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聖書日課 |
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2000年 2月 |
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1 エペソ5章15〜33 |
2 エペソ6章1〜9 |
3 エペソ6章10〜17 |
4 エペソ6章18〜24 |
5 ピリピ1章1〜11 |
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6 ピリピ1章12〜19 |
7 ピリピ1章20〜30 |
8 ピリピ2章1〜11 |
9 ピリピ2章12〜18 |
10 ピリピ2章19〜30 |
11 ピリピ3章1〜12 |
12 ピリピ3章13〜21 |
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13 ピリピ4章1〜9 |
14 ピリピ4章10〜23 |
15 コロサイ1章1〜8 |
16 コロサイ1章9〜14 |
17 コロサイ1章15〜23 |
18 コロサイ1章24〜29 |
19 コロサイ2章1〜7 |
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20 コロサイ2章8〜15 |
21 コロサイ2章16〜23 |
22 コロサイ3章1〜11 |
23 コロサイ3章12〜17 |
24 コロサイ3章18〜4章1 |
25 コロサイ4章2〜6 |
26 コロサイ4章7〜18 |
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27 Tテサロニケ1章1〜10 |
28 Tテサロニケ2章1〜12 |
29 Tテサロニケ2章13〜16 |
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エペソ五章15〜33節(17)
《だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。》
賢い者と愚かな者の対照がある。聖書は知恵を重んじている。それは知恵のある人は知識を日常生活に活かす能力を持っているからである。今は悪い時代だとあるが、そのような時こそ知恵を用いて生きるべきである。それはどの様にうまく世渡りするかという知恵ではなく、神を敬う者に与えられる知恵である。だから「主のみ旨が何であるか」を知ることが大切である。多くの知識があってもそれを活かせない人がいる。基本的な価値観を身につけていると、人は物事の判断をしっかりすることが出来る。
その具体的な表れは家庭生活である。妻を愛するとか夫に仕えるとかと教えているが、それも神の知恵を活かす場である。愛は本性として人間にあるが底が浅い。しかし神の愛が分かってくると家庭生活の場でどのようにして愛を活かすかを身につけることが出来る。妻は夫に仕えなさいと教えている。仕える人は立場が下のように考えがちであるが、主イエスから頂く愛がないと仕えることなど誰にも出来ない。やはりそれも基本は愛である。恵み深い主のみ旨を知る努力をしながら歩みたいものである。
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エペソ六章1〜9節(4)
《父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。》
親子の関係についての教え。父については「子どもを怒らせないで主の薫陶と訓戒によって彼等を育てなさい」とある。怒らせるのはいろいろな場合があるが、例えば親が感情で叱ると子供も怒りの感情を返すし、自分で守っていない基準で親が叱ると反発があるだろう。また子供の考えを聴かないと子供は怒る。親も未熟だから何時もやさしい感情を持っているわけではなく、し損じることもある。大切なのは親の側でも謙遜に謝る言葉や態度を持つべきである。それによって子供も学ぶのである。強情を張ると子供もそのような態度を持つ大人になるだろう。物事を教えることと怒ることとは違う。怒る場合は大抵命令口調になるが教える場合は感情がコントロールされている。最近問題になっている子供への暴力は許されない。親としても成熟を求めるべきである。
子供としては両親を敬うべきである。その理由はいくつかある。自分を生んでくれたこと、親は人生の経験者であること、さらに信仰者について言うと、バルトは天の父が真の父ではあるが肉体の父は神を表す者であるから子供は両親を尊敬すべきであると言う。明らかに敬えない親に対しては、親も罪人であり限界を持つ者であると知ることである。
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エペソ六章10〜17節(10)
《最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。》
人生に戦いは絶えない。様々な問題が私を襲い混乱を起こし失望させる。戦いは五章〜六章に書かれている生活の場で起こる。家庭において愛すべき時に愛することが出来ない、従うべき時にそうできない場合それは自分自身との戦いになる。親子の間でも同じである。戦いとは自分の思いを通すために相手をうち負かすことではなく自分自身の内的な戦いである。戦いの相手は誰か?それは人間ではなく悪魔とか闇の世の主権者である。サタンは獅子のように滅ぼし光の御使いのように近づくことがある(第二コリ十一14)。脅し、裁き、甘い囁きなどによって私達を神から引き離し孤立させることがサタンの計画である。主イエスも荒野で同じ試練にあった。私達は事の大小によらず毎日このような状況に出会う。この戦いに対処するために様々の武具を身につけるべきであるが、基本は神の大能を信じることである。ある信仰箇条に「全能の神を信じるとは、神は災いの中にも喜びの中にも神の方法によって私たちを導かれることを信じることである。なぜなら神は万事を支配しておられるからである」と教えている。一人で戦うのではなく主のみ手の中にあって戦うのである。神への信仰を持って戦うのである。
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エペソ六章18〜24節(19)
《また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。》
本書はローマから書かれた。パウロは皇帝の裁判を受ける身であり軟禁状態であった。テキコがこの手紙をエペソへ持参しパウロの近況を知らせようとしていた。使徒は「語るべき言葉を賜り、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、私のためにも祈ってほしい」と自分自身ための祈りを依頼している。以前彼はアグリッパやフェストによる裁判のとき自分の回心の証しをしそれによって福音を伝えようとした。今回は皇帝による裁判である。悪名高いネロ皇帝の前で自分の証しを十分語ることができるだろうか、命を投げ出しているとは言ってもその場になると言葉に手かげんするかも知れない。誰でも脅されると命は惜しい。大胆に話せるように祈ってほしいとパウロが願うのはこのような状況があったからであろう。今の日本の牧師はパウロのような危機感を持っていないかも知れないが、やはり伝道するに当たって悔改めと信仰の福音をはっきり語る責任が牧師にはある。この勇気を牧師は持たなければならない。よいご用が出来るよう祈ってほしい。
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ピリピ一章1〜11節(6)
《そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。》
「あずかる」(5、7)の語は「コイノニア」で交わりを意味する。私たちは教会で交わりの必要をしばしば感じる。教会とはキリストの体であるから血の通った有機体として交わりを求めるのは当然である。ところで交わりとは何か? 多くの人は話し合いをすることだと考えている。お茶でも飲みながら気の合う同士が時間をかけて話すならよい交わりが出来たと喜ぶ。それは大切である。しかしここでパウロは違った次元の交わりを語っている。福音における交わりである。この時、彼はローマでピリピの信徒達のために日毎に祈っていた。彼等の受けた過去の恵みを思い、現在受けている主の恵みに感謝し、再臨の日における救いの完成を思って喜んでいるのである。遠く離れたローマの町からピリピの信徒を思いながら祈っているが、それを「福音の交わり」と言ったのである(7)。祈りの中での他の人との交わりを霊的な交わりと言う。このような交わりなしに外面的な話し合いだけでは真の深まりは期待できないのではないだろうか。個人の密室における交わりを持ってこそ会合における交わりは豊かになるように思う。
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ピリピ一章12〜19節(12)
《さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。》
「わたしの身に起こったこと」とはパウロの捕らわれのことである。彼は先のアグリッパによる裁判で無罪を獲得していた。それなのにローマ市民の権利を用いて皇帝に上訴した。それは裁判を通して皇帝に福音を伝えたかったからである。それで裁判の時まで軟禁状態とされた。近衛兵は交代でパウロの身辺警護をしたが、彼はこの兵士達にキリストを話した。それが兵営全体に噂となり福音を聞いた者の中にはキリスト者になる者が出、さらにその人々の中には盛んに伝道する者さえ起こったというのである。
ところが囚人パウロを見て彼に同情する者がある一方、彼のことを心よしとしない者もいて自分達こそ主流だと主張した人々がいた。彼等は反パウロの党派心で伝道した。この態度にはパウロも悩んだ。しかし彼は「伝えられているのはキリスト」と言ってそれを受け入れた。キリスト者が競争心や見栄で奉仕をするとかはありそうには思えないが、主に心を向けた奉仕でないといつの間にか人の心に忍び込むことがあることを覚えているべきである。澄んだ心で主に仕えたいものである。
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ピリピ一章20〜30節(27前半)
《ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。》
「生きるにも死ぬにも私の身によってキリストがあがめられること」はパウロの人生観を表している。23節を読むとパウロは死を美化しているようであるが、真意はそうではなく「キリスとの福音にふさわしく生活しなさい」にあるように、どの様に生きるかを問うているのである。私達の人生を形づくるものな何だろう?何よりも肉体を持つ者として生物的な欲求によって生きる。それを低いものとして否定すべきではない。また私達は人の間に生きる者だから社会的に認められたいと思う。しかし社会的に生きるとしても価値あることをしないと人々は認めないし、自分も満足しない。 ところがここでパウロはさらに高い次元のことを語る。それは霊的なことである。社会的に賞賛されことは良いことであるが、神によって認められ喜ばれることはもっとすばらしい。福音に相応しい生き方とはそれを指すのではないだろうか。私達が神を信じるのは恐れや不安からの救いのため、罪の赦しのため、神の助けを受けるため等々があるだろう。しかし更に大切なことは神と共に歩くこことである。キリストわが内に生きるとはそのような生活のように思う。
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ピリピ二章1〜11節(5)
《キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。》
ピリピ教会はパウロが誇りに思う教会の一つである。しかし人の集まりに起こりがちな党派心や虚栄の問題があった。この様なとき日本では人の和を大切にと言って人間的に物事の解決を図る。ところがパウロは物事が起こったとき何時もキリストを中心に考える。キリストならこの場合どう対応するかという主の模範に習う事は大切である。しかし主の救いから考えることがもっと大切である。ここで心を合わせよ、愛の心をもて、謙遜になれなどと教えるが、それを人間的に倫理的に考えるだけでは不十分である。
次のように考えてみたい。キリストが僕になられたから私達も彼のまねをせよいうのではない。彼によって救いにあずかった者だから主に従い謙遜な者になれと言うのである。また交わりについても同じである。御霊は信徒に与えられ、その御霊によって交わりが始まる。ところが党派心や虚栄で交わりが分断されるとお互いの関係が駄目になるだけではなく御霊が悲しまれる。それが問題なのである。「キリスト・イエスにあっていだいている同じ思いをあなた方の間でも生かしなさい」は倫理以上の救済に関することである。
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ピリピ二章12〜18節(12後半)
《あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。》
救いにあずかるには二つの面があることを覚えたい。基本的には神がこの世に遣わされたイエス・キリストを受け入れることである。救いは神の一方的な愛の業による。これに対して人の側にもなすべき事がある。それは救い主を個人的に受け入れることである。さて救われ洗礼を受けた後はどうなのか。ここに私達がなすべきことがいくつか教えられている。@「救いを達成する」ためには神に従うことである(12)。人が過ちを犯さずに日を過ごすことは出来ない。しかし神への従順、即ち神に心を開く態度が大切である。聖書はイスラエル人が犯した罪の根本は不従順だと述べている(ヘブル四章18、詩篇七八)。A命の言葉をしっかり持っていることである(15)。それは聖書の言葉をお守りのように持っていることではない。聖書によって語られる神の言葉を魂で受けとめることである。そうすると心が温かく豊かになり命に満ちてくる。信仰生活は教理の理解だけでは駄目である。教会史のすばらしい方々は命のキリストにつながっていたことを知る。B純真な心を持とうとつとめることである(15)。純真さとは正直な思いである。ヨハネはそれを「光の中を歩く」と言った。神にたいして正直であると人の眼を怖がらなくなる。
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ピリピ二章19〜30節(20)
《テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。》
パウロのそばには助け手としてテモテ、エパフロデトがいた。テモテはピリピ教会によく知られていた人であるが再び派遣するに当たって彼を紹介する。テモテは祖母、母から信を受け継ぎ直接的にはパウロによって導かれた。彼は親身に他者のことを思う人だと紹介されている(20)。交わりの深さはどこまでお互いに心を開くことが出来るかにあるように思う。そこに親身さが生まれるのだろう。善意と信頼がなければ親身さは生まれない。幼いときから信仰を持ってテモテはこの様にして練達の人になった。この心は彼が自分のことだけではなくキリストを求めたからである(21)。キリストにつながらない親身さは単なる親しいお付き合い程度で終わるのではないだろうか。
次にエパフロデトについて。彼はピリピ教会から愛の献金を持参しパウロのお手伝いに来ていた。ところが重い病気にかかり肝心の務めが出来ず心苦しく思っていた。パウロは共に重荷を負ったエパフロデトを同労者、戦友、兄弟と呼び、キリストのために命をかけたと感謝する。彼等の働きの量以上に主イエスと人々に向かう彼等の心が私達に感銘を与える。人には出来ること出来ないことがあるが人はその心に感謝するのである。
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ピリピ三章1〜12節(7)
《しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。》
突然律法主義者への攻撃が始まる。律法主義者とは行いによって神に義と認められることを求める人たちのことである。パウロは幼少の頃から厳しく律法を教えられパリサイ人となった。しかしどれほど努力しても自分の内心の罪の自覚までどうすることもできない。その悩みをローマ七章で告白している。ところがダマスコへ行く途中キリストに出会い回心し、行いによらずキリストへの信仰による救いを知ったのである。パウロは血筋、信仰のまじめさを言うなら誇るべきものを持っていたが、信仰による救いを体験したとき、それらを「ふんど」と思うようになった。イエス・キリストという方がどの様な方であり、何をして下さったのかが分かったとき、パウロの人生に価値の大転換が起こった。その思いを「主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」と表現したのである。神への信仰を価値観の根底の持つ人は、どれほどの業績を遺し称賛を受けることがあるとしても謙遜で自然体に生きているように思う。
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ピリピ三章13〜21節(14)
《目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。》
パウロの生き方が「この一事を努めている。即ち後ろのものを忘れ前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走る」に見られる。これは単に積極的な生き方を教えるものではないだろう。それも大切だが此処では天に向かう彼の信仰を表現している。積極的なパウロに目を向けると、確かに他の誰よりも広範囲で精力的な伝道をした。私達はがむしゃらなパウロを知っているが、実際には肉体の弱さを持ち精神的な落ち込みを経験した人である。その彼がどのようにしてこの弱さを克服し目標を目指して走る人になったのだろうか。それは価値観の転換と共に天に目を向けて人生を歩く者になったからである。彼は自分の生涯の務めが終わるなら主イエスのところに行く希望を持っていた。人生のゴールが少しでも見えてくると生活の仕方にも変化が来るように思う。
別の視点から天に目を向ける意味を考えてみたい。それは人生の終末においてだけではなく現在の生活においても折々神に目も向けることである。昔の人は北極星を見ながら旅をしたという。何があっても変わらない神に目を向けると確信が湧いてくる。天を仰ぐ生活が私達に命を与える。
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ピリピ四章1〜9節(6)
《何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。》
「主にあっていつも喜びなさい」。喜びはこの書の特徴で十六回も出てくる。ふだん私達はどれほど喜びを感じているだろうか。何か問題が起こると人は喜んだり悲しんだりする。喜んでいる人でも問題が起こると一挙に悲しみや不安に変わる。キリスト者はそのような場合どう対応するだろうか。不安や悲しみの感情を持ちながらでも、私達は問題を持っていく神さまを知っているので祈るだろう。問題が長引いて嵐が吹くことがあっても御言葉により信仰によって魂に確信を持つことが出来る。このように「主にあって喜ぶ」幸いを覚えるべきである。サムエルの母ハンナは悩みのために心はうめいていたが、神の約束が語られたとき変えられ「その顔は再び悲しげではなくなった」(第一サムエル一章)。
6節以降に平安について教えている。@事ごとに祈りと願いを神にささげる(6)。思い煩いは人が陥る病気である。祈ることによって問題を神に委ねる。しかし神に委ねたと信じながらどれほど問題を自分の手に取り戻していることだろう。A8節以降にはすべて真実なこと正しいことなどを行うよう勧めている。手をこまねいているだけではなくベストと思われることをすることは大切である。その時平和の神が共にいて下さる。
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ピリピ四章10〜23節(13)
《わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。》
パウロはピリピ教会から献金が届けられたことに感謝し(18)、以前にも援助をもらったことを思いだしお礼の手紙を書いた(15)、それが本書である。献げてくれた人々に感謝しながらも、この様にして下さった神に栄光を帰し「いっさいの必要をキリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」と述べて栄光が神にあるようにと結んでいる(19)。感謝は人にすればよいとか、神にだけすればよいとかとパウロは言わない。両者が大切である。この様な観点からパウロは人生における真の豊かさの秘訣を11節以下に述べる。パウロは貧しい境遇も富む生活も経験したがどんな境遇にあっても足ることを学んだと言う。普通人は環境的に豊かになれば満足するかというと必ずしもそうではなく慣れてくると不満足になる。貧しくなればなおのこと不平が多くなる。人生の秘訣は「私を強くして下さる方によって何事でもすることができる」の信仰にある。何事でも出来ると言っても私達には出来ないことがたくさんある。この聖句は与えられた課題を背負い通すことが出来るという意味である。豊かになって高ぶることなく、貧しく弱いときに劣等感に陥ることなく歩むのは、強くして下さる主によることを覚えたい。
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コロサイ一章1〜8節(8)
《あなたがたが御霊によっていだいている愛を、わたしたちに知らせてくれたのである。》
コロサイ教会はパウロの伝道によって始められたのではなく、エパフラスの働きによる(一章7)。パウロはまだコロサイを訪問したことはないが彼等のことはよく知っていた。ところが異端者が信仰を混乱させたのを知りそれをただすために、パウロはローマから手紙を書いたのである。パウロはまず神に感謝することから本書を始める。感謝の内容は二つ。それはコロサイの人々が、@キリストに対する信仰と、A人々に対する愛において成長していることである。信仰は神との関係が深まってきていること、愛とは人との関係がますます豊かになっていることである。この両者は深い関係がある。愛は空間状態には生まれてこない、必ず人であれ神であれ人格関係において表れるものである。愛には男女間の愛、家族の愛、友愛などがあるが、聖書では根元的な愛は神の愛だと教える。ここで愛の解説をすることは出来ないが、全ての行為は神の愛に支えられ裏打ちされて健全なものとなる。肉欲が支配する愛は混乱と破滅をもたらすだけである。だからパウロは「御霊によっていだいている愛」を語ったのである。聖霊は私達の愛を潔め健全にして下さる。
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コロサイ一章9〜14節(10)
《主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。》
「祈る」の語が二度見られその内容は次の三つである。第一に、聖書をよく理解する大切さを取り上げ、「神を知る知識」が増し加わること(10)。何でも信じて体験すればよいと思う人もあるがそれは危険である。聖書をよく読まないでいると脱線し異端に陥ることがあるからである。健全な信仰はバランスのとれた聖書知識による。第二に、「神のみ旨を深く知り」とあるように神を知ること(9)。私達は神のみ心を知りたいと願う。これについてケラーが良いヒントを与えている。@御言葉の精神に一致していること。A白紙の思いで祈りこれが正しい道だと内面の確信を得るまで祈る。Bこれまでに得た実際的な知識を用いる。C 敬虔で成熟した信頼できる人の助言を聞く。D焦らないである環境が備えられることなどである。私は神のみ心を求める場合神ご自身を知ることが更に大切だと考えている。その中で自然に道が分かってくるように思う。第三に、神から「賜わるすべての力によって強くされる」とあるように神は必要に応じて力を備えて下さる(11)。
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コロサイ一章15〜23節(20)
《そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。》
本書はグノーシス異端によって害されたコロサイ教会にパウロが信仰とは何かを教えたものである。彼等の基本的な考えは霊は善で物質は悪であるという思想であり聖書の考えとは相容れない。また哲学、諸宗教、神秘思想何でものみ込み全てを混合するものであった。グノーシス派にはいくつもの種類がありそれぞれ特色を持っていたがコロサイのはキリスト教的であった。とは言え本来のキリスト教とは全く別のものであった。グノーシスの神は多神教的である。最高神がいてそれから段階的に神々のランクが続き、下方の神は劣る神である。本質的に悪であるこの世界を創造する神は最も下級の神であるとする。キリストも神々の序列の一人と見ていた。
パウロはこのようなキリスト観を否定する。彼はキリストは万物を造られた方であって、全てのものの上におられる神であると「高いキリスト」を記した。キリスト教はイエス・キリストがどの様な方と見るかによって決まる。彼は神であり、神と人とを和解に導く方である。主イエスによって私達の人生は変えられるのである。
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コロサイ一章24〜29節(29)
《わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。》
グノーシスの教えはいわば思想の遊びであった。彼等の実際生活は肉欲的であったためやがて人々から捨てられるようになる。これに対してパウロは旧約時代に隠されていた福音の奥義がイエスによって明らかにされたと語る。「奥義は代々にわたって隠されていたが、今や神の聖徒達に明らかにされた」(26)のである。しかも「この奥義はあなた方の内にいますキリストであり栄光の望みである」(27)。だから主は私達の内から力強く働き出して下さる(29)。パウロにとっては信仰はアテネの哲学者やグノーシスの者達のような遊び事ではなかった。彼の生活を動かす命であった。活ける主がわが内に在すと言う信仰はパウロの人生の真髄である。信仰を私達の生活の方便の程度に考えてはならない。困ったときに助けを求める程度の主イエスとの関係であってはなるまい。死んで甦られたキリストは私の命である。だからパウロはキリストの教会のために苦しむことを喜びとすることが出来たのである。主と共に重荷を担う者こそイエスの同労者ではないだろうか。
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コロサイ二章1〜7節(7)
《また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。》
パウロは会ったことのないコロサイの信徒のために苦闘の祈りをしている。エパフラスからは聞いているのだろうが、会ったことのない人のために祈るのは難しい。パウロの愛がどれほど深いものであったかを思う。彼の祈りは信徒お互いが愛で結びあわされる事である(2)。互いに思いやる祈りがないと信徒の交わりは生きてこない。また彼は信徒がキリストをさらに深く知るようにと祈っている(2)。キリストを知るのは聖書を読むことによる。この様にして信仰は知識と心の交わりによって生きたものになるのである。
なぜこの様な勧めをしたのだろうか。それは「誰にも巧みな言葉で迷わされないためである」(4)。これはパウロが異端者による影響を心配したからである。今の時代にはもっと厳しい思想が人々を麻痺させている。全てを相対化することである。だから不倫をしても神を信じない人にとっては全ては相対的なのである。問題は悲惨な結果を各自が刈り取ることである。どうかお互いが羊の群であることを覚えて友のために祈り、主にある交わりを持ち、信仰が確立されて歩むことが出来るように(7)。
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コロサイ二章8〜15節(13)
《あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。》
グノーシスの偽教師は様々な思想、宗教などを混合し、ユダヤ教やキリスト教までも本来の意味をゆがめてその教えに取り入れていた。それらを見ると割礼をしなさい、安息日や祭りを儀式的に守りなさい、食べて良いもの悪いものがある、天使を礼拝しなさい、神秘的な幻想経験が信仰には必要であるなどと、キリスト教には関係のない間違ったことを主張したのである。このような教理の組織をパウロは空しい哲学(8)と言った。
このような異端に対してパウロは救いとは何かを明瞭に語る。キリストの十字架によって罪の赦しは完成している(13以下)。キリストに結びつかない神秘経験は間違っている(18)。ある種の食物の禁止は二元論の禁欲主義であり救いではない(11、23)、などと教えをまとめている。キリスト教はイエス・キリストをどう見るかによって決まる。十九世紀にはイエスを愛による道徳的な教師と見る人々がいた。二十世紀のある時期には聖霊が強調されキリストは少し外に置かれたため極端なカリスマ運動となった。聖書は主が罪からの救い主であると明白に教えている。この恵みを失ってはならない。
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コロサイ二章16〜23節(19後半)
《このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。》
昨日の説明のように偽教師達は食べ物の規定、祭りの守り方、天使礼拝、幻を見る神秘体験、体の苦行などを教えていた。そうすることでキリスト教信仰が完成されると主張したのである。これはキリスト教ではない。パウロはこの様な問題に答えながら福音とは何かを説く。福音は人がキリストに結びつくことである(19)。主に結びつくのは和解の福音による。それはキリストの十字架によって完全である。幻を見たり食物制限をしたりなど救いのために追加的な行為をする必要はない。信仰によって主に結びつくと、肉欲的で自堕落な生活を避けられるだけでなく神が育てて下さる(19、23)。体が「節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされる」ように、私達はキリストとしっかり結び合わされるとき成長する。時として私達は何かの奉仕が出来るようになると成長したと思いがちである。もちろん成長した人は活動をする。しかし病人や老齢の人は活動しないからと言って成長していないわけではない。そのような人々にも内面の成長をしている人は多くいるし、周りの人に大きい感化を与えている。主と信徒の交わりを豊かにしたい。
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コロサイ三章1〜11節(3)
《あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。》
8節の「今は」が示すように、パウロはよく過去と現在の対照をする。
@古い生活に属する汚れた欲望を捨てよと教える(5)。現代は情報の時代であってその中から選択しなければならない。今はテレビ、雑誌、インターネットから何でも目に入り手にすることが出来る。自分がしっかりしていないと汚れや罪は自由に進入してくる。キリストを持たず価値観が定まらない人は何でも取り入れて人生を駄目にするかも知れない。
A古い生活として悪い言葉がある。怒り憤り、恥ずかしい言葉、嘘などを挙げている(8、9)。言葉については注意が必要である。出来るだけ温かい言葉を出す訓練をすると良い。否定的な言葉は家族でも友人でも建てあげない。今は批判中毒の時代であるからなおさらである。
B新しい生活がどの様に始まるかに関して、パウロは「古い人をその行いと共に脱ぎ捨てる」という(9)。これについてローマ六章6には「古き人はキリストと共に十字架につけられ」と教える。自力では脱ぎ捨てられない古き罪はキリストと共に死ぬことによって処置されたのである。だから「あなた方はすでに死んだものである」(3)。私達の人生はキリストの十字架によって新しい人になり始まったことを心に留めるべきである。
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コロサイ三章12〜17節(16節前半)
《キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。》
まず神と私達の関係を述べ「神に選ばれた者、聖なる、愛された者」と言われている。取るに足りない者を神は選び聖なる者と見て下さる。聖なる者とは神に所属する者の意味である。神殿で用いるパン、衣類、器が聖であるのはそれらが神に属するからである。同様に私達が神のものになると聖となる。神のものとなるのはキリストによる。所属が決まった後品性の倫理的な成長がある。その成長の実として「あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」の五つが挙げられる。これらの品性は身につけられるものである。身につけるとは習慣的な態度であって時間がかかる。聖書や祈りによって愛の神と交わっていると神の品性が私達に伝わってくる。成熟の道のりは遠いがいやしい者を変えて下さる。
@その具体的な表れとして「ゆるし」がある(13)。それは忍耐と愛の実である。自分に愛があるか否かは人との関わりによって分かる。私達は忍耐がなく赦せないことがしばしば起こる。じっと我慢する必要もあるが神の愛を注いで頂くのが大切である。A次に平和である(15)。キリストの言葉を宿らせるとき平和が来る。平和な心から感謝と賛美が生まれる。神と交わり心豊かにされたいと願う。
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コロサイ三章18節〜四章1節(23)
《何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。》
クリスチャン生活を述べた後、教えは家庭生活に及ぶ。夫と妻、両親と子、主人と僕の関係についてである。当時の社会では一般的にはひどい差別があり、妻・子・僕はほとんど物のように見られていた。夫は独裁者でどんな場合でも簡単に離婚できたし、親は子を奴隷に売ることが出来た。このような社会にあってパウロはお互いの責任と義務を教えたのである。妻は夫に仕え夫は妻を愛せよと教える。また子は親に従うべきであり、親は子をいらだたせたりくじけさせてはならないと教える。主人と奴隷の関係も22節以下に述べられている。
人間の人権と役割・立場は別である。社長と社員は人権は同じであっても役割は違うし、夫と妻にしても同様である。パウロの教えは古いものではなく今でも実際的である。妻が夫に仕える事が難しいように、夫が妻を愛することも簡単な事ではない。親と子についても同じである。これら両者の責任と義務はどちらの側が難しいとかやさしいと言えるようなものではない。もしこのような倫理的関係が行えるとすれば「主にあって」が鍵になるだろう。主が両者の間にいて下さるよう求めるべきである。そうすれば少しづつでも良い関係を保つことができるのではないだろうか。
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コロサイ四章2〜6節(2、6前半)
《目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。》
《いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。》
手紙の結びの部分でパウロは再び「祈り」を勧める。祈りは易しいようで難しい。それは問題が切迫しているときには真剣な祈りをするが、あまり大きな問題がなければ私達はそれほど熱心に祈らないように思われるからである。また「ひたすら祈り続ける」時は問題が大きいから「感謝のうちに祈る」ことは出来ないのではないだろうか。パウロは摂理の神を信じているからこそ、感謝をもって熱心に祈るよう励ますのである。
使徒は牢獄につながれており間もなく皇帝の裁判を受けるが、その機会に福音を証ししようとしている。それが成功するように祈りを依頼している(4)。私達の教会でも互いのためにもっと祈り合うべきだと思う。
さらに外の人に対して賢い行動とやさしい言葉を用いるように勧める。「塩で味付けられた言葉」とは恵みに満ちた言葉のことである。そのような会話は人の心を開き豊かな交わりへと発展するに違いない。冗談話だけでなく相手の話に耳を傾けお互いに心を開き合うような会話が広がるなら、実りのある人生が生まれ伝道もなされると思う。
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コロサイ四章7〜18節(12後半)
《彼はいつも、祈のうちであなたがたを覚え、あなたがたが全き人となり、神の御旨をことごとく確信して立つようにと、熱心に祈っている。》
この手紙をコロサイに持ち運ぶテキコはこれに書ききれなかった事柄を報告する、彼は忠実な人だからその務めが出来る(7)。テキコの同伴者はオネシモ。彼はコロサイの信徒ピレモン家の奴隷であったが盗みをしてローマへ逃亡した。どのようにしてか不思議にもパウロのもとへ導かれ回心した。それでパウロは彼をピレモンへ送り返そうとする。普通ならこの様な罪を犯した奴隷は処刑される筈だが、パウロは彼を忠実な愛する兄弟として紹介する(ピレモン書参照)。
これら二人の他に六人の者についての言葉がある。特にコロサイの人エパフラスが母教会のためだけでなく、近くのラオデキヤとヒエラポリス教会のためにも祈っていることを伝えている(13)。エパフラスは信徒であるが親切心に富んだ人であることが伺われる。この手紙はコロサイだけでなくラオデキヤでも読まれた。同様にエペソ書も他教会経由でコロサイでも読まれたと言われる。このように信徒個人また教会の交わりを持ちながらアジア州に伝道が進められていったのである。
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第一テサロニケ一章1〜10節(6)
《そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり》
テサロニケ教会の始まりは使徒十七章にある。ピリピから百キロほど西の宿場町である。パウロによる一ヶ月ほどの伝道であったが多くのものが救われた。しかしユダヤ人による迫害のため使徒達は他の町に移動しなければならず、入信間もない信徒は牧師なしに残された。パウロは彼等のことを心配していたが訪問する状況ではなかった。代わりにテモテを派遣したが、彼がテサロニケの信徒がしっかり信仰を持っていると報告したのでパウロは大変喜んだ。これは喜びの手紙である。
パウロは何を喜んでいるのか。それは人々が神の言を受け入れたことである。これは彼等が神の選びに招き入れられている証しである(4、6)。その信仰はかなり広い地域にまで知られるようになった。さらに彼等は偶像を捨てて神に仕えるようになった(9)。この様な決断は近隣の人々とのつき合いを考えると容易なことではない。しかも再臨の主を待ち望む者となったのである(10)。み言を受け入れることは生き方を変える。その結果、愛、信仰、希望に生きるものとなる(3)。
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第一テサロニケ二章1〜12節(12)
《御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。》
教会の迫害者達はパウロの悪口を言った。彼等はパウロは騙しごとの教えを語った、へつらいの話をしたのはお金がほしいからだ、キリストの使徒だと言うがそれは嘘だ、などとののしった(3、5)。こう非難することによってパウロを打ち倒そうとしたのである。
この様な暴言を聞いて使徒は弁明する。それは自己弁護のためではなく福音の真実性を守るためであった。彼は自分の生活態度から話し始める。「あなた方が知っているとおり」の言葉が何度も見られるように(1、2、5他)、テサロニケの人々はパウロの生活ぶりをよく知っていた。使徒は開拓当初の教会に迷惑をかけたくなかったので、自分で働きながら伝道したし(9)、人を喜ばせるためでなく神に従って福音を伝えた(4)。さらに信徒に対しては母のように優しく父のように厳格に信仰の指導をしてきたと述べる(7、11)。パウロの生き方を見ていると私達自身の生き方が正されるような思いになる。使徒にはみ国の栄光が見えていたのである。
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第一テサロニケ二章13〜16節(13節後半)
《そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。》
私達はどんな時神の言を求め、み言から来る慰めを身近に感じるだろうか。困難にあったときではないだろうか。テサロニケの信徒達は信仰をもって間もなくいわれのない迫害を受けた。それはキリスト者をねたんだユダヤ人が、パウロは政府が認可しない宗教を教えていると言って訴えたからである。そのため入信間もないヤソンが責任をとって保証金まで支払ったのである(使徒十七章)。この事に言及して「彼等がユダヤ人から苦しめられたと同じようにあなた方もまた同国人から苦しめられた」と言う(14)。この様なときこそ神の言は慰めとなる。「この神の言は信じるあなた方のうちに働いているのである」(13)というのは、ただ聖書に目を通していることではない。テサロニケの人々は真剣であった。それにしても受洗間もない人がよくも信仰から離れず留まったものだと驚き感心する。むしろこれほどの困難にあればこそ、み言に立つことを経験したのではなかろうか。 試練の時は祈りの時である。試練の時はみ言が生きて働くときである。求めなくても試練は向こうからやってくる。その時こそ私達を慰め力づける勝利の信仰を経験させて頂きたいものである。
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