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2000年 3月 |
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1 Tテサロニケ2章17〜20 |
2 Tテサロニケ3章1〜5 |
3 Tテサロニケ3章6〜13 |
4 Tテサロニケ4章1〜8 |
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5 Tテサロニケ4章9 〜12 |
6 Tテサロニケ4章13〜18 |
7 Tテサロニケ5章1〜11 |
8 Tテサロニケ5章12〜21 |
9 Tテサロニケ5章23〜28 |
10 Uテサロニケ1章1〜12 |
11 Uテサロニケ2章1〜12 |
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12 Uテサロニケ2章13〜17 |
13 Uテサロニケ3章1〜5 |
14 Uテサロニケ3章6〜18 |
15 Tテモテ1章1〜11 |
16 Tテモテ1章12〜20 |
17 Tテモテ2章1〜7 |
18 Tテモテ2章8〜15 |
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19 Tテモテ3章1〜13 |
20 Tテモテ3章14〜16 |
21 Tテモテ4章1〜10 |
22 Tテモテ4章11〜16 |
23 Tテモテ5章1〜16 |
24 Tテモテ5章17〜25 |
25 Tテモテ6章1〜2 |
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26 Tテモテ6章3〜10 |
27 Tテモテ6章11〜16 |
28 Tテモテ6章17〜 21 |
29 Uテモテ1章1〜7 |
30 Uテモテ1章8〜18 |
31 Uテモテ2章1〜7 |
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第一テサロニケ二章17〜20節(17後半)
《なおさら、あなたがたの顔を見たいと切にこいねがった。》
テサロニケ伝道はユダヤ人の迫害により、一ヶ月あまりでひとまず終わらなければならなかった。パウロたちはそこから西へ八十キロ離れたベレアへ移動したが、其処へまでもテサロニケの反対者が押しかけて伝道の妨害をした。使徒は入信間もない人々のことを思うと何とかして訪問し彼等を励ましたいと願ったのであるが、その事が返ってその地の人々に大きい負担をかけるだろうと考え訪問を思いとどまった。だから「一再ならず行こうとしたのであるが、私達はサタンに妨げられた」と言っている(18)。しかしパウロの信徒への思い入れは深い。体は離れているても心は信徒と共にあって「顔を見たい」のである。教会の交わりとは主イエスとの交わりと信徒お互いの交わりである。教会を「キリストのからだ」と言うのは、からだが命のつながりを持っているからである。顔を見たいと願うのはこの交わりの具体的な表現である。教会でお互いの顔を見ないことは交わりの欠如ではないだろうか。それぞれには都合があるから、交わりに入りなさいと無理強いは出来ないが、迎え入れる側と共に交わりに入る側双方が努力をする必要があると思う。
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第一テサロニケ三章1〜5節(3前半)
《このような患難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますためであった。》
パウロ、テモテ、シラスの伝道チームはベレアからかなり南のアテネへ移動した。パウロは続いてテサロニケの人々の信仰状態について心配しテモテを派遣した(1)。信徒が数回でも無断で礼拝を欠席すると何かのことで躓いたのではないかと牧師は心配するものである。それは人は強いようであっても小さいことで躓くからである。パウロはテサロニケの信徒が迫害にあったため信仰を離れはしないかと心配した。迫害や躓きもたらすのは人であるが、それらを用いて背後にサタンが働いていることをパウロは見抜いていた。それで「試みる者」(サタン)が試練によって彼等を揺すぶっていると言ったのである(5)。この言葉は主イエスの荒野の試練から出ている(マタイ四3)。主イエスでさえ罪に陥れようとするサタンは、私達を罪や失望、心の乱れに落とし込み躓かせることなどたやすいことであろう。しかし全能者の陰にいる者は守られる(詩九一1)。だから私達はどんな場合でも謙って大能の神の下に住むのである。自分の弱い判断によって人を裁いたり誘惑に負けてはならない。
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第一テサロニケ三章6〜13節(7)
《兄弟たちよ。それによって、わたしたちはあらゆる苦難と患難との中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められた。》
テモテはテサロニケ訪問を終え、この時既にコリントへ移動していたパウロのもとに帰えり報告した。彼の報告を聞いてパウロは喜こんだ。@それは彼等が「信仰と愛」を持ち続けていることである(6)。信仰は神へのつながりであり、愛はお互いの信頼関係である。この事は一3にあるようにパウロにとってはたまらなく嬉しいことであった。Aさらに「私達に会いたがっている」ことである(6)。神さまは信じるがあなたは信用できない、と言われたらパウロはどんな思いをするだろうか。二章始めにあるように、ユダヤ人迫害者はパウロを非難することによってキリスト教を非難した。信仰生活はただ神学的な内容によってだけでは建てあげられるものではない。主にある互いの信頼ある交わりを深めることによるのである。Bまたパウロが喜んだのは彼等が艱難の中で「主にあって堅く立っている」からであった(8)。信仰をしっかり持ち続けていることを知って、パウロは生き返える思いをした(8)。新改訳は「生きがいがある」と訳している。この報告聞いて、Cパウロは祈りを続けると書く(10)。嬉しい報告が来るとお祈りにも励みがある。堅く信仰に立ち続けようではないか。
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第一テサロニケ四章1〜8節(7)
《神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。》
これまでの三章で喜びを表したパウロは、神への信仰は清い生活を生み出すものであると教える。即ち不品行を慎み、からだを清く保ち、情欲のほしいままをしないということである。なぜこの様なことを今さら述べる必要があったのだろうか。それには当時の社会状況を知らなければならない。紀元前五世紀頃のローマ社会では離婚は非常に少なかったが、皇帝が世界を統治し一見平和な世界が造られると離婚は日常的になった。ギリシャではもともと不道徳な生活は普通のようであった。この様な状況だから、パウロの伝道した諸都市では性の自堕落さは目に余るものがあった。こんな社会だからある者達は信徒になる前には不道徳な生活をしていたようである。パウロはそれを正すべきだと言った。結婚以外で他の異性と関わりを持つことは神に罪を犯すことになる。そのような罪に陥った場合神にたいしてはっきりと悔い改めなければならない。性の関係が乱れると、ローマ一章が述べるように家庭が破壊される。現代は一世紀の世界に似ている。清い生活を守らない者に神の祝福はとどまらない。 聖書日課の目次へ戻る
第一テサロニケ四章9〜12節(9後半〜10前半)
《あなたがたは、互に愛し合うように神に直接教えられており、また、事実マケドニヤ全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。》
初代教会では信仰、望み、愛がキリスト者の標語であった。テサロニケの人々は互いに支え合う愛を持っていた。自分たちお互いのためだけではなく、マケドニアの他の教会のためにも親切をしていたのである(20)。他にまで及ぶ親切心にパウロは嬉しく思っていた。健全な愛はただ自分の生活だけを黙々と守るというのではなく、他者への配慮を持つことである。ところがこのようなほめ言葉に続いて、パウロは「落ち着いた生活をし、自分の仕事に身を入れ手ずから働きなさい」と忠告する。なぜこのように言うのだろうか。それはある人々が再臨の教え間違って解釈し、仕事をやめ再臨を待つという生活を始めたからである。一見熱心そうに見える信仰でもこれは異端である。さらに実際的な問題が起こった。仕事をせず無収入なら他人のパンを食べて生きるようになる。そのような人を助けることが愛だというなら、それも間違っている。健全な愛は他の人を自立した生活へと導くものである。他者への甘えと依存心だけを起こすのは健全な助けではないだろう。他者への配慮を持ちながら生きがいを持てるような助けが出来るなら、これこそすばらしい愛の行為である。
聖書日課の目次へ戻る第一テサロニケ四章13〜18節(13)
《兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。》
本書は再臨の書だと言われる。各章の終わりがその言葉でまとめられていることと四〜五章がこの主題を取り扱っているからである。この教会の信徒の中に最近亡くなった人がおり、再臨の時に彼等はどうなるのかと戸惑っていた。パウロは主を信じて亡くなった人々は復活のキリストのように栄化すると教える。栄化の希望が確かであるのは次の理由による。@キリストが甦られたことである。「キリストは眠っている者の初穂として、死人の中から甦ったのである」(第一コリ十五20)とあるように、主の復活は救いの保証である。A第二はキリストの約束による。主は何度も再び来ると言われた。キリストの約束が栄化の希望の根拠である。ラッパが鳴るとあるが、それにはいろいろな意味がある。兵を召集するときの合図であるとか、五十年ごとに来る解放を告げるヨベルの年のラッパであるとか言われるが、多くの聖徒を祝福のみ国に引き寄せる意味であろう。また雲は神の栄光をあらわすと象徴であるので輝く栄光を意味している。再臨の時どのようになるのか詳細に分かるわけではないが、命への希望があることは確かである。
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第一テサロニケ五章1〜11節(5)
《あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。》
再臨には二つの側面がある。第一は滅びをもたらす意味での再臨。主の日が盗人のように来るとあるのは、破壊と災いをもたらすものとしての再臨である。第二は救いの完成をもたらす意味での再臨である。それが妊婦の出産に譬えられている。出産には苦しみが伴うが子の誕生によって喜びに変わる。そのように再臨という終末の時期には苦難があるが、それは苦しみで終わるのではなく栄光の喜びに変えられるのである。
そこでパウロは、私達は主の再臨を盗人のようにではなく、出産の日を待つ妊婦のように迎えるのだと教える。なぜなら私達は夜の生活つまり暗闇(罪)の中にいるのではなく、むしろ光の中の生活をしているからである。救いの神は「私達を怒りに会わせるように定められたのではなく、キリストによって救いを得るように定められたのである」(9)。だから主の再臨を恐れる必要はない。ただ私達のなすべき事は、光の子として信仰、愛、望みに満たされて生活することである。この生き方が他者に対する慰めとなる(11)。
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第一テサロニケ五章12〜21節(16〜18)
《いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。》
「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい」はキリスト者の金言である。「いつも喜んでいなさい」とあるが、私達は普段喜びや悲しみの感情は強く持たない。しかしいったん物事が起こると様々な感情が湧いてくる。「いつも」とあるのは何か物事が起こったとき、喜んでいなさいと教えるものである。しかしはたしてどんな場合でも、特に問題が起こったときに喜べるだろうか?それが問題である。ところがキリスト者には他の人が持たないものを神から与えられていることを思い出すべきである。それは祈りである。スロ・フェニキヤの母が娘のために主に嘆願したように、嵐の中の弟子達がイエスに救いを求めたように、私達は祈ることを知っている。祈りの中で自分が天の父の子であることを覚え、また闇の中に光を見出し、思いがけないように祈りが答えられるのを経験する。「絶えず」は継続してという意味と共にあきらめないという意味がある。続けて祈るのは神への信頼を持つからであり、物事の解決が必ず与えられるというあきらめない信仰を持つからであろう。だから喜びと感謝が祈りと結びついてくるのである。自分のため、家族、友達、教会のためにお祈りしよう。
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第一テサロニケ五章23〜28節(23後半)
《また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。》
「霊と心とからだを完全に守って」は、聖書の人間観を表す箇所の一つである。霊は神に向かう祈りとか信仰の部分のこと。心は意志、感情、良心など精神的な働きの部分。からだは肉体である。これは人が三分割されると言うのではなくこれらの働きが微妙につながりを持つものだと教える。このように聖書は人が統一体の存在であると教える。だから精神状態や肉体の健康状態によって霊的な状態が影響されることがある。例えば心配とか怒りの感情があると霊的には下向きになるだろうし、喜びの場合は上向きになるに違いない。からだの調子によっても霊的に精神的に影響があると思う。人間はまことに複雑な存在である。ここで神を「平和の神」と呼んでいるのは励ましである。神は罪をきよめてくださるだけでなく平和・平安を与えて下さる。神は私という存在のすべてを守っていて下さるのである。
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第二テサロニケ一章1〜12節(11)
《このためにまた、わたしたちは、わたしたちの神があなたがたを召しにかなう者となし、善に対するあらゆる願いと信仰の働きとを力強く満たして下さるようにと、あなたがたのために絶えず祈っている。》
第一の手紙のパウロの説明によって、テサロニケの人々が十分再臨について理解出来たわけではなかった。そのためある人々は再臨が近いと言って仕事を止めるというような脱線した信仰生活を始めたのである。この間違いを正すために第二の手紙を書いた。
そのような問題があるあるとしても、まずパウロは彼等の生活について尊敬を表している。それは主にある愛が友人達の間で豊かになっており(3)、困難な問題がある中で忍耐を持って証ししているからである(4)。だからパウロはなおもその生活が成長するようにと願い「神があなたがたを召しにかなう者となし、善に対するあらゆる願いと信仰の働きとを力強く満たして下さるように」と祈るのである(11)。どれほど至らない者であっても、パウロとテサロニケの人々との間に保たれていたような交わりと祈りが、私達相互の間にあるなら、間違いは修正され愛は増し加えられてくる。パウロは決して切り捨てようとはしなかった。互いの交わりを信じていた。神は救いへと召された者を完成に至らせて下さる神である。
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第二テサロニケ二章1〜12節(7)
《不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。》
ある人々が聖霊に示されたとか再臨の日が来たなど言いふらして混乱が起きていた。パウロはそれは間違いだと戒め、主の日にはどの様なことが起こるかを述べたのである。ここに「不法の者」とそれを「阻止する者」との対照が出てくる。世の終わりには神に逆らう不法の者が現れる、彼はサタンからの者で、自分を神だと言い(4)、いつわりを言い、あらゆる不義(罪)を行う。この様な罪はどの時代にもあったことだが、世の終わりにはそれがさらにエスカレートし多くの者を躓かせてしまう。サタンの業を不法と言ったのはあらゆる悪の増加を示唆する。世界大の戦争が二十世紀にあったように、今の時代は恐ろしいばかりの罪であふれる時代である。異常なサタンの働きかと思う。
このような現実に対しその悪の働きを阻止する者がいると聖書は語る。それは聖霊である。この時代がどれほど汚れたとしても、聖霊がおられる間はこの世は絶望ではない。キリスト者も必ず守られている。聖霊がこの世から手を引かれたのはノアの時くらいである。キリスト者は聖霊の助けによって罪と戦い、さらに積極的に宣教の業に当たることが出来る。キリスト者は地の塩としての役割を果たさなければならない。
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第二テサロニケ二章13〜17節(15)
《そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。》
主を信じている者たちに、パウロは「すべての良い業を行い、正しい言葉を語る者として下さるように」と励ましている(17)。良い行いにはいろいろな内容がある。人々が喜ぶ親切な行い、物事についての正しい判断による行いなどである。このようなことが実際生活で表現できるならそれが証しとなりまわりの者に説得力をもつようになる。時には判断が間違うこともあるが、パウロの教えは私達に多くの示唆を与える。彼はただ言動に注意しなさいとは言わず、信仰に立つことを勧めたのである。即ち、神が選んで下さったこと、御霊によってきよめられたこと、信仰の真理を受けたことなどにしっかり土台を置くことである(13)。さらにその終局がみ国の栄光であることを忘れないことである(14)。このような信仰の基礎を確認していると良い業は自然に生まれてくる。自分の生活の基本線がどこにあるかをしっかり見極めることが大切である。船が広い海を航海するとき確かな案内によって目的地に進むように、私達の人生において間違いのない方向に進むことが出来るのは御言葉によって示されている道を歩むことではないだろうか。そこに生活の土台を置くとき良い行いが出来ると思う。
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第二テサロニケ三章1〜5節(5)
《どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせて下さるように。》
間違いの教えを正しながらもパウロは祈りを依頼している。それは深い信頼関係があるので出来ることである。私達は互いに祈りあいながら支え合っていることを覚えたい。パウロの祈りの依頼は、@この町でも福音が広がるようにということである(1)。この時パウロはコリントで伝道していた。最初彼は生活費のため天幕作りのアルバイトをしていたが、ピリピからの献金が与えられたのでフルタイムで伝道できるようになった。その結果一年半の伝道で多くの回心者が与えられた。A迫害者が伝道の邪魔をしたため、「不都合な悪人から救われるように」と祈りを頼んでいる(2)。伝道者のための祈りは大切である。一方パウロも彼等のために「主があなた方の心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせて下さるよう」と祈っている(5)。私たちの今の働きがどれほど成功していると見えても、先が見えないほどに暗いときであっても、神の愛とキリストが持たれたような忍耐を持って日々の生活を過ごしたいものである。
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第二テサロニケ三章6〜18節(13)
《兄弟たちよ。あなたがたは、たゆまずに良い働きをしなさい。》
「怠惰な生活」を戒める言葉が何度か見られる。教会のある人々が再臨が近いと言って仕事を止めぶらぶらしていたので、パウロは「静かに働いて自分で得たパンを食べるように」と命じた。怠惰な生活を新改訳は「締まりのない歩み方」と訳している。健全な信仰を持つとしっかりした自立の生活をするようになるはずなのに、それと反対の歩み方をするのは信仰の理解そのものが間違っている。しかも彼等は「いたずらに動き回っている」のである。これは仕事もしないで人のおせっかいをする人のことである。おせっかいは仕事をしないで締まりのない生活よりも悪い。パウロは仕事をするようにと勧めているが、それは全ての人はパートの仕事でも何でもせよと強制する意味ではない。家の外であろうと内であろうと、人は誰も自分の務めを持っている。大切なのはその務めを自分がどの様な思いで受けとめているかと言うことではないだろうか。引退した人や病人はいわゆる仕事をしないけれど、その人の存在が大きい意味を持っている。水野源三さんは良い模範である。日々の行為が習慣を作り、習慣が性格を形成し、性格がその人の人生を作っていく。
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第一テモテ一章1〜11(5)
《わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。》
本書はエペソ教会で牧会の務めをしているテモテを励ますための手紙である。エペソはギリシャ文化の町で異文化、他宗教がキリスト教に与える影響は大きかった。ある者たちは系図のいわれを信仰に持ち込んだり、旧約の物語を空想化した作り話をしたりなどした。今では考えられないようなことである。しかし今でも無意味な星占いやカルト集団があるのを見ると、人の心は昔も今も変わらないようである。人が霊的な渇きを持つとき健全なものを持っていないと不健全な思想・宗教で人生を躓かせてしまう。
そこでパウロは次のことをテモテに指示する。清い心、正しい良心を持つこと、即ち偽りのない信仰である(5)。偽りのない信仰とは正直で透明な心を持った信仰である。正しさ、清さがなくなると、信仰を持っていると言っても心は濁っている。祈りがなくなると、濁った信仰生活をしている自分が見えなくなる。清潔さを持つのは「愛」の建て上げのためである。今の日本は倫理、経済、精神の世界で混乱している。神に土台を置き生活をとおして証しをし、世の光を掲げなければならない。
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第一テモテ一章12〜20節(12後半)
《主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。》
「模範となる」という言葉がある(16)。模範的な信徒と言われるのは誰も好きではないだろう。なぜなら模範とは見習うべき手本のことだからである。ここで模範の意味を考えてみたい。これを新改訳は見本と訳しているが、それは平均的な人のことで特別優れた人のことではない。この場合新改訳の方が適訳である。パウロは自分が主イエスから福音を託されたのは、立派な人だからではなく迫害者、傲慢な者という罪人にも関わらず主に憐れんでいただいたからである。彼は救われて伝道者となったが、主に仕えれば仕えるほど自分が取るに足りない罪人であることが分かってきた。そのような者に福音が託されたのだから、ただ感謝なのである。見本というのはお手本の証し人の意味ではなく、誰でも平凡な人がなれる信徒のことである。
大切なのは自分が何者かであるように自分を誇示したり、無力さにこだわって自己卑下したりするのではなく、主イエスが私を忠実な者と見なして証し人に任じて下さったことを恵として受けとめる事である。主がそのように認めて下さったことが大切なのである。自分を見て主の委託に目を留めないのは、やはり自意識過剰なのではないだろうか。
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第一テモテ二章1〜7節(4)
《神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。》
パウロがあれほどに真剣に伝道したのは「すべての人が救われて真理を悟る」ようになることであった。真理には二つの側面がある。第一は科学的な真理、第二は人格的な真理である。科学的な真理は善人悪人の区別なく真理を得られる。しかし人格的な真理には善悪の前提がある。悪人の言うことには信用がおけないと言うのは、彼に真理がないからである。この様な区別をしたのは哲学者M・ブーバーである。宗教は後者を取り扱う。ここで言う真理を知るとは信仰的真理である。ところで「救われて」と「真理を悟る」という順序には意味がある。キリストによる贖いが信仰によって受けとめられると、それに伴って真理が分かるようになる。福音は頭で理解する必要があるが、それと共に心と生活で体験されないと理解し悟ったと言うわけにはいかない。その意味で信仰は人生において徐々に深められるものだと言えよう。人格的な交わりによってお互いが分かってくるのと同じである。例えば神は慈しみ深い方であると知っていても、それがその人の体験となって来ることが大切であり、その積み重ねがないとイザという時信仰は役立たない。聖霊は真理の御霊である。祈りながら聖書を読むとき神さまがよく分かるようになる。
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第一テモテ二章8〜15節(8)
《男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。》
男は清い心を持って祈るように勧める。手をあげるのはユダヤ人の祈りの姿勢の一つであるが、大切なのは外見ではなく神に向かう姿勢である。怒り争いの心をもっていては祈れないが、男はこの問題に心を乱されやすいのでパウロは注意したのだろう。
女性には、先ず身を飾ることについて教える。華美な服装をせず心の豊かさを身につけるようにと勧める(第一ペテ三章)。次ぎにおしゃべりについて。教会では女性は黙っていなさいなどと言うのではない。女性が指導的役割を果たす教会もあった。ケンクレア教会にはフイベという女性の執事がいたし、ガラテヤ三28には男女の区別はないとも述べている。多くの注解者はエペソ教会には特別な事情があったのでパウロが「静かにしていなさい」と命令をしたのだろうという。即ち、一部の女性が分を越えて集会の秩序を乱していたと説明している。15節の「子を産むことによって救われる」は難解である。一般的には女性の大切な役割の一つは子を産むことであると解している。ここの要点は男は男らしく女は女らしくそれぞれの役割を果たし、社会にあって証しをするようにと教えるものである。今、男女平等の時代認識があっても、男女にはそれぞれの役割があると思う。
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第一テモテ三章1〜13節(9)
《きよい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない。》
教会の指導者に監督と執事とがあった。現代では監督を牧師、執事を役員と言っている。監督について十五の点が語られている。「非難がない」とは犯罪のために告訴されたりしないこと。「一人の妻の夫」とは妻以外の女性を持ってはならないこと。「自制心のあること」は酒におぼれす、暴力的でなく、むしろ人々をよくもてなし、寛容な人であることの教えである。「金銭に潔白であること」は盗みをしないのはもちろんのこと金銭の貸借もきちんとすることである。「家を治める」ことは夫婦・親子の信頼関係を持っていること。「教える」とは聖書を学び間違いなく教えを伝える者のことである。執事についても同じ内容が教えられている。
これらは高い標準を示している。この様なむずかしい務めはしたくないと言うならそれは間違っている。監督の職を望むのは良いことである(1)。人は誰でも自分に立派な資格があるから牧師や役員になれるとは思わない。パウロでさえ不遜な罪人を神は憐れんでこの務めに任じて下さったと言う(一12)。私達がその務めにつくと神さまは徐々に造り上げて下さる。教会はそのようにして建てあげられていくのである。
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第一テモテ三章14〜16節(15後半)
《神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。》
パウロは若い伝道者テモテをエペソに任命し自分はマケドニヤへ行った(一3)。彼はすぐにもエペソに帰りたいと願いながらも遅れるかも知れないのでこの手紙を書き、健全な教会建設のためには指導者はどのような人でなければならいかを教えた。そこで教会とは何か、教会は何によって命あるものとなるかを語るのである。
教会は「神の家」である。エペソ二19にも同じ言葉がある。教会を神の家族と言うにはいろいろな意味がある。@家族は神を親とし神の子供たちで成り立っている。Aまた家族とは私達の所属を表している。人は学校、会社などにある時期所属するが生涯そうではない。しかし家族の関係は生涯のつながりがある。教会も同じである。Bまた家庭は安らぎの場でもある。教会で安らぎがあるように。
16節は初代教会の賛美歌だと言われているが、その内容は教会は真理の柱と基礎(土台)によって建てられているというものである。即ち、キリストの受肉、十字架と復活、昇天、諸国民への宣教などである。この内容は単純であるが信条の基本となっていた。私達はこの様な信仰を持って神の家族としての教会を建てあげたいものである。
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第一テモテ四章1〜10節(6)
《これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰の言葉とあなたの従ってきた良い教の言葉とに養われて、キリスト・イエスのよい奉仕者になるであろう。》
パウロはテモテが良い奉仕者になることを願っていた(6)。そのためにここで二つのことを述べている。第一は間違った教えを退け健全な教えを語ることである(1〜5)。異端者は結婚を禁じたり、ある食物を食べてはならないと教えていた。そのような教えは聖書的ではない。現代でもカルト集団は危険なことを教え、真理を持たないものは惑わされてしまう。自分自身気をつけるだけでなく「これらのことを兄弟たちに教えるなら・・・キリスト・イエスのよい奉仕者になるであろう」(6)。
第二は「信心のために自分を訓練する」ことである(7)。信心は敬虔と訳す方がよい。良い奉仕者になるのは人間的に善くできた人というより神を敬う敬虔を学ぶ人のことである。神を畏れると隠し事は出来ないし、神を目当てに奉仕をする。さらに敬虔な心は訓練が必要だと教える。訓練はグムナゾーと言う語で英語のジムナジウム(体育館)である。この語には裸になって体の訓練をするという意味がある。自我に付く肉的なものを捨て去ることから敬虔は始まるのである。
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第一テモテ四章11〜16節(16)
《自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。》
テモテへの個人的な励ましが書かれている。「模範になる」には時間がかかる。ここに成長のポイントがある。@模範になるのは年齢にはよらない(12)。この時彼は四十才位だったから若いとも言えないが、それでも人生経験では及ばない年輩者もいた。しかし恵に満たされ信仰の模範者になることが出来る。A次に生活態度である(12)。その基本は神への信仰から出る行動である。確かに若者には判断の不十分さがある、しかし神への愛、信仰、清さを求めた動機があるなら、未熟さがあっても理解されるに違いない。むしろ老獪さが姑息な知恵から出たと分かると嫌らしささえ感じられるのではないだろうか。むしろパウロは聖書を読むことや教えに専念しなさいと勧めるのである。B聖霊がお与えになった賜物を尊重すべきである(14)。伝道者になるのは誰かに言われてなるものではなく神の召しによる。長老の按手はそのしるしである。人は神の召命のゆえに伝道者の務めをすることが出来る。C最後に、模範者となるポイントは自分自身に気をつけることである(16)。活動に力が入って自己建設を忘れてはならない。この様な模範を私達の目標にして一歩ずつ歩もうではないか。
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第一テモテ五章1〜16節(1前半)
《老人をとがめてはいけない。むしろ父親に対するように、話してあげなさい。》
教会には多様な人々がいるのでテモテに指示を与える。@老人は「とがめてはいけない」。老人は過去の成功・失敗、喜び悲しみの交錯した思いを持って生きている。将来については老衰、死などを思い寂しさを持つことがある。現在は孤独になりがちである。この方々には親のように対応しなさい。老人が教会にいるのは存在だけで重みが増す。A男性のテモテは男の若者には兄弟のように親しみ、若い女性には清い心で交わるように勧める。Bやもめについては特別な組織があった。福祉制度のない当時としてはエペソではすばらしい制度を作っていた。「やもめ会」に登録した未亡人を教会は責任を持って世話していた。登録の規定は六十才以上であること、身寄りのない人、その年までしっかりした生活をしていた人などである。身寄りのある人、若くて再婚の可能性のある人、働ける人は自立した生活をすべきであり、やもめ会には入れない。そうでないと援助金を受けながら遊び歩くようになって証しにならないからである(13)。年齢にふさわしくバランスの取れた教えをパウロは伝えている。教会ほど多様な年齢の人々がいて、神の恵のもとに交わりを楽しむ所はないように思う。この交わりを大切にしたいものである。
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第一テモテ五章17〜25節(25)
《それと同じく、良いわざもすぐ明らかになり、そうならない場合でも、隠れていることはあり得ない。》
長老と言っても老人とは限らず教会のリーダーのことである。長老には宣教に当たる人と管理の人がいた。前者は今の牧師に当たる。テモテは教会全体の指導をしていたが、彼の下に長老がいたのであろう。パウロは長老への対応をテモテに教える。先ず彼等を尊敬し特に宣教と牧会に当たる者には敬意を払うようにと言う。宣教のために労苦している長老は二倍の尊敬を受けることがふさわしい。この長老は教会からそれなりの報酬を受け生活すべきであると指示する。しかし長老であっても間違いをすることがあるので、その時は注意深く取り扱わなければならない。罪ありと指摘された場合、複数の証人の言葉によって判断すべきである。この様な重要な立場の人だから四章において十五ものチェックがされる必要があったのである。パウロの指示は長老だけでなくすべての人にとって大切な原則だと思う。「罪は後になって分かるようになる」「良い業もすぐ明らかになる」(24、25)とあるようにすべてのことはやがて表面化するものである。誰でも自分に与えられた務めは、それが世の仕事であろうと教会のであろうと陰ひなたなくしたいものである。
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第一テモテ六章1〜2節(2)
《信者である主人を持っている者たちは、その主人が兄弟であるというので軽視してはならない。むしろ、ますます励んで仕えるべきである。その益を受ける主人は、信者であり愛されている人だからである。あなたは、これらの事を教えかつ勧めなさい。》
この時代は奴隷制度があった。奴隷といっても戦争に負けて奴隷にされたので、必ずしも無学な者ばかりと言うわけではなかった。しかし奴隷には人権はなかった。驚くことに初代教会の時代には多くのキリスト者の奴隷がいた。彼等は時間の自由がなく礼拝出席もままならず、社会の中で誰よりも信仰を持つのに努力した人々であったと思う。だからパウロは人々への勧めの中で、奴隷に一番励ましの言葉をかけている。
奴隷は主人に対して尊敬を持って仕えよと教える。主イエスがそしられないためである。キリスト者たちは社会改革者ではなかった。悪い社会制度は究極的には変えられなければならないが、キリスト者はその制度を変えるための者ではないと思う。そこでこの時点では「主人に従う」のが奴隷の証しであった。主人が同じ信仰の友であっても、仕事に関しては甘えてはいけない。励んで仕えるべきである。ある大会社のキリスト者の社長は従業員の中の信徒で甘えの態度を持つ者がいて困ると言っていたのを思い出す。神の前には平等であるが仕事の役割については上下がある。健全な常識を持って生活をすべきである。
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第一テモテ六章3〜10節(6)
《しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。》
エペソ教会には不健全なことを語って混乱を起こしている人々がいた。配慮する対象は弱い人や初心者ではあるが、もっと注意しなければならないのは能力があり雄弁な人でありながらも心に隠れた悪を持つ人である。4節には議論と言葉の争いに明け暮れている人がいるとあるが、彼等は能力があってそれなりの理屈を語れる者であった。それが不健全だと分かるのは嫉み、争い、高慢が背後に見え隠れしているからである(4)。まことの信仰者は謙遜を持ち真理に生き、正直さを持つ人である。
パウロはさらに金銭について警告する。「金銭を愛することはすべての悪の根である」(10)。金銭そのものは悪ではない、便利で役に立ち甘美ささえ与える。だから誘惑になる。そのために身を持ちくずし家庭や社会的な地位をなくしている人は多い。金銭と異性の問題のため信仰さえもなくする人がいる。私達は決して強い者でないことを知っているべきである。「信心があって足ることを知る」のは魂が恵まれていなければ保てない信仰ではないだろうか。
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使徒二五章13〜27節(18)二七日(月)第一テモテ六章11〜16節(12)
《信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。》
パウロはテモテを「神の人」と呼び個人的な勧めをする。@消極的には10節までの問題を避けることである。避ける一つの方法は誘惑から逃げることである。ヨセフはポテパルの妻の誘惑から逃げたので恐ろしい罪から逃がれられた。。悪をもてあそんでいると罪に陥る。A積極的には「義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」を追い求めること。これらは神、自分自身、他人に関わる私達の態度と見ることが出来る。
この様な神の人の生き方は、私達がキリストと共に生きるとき身についてくる。主とともに生きるので誘惑から逃げられるし、愛、忍耐などの徳を身につけることが出来る。その主イエスは最後の裁きの時ピラトに対して立派な証しをした。その主は再び来られる。パウロ自身はこのイエスを見続けていた。主イエスは私たちの模範者であるだけではなくわが内におられて働きかける方である。どうか自分にばかり目を向けることなく、主に目を向けて生活したいものである。
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第一テモテ六章17〜21節(18)
《また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、》
エペソは大都市で教会員にも富む者がいた。六6以下にもお金について教えられているが、此処でもう一度取り上げているのは世俗的な波に流される信徒がいたからであろう。お金について私達はどの様に考えたらよいか、この箇所から学んでみたい。第一、「私達にすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神」(17)とあるように、信者は神から豊かな利益を受けることを期待して良い。神は人生を楽しんでよいと言って下さる。第二、富が与えられたとき神に感謝する思いを持つこと。富の望みをおかず神に望みをおくように教えられている。人間はわがままなもので豊かになるとお金が物を言うと考える。希望は金によってかなえられると思うようなる。だから金持ちになると高慢になりがちだから注意せよとも戒めている。第三、「惜しみなく施し人に分け与えることを喜ぶ」者となるよう励ましている(18)。「受けるより与える方が幸いである」はパウロが最後の説教としてエペソの長老に語った言葉である(使徒二十35)。最後に委ねられた福音をしっかり守り、俗悪な話や議論に巻き込まれないようにと勧める。
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第二テモテ一章1〜7節(7)
《というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。》
パウロがガラテヤ伝道をしたときテモテが救われ、それ以来親子のような関係を持っていた。だからパウロがテモテのことを語るとき深い思い入れがあるのを感じる。まずテモテの過去について。祖母ロイス母ユニケから信仰の感化を受け今のテモテがある(5)。父は異教徒であったが母が子に与える影響は大きい。また彼が伝道者になるときであろうかパウロが按手したが、その時のことを思い起こしている(6)。あの時テモテは大いに恵まれていた。その恵は今も与えられている。次いで、現在の状況に言及する。それはテモテの涙である。第一の手紙に見るように、議論好きな人や系図の自慢をする人がおりこれらに対応しなければならないし、六十歳以上のやもめの世話もしていた。多くの牧会の重荷を持って涙することがあった(4)。しかし落ち込んではいられない。将来に向けての励ましを与える。それで神の賜物を思い出すよう語る(7)。@聖霊が共にいて力を与えて下さる。彼は体が弱かったが、神の力、確信を持って進んでよい力が与えられている。A神から愛を受けている。神の愛が注がれるので恐れることはない。B慎みの心とは自制心のこと。私達に聖霊が与えられていることを覚えていたい。彼は助け主である。
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第二テモテ一章8〜18節(12後半)
《なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。》
使徒二八章で彼は皇帝による裁判を受けるため上告しローマで捕らわれていた。その時は無罪判決で釈放され、スペインなど西方に伝道し再びギリシャなど東方に帰ってきた。その後皇帝の后の一人を信仰に導いたため皇帝の怒りをうけ逮捕され死刑にされたのである。その時が来るのを予期しテモテにこの最期の手紙を書いた。パウロは後継者の一人テモテに、自分が捕らわれていることを恥ずかしいと思わないようにと励ます(12)。もともと十字架を救いとするのは恥ずかしい教えだという思いが人々にはあった。十字架は犯罪者の処刑だからである。しかしパウロは「福音を恥としない」と言って宣教に励んだ。最近の若者は十字架をペンダントとして身につけている。それは飾り物に過ぎない。しかしキリスト者にとってはもはや飾りではない。十字架が信仰者のシンボルになると、案外それを身につけたがらのではないだろうか。「あなたはクリスチャンですか」と問われると、恥ずかしい思いがして「そうです」と答えかねるからである。信仰の証しが難しいのは恥ずかしさがあるからではないだろうか。テモテは小心者だったので励ましが必要だったが、私達も聖霊によって勇気づけられる必要がある。
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第二テモテ二章1〜7節(1)
《 そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。》
キリスト者のことが兵卒、競技者、農夫に譬えられている。兵卒は「司令官を喜ばせるために」苦難を忍ぶ(4)。競技者は栄冠を得るために戦い(5)、農夫は作物の収穫を得るために汗を流す(6)。私達は目標がはっきりするとさまざまな苦労は耐えられるものである。@兵卒にとっては司令官が指導者であるように、キリスト者にとってはイエスが主である。私達の目標は主に喜こんで頂くような人生を歩むことである。「御名をあがめさせたまえ」と祈るが、具体的には私達の生活が主に喜ばれるようになることである。Aさらにキリスト者の人生は競技者に譬えられるが、その目標は栄冠を得ることである。ヘブル十二章にはその内容が書かれている。栄冠とは「良い忠実な僕よよくやった、あなたはわずかなものに忠実であった」と主ご自身からお褒めいただくこと、またそれに伴う永遠の祝福を受けることである。Bまた農夫が収穫を得て喜ぶように、キリスト者も人生において多くの収穫を受けることが喜びである。収穫には霊的な恵、豊かな人格の形成、物質的な恵など多くのものがあろう。これらの目標を心に抱きながら歩むとき確信に満ちた力強い人生を進むことが出来る
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