2000年 1月
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1 出エジプト20章6 |
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2 Uコリント10章1〜17 |
3 Uコリント11章1〜15 |
4 Uコリント11章16〜33 |
5 Uコリント12章1〜10 |
6 Uコリント12章11〜21 |
7 Uコリント13章1〜13 |
8 ガラテヤ1章1〜10 |
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9 ガラテヤ1章11〜23 |
10 ガラテヤ2章1〜10 |
11 ガラテヤ2章11〜21 |
12 ガラテヤ3章1〜5 |
13 ガラテヤ3章6〜14 |
14 ガラテヤ3章15〜22 |
15 ガラテヤ3章23〜 4章11 |
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16 ガラテヤ4章12〜20 |
17 ガラテヤ4章21〜31 |
18 ガラテヤ5章1〜15 |
19 ガラテヤ5章16〜26 |
20 ガラテヤ6章1〜10 |
21 ガラテヤ6章11〜18 |
22 エペソ1章1〜14 |
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23 エペソ1章15〜23 |
24 エペソ2章1〜10 |
25 エペソ2章11〜22 |
26 エペソ3章1〜13 |
27 エペソ3章14〜21 |
28 エペソ4章1〜6 |
29 エペソ4章7〜16 |
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30 エペソ4章17〜32 |
31 エペソ5章1〜14 |
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出エジプト二十章6節
《わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。》
十戒の最初の部分に神の祝福の言葉が語られているのは慰めである。十戒は命令であると共に神の祝福のメッセージである。 此処に罪に対する報いは三,四代にとどまるが、祝福は千代にも及ぶとあるのは何と驚くべき約束であろうか。神を愛するとは神に心を開く態度である。また戒めを守るとは神に従う心である。私達の願うことは、自分の持っている信仰が子孫に受け継がれることである。それは神を信じた人生がどれほど慰めに満ちたものであるかを知ったからである。信仰は子供たちに語らないで放置していては伝わらない。機会あるごとに共に祈ることが具体的な信仰の伝達ではないかと思う。
どうか今年も神の恵みを受け、それ家族にも伝わるような年であるようにと願っている。私達の受けた救いが自分だけで止まるとするなら残念なことではないだろうか。受け継がれる祝福を祈る。
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Uコリント書十章1〜17節(4前半)
《わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。》
コリントにはパウロをけなす人々がいた。彼等はパウロについて、面と向かっているとおとなしいが離れていると気が強いとか(1)、肉的で人間的なことしか考えない人であるとか(2)、手紙は重味があるが話はつまらない(10)などと非難していた。話がつまらないとは話術が下手だというのではなく内容が悪いと言うことである。パウロは自分への非難なら我慢するが福音がけなされることには耐えられなかった。だから福音の弁明のために戦うという。そのために福音の武具を(真理の帯、平和の福音、正義の胸当てなど)身に着ける(4)。 彼は神に従わない態度を取り除きたいのであって人を倒す思いを持っているわけではない。それにしてもなぜこのようなパウロ非難をする者がいるのだろうか。それは彼等が自分を偉い者のように見せたり、自己宣伝をするからである(12、第一コリ三章3)。私達は人とつき合っていると面倒な人間関係に巻き込まれることがある。どのように対応すればよいのか。それはしっかりした信仰の態度を持つことである。ところがそれを忘れて人間の好き嫌いだけで行動するから混乱を起こす。枝葉のことによってではなく重要なことを心に持ち平静に自然体で対応することである。
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Uコリント書十一章1〜15節(2前半)
《わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。》
少しばかり愚かなことを言うことを我慢してほしいと言ってパウロは皮肉を語る。 第一の手紙でも述べたようにグノーシス主義を持ちながらキリスト者と自称する者がおり、キリストの救いは不十分で神秘的な経験を持たなければ駄目だなどと主張していた。しかも彼等はパウロのことを「外見は弱々しく話はつまらない」と言っていた。しかし実際には不道徳な生活をしていて評判は悪かったのである。この者達についてパウロは「あの方々は大使徒ですから(5)あなたがたは辛抱してお話しを聞くのですネ(4)」と皮肉を言った。パウロは偽使徒にだまされてはならないと厳しく警告をする(13)。
反対者はパウロの伝道についてもさげすんだ。彼等は立派な人は教会から援助されるはずだから天幕作りをして生活費を稼いでいるパウロはつまらない伝道者だという。ところがピリピから援助金を贈られると他の教会から奪っているなどと悪口を言った。ひどく傷つく言葉である。それでも奉仕するのは教会員を愛するからである(2、11)。自己中心的な考えや異端に犯されてはたまらない。だから光の姿に偽装したサタンにだまされないようにと注意する。しっかりした信仰に生きることが牧者の願いである。
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Uコリント書十一章16〜33節(29)
《だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。》
コリント教会の人々が偽使徒に振り回されているのを聞いて、パウロはたまらない思いをしていた。その状況を「奴隷にされ、食い倒され、略奪され」と20節に述べている。パウロは愚かでつまらないことであるがと断って彼の苦難の過去を話すのである。ユダヤ人からもローマ人からもいわれのない迫害を受け、むち打ち、投獄、石打などの目に遭い海上でも陸路でもさまざまな災いにあったと言っている。23節以下の出来事のいくつかは使徒行伝に見いだすが、多くは聖書の記録にはない。
なぜパウロはこれほどの苦難に遭いながら伝道者の務めを続けたのだろうか。それは人々の霊的貧困を見てじっとして居れなかったからである。魂が弱り果てているなら励ましてあげなければならないし、罪を犯しているなら善導してあげたい(29)、そのような人々を見ていて、自分が弱っているなどとどうしても言えなかった。「生きるにも死ぬにもキリストが崇められることを」彼は願ったのである。キリストを信じる人は多い、しかし主と共に重荷を負う人がどれほどいるだろうか。
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Uコリント書十二章1〜10節(9)
《ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。》
パウロにはすばらしく高められた霊的経験と、肉体的にはトゲを持つという弱点を持っていた。4節までの記述はパウロ自身の高められた経験である。第三の天とかパラダイスに引き上げられたと言うのは、神のみそばに近く導かれたという表現であろう。しかし彼は「私は知らない」と言って決して自慢そうに語らない。私達にしても聖書の御言葉を思いめぐらしながら主の恵みを心に受けとめる時、言葉に表せないほどの至福の思いに満たされることがある。 このような豊かな霊的経験を持つ一方で、パウロはトゲという持病と思われる弱さを持っていた。しかもそれはサタンがもたらしたものだろうと思っていた。つらい思いではなかったろうか。精神的・霊的に恵まれていても、健康的にはそうでない人がいる。病身の人が信仰が足りないなどと聖書は教えない。その様な弱さを持つパウロは神にそのトゲを取り去ってほしいと何度も願った、しかしその祈りは彼が希望したようには答えられず、別の形で答えられた。 神は「私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全にあらわれる」と語られたのである。深い信仰とは自己満足の生き方ではなく、神により頼む人生が最善ものだと分かることである。
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Uコリント書十二章11〜21節(18後半)
《わたしたちは、みな同じ心で歩いたではないか。同じ足並みで歩いたではないか。》
パウロはコリント教会の開拓者であった。しかし彼が去った後、間違った教えを説く者が混乱を引き起こした。
混乱の第一はパウロを排除することであった。そこで彼は何度も自分を弁明した。取るに足りない者ではあるがキリストの使徒としての働きをしてきたと言い(12)、三度目の訪問に際しても金銭的な負担をかけないと弁解する(14)。このような弁明をパウロに言わせる人々がいることは残念である。
パウロの本音は使徒と認めてほしいとかということではなく、コリントの人々とパウロとが一つ心でいることである。だから「私が求めているのは・・・あなた方自身なのだから」(14)、とか「私達は皆同じ心で歩いたではないか、同じ足並みで歩いたではないか」(18)と言うのである。
信仰生活において、同じ心で同じ歩き方をすることはうるわしい。小さいことで意見の相違があっても伝道や牧会の考え方において同じ方向に足並みがそろっていることは教会として力を発揮する。教会が一つのことをしようとしても、別の人が他を向いていて足並みをそろえなければ教会としての成長は見られないだろう。共なる歩みをしたいものである。
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Uコリント書十三章1〜13節(5)
《あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。》
パウロはこれまで二回のコリント訪問をした。第一回は伝道のためで一年半滞在し多くの人が回心した。二回目はその信徒のある者達が罪を犯し問題を起こしためエペソ伝道の期間中に訪問した。しかし混乱は続いており、テトスの訪問によってようやく治まり始めた。パウロは安らいだ気持ちで三回目の訪問が出来るようにと切に願った。嵐が止んでも波はしばらくの間続くように教会には動揺があった。このような状態の人々に解決の原点を語る。「あなたがたははたして信仰があるかどうか、自分を反省し自分を吟味するがよい」(5)と教える。信仰があるかとはどういう意味か?。@キリストがわが内におられるという信仰である(5)。それは頭の理解ではなく日常生活で主と共に歩むということである。A力ある生き方である。この道を歩めば間違いないという確信である。その人には力がある。その生き方を真理に従えば力があるという(8)。私達は様々な問題で悩むことがある。その時正直さを保つことが大切である。人の顔を恐れたりする必要はない。神さまを信じていれば確信を持つことができ道は開けてくる。
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ガラテヤ一章1〜10節(1)
《人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ》
パウロのガラテヤ伝道の後ユダヤ主義のものがこの地方に来て、キリストを信じるだけでは不十分で律法を守り割礼を受けなければ救われないと話した。以前パウロから、キリストの贖いを信じるだけで救われると聞いていた初心者はとまどった。この問題解決のためエルサレム会議が開かれた(使徒十五章)。その結果パウロの福音理解は全体に受け入れられたのである。この決議を受けてパウロはもう一度ガラテヤの人々に福音について語る。本書の主題は「律法と福音」である。
一章ではパウロが神から救いの福音を受けたと証しする。「人からではなく神から」という内容の語が何度も出てくる(1、11、12、16)。彼は回心の時アナニヤによって導かれたが、やはり救いの経験を神の語りかけに対して「ハイ信じます」と答えたことから信仰が始まったと確信していた。パウロほどに強烈な経験はなくても、私達の回心の経験も彼と同じ神からのものとして受けとめたい。それはすべて新生したものは聖霊によるのだと主イエスが教えたからである(ヨハネ三章6)。生まれ変わりの日時を明確に覚えている人もそうでない人も、新生は神によるのだと受けとめていただきたい。神による新生は大切な信仰生活の基礎である。
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ガラテヤ一章11〜23節(15)
《ところが、母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、》
パウロは回心したときから人生についての考え方が変わった。キリストの誕生が紀元前と後を区別するように、私達の人生にキリストの十字架が立つとそれが私のそれまでの人生の前と後に区切りをつけるのである。
私達は主を信じる以前と以後では人生観や価値観は変わってきたと感じないだろうか。パウロの場合どの様に変わったのか見てみよう。信じる以前の人生は教会の迫害者、神に逆らうどうしようもない者であったが、それさえも神の御手の中にあったのだと考えるようになった。そして彼はこれまでの人生を神にある者として新しく解釈しなおすようになったのである。即ち彼は「母の胎内にあるときから私を聖別し、み恵みを持って私をお選びになった」(15)という。誰が誕生前から自分の人生観を持っている者があろうか。しかしキリストを信じたときパウロは生まれる前から神は私を愛していて下さった、選んでいた下さったと思うようになったのである。
人生を否定的に見る人はその人と神との関係にひずみがありはしないか考えてみたい。新生とは私達が天の父を霊的な真の父と仰ぐようになることである。肉の親は大切であるがもっと大切なのは天の完全な親である。この方によって私達は育てられているのである。
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ガラテヤ二章1〜10節(9前半)
《かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。》
パウロとバルナバはテトスを伴ってエルサレムへ行った。それは彼等が異邦人伝道の使命を母なるエルサレム教会のリーダー達に認めてもらうためである。エルサレム教会のある人々は異邦人が救われるにはイエスを信じるだけでなく、モーセの律法(安息日、食物の律法)を守り割礼の儀式を受けなければならないと主張していた。ところがパウロは律法と割礼がなくても救われると信じていた。それが信仰による救いの教えである。パウロやバルナバらは第一伝道旅行でそれを体験したのでこのような信仰を持っていたが、独善的な信仰になってはならいと考えエルサレムへ来たのである。 ペテロをはじめ主だった人々はこの信仰に同意しテトスには割礼を強制しなかった(3)。一章ではパウロは自分に与えられた信仰を強調しているが二章では教会の人々がその信仰を認めている。この両側面は大切である。個性の強い人は自分の信仰を主張しそれが受け入れられないと飛び出してしまう。キリスト者としての共通の信仰は使徒信条である。私が一致した信仰と言うのは伝道の方法についての一致のことではなく、信仰内容の共通認識のことである。 個性的な信仰を持ちつつ共通の信仰を根底に持って礼拝を励みたい。
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ガラテヤ二章11〜21節(19後半〜20前半)
《わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。》
「人が義とされるのは律法の行いによるのではなくただキリストを信じる信仰による」(16)。ところがペテロは幼少時から律法主義の生活していたため異邦人と食事をしたとき差別の態度を示した。パウロはそれを見て福音による救いが曲げられると感じ彼をなじったのである。
福音とは何か?それは十字架である。20節で十字架についての深い意味を述べる。 ある人はこの句はパウロの信仰の真髄を語る言葉ではないかとさえ言う。十字架は自我の死である。自我とは人格的存在の私のことではない、古き人とか肉性(我欲)を持つ罪深い私のことである。これは努力で殺すことは出来ないが十字架によって処置されている。これを樹木に譬えてみよう。 大きい木の命は葉と根にある。葉は見えるが根は見えない。私達には見える罪もあるが人目には見えない内心の罪もある。人目に見える行為の罪の赦しを義認とすれば、内心の罪からの救いを聖化という。
十字架による自我の処置は既に完成しているからその事実を受け入れることが聖化の恵みにあずかる道である。信じることが出来るためには私達を愛してご自身を捧げて下さった主に私の全存在を委ねる祈りをささげることである。
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ガラテヤ三章1〜5節(2)
《わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。》
ガラテヤの信徒達は移り気な人々のように見られる。一6に「こんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きなった方から離れ」とか「あれほどの大きな経験をしたことは無駄であったのか」(4)と述べているのは、大切な信仰を簡単に捨ててしまう態度にパウロは困惑している。ガラテヤ地方にルステラ教会がある(使徒十四章)。パウロが伝道した時、彼等は神さまが来たのだと思って供え物まで持ってきた(四章14)。使徒達はそれを拒否したが信徒達の熱狂ぶりは大変なものであった。しかし暫くして別の者が異なった教えを伝えると主への信仰から離れてそちらへ傾こうとした。その人々に対してパウロは二度も「愚かな者」(文語訳)と言う。私は洗礼を受けて間もなく教会生活を離れる人がいると悲しい思いをする。救いとは何か、洗礼とは何かなどをかなりの期間学んで本人も納得しているはずだと思うのに、どうしたわけかその様な結果となることがある。事情の変化があるのは分かるが何故だろうかと思う。そこでパウロは「ただ一つの事をあなた方に聞いてみたい。御霊を受けたのは聞いて信じたからか」と問うのである。信仰の基本を身につけ人生の価値観を確立しなければならない。
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ガラテヤ三章6〜14節(13前半)
《キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。》
6節以下にアブラハムの祝福について書いているがそれは神の家族の一員としての恵みにあずかるという意味である。アブラハムだけでなく歴史に見られる多くの神の家族と共に私達は永遠の祝福にあずかるのである。
さて三〜四章に「律法と福音」についての教えがまとめられている。最初に律法は完全を要求すると述べる。「いっさいのことを守る」よう要求するのが律法である(10)。盗み、姦淫、虚偽の罪を犯さなくても殺人をすれば罪人として判決を受ける。正しい人であるためには律法を全部守らなければならない。しかし実行不可能なのが人間の現実である。律法の行いにより正しいものになれる人は一人もいない。むしろ全ての人は罪ありと判決を受け滅びるのである。律法は本来人の幸いのために設けられたが結果として罪の故に断罪に至らせるものだ、と言うのがパウロの要点である。 この罪の呪いを受けて下さったのが主の十字架!。「キリストは私達のために呪いとなって、私達を律法ののろいからあがない出して下さった」のである。「我が神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言う十字架上の言葉は人類の罪の呪いを受けられたイエスの叫びである。
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ガラテヤ三章15〜22節(18後半)
《ところが事実、神は約束によって、相続の恵みをアブラハムに賜わったのである。》
続いて律法と福音の対照を述べる。福音の約束は最初アブラハムに与えられたがその時モーセの律法はなかった。アブラハムの後四百三十年経ってからである。
パウロの要点は次の通り。モーセの律法がないときに神の福音の約束が与えられたのだから、福音は律法がなくても人に与えられるではないかということである。
18節の「相続」とは救いの恵みを受け継ぐこと。この理論からパウロは異邦人は律法・割礼とは関係なく十字架を信じるだけで救われると語ったのである。
更に19節以下に律法と福音の対照を述べる。上記のように律法とは関係なく福音が与えられるなら、律法は不必要ではないかという質問である。これについて律法は罪が罪として明白になるため必要だと答える(19節の違反を促すは指摘するの意味)。 車のスピード違反は其処に何キロ制限と標示されているからである。交通規則は人の安全のためにあるが、それが決まると破る者が出、皮肉にも幸いのための法規が人を罪に定める。モーセ律法も同じである。しかし主は身代わりに罪を背負い刑罰から救って下さるのである。
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ガラテヤ三章23〜四章11節(四章6)
《このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。》
続いて律法と福音の対照がある。律法は養育係(三章24)、管理人・後見人(四章2)に譬えられている。これらは金持ちの家庭の子供がある年齢まで育てるために雇われた人のことである。彼等は厳しく育てる。律法はそのような性格を持っており人に厳しさをもって対応する。父母を敬わなければ鞭をもって罰する。此処の教えの要点は、養育係がある時期まで役割をもっているように律法もある時期までのものだということである。イエス・キリストの贖いが完成し、義とされる道が出来たのだから、律法の行いによる義の道はもう終わりを告げたのである。
それでは今はどの様な時期か? それはキリストによって神の子の身分が与えられ神に向かって「アバ父」(お父さん)と呼ぶ関係にされている時代である
。キリスト者になって私達はどのように神を信じているだろうか。親でありながらたまにしか声をかけない関係ではないだろうか。あるいは上手にお祈りが出来ないからお祈りしないと思っている人がいないだろうか。本来、祈りは自分の部屋で一人でするものである(マタイ六章)。其処には自由があり自然体がある。そのような神との関わりの中で神の子は育つのである。
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ガラテヤ四章12〜20節(19)
《ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。》
「私のようになってほしい。私もあなた方のようになったのだから」(12)の言葉には以前のような近い関係を持ちたいものだというパウロの願いが込められている。 最初伝道した当時、異邦人なるガラテヤ人にパウロの側で合わせるようにしていた。だから今は私の思いに合わせてほしいと願うのである。実際その当時の彼等はパウロをキリスト様のように迎え、先生の目が悪いのなら自分の目をあげてもよいとまで言ってくれていた(14、15)。ところが今はすっかり態度が変わっているので悲しいのである。しかも彼等は福音とは言えないような教えに引きづられている。パウロはそれが残念なのである。だからといって彼は人間的な関係をもう一度と言っているのではなく「キリストの形が内に形づくられる」ことを願っている。そのためなら再び産みの苦しみをしてもよいと言う。
キリストがわが内に形成されるとは何と驚くべき事だろうか。私は自我のかたまりのような者である。それが贖いのゆえとはいえ主は私をきよめ内住して下さる。さらに神さまに毎日お会いしていると主に似た者と変えられていくのである(第二コリ三章18)。
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ガラテヤ四章21〜31節(28)
《兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。》
再び律法と福音の対照が語られている。この場合は譬えである。アブラハムの二人の子イサクとイシマエルの対照から始まる。@イサクはサラから生まれた。サラは正妻であり自由の女と呼ばれている。これは彼女が律法から自由にされている者の象徴である。サラがイサクを生んだのは神の約束によってであったが、それを約束によって来られたイエス・キリストの誕生と重ね合わせている。さらに神の約束によって来られたメシヤを信じる者はキリスト者であって、この者こそ神の子だというのである。Aこれに対してハガルは奴隷の女である。それは律法に縛られている者を意味している。彼女はやがて荒野へ出て行くがそこはシナイ半島(モーセが十戒を受けた所)であり、モーセに従う者の属するグループである。即ち今ではエルサレムを拠点とする律法主義者のことである。
このような見方はこじつけ的に見えるが律法学者のラビはこのような解釈をしていた。パウロの要点はキリスト者は神の救いの約束によって生まれた者だと言うことである。私は神の約束の不変性を強く感じる。私達が主に対する信頼を持ってさえすれば救いの恵みは変わらず私達に注ぎ続けられている。
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ガラテヤ五章1〜15節(13)
《兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。》
ユダヤ人は律法と割礼の儀式によってユダヤ教を守っていた。福音はこれらがなくても救われると教える。
異邦人の私達には関係のないこれらのものが、ユダヤ人には大問題である。それはこれら二つは神がお与えになったからである。これに対してパウロはキリストの十字架によってこれらは取り除かれたと強調する。「キリストにあっては、割礼があってもなくても問題ではない。尊いのは愛によって働く信仰だけである」(6)。
ところで律法から自由にされたキリスト者は何の規制もない空間に置かれているのだろうか。これについてパウロは新しい原則である「愛の律法」のもとに生きていると教える(14)。
恵みによってどんな者でも救われると信じることで、福音を安っぽいものと考えてはならない。ところがある人々は罪を犯しても神さまに謝れば何でも赦されると思っている人がいるようである。自分勝手な生活をしていても恵みの神は見過ごしていて下さると考えているならそれは大変な勘違いである。神を愛する生活を確立しなさいとパウロは勧める。愛に生きる者はサタンに「肉の働く機会」を提供しない。
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ガラテヤ五章16〜26節(25)
《もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。》
愛の原則で歩む者とは御霊によって生活する者のことである。御霊はキリスト者に命を与えて下さる。
さて此処に肉による者と御霊による者の対照がある。肉とはこの場合肉体のことではなく内心の罪深さのことである。普段は隠れているが何か事が起きると、肉なるものが騒ぎ出し多方面に問題を起こす(19)。@信仰の領域では神への信頼が壊され信徒であっても偶像とかまじないなどへと走らせることがある。A男女の関係について言えば不品行、汚れ、好色へと引っぱられる。どんな人でも性の問題には弱い者であることを知っているべきである。B人間関係でも肉的な人は問題を持ちがちで、争い、そねみ、怒り、分裂などを引き起こす。C誰でも楽しいことをしてよい。しかし肉的な者は不健全なものを楽しみとする。家族にも見せられない不健全な楽しみ例えば泥酔などである。
さて御霊は愛の実を与え、喜び、平和、寛容、慈愛など九つの実をみのらせて下さる。愛は交わりの中で育てられる。人との関わりを持たないで「神さま愛を与えて下さい」と祈ってもそれは出来ない。水に入らないで泳ぎをおぼえようとするのと同じである。愛がないと気づいたら神に祈るとよい。御霊が助けて下さる。
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ガラテヤ六章1〜10節(2前半)
《互に重荷を負い合いなさい。》
「互いに重荷を負い合いなさい」は愛の律法の具体的な示唆である。ローマ十二章に泣く者と共に泣けと教えているが、弱さを持つ者に対して関心を持つべきである。現代は無関心な時代であるからなおさら他者を思いやる精神が必要である。ところが他方パウロは「人はそれぞれ自分自身の重荷を負うべきである」とも教えている(5)。それは自分のなすべき分を果たす責任があるからである。これをしないでただ他人の同情を求めることは真に自立した人ではない。
6節以下には「人は蒔いた者を刈り取る」と教えている。これは単なる因果応報を言うものではない。信仰を持つとやがてその人の生きる価値観が形成される。何が自分にとって最も大切なことか考える。価値観が形成される中でその人の人格が作り上げられていく。私達は自分の人生の半ばとか終わりに近づいたとき何を自分の手に持つようになるだろうか。人は生きたように死ぬものであることをおぼえたい。私達の内に御言葉の種を蒔き続けようではないか。
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ガラテヤ六章11〜18節(14)
《しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。》
パウロは目がわるく書記によって口述筆記をしていたが、手紙の最後に自らペンを取り大きい文字で最後の言葉を書いた。彼が書いたのは十字架である。主の十字架は罪の赦しのためであるが、此処には十字架の別の意味を二つ述べている。
@まず苦難としての十字架である。「十字架のゆえに迫害を受ける」(12)は苦難を意味する。パウロは福音を説いたためユダヤ人から石打や暴徒の襲撃などの迫害を受け死の危険に何度もあった。今は私達はそのような迫害には遭わないが、教会に行くと言うだけで冷たい仕打ちに合うことがあるだろう。自分に落ち度があるため嫌な目に遭うのを十字架だと言うのは見当違いであるが、正しいことをしていてつらい目に遭うことがある。十字架である。迫害によって身に受けた傷をパウロは「焼き印」と言った(17)
A「十字架につけられてこの世は私に対して死ぬ」(14)は、この世的な生き方(富、名誉のみを追い求める生き方)即ち自己中心の生き方をするのでなく、神によって生きる者になることを意味している。この世に生きながら世に属するものではないことを覚えていたい。これをこの世からの聖別という。
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エペソ一章1〜14節(14)
《この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。》
エペソ書は教会についての書。まず教会を生み出したのは三位一体の神であると書き始める。「神の栄光をほめたたえる」の句を三度繰り返し、父・子・御霊の御業を三区分して表わしている(6、12、14)。父なる神は救いの計画者、キリストは救いの計画の実現者、聖霊はキリストの救いを個人的に与えるお方である。
さて私達はキリストの救いを受け入れ神の子となったのだが、入信初期の頃には自分の決心でキリストを信じたと思いがちである。しかし実は私達が救われたのは聖霊のお働きによるのであることを覚えたい。 コリント書に「聖霊によらなければ誰もイエスは主であると言うことは出来ない」(十二章3)とある通りである。だから誰でもイエスを受け入れた者には聖霊はわが内にいて下さる。そして聖霊は「証印」と呼ばれている(13)。それは手付け金のこと。手付け金を払えばそれは実際的には払った人のものである。このように神の子になった者には聖霊が与えられており、み国に入る保証をいただいているのである。内住される聖霊を何時もあがめ信頼して生活しよう。
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エペソ一章15〜23節(17)
《どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、》
パウロはローマの牢獄からエペソ教会の信徒のために祈っている。遠くにいて毎日会わなくても彼は祈りの中で彼等に会っている。これが主にある交わりである。
使徒は「知恵と啓示の霊」が与えられるようにと祈る。年齢と共に人を見る目ができるように、キリスト者は神を知ることによって信仰が成長する。「神を認めさせ、心の目を明らかにしてくださる」とは、神が分かってくると祝福の内容と自分自身が見えてくるという意味であろう。
神が分かって来ると、@真の望みが分かるようになる(18)。希望といえば天国のこと。しかしそれと共にこの人生にも希望が湧いてくる。神が分かってくると否定的、不信的な思いが去って希望的になるのは不思議である。Aさらに神の力が私達に働きかけてくるのが分かるようになる。神について知的に理解することは大切である。するとそれが体験的になってくる。そのようにして私達の信仰は育っていくのである。御言葉にあらわされている神を思い、魂に喜びと命にあふれた日々を過ごしたいものである。
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エぺソ二章1〜10節(8)
《あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。》
「先には」と述べて1〜3節で救われる以前の生活を描いている。罪に死んだ者とは、肉体的には生きていても霊的には死んでいる者のこと。神と関係のない生き方を霊的な死という。それでは誰と関わり持っていたのか? 空中の権を持つ君と関わりサタンの支配の中で生きていた。また肉欲の日々を過ごしていた。
ところが4節には「しかるに」と方向転換を表す言葉がある。神はこのような罪人を神の作品として新しく造り変えて下さったのである。神の手にかかるとどんな素材でも傑作品となる(10)。
さてその秘訣は「キリストにある」ことである。この箇所には何度もこの言葉がある。それはキリストと一つになるという意味である。結婚する二人がお互いのものを共有するように、キリストと一体になると主のものが私のものとなる。即ち彼の死は私の死であり、彼の甦りは私のそれである。彼の祝福は私の祝福となるのである。それがキリストにあるという意味。私達はキリストの恵みに参与させていただく者である。
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エペソ二章11〜22節(19)
《そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。》
ここのテーマは「神の家族」である。聖書は人類をユダヤ人と異邦人とに分ける。この二つの民の間には壁があり差別があった。ユダヤ人の律法がそれを生み出し、時には互いの敵意の原因にもなった。このような問題は二つの民族だけではない。日本と近隣の国の間にもあり、私達の間にも起こりうる。このような問題の根本は敵意であるが、キリストはそれを取り除いて下さった。「十字架によって・・・敵意を十字架にかけて滅ぼした」のである(16)。十字架は罪の赦しでありそれによって和解が生み出される。和解には二面がある。即ち罪の赦しによる私と神との和解、また他者との赦しの関係に基づく和解である。だから神と人に自分の過ちを謝ることの出来ない者になってはならない。
神の家族は平和によって保たれる。家族とは夫婦を基本として血縁関係者が共に生活する集団のことである。この家族には多様な側面がある。@そこには「交わり」がありそれを支える愛がある。家族も教会も交わりを大切にすべきである。Aまた私が「所属する」基本的な集団である。学校、会社には生涯所属しないが家族のつながりは生涯続く。Bまた本書は教会を神の家族としていることを覚えていたい。
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エペソ三章1〜13節(12)
《この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである。》
パウロは神から奥義を与えられた(3)。奥義というと神秘的な響きがあり特定の人が受ける教えのような感じがする。ここでパウロの言う奥義の意味を他の手紙も含めてまとめてみたい。@本章の奥義とは今は明らかにされている福音のことである。旧約時代には十分に現されておらず隠されていたため奥義と言われた。それは異邦人が信仰により福音にあずかることである(6)。Aこの恵みは十字架によって与えられる。従って十字架を奥義という(第一コリント二章7)。十字架が救いであるというのは当時誰にも理解できることではなかった。十字架は犯罪人の処刑であって、そのような者が救い主であるはずがないと誰もが考えていた。イザヤ書には苦難の僕の箇所が四、五カ所あるが(例えば五三章)、それが救い主の受難のことだと理解する人はいなかった。それは長く神のみ心の中に隠されていた。それ故奥義と言われたのである。B私達に内住するキリストが奥義と言われている(コロサイ一章27)。奥義は神秘的なものではなく聖書に明らかにされている。だから御言葉を通して主の人格を知ることが出来る。ただ字づらだけを読むのではなく心に当てはめながら読むと、内心の深まりを体験できるようになる。
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エペソ三章14〜21節(19)
《また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。》
内住する聖霊は「内なる人を強くする」。内なる人とは内面性、即ち意志、感情、良心、知性などのこと、強くするとは健全に成長することである。罪がそれらを支配すると破壊的になるが、御霊は健康的に育成させ人格的な成長と変化をもたらす。
聖霊の力を信じるとはキリストの愛に信頼し身を委ねることである。「愛に根ざし愛を基とする」とはこの意味である。そのような生活の中で神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さを理解する」。ここに四つの面を述べているが、それは神の愛の多様な側面のことである。傷ついた者を包む愛、道を踏み違えた者を叱り教える愛、忍耐と寛容の愛、このような神から私達への愛だけでなく、まわりの人々への愛として友人への愛も神から出てくる。イエスは「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛したのである、私の愛のうちにいなさい」と語られた(ヨハネ十五章9)。私達は人となった主に近づいて神の愛を体験できるが、パウロは天の父に近づく大切さも教えている。それは神の愛を人間のレベルに降ろすのではなく、神のみもとに私自身を引き上げることである。神は私達を人間レベル以上の愛で愛して下さっていることを知らせていただきたい。
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エペソ四章1〜6節(3)
《平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。》
ここには「一つ」の語が何度も見られる。私達の信じる神(父、子、聖霊)は同じである。また礼典であるバプテスマも、信仰・望・愛も同じ主から出たものである。このように神、礼典、生活の信条が一つであると述べているが、パウロが強調しているのは私達が属している教会(からだ)が一つと言うことである。
教会を「からだ」と言うにはいくつかの解釈がある。@からだが生命的に有機的に結びついているように、教会はキリストとつながり信徒同士が結ばれていると理解する。多くの学者はこの見解を持っている。Aからだの各部分が頭の指示に従って動くように、教会は頭なるキリストに従う者であると理解する学者もいる。
さてこのようなつながりのあるお互いはどのような生活をすべきなのだろうか。それは「召された召しに相応しく歩く」ことである。ではキリスト者はどのような歩みをするように召されたのだろうか?一つ信仰の絆に結ばれた者として出来ることは「共なる歩み」である。共に祈り合い、重荷を負い合い、礼拝するつながりを教えているのである。それがキリストの兄弟姉妹である。
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エペソ四章7〜16節(15)
《愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。》
四章のはじめの部分では「一つ」を強調し、7節以下では人々の多様性が語られている。使徒、預言者、伝道者などがその例であるが、現代では別の言葉で分けるだろう。聖霊は何のために多様な役割を各人にお与えになるのだろうか。それは「キリストのからだを建てる」ため、即ち教会の成長のためである。ところで成長にはいろいろな面がある。人間の場合でも背丈や体重など外形的な面、外には見えにくいが精神的なもの、また社会的な面もある。このように教会の成長は教勢の拡大だけではない。 信徒の霊的、精神的、社会的な成長が望まれている。霊的な成長について言えば、その人が神の恵みに活かされているかどうか、しかも人は生きているから何時も同じ状態ではなく、どの様に神との生活を保っているなどが課題であろう。
自立的か依存的かも成長に関わってくる。精神的な点について考えると、落ち込みタイプの場合どの様にしてそこから立ち直るようにしているだろうか、怒りっぽい性質から変えられて成熟した人格が形成されてきただろうか。社会的な点からも人格的に成熟することが期待されている。このような成長のために神は多様な人々を置かれるのである。互いに助け合って成長したいものである。
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エペソ四章17〜32節(30)
《神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。》
17〜24節は信徒になる以前の生活である。22節には「古き人」を捨てよ勧める。古き人とは全ての人が持っている罪深い人間性のことである。この古き人についてローマ六章6節にはキリストの十字架で死んだとある。古き人からの決別についてパウロは二面から教える。ローマ書ではキリストの十字架で処置されていると神の側の救いの完成を述べる。これに対してエペソ書では人の側でもそれを捨てる決断をすべきであると教える。このように救いには神の側の業と、人間の側の責任の両面があることを覚えたい。
さて25節からは信徒になって後犯した罪への対応である。「怒ることがあっても罪を犯すな、憤ったままで日が暮れるようであってはならない、悪魔に機会を与えるな」は基本的な考えである。罪を犯すことがあっても何時までも引きづらないで直ちに悔い改めることである。そうでないとサタンはつけ込んで次の罪を犯させ、落ち込ませ、失望させたりなどし、やがて神から離れさせる。放置した状態を聖霊は悲しまれる(30)。私達は内住の聖霊と共に生きていることを覚えていたい。
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エペソ五章1〜14節(8)
《あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい》
本章には「歩く」の語が何度か見られる( 2、8、15、四章1、17)。2節に「愛のうちを歩きなさい」とある。愛とは神の愛であり、それはキリストの救いの恵みのことである。私達には神の愛の中に生きているという自覚が大切である。神の愛を受けることが豊かになればなるほど私達の内実は恵みに満たされる。
3節以下にはあらゆる罪の生活を避けるようにと教える、即ち不品行、悪い言葉、欲張りなどは捨てるべきなのである。悪を捨てることは当然であるが、それよりも魂が神の恵みに満たされることがもっと重要である。内心に持つべきものを持っておれば余計なものは入ってこない。 次に8節には「光の子らしく歩きなさい」とある。光の中を歩くとは透明な心を持って生活することである。それは正直な心を持つことである。聖霊は真理の御霊と言われているが、それは聖霊が私達を正しい真理の道に導かれると言う意味と共に、正直な心を与えるお方だと言う意味でもある。 キリスト者に間違いや過ちがないというのではない。しかし間違ったと気づいたときそれを素直に認めることが大切である。それを正直という。強情であったり言い訳したりせず光に従うことである。神はその者を恵み導かれる。
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