Mon)
今日、仕事をしていて、50歳くらいの上品な女性の方が私にこう言った。
「姫路って本当にみずはけ悪いわね。」その一言だけ言って立ち去った。
すこし怒ったような口調だった。今日は昨日から降り続く雨で、駅から
お城へいく舗装された道でもいたるところに水たまりができていた。
確かに駅前以外でも雨が降ると、大きな水たまりというか、排水溝の廻りに
入りきれない水がたまっている景色を会社の行き返りなどに見たことはある。
あまり気にはしてなかったのだが、彼女の一言がきっかけでいろんな事を
考えてしまった。最近、車に乗るようになってJR山陽本線(姫路駅周辺)を
境にして、北側と南側を結ぶ橋(将軍橋と朝日橋)の道の悪さと道幅の
狭さに気付いた。姫路市のお偉いさんは、新しい場所に道をつけたり
するのは得意だけれど、古くなって改善しなくてはならない所を直して
いくことが苦手なのではないかと思ってしまう。土地の開いている所を
開発するのは簡単だが、今の時代(例えば、車社会)に対応できていない
古くなった街をどのように再構築するのかは大変,難しいことである。
一市民としてこのままでは対応できなくなった場所はどんどん荒んでいき
見るも無残な活気のない場所になっていくと思う。
実際に駅の北側では、進行がかなり進んでいるような気がする。
みゆき通り、おみぞ筋、二階町、など人どうりが少なく活気がない。
ダイエー姫路店が来年の一月のなかばに閉店になるし、その勢いは
加速するのではないかと思う。それをくいとめるものは何なのか?
それは無駄のいっぱいある、消費社会にとってあまり意味のない空間を
いかに街の中に増やしていけるかが「鍵」になってるのかなぁ。。。
とこっそり思っている一市民である。その空間の中には「演劇」のスペース
も入っていることを願いつつ。

[32] 名古山での(-。-)y-゚゚゚ 投稿者: 投稿日:2001-10-21 (Sun)
高校1年の時、クラスでカンニングがはやった。
勉強できる子もできない子もスリルを味わいたい者は、こぞってカンニングを
楽しんでいた。クラスで約四分の一くらいの者がやっていたと記憶している。
私は、当時凄く冷めていた高校生だったので、そんなことでスリルなんか
味わえるかと思っていたから、誘われてもしなかった。
身長が当時から高かったので、一番後ろの席の窓際が私の指定席だった。
そこからだとテストの最中、友人たちが必死にスリルを味わっているのが
よく見えた。パターンはいろいろで手に書いたり、手にすっぽり入る巻物の
ようなものを作ったり、大胆に机の下から教科書をだして見てるものもいた。
なぜか隣の者の解答を見ているものはいなかった。
事件は地理のテストのときに起こった。友人の「ごんた」君がいつものように
スリルを味わっていた。試験官の先生は教壇で本を読んでいた。
「ごんた」君の行動はだんだんエスカレートしていき、地図を机の中から
ひっぱりだし堂々と見ている。そこに、後ろのドアからこっそりひとりの
先生が入ってきた。「やばい!」と思ったが、そのときはもう遅かった。
「ごんた」君は教員室に連れていかれた。一週間の停学になった。
次の日から今までスリルを味わっていたやつらは味わうのをやめてしまった。
そして、「ごんた」君のことを「へまなやつ」扱いで話しはじめた。
捕まるやつが悪いんだと。あんなに「ごんた」君とカンニングの楽しさを
はじけるように休憩時間や放課後に話していたやつらだったのに。
ずっと客観的に見ていた私は、なんともいえぬ気持ちになった。
虚しい。。。馬鹿らしい。。。淋しい。。。人間なんて。。。友なんて。。。
その日、家に帰ってから、そのことばかり考えていた。
明日が試験の最後の日というのに。勉強なんて手につくはずはなく「虚しさ」
だけが脳裏を駆け巡った。最終日の朝、いつもの電車に乗り、学校近くまで
来た時、瞬間的というか発作的というか「今日は学校へ行くのをやめ、ごんた
君の家に行こう。」と思った。一緒に登校していた友人に「気分悪くなったか
ら帰る。」と言って、「ごんた」君の家を目指した。彼の家は「名古山」の南
だった。お城の北の道を通り、徒歩で道に迷いながら約一時間くらいで
着いた気がする。着いて玄関を開けたら彼のお母さんが出てきて私にひとこと
いった。「今日、試験ちゃうのん?どないしたん?」って。
私は嘘まるだしに「もう済みました。卓也くんは今、どうしてますか。」と
たずねた。「二階にいるけど、ほんまにすんだん,テスト?」「ええ。」
私の心の中では、昨日の勉強が手につかない段階で私のテストは終っていた。
私の様子がどう映ったのかわからないが、彼女はそれ以上詮索ぜず
二階にいる「ごんた」君を呼びにいってくれた。「ごんた」君が二階から
降りてきた。「おお、何しとん。お前!」といった。「見舞や。見舞。
停学見舞や。」わけのわからない一言をいった。「ごんた」君はにやりと
して「ちょっと待っとけや。今からちょっと名古山に行こう。」と言った。
二人で名古山に登った。名古山には仏舎利塔を中心に大小さまざまな
塔が立ち並んでいる場所だ。そのうちの南側の塔にふたりでよじのぼり
姫路市内を眺めた。お城や手柄山やいろんな街並みが見える。
「ごんた」君は今日の私の行動について何も聞かなかった。
彼はだまってポケットから煙草をだした。「まぁ、吸えや。」
最初の一言だけ覚えてる。その後、何を話したか覚えていない。
姫路に帰って来て、名古山を見るたび『この日の出来事』を思い出す。
そして、二人でふかした煙草の煙が目にしみたことも。

[31] 新しい趣味 投稿者: 投稿日:2001-10-20 (Sat)
まぁいろいろと趣味と呼ばれるものは、一通りやった気がする。そのせいか
最近、これといって興味のあるものがなかった。
今日、仕事場でのこと。61歳になる隊員の酒江さんと趣味の話をして
盛り上がってしまった。彼は昼は警備の仕事をし、夜は魚町で「ながし」の
仕事をしている。ギターを持って飲み屋に行き、客のリクエストに応じて
歌をうたうのである。今年の花見のときに彼のギターの腕前と喉を
披露してもらった。どすがきいていて迫力満点だった。さすが「プロ」と
いった感じであった。魚町の光と影を見続けて三十有余年だそうだ。
お酒も強くていつも休みの日になると、昼前から飲みだして夜まで
うだうだと約1升の日本酒を飲むらしい。酒豪である。
そんな彼の夢のひとつが、自分で作った「おちょこ」や「とっくり」に
酒を入れ、自分で作った「さら」に料理をのせ、一杯やることだそうである。
畳の部屋の真ん中には囲炉裏があり、座椅子なんかに腰かけて
時間を忘れて優雅に酒を飲む。イグサの香りと木の匂いが入り混じり
なんともいえない空間の中で酒を飲む、もう最高!だと。
その話を聞いて、テレビで前に見た「備前焼のドキュメント」の番組を
思い出した。土から、壷や皿などの形のあるものにロクロで作り
それにウワグスリを塗りカマドで何日もかけて焼き、完成品ができる。
私がその工程の中で最も興味を持ったのが、カマドに入れて焼きあがる
までの工程で、偉い備前焼の大先生いわく「私でも火の加減や、そのとき
使った原料の土やカマドでの置き具合(焼くときはたくさんの皿や壷を
いっぺんに焼くため、おく配置を考えなければならない)など
いろんな要素があるので焼きあがってみないとわからない。」と。
うわぁ!凄いこといいはるわぁ,大先生!!と思いつつ、そうか、それが
よいのか、わからないから面白い、偶然だから愉快ってことなんだろうなと
勝手に想像してしまったB型のわたしであった。
そのTVの話と私の感想を酒江さんに言ったところ、「そりゃ隊長の
おっしゃるとおり。私のつくる「とっくり」も「さら」もばらばらな形で
いいし、いろんな色でもいいし、それが自然なんやから。」と彼は言った。
答えがわからなくて、不揃いで、、、いい。
これが陶芸のコンセプトだ!!と思った時、『新しい趣味』として
陶芸をやってみようと思った。酒江さんと肩を並べ、ロクロをまわしている
自分の姿がくる日も近い。だって、こうと決めたら即、行動にうつしてしまう
軽薄な自分が大好きだから。


[30] 天性 投稿者: 投稿日:2001-10-19 (Fri)
今日、来年のプロデュース公演にむけて勉強会の初日であった。
演劇は初めてという方が、3名いた。総勢で7名の会であった。
参加された皆さん、どの練習にも熱心に取り組んでもらって本当に
嬉しかった。感謝,感謝!まぁ久しぶりに腹の底から笑わせてもらった。
そこで感じたことを少し。
前にも言った気がするが、発声ができるとかできないとか、マイムが少し
できるとかできないとか、イントネーションが間違っているとかいないとか
そんなことはどうでもいい、その人の人間性や持って生まれた『天性』という
ものがいかに大切なものかということを痛感させられた一日だった。
声の質なんていくら練習してもなかなか変えられるものではない。
もって生まれた「その人ならではの音の質感」が心に響くか響かないかを
決める要素になっているのだなぁと思う。
今日、勉強会に参加した演劇はじめての23歳の女性の音質は透明で空間を
包み込む力をもっていた。あまり聞いたことのない質感であった。
彼女の天性の声なんだ〜ええ声〜岡けんたもびっくり!って感じだ。
練習してもこういう音をだすのは難しいのだろうなぁとも思った。
もってうまれた良い部分っていうのは誰しも必ずあるわけで
それに誰(自分を含めた誰か)がいつ気づいてくれるかどうかで
その方の人生における自信度や充実感が違ってくるように思う。
これを読まれたみなさん!!
あなたの隠された天性の「ある部分」を探しに来ませんか?
知らなかった自分を探してみませんか?
多くの方の勉強会への参加を心待ちにしています。
勉強会?堅苦しくならずに、らく―に、らく―にいきましょう!!
あなたには自由に飛べる羽がはえているかもしれません。

[29] 誕生石 投稿者: 投稿日:2001-10-18(Thu)
今日は、誕生石の詩を二つ紹介します。作者は寺山です。

「ガーネット」
もしも 思い出をかためて
一つの石に することができるなら
あの日 二人で眺めた夕焼けの色を
石にしてしまいたいと
女は手紙に書きました
その返事に 恋人がよこしてきたのは
ガーネットの指輪でした
赤いガーネットの指輪を見つめていると
二人はいつでも
婚約した日のことを思い出すのです

「ダイヤモンド」
木という字を一つ書きました
一本じゃかわいそうだから
と思ってもう一本ならべると
林という字になりました
淋しいという字を見ていると
二本という木が なぜ涙ぐんでいるのか
よくわかる
ほんとに愛しはじめたときにだけ
淋しさが訪れるのです

もうすぐ二人の結婚記念日です。その日が近づくと
なぜか指輪のことを思い出す。「ガーネット」と「ダイヤモンド」
彼女と私の誕生石。


[28] ネパールの友人 投稿者: 投稿日:2001-10-17 (Wed)
インドではお茶のことを「チャイ」という。ネパールでは「チャ―」という。
日本語の発音と同じなんですよ。
ネパールの友人「ラジャン・マッラ」君に教えてもらった。
彼とは京都の仕事先で知り合った。彼とともによくエアコンの外機を死ぬほど
運んだ。お互いの額に流れる汗を見ながら、こいつには負けるもんかって
いう感じで仕事をした。そうしてしだいに心がかようようになっていった。
「今度、ネパール料理食べに行きませんか,首藤さん。」彼がそう言った。
「河原町六角東に入ったところにネパール料理の店,見つけたんですよ。」
しっかりした綺麗な日本語である。3年くらいでここまでよく覚えはった
ものである。ネパール料理はインド料理をアレンジしたようなものだった。
牛を宗教上食べないので、マトンや鶏肉を使った料理が中心だった。
薄ぐらい店内ではテーブルの上にロウソクを立ててあった。
なにかほこらの中で食事をしている感じだった。ラジャン君が意味不明の
言葉で注文をしていく。店の人はネパール人なのでネパール語で話しているの
だろう。ほんと聞いたことがないような発音で話すから聞いてる私は
異様な空間の中で戸惑うばかりであった。白濁したわけのわからない酒が
でてきた。あちらのお酒らしい。ちょっと最初は抵抗があったが
そこは酒好きで負けず嫌いの私である。一気にぐいぐいと飲みほした。
「カモン、ラジャン!ワン・モアー!」日本語で十分通じるラジャン君に
変な英語を使う日本人になっていた。すこし酔い始めていたのだろう。
マトン肉のレタス包みみたいのやら、トウモロコシで作ったセンベイみたいの
やら、ほうれん草をミキサーにかけて香辛料をいっぱいかけて混ぜたのやら
わけのわからないものばかりだった。最後に食べた鶏肉のカレーとナンは
とっても美味しかった。これだけはインド料理で一度食べたことがあった
から。そのときラジャンとの会話で覚えていることが一つある。
食事しながら、彼にこう聞いた。「ラジャン、日本に来て一番驚いたことは
何?」と。彼は即座に言った。「援助交際です。」と。
「体を金でうる女性の気持ちがまったく理解できない。」と。
ごもっとも、ごもっとも。そう思った。が「どうして、今の若い女性は
お金にも困っていないのに援助交際するのですか?首藤さん。」
という質問には何も答えられなかった。その答えをいいかげんに
とってつけたようにネパールから来たラジャン君にいうのは失礼だし
自分自身でも何もわからなかったというのが事実である。
援助交際の主人公が「まじめ」な「普通」の女子高生であり、その相手が
「まじめ」で「まとも」な父親くらいの年齢の普通の男である。売るほうも
買うほうもどちらも経済的に中流階級であるという点が、ラジャン君の問いに
答えられるヒントになっているような気がしている。
彼の問いに、きちっと答えられなかったのが京都を離れた今も心残りである。
彼と「今度逢う時はネパールで!」と約束をしている。
その日までに「その答え」を見つけておかなくては。


[27] 「占い」による自己紹介 投稿者: 投稿日:2001-10-16 (Tue)
私の生年月日は1962.4.19である。
この情報だけで占えることができるサイトで自己分析を試みました。
自己紹介として読んでいただければ幸いです。
1)動物占い・・・「オオカミ」
  《特徴》自分だけの時間と空間を大切にし、何をするのも自己流。
      臨機応変の対応は苦手だが、自分にしかできないことで
      一番を目ざすタイプ
2)パン占い・・・「黒パン」
   《特徴》頑固一徹で研究肌。適職は、職人・学者
3)恐竜占い・・・「始祖鳥」
   《特徴》皆を喜ばせるのが好きだが、他人に文句をいわれるのが
       大嫌い。
4)日用品占い・・・「センタク用合成洗剤」
   《特徴》宣伝上手・要領よし、どんな環境でもうまくやれる
5)おとぎ話占い・・・「一寸法師」
   《特徴》情熱的,正義感強いが頑固で短気ですぐケンカをする。
6)家電占い・・・「電池」
   《特徴》おっとりしていて、他人にやすらぎを与え疲れを
       とってあげられる。ただしその分、自分は疲れる
       切れると怖い
こんなんで自己紹介になるのであろうか。
あたるもハッケ、あたらぬもハッケ。「占い」は楽し。

[26] 嬉しい誤算 投稿者: 投稿日:2001-10-15 (Mon)
『S−PROJECT』は劇団ではない。最初に決めたコンセプトである。
演劇は確かに好きである。それだったら劇団にと思ったのだが、今までの
経験で言うと、一度同じ芝居をした人達(とくにお若い人たち)は友達感覚
になってしまって、二回目からは芝居をしてるのか「思い出作り」を
してるのかわからなくなってしまう。「思い出作り」の為なら
別に芝居しなくても、JTBに旅行の段取りをしてもらい、海や山や観光地に
楽しくくりだせばいい。毎回毎回、新鮮で緊張感をもってモノ作りをしたい。
その為には、この「なぁなぁ」意識が最初から罪だと思うなら
それを生み出さないシステムから入れば良いのだろうと思ったのが
名称を劇団にしなかった理由である。
劇団という名称をつけなかった事で例えば「絵の展覧会」とか「粘土細工展」
とか「寄席みたいな演芸イベント」とか「音楽会」とか「個人コンサート」
など、なんでもありになったと思う。
それは私的には「嬉しい誤算」である。
演劇だけにとらわれない表現方法を身につける事は、これから演劇をおこなう
際の「幅の広さ」や「奥行きの深さ」に、多大に影響を与えると思う。
ここ何年かにいろんな演劇以外の企画も考えていますので
それが具体化したときには、変なの?って言わずに
どうか「その場所」まで足を運んでやってくださ〜い〜masemase!!

[25] ローカル志向で行こう! 投稿者: 投稿日:2001-10-14 (Sun)
NHKの朝の連続ドラマほど面白くないものはない。
多数の人間が見て、うむうむ、なるほど、なっとーく、といった話ほど
くだらない話はない。見ている人の気持ちがわからない。ただし、時計
がわりに見ているならべつだが。
私の知り合いにこういう人がいる。雑誌に書いている「売れ筋なんでも
ベスト10」のような記事を見て、CDや本やビデオなどなど、ランキングに
入っている商品をなにも考えずに購入するのである。
彼の思想にはみんなが見たり聞いたりするものは、いいものだという
安直な考え方があるように思える。自分でいろいろと考えて、自分の趣味に
あったものを選ぶ事ができなくなっているのではと思ってしまう。
私はランキングに入っているものがくだらないものばかりだとは
これっぽっちも思っていない。そこにたどり着くまでのプロセスを
問題にしようとしているのだ。もっともっと思慮深く何がいいか
悪いか考えましょうと言っているのだ。なにか日本人全体にこういった傾向
があるような気がする。皆、忙しい毎日であるから、時間のかかる作業は
やめて、東京発のマスコミの情報にしがみつくしか方法はない。
街行く女性の髪型、化粧の仕方、服装など同じに見える。
趣味はカラオケ、ドライブ、ショッピング
好きな男性のタイプはトレンディ・ドラマの俳優たち
だいたい相場は決まっている。
和服を着て通勤し、お歯黒に唇に小さく紅を塗り、髪だけは茶髪のセミロング
趣味は、将棋に昆虫採集に卓球
好きな男性のタイプは西郷隆盛、桂米朝、ラッキー池田
こんな女性いてもベリー・goodだと思うのは私だけかな?
女性のことを例として述べたが、男も同じこと、住んでいる街なみも同じ
部屋の中も同じ、、、これではみんな東京の小型みたいになってしまう。
我が故郷・姫路だけは違う方向で行こう!!
姫路独自の文化を築いていこう!!
ローカル志向で行こう!!市民の皆様、よろしくお願いします!!
マスコミにも東京から天下りしてきた官僚にも動じず
町衆(この場所に根をおろして生きている人々)だけで
力合わせ頑張りましょう!!その為ならどんなことにも耐える覚悟は
あるつもりです。


[24] 時刻表 投稿者: 投稿日:2001-10-13 (Sat)
ここに一冊の本がある。「時刻表」と書いてある。
東京まで行く用事がある。時間を調べようと思い、その時刻表を開く。
ぺらぺらと中をめくってみる。おや?なんだこりゃ?
最初のページに戻る。書かれている事柄を凝視した。
列車の名前のところに自分の名前が書いてある。
駅の名前のところの最初には「生誕」と書いてある。
時間のところには自分の生年月日と生まれた時間8:37と刻まれている。
「生誕」の次の駅の欄には「臍の緒」と書いてある。
多分、母と切り離された時間なのだろう。うむ、うむ、そうか、そうなのか
はじめて知る「自己の出来事」の時間だ。詳細に出来事が列記されている。
見開きの半分の1ページすべてに私の1歳のときの出来事が書かれている。
次のページには2歳のときの出来事が時間とともにぎっしり書かれている。
ページ数と年齢の数が呼応している。
3歳には。。。4歳には。。。。5歳には。。。10歳には。。。
読むのに夢中になっている。時間のことを読んでいるのに時間を
忘れている。深夜だというのに目がさえてきている。少し興奮気味である。
18ページの半ばの駅名の欄には「失恋」と書かれている。
そのとき、初めて手にしていた本を机に置いた。喉が渇いていた自分に気が
ついた。珈琲をいれにいく。
また続きを読もうと部屋に戻り椅子に腰かける。
手に持っていた珈琲カップを机に置く。暑くなってきたので窓を開けた。
心地良い風が入ってきた。さて読もうかと思った瞬間、強い風が
部屋をかけぬけた。本のページがめくれていく。
「失恋」からだったなぁ、えっと、、、確か、18ページだった、と思い
めくれたページを見る。45ページまで来ていた。
まだ30代だから45ページには何も書かれていないはずなのだが
ぎょえ!!まぁいろんな事が書かれているではないか。
細かく時間も書かれている。もしかして「この本」私が死ぬまでの
時間が書かれているのか。そう思うと「ぞっ」とした。
終着駅の名前は「死去」なのだろうなぁ。見たくないなぁ。知りたくないな。
でもちょっと気になるなぁ。。。思案しながら珈琲カップを手にした。
珈琲を口にする。冷めていた。
18ページに戻ろうか、それとも45ページから46ページに進もうか
どうしよう。右か左か。「To be,or not to be」
ハムレットの心境だ。よし決めた。次のページにしよう。そう思い机の上に
置いていた本を手にした。手にした瞬間、無意識になにかにとりつかれた
ように「その本」を破りはじめた。握力がそう強くないのにもかかわらず
火事場の馬鹿力なのか、分厚い「時刻表」を小さく小さく破くことができる。
芝居でよく使う「紙の雪」くらいまで小さく破いたところでわれにかえった。
「我に返った」瞬間、もう一度「我に返った」。。。
夢かぁ。どうしてこう毎日毎日、不思議な夢を見るのだろう。
しかも、その内容を克明に覚えている。こうして文章にできるくらい
覚えている。明日、見る夢は何なのか、期待と不安の毎日の連続である。

[23] 競馬場の風景 投稿者: 投稿日:2001-10-12 (Fri)
雨の競馬場が好きだ。芝生が濡れて輝いている。まだ馬は走っていない。
それもそうだ。まだ開門まもない午前9時10分である。
京都競馬場の4コーナーがまじかに見える古いスタンドがお気に入りの
場所だ。ここにいると騎手の駆け引きが手に取るように見える。
向こう場面で坂を駆け上った馬たちが3コーナーから怒涛のように下ってくる
様子が何とも迫力がある。ようしゃなく鞭を叩く音が聞こえる。
地鳴りのように馬場をける音もする。ここはまるで劇場のようだ。
ゴール前の好きな人は多いが、それは当たったかどうかだけを見ている人が
ほとんどだと思う。結果よりもプロセスがなんでも面白いのに。
9時20分、コース全体を見渡す。この場所でいくつもの名勝負が生まれてき
たことを思う。ニシノライデンが斜行した天皇賞、サッカーボーイが弾けた
マイルチャンピオンシップ、ナリタブライアンが三冠を達成した菊花賞
ホクトべガがインから差したエリザベス女王杯、数え上げたらきりがない。
生で見てきたからこそターフを見ても、そのシーンが浮かんでくる。
9時30分、第一レースに出走の馬がパドックにあらわれる時間だ。
パドックを見るときのいつもの場所へ移動する。レ―スは午前10時からだが
もう私の中では第一レースは始まっている。パドック見て、馬券がすべて的中
するとは思わない。パドックを見ること自体、好きなんだと思う。
小さなサークルを静かにまわっているサラブレットが、レースになれば
歯をくいしばりながら鞭打たれながら必死で走り出すというギャップが
パドックからレースまでを見ているとよくわかる。
9時40分、騎手に号令がかかり、それぞれの騎手が馬にまたがっていく。
私の好きな騎手のひとりなんかは、いつも馬の上で口笛を吹いていた。
その口笛の音を聞きながら、こいつはちょっと変わったやっちゃなぁと
いつも思っていた。
9時50分、馬場にでた馬の走る様子を見るため、スタンド側に移動する。
よく首を使う馬が好きである。出走するすべての馬の走る姿を見てから
馬券を買う。いつも締めきり時間ぎりぎりである。これだけ必死で見て
買えなかったこともちょくちょくある。
10時00分発走。頑張れ!馬券を買った「お馬ちゃんたち」!
これを12レースまで続けて一日が終る。いったい何キロ歩いたか
わからないがいつも次の日は足が痛くなる。相当、歩いているのだろう。
昨日、私が好きだった口笛を吹く騎手(現・調教師)が逮捕された。
ショックだった。かわっていると思っていたが、ここまで彼がきていたとは。
純粋に競馬場という劇場を愛していた私は彼に裏切られた気がする。
頼むから逃げないでいて欲しかった。ふんばって欲しかった。
本命でとんで、次のレースのパドックで、おやじたちに罵声や野次をあびせら
れても、いつも素知らぬ顔をして、ひょうひょうと口笛を吹く彼が
とっても人間くさくて好きだったのに。残念でならない。





[22] 「熱海殺人事件」 投稿者: 投稿日:2001-10-11 (Thu)
「熱海」をはじめて見たのは確か20歳の冬だった。
当時、大阪・梅田にオレンジルームというホールがあった。
そのホールの企画で学生劇団による「熱海殺人事件」連続公演という
フェスティバルみたいな催しがあった。確か4劇団くらいで「熱海」を
一日ずつ交代で公演していた。参加していたのは第三劇場、劇団新感線
劇団そとばこまちと後一つは覚えていない。(この三つだけ観劇したので)
第三劇場の演出はマキノノゾミで新感線がいのうえ・ひでのりで
そとばこまちは当時の名前でつみ・つくろう(現在の辰巳琢郎)と
そうそうたるメンバーであった。また、彼らは舞台にもメーンキャラクターで
出演していた。私が見た順番は第三劇場→新感線→そとばこまち
の順番で三日間連続で大阪まで足を運んだ。
それ以来、今までに何本の「熱海」を見た事だろうか。
つかこうへい氏が芝居を休止し、ある程度の期間をおいてから活動を再開
された後、時代にそくした「熱海」をいろいろなバージョンで書いているが
私は、初期の「熱海」がとっても好きである。「シンプル イズ ベスト」
といった感じがその理由だろう。最近の「熱海」では大分の劇団
がやった「熱海」がとってもgoodだった。伝兵衛を女性が演じたことより
戸田刑事扮する韓国人「リ・タイゼン」の役どころにはまってしまった。
姫路に帰ってきた2年前、この街で芝居がやれたらええのになぁと
漠然と思っていた。しかし姫路の劇団のこととか、どこにどんな小屋が
あるのかも知らなかった。新聞とか情報雑誌を見るのだが、あまり演劇など
おこなわれておらず、どうしたものだろうと途方に暮れていた。
半年くらいたって朝日新聞の姫路版に「熱海殺人事件ーサイコパスー」
大阪ガスUホールにて、という記事を目にした。「熱海」という言葉を
聞くと、どうしても見に行きたくなる私の性分と姫路で熱海をやっているんだ
という喜びとがまじりあって、その公演を見にいった。
姫路ではじめて見た芝居が「熱海」だとは、なんだか因縁めいたものを
感じた。そして、その公演がきっかけで、その劇に参加されていた皆様と
親交を深められ、いろいろと姫路における演劇事情などを把握できるように
なっていった。練習場所のこととか、小屋のこととか、、、etc
S−PROJECTを立ち上げる勇気を与えてもらった気がする。
「熱海殺人事件」という戯曲が、人と人とを繋ぎあわしてくれたと今も
思っている。彼らが「熱海」を選ばなかったら、どうなっていたことだろう。
内容も素晴らしい本だが人の輪も広げてくれる本だったとは。
素直に「熱海殺人事件」という本に感謝したい。




[21] 自転車に乗って 投稿者: 投稿日:2001-10-10 (Wed)
今日は仕事が休みだった。雨が上がった街を自転車に乗ってうろうろした。
15kmくらい今日は走っただろうか。ふと、その時に感じたこと。
それは『自転車のスピード感はとっても心地よい。』ものだなぁと。
周りの景色だって車と違って確認しながら見える。あそこにあんな建物が
あったのか、この細い道を行くとここに出てくるのか、新しい発見のできる
スピードだ。このスピード感こそわれわれ人間が生活していくのに丁度いい
スピード感ではないかと思った。
これ以上速くなると、速くなる速度と比例して見失うものが増えていくように
思う。ほどほど、、、ほどほど、、、この「ほどほど」感、、、これが一番
なんだろうなぁ。例えば、勉強だって短時間に詰めこみすぎると
すぐ忘れてしまうし、肉も短時間で焼くと中が生焼けになってしまう。
やはり、、、それぞれに見合ったスピードがあるものなんだろうなぁ。
妙な納得をして時計を見た。そろそろ帰らなければならない時間だ。
ひきかえそうと思った。しかし、ここで同じ道をひきかえらないのが
私の性分である。目的地まで行って帰ってくるときには
絶対といっていいほど、来た道とは違う道をとおって帰ることにしている。
それで何度も行き止まりにあったり、もの凄く遠回りになって、帰るのに
倍以上の時間がかかったことが多い。でもそんな数々の失敗をしても
新しい道を探してそれが近道だったりすると、ほくそえんでしまう。
多分、近道が見つかろうが、行き止まりに会おうが、時間かかろうが
どう転んでも楽しい時間なのである、私にとって。
つまり「来た道と違う道」を帰ることでハラハラ・ドキドキすることを
楽しみにしているところがある。
人生は、もう少しステディにいかなくては思いつつ
この道の話と同じで波瀾ばかりを好むようになってしまった。
周りの皆様!ハラハラさせてすいません。もうここまで来て
変えられませんので御理解のほどよろしく願います。開き直った39歳



[20] 投稿者: 投稿日:2001-10-09 (Tue)
ずっと猫より犬の方が好きだった。
犬は人間のいうことをよく聞き、猫は勝って気ままな行動をする。
自分という人間にとって犬の方が都合がいいから、犬の方が好きだと
思っていたのだろう。
今日、仕事場近くの公園に黒い猫が一匹あらわれた。
初対面の私にすりよってきた。人慣れしている猫らしい。
しばらくしてから私の顔を一回じっと見てから、水のみ場へ行った。
私も調子に乗って、ついていくと水道の蛇口の下まできて
「ニャ―」と一声。おぬしなかなかやるな!と思いつつ、催眠術を
かけられたように私の手が蛇口をひねっていた。
美味しそうに水をぺろぺろ舐めるようにして飲んでいく。
満足したのか私に礼のひとつも言わずに、そしらぬ顔して走りさった。
わずかな時間だったけど、結構、楽しい時であった。
走りさっていく猫の動きを目で追いかけた。じっくり見たのは初めて
だったかもしれない。すると「その動き」はチーターが獲物を追いかける
躍動感のある動きと同じに見えた。なかなか格好よかった。
犬ではあんなに、なめらかに走れないだろうと思った。
しなやかに全身を使う動きは、芝居でも使える、よし次の芝居には
この黒猫を使おう!と思ったのは冗談だが、「動き」だけ見れば
だんぜん犬より猫のほうが好きであることがわかった。
一元的に何でも見ちゃいかんなぁ。。。人間同志でも同じことなんだろうな。
いろんな角度で見なきゃわからないなぁ。。。などなど
痛切に感じた一日だった。


[19] 体育の日 投稿者: 投稿日:2001-10-08 (Mon)
「今日が体育の日です。」と言われてもピンと来ない。
ハッピー・マンディだそうです。この制度、個人的にはあまり好きではない。
体育の日はやっぱ10月10日、東京オリンピックの開会式の日でしょう。
なんでまた連休にするために、成人の日や体育の日が月曜になったのか。
この経緯がわからない。別に連休はいらない。祝日働いてる人も多いのに。
こんな馬鹿な制度は、多分馬鹿な国会議員が考えたに違いない。
祝日には、それぞれの日に意味がある。意味や意義を無視して移動しよう
なんて愚の骨頂である。国とか県とか市のお役人の考えることは馬鹿げた
間の抜けたことが多いように思う。一般市民との感覚と彼らの感覚に
大きな乖離があるように思う。 それは何か。
彼らすべてにあてはまることだと思うが、彼らは倒産しない。
その生ぬるい体質のもとで仕事をするものだから、いいアイデアが
出てくるはずもない。文化の面にしても各地方で「文化振興財団」なるもの
をつくってはいるが、その実態は文化や芸術のわからない職員たちが
ただ自己の日用の糧を稼ぐためにだけ働いているのである。
文化の面以外でも機能していない公共団体がいくつもある。
われわれ市民が汗水稼いだ金を税金として溝に捨てているようなものである。
無駄金をいかに有効なものにしていくかを考えなければならない
時期にきているように思う。その解決方法は彼らのシステムを解体することに
ある。それらをどのように解体していくかは二つ道があると思う。
一つは国とか県とか市の職員の採用にあたって、彼ら自身にやらすのではなく
違う機関(この機関はアメリカの陪審員制度のようにランダムに一般市民から
募り面接官にする)をくつり、そこにやらせればいい。悪や無知な人間から
選ばれた人間はやはり悪で無知だと思うし、コネという汚い制度も払拭できる
のではないだろうか。二つめはできる限りの組織や団体を民営化にする。
採算があわないものは廃止にすればいい。
もう何でもかんでも彼らに頼るのをやめにしませんか。
自分たちでできるものは自分たちの力でやっていきませんか。
貯蓄ばかりにお金をまわさずに自分の生きている地域の為に
投資しませんか。汚職やカラ出張にわれわれの「お金」が使われては
たまったものじゃないでしょう。
誇りのもてる町にするのは個人個人の「思い」なのですから。


[18] 祖母のこと 投稿者: 投稿日:2001-10-07 (Sun)
まつりの季節になると亡くなった祖母のことを思い出す。
祖母が祭りの日になると「松茸の土瓶蒸し」を作ってくれた。
年に一度だけかぐ松茸の香りであった。祖母は「明治の女」らしく
凛としていた。「みきや」という料理旅館をしていたので、彼女の作る料理は
おふくろの味というより料亭の味といった感じだった。
例えば、カツレツにかけるソースを小麦粉を炒めて作っていた。
朝食には食パンを一口サイズに切り、それを卵につけバターでソテーする
今でいう「フレンチトースト」をよく作ってくれた。
とってもオシャレなおばあちゃんだった。
彼女が私に言っていた言葉を今でもよく覚えている。それは三つあって
一つめは「今日やろうと決めた事は必ず今日のうちにやりなさい。」
二つめは「他人にお金を貸すときはやった気で貸しなさい。」
三つめは「人生で大切なのは、運と鈍と根である。」
他にいっぱい言ったかもしれないが、よく覚えているのはこの三つである。
彼女の肉体はもうないが、こうして彼女の人生訓は今も私の心の中に
生きている。私もどれだけの言葉を自分の子供や孫に残せるだろうか。
こんなことを言っていると天国の祖母が一言。
「尻がまだ青いくせに、なに言ってるんや。もっともっといろいろ
 勉強せなあかん。それからや、あんたが残せる言葉を持てるのは。」


[17] 役者 投稿者: 投稿日:2001-10-06 (Sat)
舞台に一度や二度でたくらいで自分は役者だと思う人が多くて困る。
それも発声してちょっとくらい大きな声を出せるようになったとか
感情をこめて台詞がちょっとくらい言えるようになったとか
有名な劇団の芝居を見にいって、こうだのああだのとツウぶったことを
言えるようになったとか。。。勘違いも甚だしい。
役者は「見世物」だ!これが私の持論である。
例えば3メートルの身長の人、500kgの重さの人、首が六ろっ首みたいに
2メートル伸びる人、声がとてつもなく大きい人、などなど
今までにお目にかかったことがない人は役者であろう。
では見た目、普通の人は役者になれないのかというと、そんなことはないと
思う。見た目が普通なら精神というか心というかその人の生き様というか
見た目以外で今までお目にかかったことがない人を目指せばいい。
中途半端に普通のこぎれいな生活をして役者になれるはずがない。
泥にまみれなさい、汚れなさい、ふしだらになりなさい、もっと、もっと!!
いろんな意味で挫折を繰り返しながら真の役者になっていくのだ。
芝居バカにならずに人生バカを目指さなければ。
どこへでも行き、どんなやつとも話をし、ありとあらゆるものに興味をもち
貪欲に生きてこそ道は開けるのだ。
さぁ明日から街にくりだして役者を目指そう!ぬくぬくとした家の中で
カップメンを食べながらプレステしてる場合じゃない。
ーーーーーーー役者になれなかった男の戯言・第一章よりーーーーーー


[16] 背中 投稿者: 投稿日:2001-10-05 (Fri)
自分の地位や立場による「力」によって人を動かすのは嫌いである。
嫌いというより、人は「力」だけで動くものではないと思っている。
現在、17人の部下がいる。年上の方もいれば年下もいる。
いろんな人間が集まった組織である。その組織をまとめていこうとする時
自分なりに決めている事がひとつある。
それは、自分の方針・自分の基準を明確に部下に伝える事である。
あたりまえのことのようだが、それがなかなか難しい。
方針や基準を伝えるには「言葉」以外に何が必要か考えたことがある。
その答えは「自分の背中」ではないかと思った。
ここでいう「背中」とは自分の仕事にたいする取り組み方である。
きれい事を人にいっても組織の長がその言葉と裏腹な行動をしていると
誰もついてきてくれないし、組織がまとまるはずがない。
ドラキュラで「ツバを吐く者に、ツバを吐くなといわれたくない。」
という台詞を書いたが、まさにその通りで、組織に属している誰かに
このような感情を持たれた指導者はもう終っている。
「自分の背中(=いきざま)」を見て、人の心が動いてくれたら
長にたつものにとって、こんな嬉しいことはない。
そのためには、『いつも凛として人に優しく』生きようと自分に
いいきかせて毎日を送っている。

[15] 一枚のトンカツ 投稿者: 投稿日:2001-10-04 (Thu)
とりあえず就職をした会社は食肉関係の会社だった。
ホテルでの研修を一週間受け、いきなり青森へ行ってくれといわれた。
新入社員が総勢で80人くらいのうち青森にいったのは20人くらいだった。
青森の三沢空港に降り立ち、タクシーで百石という小さな町に向かった。
小さな町の小さな旅館に着き、人事部の人間から説明を受けた。
これから約2ヶ月ここで研修をします。ここから太平洋側に10分いった
ところに工場があります。毎朝8時にこの旅館の前から送迎バスがでますので
遅れないようにしてください。次の日、工場へ向かった。眠い目をこすりなが
ら着いた工場は、牛と豚の処理工場だった。工場全体で約200人くらいが
働いている大きな工場だった。工場長からの説明を受け、いきなり3〜4名の
班を組まされた。今日から研修をしてもらいます。班ごとに行動して下さい。
堵殺から製品になるまですべてこの2ヶ月間で経験してもらいます。
いままで嗅いだことのない匂いが工場の内部に近づくにつれ強くなっていく。
衛生面を考えて心臓部へ行くまで何枚も何枚もドアがある。
最後のドアを開けた瞬間、私にとってすさまじい光景が目に飛び込んできた。
今まさに堵殺されたばかりの豚の頭がベルトコンベア―でひとつまたひとつ
次々に、ドアを開けた場所の前のスペースに運ばれてきている。
隣のラインを見ると頭のない豚の体がフックに吊るされ工場全体を廻っている
皮を剥いでいる人から腹を切って内蔵を出している人へ、体から出された内蔵
は幅の広いコンベア―にのって流れていき、各臓器をはずしながら処理され
ていく。臓器を細かくはずして、その臓器ごとにまた細部に処理していく。
君たちの班の担当は腸の裁断と中の掃除だ。担当の山名さんと高橋さんだ。
よく説明を聞いて手伝ってください。・・・・・山名さんがこう言った。
「切るのはむずかすいから、わたすたちが切るからあんたたちは
切った腸の中の掃除してくれ。」標準語っぽい津軽弁だった。
それから一週間ずっとずっと腸の中の掃除をして、その腸を洗ってたばねて
ケースに詰めていく作業が続いた。この2ヶ月間に「内蔵の処理」を筆頭に
「豚追い(堵殺前の豚を竹刀で堵殺場まで追う作業)」・「頭部の肉処理
(頭に付いている肉を包丁で切り取る作業)」・「枝肉を処理する際に
出る骨や脂の廃棄」・「枝肉から各部位に処理しそれの梱包(枝肉から
腿肉やバラ肉やロース肉やヘレ肉などに細かく切断しそれを真空パックにし
東日本の大手スーパーの受注表どうりに梱包していく作業)」などなど
まさに最初から最後まで全体の作業をさせられた。腸の洗浄から2週間くらい
旅館でだされた肉という肉は口にできなかった。この場所での2ヶ月間はやく
ここを脱出したい気持ちでいっぱいだった。唯一の楽しみは一日が終るたびに
カレンダーに×印をつけていく作業だった。
今日の晩御飯は「とんかつ」だった。その一枚のトンカツを見るたびに
青森で過ごした日々を思い出す。そしてひとつの命の上に自分の命が
支えられていることを思う。スーパーで買う「一枚のロース肉」の向こう側に
リンゴのようなホッペをして津軽弁を話す無邪気な人々の姿を
見る事ができる。多分、それは私にとってとっても幸せなことだろう。

[14] ビールの苦さ 投稿者: 投稿日:2001-10-03 (Wed)
ビールを最初に飲んだ時、「苦い」とほとんどの人が思う。
そこで、その「苦さ」を嫌だと思って飲まないと、ビールの美味さを
その人は知らないまま死んでいくのだろう。
苦くても苦くてもビールを毎日飲みつづけるのだ。
するとある日、「その苦さ」が旨さに変わっていく。
最初から飲みやすいカクテルなんかは、すぐに飽きてしまって
長くお付き合いできないまま飲まないようになってしまう。
舞台も同じことが言えるのではないかとS−PROを立ち上げて
思うようになった。
最初から皆に好かれるような舞台(飲みやすいカクテルのような舞台)を
作ってもダメなんだ。「ビールの苦さ」をもったものを作ってこそ
最終的に皆様に愛される舞台を作れると思う今日この頃である。
いいホップを求めて。長くて険しい道のりが続く。


[13] 保護色をもった若者たち 投稿者: 投稿日:2001-10-02 (Tue)
最近の若者は。。。こう言いはじめたら歳をとり始めた証拠だということを
十分承知の上で「最近の若者たち」について述べてみたい。
よくマスコミでは「最近の若者は個性がない」という言葉を耳にするが
私はそうは思わない。どの時代でも個性的な人もいれば没個性的な人もいる。
「私の10代や20代の頃と何が変わってきてるのだろう」と30代の私が
考えたとき、いろんな性質を持った「個」というものが集まって「集団」を
形成していくプロセスにおいて、最近の若者のほうが器用に「その集団」に
溶け込む術を持っているような気がしてならない。
「集団」を形成していく過程で「個」と「個」がぶつかりあって
互いに傷つきあう。しかし、そういった作業が、四角い形をした「個」を
丸くして「集団」の中でいろんな「個」が共存できるようにする。
私の10代の頃は中学に入れば「なぐりあい」、新しいクラスに変われば
「どつきあい」、新しいクラブに入れば「けりあい」・・・・・・
毎日が喧嘩・喧嘩・喧嘩のオンパレードみたいなものだった。
そうしていく過程で学校やクラスやクラブという「集団」になじんでいった
気がしている。物質どうしが化学反応をおこして一つの新たな物質に生まれ
かわるときにエネルギーをだすようなかんじで。
しかし最近の若者たちはそのような作業をしないでも「集団」になじめる事が
できるのではないかという気がしている。すべての若者がそうだとは思わない
が、私たちの頃より確実にそういった器用さを持った人たちが増えているのは
事実だと思う。「個」が集まれば即座に「一色」になることができる。
皆、保護色を持っている。保護色を持っていなかった私から見れば羨ましい
かぎりである。傷つけあわずに仲良くなれたら、そんな理想的なことはない。
今の時代に若者として暮らせていたら、どんなにいいだろうか。
ただ、エネルギーを使わずに溶け込んだものだから、その「集団」で何か
自分にとって不都合なことが起きた時、「きれる」という行動で
エネルギーの発散をしようということがなければの話だが。


[12] 天体観測 投稿者: 投稿日:2001-10-01 (Mon)
今年の上半期に発表された邦楽CDシングルの中でベスト1は
バンプ オブ チキンの「天体観測」という曲だと思う。
藤原基央が作詞・作曲している。
詩が好きな私は邦楽を聞く場合、詩に重点を置いて聞いている。
彼が書いてるこの詩はとってもせつなくてわたしの胸をうつ。
「愛」とか「恋」とかいう俗っぽい言葉を使ってないのもいいし
言葉の使い方のバランスが非常にいい。
せつない詩をテンポのいい曲にのせて歌うところが
おしゃれでセンスがよくて、レコード大賞をあげたいくらいである。
詩の場合、短いセンテンスの中で「書いた言葉」でいいたい事を
伝える作業と同時に読者に読後どれだけの
イメージ(詩として書いていない見えない言葉)を与えるかという作業が
ある。あまりにもストレートに伝えすぎるのも奥行きがないし、見えない
イメージの部分が多すぎても奥行きがありすぎて
よくわからない歌詞になってしまう。前者と後者のバランスが詩の場合でも
重要になってくる。野球でいうならこの曲は投・攻・守3拍子揃った曲と
いっても言いすぎではない。この曲を聴いて「十一人の少年」という戯曲を
思いだした。いつの日かやってみようと心に決めた戯曲を。
『天体観測』
午前二時踏み切りに 望遠鏡を担いでった ベルトに結んだラジオ
雨は降らないらしい 二分後に君がきた 大袈裟な荷物しょって来た
始めようか天体観測 ほうき星を探して 深い闇に飲まれないように
精一杯だった 君の震える手を握ろうとした あの日は
見えないものを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ
静寂を切り裂いて いくつもの声が生まれたよ
明日が僕らを呼んだって返事もろくにしなかった
「イマ」というほうき星 君と二人追いかけていた
気が付けばいつだって ひたすら何か探している 幸せの定義とか
哀しみの置き場とか 生まれたら死ぬまでずっと探してる
さぁ始めようか 天体観測 ほうき星を探して
今まで見つけたモノは全部覚えている 君の震える手を握れなかった痛みも
知らないものを知ろうとして 望遠鏡を覗き込んだ 暗闇を照らすような
微かな光 探したよ そうして知った痛みを未だに僕は覚えている
「イマ」というほうき星 今も一人追いかけている
背が伸びるにつれて 伝えたい事も増えてった 宛名のない手紙も
崩れる程 重なった 僕は元気でいるよ 心配事も少ないよ
ただひとつ 今も思い出すよ  予報外れの雨に打たれて
泣きだしそうな 君の震える手を握れなかったあの日を
見えてるものを見落として 望遠鏡をまた担いで
静寂と暗闇の帰り道を駆け抜けた そして知った痛みが未だに僕を支えている
「イマ」というほうき星 今も一人追いかけている
もう一度 君に会おうとして望遠鏡をまた担いで
前と同じ午前二時 ふみきりまで駆けてくよ
始めようか天体観測 二分後に君が来なくとも
「イマ」というほうき星 君と二人追いかけてる

[11] 『笑い』について 投稿者: 投稿日:2001-09-30 (Sun)
よく笑う人、まぁまぁ笑う人、あまり笑わない人
いろいろいらっしゃるが自分はあまり笑わない人かもしれない。
面白くて楽しいことが好きなのだが、あまり自分では笑わない。
多分、人様に笑っていただいたとき、心の中でシメシメと笑っている。
そんなタイプかもしれない。策士的なところが多大にある、だから
脚本書いたり、演出したりするのが好きなんだと思う。
ひねくれものだから、よく笑う若い女性をターゲットにした「笑い」を
つくろうとは思わない。なかなか笑わない頑固でずぶい大人の男性を
笑わせてみたい。また単にナンセンスな「笑い」より笑ったあとに
「なるほど」・「うむうむ」と唸っていただけるような計算された「笑い」
の方が自分では満足度が大きい。お芝居をやっていて客席と舞台という
最初はとぎれた空間をぐるぐる掻き回して混ぜ合わせるには「笑い」という
のは「ひとつの武器」に違いない。だが、それにばっかり頼っていては
物語が貧弱になる。バランスが大切。そのバランス感覚の優れた本や舞台が
いいものと呼ばれるのだろう。このようにいろいろ分析してはみたものの
人様の心を動かすのは容易ではなく、まだまだ自己の修行は続く。



[10] 近鉄バッファローズ優勝の意義 投稿者: 投稿日:2001-09-29 (Sat)
とにかく野球が好きである。スポーツとしての野球というより人間くさーい
部分としての野球が私的に好きなところである。
ふるくは「江川・小林の電撃トレード」の後、小林が阪神に入団し
憎っくき巨人から勝ち星をかさね年間で20何勝した年は「本当いいものを
見せてもらった」という感激の一年だった。彼の巨人にたいする怨念がボール
に乗り移りバッタバッタと巨人の打者を三振に取っていく姿は圧巻であり
彼の人間臭さを感じさせてくれたものであった。
時は流れ、その「小林投手」がピッチング・コーチを務める近鉄が
先日、パリーグで優勝した。
この優勝の意義は最近の野球離れの現状を考えると実に大きなものであると
思っている。日本のプロ野球を面白くなくしたのは二つあると思う。
一つは現行のドラフト制度(逆指名が二人)と管理野球だと私は考えている。
ダイエーや巨人が金の力にものをいわせて、目をつけたアマチュアの選手に
金をばらまく、その周辺にもばらまく、包囲網を作り上げ逆指名させる。
いい選手は資金力のある球団しかいかなくなる。球団間にレベルの差が生じ
ダメな貧乏球団(阪神?)はいつまでも勝てなくなる、優勝争いをするのは
いつも同じ球団ということになってくる。それでは試合も面白くないし
貧乏球団からはまれにしかスター選手は生まれてこなくなる。だから
観客が減っていく。こういう構図なのである。今回、ダイエーという札束で
優勝を勝ち取ってきた球団を撃破しパリーグ優勝を果たした意義は大きい
と思う。門倉、山村、吉岡、三沢、北川などなど、こまめに弱点を補強して
いったことがドラフトで凄い選手をとってこれなくても優勝できたひとつの
要因ではないでしょうか。それともう一つは「いてまえ打線」と呼ばれる
思いっきりバットを振りぬく野球である。このケースではこうするとか
そのケースではそうするといった細かい細工をせずただバットを思いっきり
振りぬくだけ。この行為は管理野球の「ノーアウト一塁ではバントか
追い込まれたらあたりそこねでも右打ちをしろ」というのと相反する行為である。
私はバントがダメだとかエンドランがダメだとか思っていない。
全ての選手を管理して同じ野球をやらそうとする姿勢に苛立ちを感じている。
選手は人間である。人間は千差万別、いろんなタイプがいる。
これに一つの管理をいう網をかけようとしても無理である。どうなるか。
阪神がいい例で、技術のない選手がいろいろと監督やコーチから要求される
から、失敗が恐ろしくなり、当てにいくようなバッティングになるのである。
今岡、田中(秀)のバッティングなんかその象徴である。
これでは見ていてつまらないから、客足も遠のいていく。
私がいう「人間臭さ」とは言いかえれば「その選手の個性」であり
それを殺しかねない管理野球はやめていただきたい。優勝した近鉄の選手
の顔は誰もすがすがしく、思いっきりプレーした自信のある顔に見えた。
ノーガードで打ちあって相手を叩きのめしたボクサーのような顔に見えた。
その意味でもこの優勝は価値のある意義のある優勝である。
長嶋、星野、仰木がいなくなる来年のプロ野球を面白くするには
この優勝をヒントにして、どのチームも管理には頼らない個性的なチーム
作りが急務ではないだろうか。
虎きちの私は「野村さん、ごくろうさん。サッチ―と余生をのんびり
楽しみはったら。」と声をかけたくなる心境である。
金のない球団こそ自由に豪快にやらなきゃ。


[9] 食欲の秋です。 投稿者: 投稿日:2001-09-28 (Fri)
「食欲の秋」とか「スポーツの秋」とか「読書の秋」とか
「秋」にまつわる修飾語がこんなにもあるなら、大人向けに「性欲の秋」も
あってもいいのにと、くだらんことを考えている不謹慎な自分である。
目を覚ませ!パチパチパチ!タイトルは「食欲の秋」である。
性欲の事など未成年の方も見るであろうこのコーナーで述べるのは
教育上よくないと判断し、今日はいままで食べたもののなかで
私がとくに美味しかったものを述べてみることにする。
北海道にいた頃、下請け先の工場が小樽の高島というところにあった。
そこの社長はお寿司屋も経営しており、何かあればそこのお寿司屋のVIP
ルームで会食をした。月に2〜3回はざらだった。
北海道の魚はどれも美味しい。「ボタン海老」や「蝦夷ばふん雲丹」や
「いくら」や「ホッキ貝」。。。今、思い出してもよだれがでそうである。
あるときの事、そこの常務が釣好きの人で私に昨日釣ってきた魚を
食べてみないかというではないか。「いいよ、常務」とはいったものの
魚より貝とか海老とかイクラの方が好きな私にとっては
変なものがでなけりゃいいなぁと内心思っていた。
出てきたのは「八角」という北海道でしかとれない魚の照り焼きだった。
姿を見ると羽が「とびうお」のように付いていて胴体が名前のとうり
八角形をしていた。顔がまぁ本当にグロテスクで「アンコウ君」も真っ青って
感じだった。常務曰く「この魚は海がちべたくなってから美味しくなるんだ。
夏場はダメなんだ。虫もってっから。秋から冬にかけてが一番美味しいっしょ
(ちょっと変な北海道弁で)」ぶりの照り焼きしか口にした事のなかった私は
恐る恐るそのグロテスクな容姿をした魚の顔をじっと見た。
「お前、本当に変な顔してるなぁ。」と心の中でその魚につぶやきつつ
「付き合いだから食べてやるんだそ。」とも言いつつ、その八角の胴の部分に
箸を入れた。身がポロっと落ちた。柔らかく小骨もなくぷりっとしている。
口に入れた。その瞬間、ジュワっとなんとも言えない食感がひろがった。
なんて脂がのった魚なんだろうと思った。味は上品で魚臭くない。
いままで食べた魚で一番美味しいと思った。
グロテスクな顔をしたものは美味しいものが多いというが
まさにその通りだった。箸で身をとりながら心の中で「八角くん、ごめんね。
みかけで判断した俺を許してな。」と言いつつ、ぺロリと平らげてしまった。
それ以来「八角くん」を食していない。
「八角くん」にお目にかかれるのは、いったいいつの日になるのだろうか。
人間社会もグロテスクな人の方が味があるのだろうか。どうだろう?
いろんな事を考えさせてくれた「八角」という魚、私は忘れないだろう。



[8] お芝居の神様 投稿者: 投稿日:2001-09-27 (Thu)
今回の「ドラキュラ」公演にあたり、5月の下旬から週一回の基礎練習から
はじめ7月中旬から稽古を増やし(週3〜5回)追い込みの8月後半は
ほぼ毎日の練習を消化した。そういった練習のなかで、ほとんどすべての
稽古に参加し一度も遅刻しなかった者がいる。彼は練習のはじまる予定時刻の
前に来て、机や椅子を片付けたり、ゆかを掃除したりしていた。
今まで演劇経験のない彼に対して私は一度も時間厳守とか掃除をしろと
言ったことはない。ただひとつだけ『芝居の神様』の話をしただけである。
私:「あんなぁ、どこにも神様がいるようになぁ、芝居にも神様がおんねん」
彼:「そうですかぁ。その神様ってどんな神様なんすか?」
私:「君の好きな野球で例えるから、よー聞きや。凄い上手やけどぜんぜん
   練習せえへん遊撃手とあまり上手くないけど一所懸命練習する遊撃手
   がおったとしょ。実際の試合で彼らの前にゴロがとんできたとしょ。
   上手な遊撃手の前には平凡なゴロがとんできた。下手な遊撃手には
   凄い当たりのゴロがとんできた。普通なら上手な方は容易にさばき
   下手なのはグラブの土手にあたって後ろへそらしてしまうわなぁ。
   せやけど神様が悪戯しよんねん。練習せーへんかった遊撃手の前で
   イレギュラーさしてしまうねん。練習を一所懸命した下手な遊撃手には
   差し出したグラブの中央に球が吸い込まれるように入っていくねん。
   神様はこの練習期間、君を見続けているから頑張ってや。」
彼:「何かわかったようなわからんような、取りあえず頑張ります。」
公演が終った二日後、彼と私の共通の仲間でお客のひとりとして来てくれた
「ふくちゃん」(=男性29才)に冗談まじりに私が話しかけた。
私:「ふくちゃん、○○君(=彼)の演技どうやった?よかったか?」
   すると「ふくちゃん」から予期せぬ答えが返ってきた。
ふくちゃん:「よかったっすよ。○○君だけ間違ってなかったっすから。」
ふくちゃんはゲネも練習も見た事ないし、なぜそんな事をいったんだろう。
芝居つうではないし、おべんちゃらも普段から言わないし、どちらかといえば
寡黙で実直な男である。不思議な気持ちになりながらも、その時、私は
ドキッとした。それは何度も何度も芝居を経験した出演者がキーになる台詞を
つまったり、二度繰り返したり、大学生というところを高校生といったり
もうぐちゃぐちゃの中で○○君だけは端役ではあったが間違わなかったのは
紛れもない事実だったからである。その時、芝居の神様って本当にいるんや
なぁと思った。神様が「ふくちゃん」の口を借りてゆうてはるんやなぁと
思った。なぜなら、「ふくちゃん」は○○君の練習のたいする取り組みかたを
全然知らないのだから。

[7] If I am a woman,・・・・・・・・・・ 投稿者: 投稿日:2001-09-26 (Wed)
もし自分が女性だったら、どういう男性を好きになるのだろう?
今日、ふとそんなことを考えた。見た目はやっぱ清潔なのがいいなぁ
身長が高くて、あまり太ってなくて、男前がいいなぁ
お金持ってて気前よくて、頭がよくて優しい人がいいなぁ。
よく聞く言葉をられつしたのだが、はたしてそうなんだろうか。
自分の前に「男前」があらわれ好きになった。恋におちた。
そこへより以上の「男前」があらわれた。前のをやめて、そっちの人を
好きになった。恋におちた。そこへまたまたさらなる「男前」があらわれた。
同じように前のをやめ、新しい人を好きになった。恋に落ちた・・・・・・
お金を持ってる人が好きという場合でも一千万より二千万、二千万より三千万
三千万より五千万、五千万より一億・・・・・・
これではきりがない。いつまでたっても永久の愛なんてつかめない。
愛を求めない人ならいいが私の場合、愛を求める女なのである。多分。
そうだ!こういう定義はやめて消去法でいこう!その方がわかりやすい。
一番いやなのは「見え見え」の男。何をするのでも先が見えてしまう。
そういうのはダメ。次にいやなのは甘えん坊でかまって欲しそうな仕草をする男。
ほんとタチが悪い。あなたのお母さんじゃないのよ、私は。
次にいやなのが、毒にも薬にもならない男。なぜかボーっとしてる男が多い。
友達面して近づいてくる。はっきりしなさいよ、男でしょ!
このように書いていっても際限がない。消去法も無理かもしれない。
じゃあ手っ取り早く「好きになった人が好みのタイプ」ってことで。
「それなら最初からこんな話しなくていいやん。」
そんな、つっこみが聞こえてきそうで怖い。ではこれでどうだろう。
「イリュージョンみたいな人が好き」・「なにかひとつでも超越している
 人が好き」・「言葉で表現できないような人が好き」
 不思議な事を思ってしまった初秋の夕暮れ。



[6] 母校・淳心学院への提言 投稿者: 投稿日:2001-09-25 (Tue)
朝、仕事場へ向かう道すがら、淳心学院の生徒とすれ違う。すれ違うというか
北から南へと向かう私にとっては障害物みたいなもので、その人ごみを
かきわけ、かきわけ進まなければならない。彼らを見て思う事がひとつある。
それは、あまりにも服装がだらしない。上着はズボンからはみ出ているし
服はよれよれだし、ネクタイは首までしめていないし、情けないの一言。
こんな高校を卒業したなんて、お恥ずかしいのかぎりである。
いつからこうなってしまったのかは定かではないが、今このように
なってるのは紛れもない事実である。
ネクタイをきちっとしないなら、ネクタイをやめればいいし
カッターシャツを出すなら、Tシャツにしてズボンの上から
だしてもいいようにすればどうでしょう。
東大や京大に何人送り込めるかという事だけが『教育』なのでしょうか。
指導者の方は『教育』というものをはき違えていらっしゃるのですか。
家をでて、学校につくまでは「世間」であります。
一般の人々と共に電車やバスに乗ったりもします。同じ道も歩くでしょう。
そういった「世間」において凛とした態度やきちっとした服装ができなければ
人間として、いくら未成年といっても馬鹿にされると思います。
自分がでた学校に対して誇りをいつまでも持っていたいのです。
だからこそ、苦言を呈している事、了解していただきたい。
学歴社会の世の中ではありますが、学歴の高いものだけで「世間」は
構成されていないことも事実です。生徒の皆様、貴方たちが高校を卒業し
有名大学に進学し、社会にでて「世間」の方々の為にお仕事をしていくなかで
貴方と接する方々は、貴方の学歴よりも貴方の服装や言葉使いや態度を
見ているのです。それによって貴方の価値が決まるといって言い過ぎでは
ないと思います。胸をはって自分の卒業した高校の名前を言える日が来るのは
いったい、いつの日になるのか。はやくそうなることを望む日々が続きます。


[5] ふるさと・姫路 投稿者: 投稿日:2001-09-24 (Mon)
高校を卒業するまで18年、姫路で暮らし、それから、期間はさまざまだが
『京都→東京→京都→東京→札幌→京都』と転々と住む場所を変えて18年。
同じ18年という年月を姫路と姫路以外の街で暮らしてから、2年前に姫路に
帰ってきた。敷島紡績の後に「リバーシティ」ができていたり、市役所が
南に移転していたり、田んぼだったところが広い道路になったりして
街並みはいろいろと変わっていたけれど、私的に変わっていないことが
二つあります。一つはJR姫路駅の地下の「たこやき」コーナーで
「たこやき」を食べているほとんどの人が、「たこやき」にソースをかけ
そのソースのついた「たこやき」をダシ汁につけて食べていることでした。
黒くなったダシ汁を美味しそうにすすっている光景は昔も今も変わりません。
もう一つは、タ行の「た」「て」「と」を使った言葉(訛り?)使いです。
人に何かをお願いする時に「〜しとったってか」・「〜したってか」って
皆さん、使われます。18年この地から離れていた私にとって、この言葉使い
は懐かしいというより忘れていた言葉使いなので、とっても新鮮な感じが
しています。よくもまぁ、こういう言い難い表現がこの播磨地方に方言として
残ったものだなぁと感心しています。「ごうわく」とか「めぐ」とか
「〜しとう」は姫路を離れていても使っていたような気がするけれど
さすがに「〜しとったった」は使ってなかったなぁ。
でも2年ここで暮らすと使うようになってしまったから恐ろしい事です。
この姫路地方におけるいろいろな方言をご存知の方がいらっしゃいましたら
このHPのBBSにでも何か書いとったってくれませんか?
訛りこそ『ふるさと』を最も感じさせてくれるものかもしれません。
姫路を『ふるさと』として東京や大阪で暮らしている皆さん!!
いつか姫路を離れ違う街で暮らすことになるであろう皆さん!!
どこにいっても播州弁を使いましょう。恥ずかしがらずに。
「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし」修司


[4] 誉め言葉 投稿者: 投稿日:2001-09-23 (Sun)
あなたは誠実な人ですねぇ、とか、あなたは頭のいい人ですねぇ、とか
あなたはやさしい人ですねぇ、とか、あなたは面白い人ですねぇ、などなど
いろんな『誉め言葉』があるけれど、私的にはどれもあまり嬉しくない。
一番、言われて嬉しいのは「あなたはわけのわからない人ですねぇ」とか
「あなたは変てこな人ですねぇ」とか「あなたは不思議な人ですねぇ」など
そういった類の言葉を言われたときだと思う。
わからないという事はとっても魅力的なことだと思うし、変わっているという
のは個性的なことだし、不思議というのは好奇心を持たれている証拠だし
どれも一元的に私のことを見ていない言葉である。
この人は赤色、あの人は白色、その人は青色と決めつけようとすること自体
人間の悪癖なのかもしれない。『誉め言葉』であっても。
8月の公演のアンケートで多かった意見は、『よくわからなかった』とか
『いいたいことは何だったのか』とか『不思議な芝居だった』などでしたが
それをお書きになった皆さん、わたしにとっての『誉め言葉』を
どうもありがとうございました。
これからもよろしくご愛顧のほどを。

[3] 寺山修司 投稿者: 投稿日:2001-09-22 (Sat)
彼の詩がとってもお気に入りである。机の上にいつも詩集を置いている。
考え事をしていて、行き詰まった時など「その詩集」を開くと
いい気分転換になる。薔薇よりも野に咲く花を見つめ、整った形の果実よりも
ふぞろいの果実を見つめ、愛情いっぱいの家庭の子供よりも母のない子を
見つめている彼の視点がお気に入りの理由じゃないかと思っている。
だれしも強者になりたいし、幸せになりたいし、美しくなりたいし
でも、いくら頑張ってもなれない人がいる。
そういった者たちにたいする彼の「やさしさ」が私の心をうつのかもしれない
いつかギャラリーをかりて、彼の詩から連想した「絵」の展覧会を
やってみようと思う。絵を飾り、その下にチョイスした彼の詩を提示して
おく。時間を決めて朗読者がその場所へ行き、何回も何回も
制限時間のなかで「その詩」を読んでいく。
へんてこな変わった空間が生まれれば面白いんだけどなぁ。
ここまで読んでいただいた「あなた」!下記の詩を読んで
あなたの想像で絵を書いて見ませんか?
『星を数え飽きたら』
ひとを一人だますたびに 空の星が ひとつずつ増えると
女に教えた男は 船出して行って そのまま帰って来なかった
女は窓辺で星の数をかぞえながら 男を待って
ひとりさみしく 年老いていった
女は私の母 男は私の父 私の心は天文学でした

[2] さよならアメリカ 投稿者: 投稿日:2001-09-21 (Fri)
世界貿易センタービルに旅客機が突入した映像を見ながら、あの映像に
BGMを流すならどんな曲がいいだろうと、ふと思った。
すぐに浮かんできたのは、「はっぴー・えんど」というバンドの
『さよならアメリカ さよならニッポン』という曲でした。
その曲の歌詞は簡単で ♪さよならアメリカ さよならニッポン
さよならアメリカ さよならニッポン バイバイバイバイバイバイバイバイ
さよならアメリカ さよならニッポン さよならアメリカ さよならニッポン
バイバイバイバイバイバイバイバイ!♪
この繰り返しが何回も続くだけの歌です。
あんな事をされる国は、どこかであんな事をしてきたのだろうなと
「へそまがり」の私は思ってしまうのです。そして、もうそろそろ
あんなことをされる国と『さよなら』しても、ええんとちゃうのんと
思ってしまうのです。これ以上、お付き合いしたら大変なことになる
予感がするのは私だけでしょうか。



[1] エッセイ 投稿者: 投稿日:2001-09-21 (Fri)
エッセイといえば聞こえがいいけれど、これから私が書いていこうと
思っている事は私の戯言であり、本当に『ええかげんな文章』であります。
たわいもなく私の脳裏に浮かんできた事柄を思いつくまま、気の向くまま
無責任に綴っていきますので、ご了解下さい。
ご意見・ご感想がございましたら下記までどうぞ。
s−pro@af.wakwak.com  です。
では、はじまりです。