聖書日課
2000年 4月
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1 Uテモテ2章8〜13 |
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2 Uテモテ2章14〜21 |
3 Uテモテ2章22〜26 |
4 Uテモテ3章1〜9 |
5 Uテモテ3章10〜17 |
6 Uテモテ4章1〜8 |
7 Uテモテ4章9〜22 |
8 テトス1章1〜4 |
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9 テトス1章5〜16 |
10 テトス2章1〜10 |
11 テトス2章9〜15 |
12 テトス3章1〜11 |
13 テトス3章12〜15 |
14 ピレモン1〜7 |
15 ピレモン8〜14 |
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16 ピレモン15〜25 |
17 ヘブル1章1〜14 |
18 ヘブル2章1〜4 |
19 ヘブル2章5〜18 |
20 ヘブル3章1〜6 |
21 ヘブル3章7〜19 |
22 ヘブル4章1〜13 |
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23 ヘブル4章14〜16 |
24 ヘブル5章1〜10 |
25 ヘブル5章11〜14 |
26 ヘブル6章1〜8 |
27 ヘブル6章9〜20 |
28 ヘブル7章1〜15 |
29 ヘブル7章16〜28 |
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30 ヘブル8章1〜6 |
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第二テモテ二章8〜13節(13)
《たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである。》
13節には人間の不真実と神の真実が対照されている。真実とは約束したことを守ることである。人が取引の契約を破るなら契約違反として反則金を支払う。口約束でもそれをいつも破る人は信用されなくなる。私達が神さまとの約束をどれほど誠実に守ることが出来たかを考えると、顔を上げられなくなる思いがする。イスラエルの民は十戒(神との契約)を与えられたとき、神を敬うと約束をし神も民を救い守ると言われた。ところが民はその約束を破り罪を犯した。その結果神は彼等を敵(バビロン)の手に渡し滅ぼした、しかし父祖アブラハムへの約束の故にもう一度彼等を回復した。神は「私は限りなき愛をもってあなたを愛している。それ故わたしは絶えずあなたに真実を尽くしてきた」と言われる(エレミヤ三一3)。民は不真実だが神は何時も真実に約束を守る方である。
人は神への約束を破りがちな弱い者である。しかし平気で神との約束を無視する人と、守ろうと思いながらも出来なかったと言う人とでは、心の動機において天地の差があるように思う。主は「忠実な僕よ良くやった」(マタイ二五21)と真実であろうとする者を喜んで下さる。その結果さらに高い務めを託して下さる。真実の根は愛することにある。
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第二テモテ二章14〜21節(15)
《あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。》
「練達した働き人」についていくつかの点を示している。@言葉の争いをしない。信仰のことでつまらない議論をして相手を打ち負かすようなことをしないという意味。A恥じることのない人。これは人に見られて倫理的に恥ずかしい行いのないこと。人は何らかの欠点を持っているが、それが不道徳な行いをしても良いということにはならない。B俗悪なむだ話を避ける。同じ言葉は第一テモテ六20にも出ている。悪口、愚痴、卑わいな言葉は恵の成長に何の益ももたらさない。
主のしもべであるのを「器」に譬えている。家にいろいろな器具があるように教会にも多様な人々がいる。神さまがお用いになるのは賜物を持っている人であろうが、もっと大切なことは清い心である。「卑しいものをとりさり自分をきよめる」人である(21)。卑しいものを取り去るとは先に述べている言葉の争いなどを捨てることである。私達はいつも謙って臨在の神の前に生活していないとどこで躓くか分からない。何かが出来ると思ったり、不謹慎な態度で生活しているとサタンの誘惑に陥ってしまう。自ら清さを求めて歩くべきである。
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第二テモテ二章22〜26節(24)
《主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、》
パウロはテモテを「主のしもべ」と呼んでいる。僕とは仕える者のことである。老年のパウロは後輩のテモテに僕として身につけることをいくつか教えている。僕として仕えるのは神と人に対してである。@神に仕える者として、義と信仰と愛と平和を追い求めるように言われている。洗礼を受けて何年かするとマンネリ化して信仰生活の深まりを経験しない。祈りにおいてだらけてくるし、聖書を読んでも何の感動もなくなる。困ったことが起こってくると驚いて神を求めるが生き生きした信仰がない。どうか信仰、愛を追い求めるように。A人に仕える者として、柔和な心で対応することが教えられている。柔和の反対は論争や争いである。日常生活でどのように自己主張して争っても、結局は何の答えも得られない。空しくお互いに心を傷つけあうばかりである。「主の僕は争ってはならない」。信仰を持って優しい心で人々に対するなら、その人も真理が分かり悔い改めるようになる(25)。神は人を救いにお導き下さるのであるから、忍耐を持って福音を語りたいものである。
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第二テモテ三章1〜9節(1)
《しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。》
「終わりの時には苦しいときが来る」とあるが、終わりの時の意味に二通りの意味がある。一つはキリストの誕生の時から主の再臨の時までの長い範囲を含む時期(第一ペテロ一20)。第二は再臨の直前の時期である(第二ペテロ三3)。此処は第二の意味であろう。近代の歴史は人間理性によって何でも出来るバラ色の時代であると思われていた。ところが二十世紀になって世界大の戦争が二度あり、局地戦争でも近代科学の兵器を使って悲惨きわまりない後遺症を残してきた。二十世紀は戦争の時代であった。ユートピア時代が来ると思われたのに「苦難の時代が来る」の言葉が当てはまる。苦難の時代は戦争だけでなく、2節以下の十九の罪のリストにも見られる。これらの罪を見ると愛を何に向けているかが問題である。利己的な自分中心の愛がすべての悪の根源であり、どん欲はその表れである。その結果神を敬う思いがなくなる。社会生活が崩壊し、ついに自己破壊へと向かっていく。今の時代が再臨直前と断定できないが、現代はまさにすべてが破壊的になっている。神を敬うふりをして信仰生活を送ってはならない。これらの罪を避けなければならない。苦難の時代に主からいただいた光を持っていなければならない。
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第二テモテ三章10〜17節(14前半)
《しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。》
「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものであって・・・」(16)は聖書とはどのようなものかを語る重要な聖句である。@聖書は神の霊によって生み出されたものであって人の作品ではないことを述べている。聖霊は人に働きかけその人を用いて神のみ心を伝える。その結果聖書が生まれたのである。Aまた「救いに至る知恵を与える書物」である(15)。大自然の中で観察すると偉大さや不思議さを感じ神がおられると思う。このように自然を通して神を感じるのを「一般の啓示」という。ところが自然には罪の赦しとか救いの恵は伝わってこない。これを伝えるのはイエス・キリストである。そして救い主キリストを表しているのは聖書である。聖書と聖書に記されているキリストによって神を知ることを「特別啓示」という。だから聖書を救いに至る書物というのである。B聖書は人が成長するための書である(16後半、17)。聖書を頭で学ぶと知識が増すが、心で受けとめると魂や人格が成長する。この両方が私達には必要である。生活の中で起こってくる出来事の中で、どうしたらよいのか判断に悩むことがあるが、「自分が学んで確信している所にいつもとどまっている」ことは大切である(14)。み言葉は光である。
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第二テモテ四章1〜8節(2前半)
《御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、》
本書はパウロの最期の手紙である。これをテモテに送ってから間もなくネロによって処刑された。その事を予期してか、パウロは「私は戦いをりっぱに戦い抜き、走るべき行程を走りつくし信仰を守りとおした」と言う。彼は富の道も貧しい道も歩んできたが全ては主のためであった。人が死ぬと全ては終わり消えてなくなるように思いがちであるが、そうではなく死は人生の総決算であり集大成である。お棺にふたをしてその人の人生が分かると言われるが、パウロほど全世界に影響を及ぼした人はいないのではないかと思う。そのパウロが「み言葉をのべ伝えなさい」とテモテに命令した。主イエスが昇天の前「全世界に出かけて証し人になれ」と言われたのと同じメッセージである。私達にはそれぞれ家庭があり仕事がある。それは大切である。しかしそれをすることが私の人生の全てなのだろうか?福音が人を変え、人生に命を与え、永遠の救いへと導くとすれば、それは重要なことではないだろうか。福音を受け入れた人は、それを伝えてくれたあなたにどれほど感謝するか考えてほしい。生活か伝道かなどというのではなく、それもこれも受け入れていくことが大事だと思う。「み言葉をのべ伝えなさい。時が良くても悪くても」。
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第二テモテ四章9〜22節(17前半)
《しかし、わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて、すべての異邦人に聞かせるように、主はわたしを助け、力づけて下さった。》
手紙の最後にパウロは依頼や個人的な消息を書いている。残念な人々としてデマスがいる。彼はパウロの最初の囚われの時使徒と共にローマにいたのに(ピレモン24)、この時になって「この世を愛し」パウロを捨ててしまった。銅細工人アレキサンデルもパウロを傷つけていた。他方クレスケンス、テトスらはそれぞれ教会に派遣されパウロのメッセージを伝えた。パウロ個人のことをみると、寒い冬を牢獄で過ごすため上着の持参を頼み、それと共に羊皮紙の書物(聖書)についても頼んでいる。聖書を読むことが彼にとって何よりの慰めであった。また、既に始まっていた裁判での弁明も書いている。「み言葉を余すところなくのべ伝えて、全ての異邦人に聞かせ」たと言う。「獅子の口から救い出された」とあるのは何か危険な目に遭ったことを示唆している。
パウロは同労者の脱落、他の者からの慰め、審問による危険などによって失望したり、慰められたりしたが、絶えず彼を励ましたのは側におられる主である。「主は私を助け」(17)は主が私の側に立っているという意味である。ダマスコ途上で現れた主イエスは生涯彼と共におりこの時にも側におられた。パウロにとって主が命であり希望であった。
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テトス一章1〜4節(2)
《偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みに基くのである。》
パウロに使徒としての務めが主から委ねられているのは、信仰に関する知識を信徒たちに教えるためである(1)。その内容の全てを此処に書いてはいないが、その基本は述べている。即ち「偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠の命の望み」を教えることある(2)。永遠の命とは救いのこと。私達はキリストによって救われると言うが、しばしば救いを自分中心的に(主観的に)受けとめていることがある。自分の気持ちを中心にして、気分の良い時、自分の生活環境が平穏である時、救われていると感じ神に感謝する。ところがそうでなくなると救いなどないと思いがちになる。またある人は救われたのは自分がそのように決心したからだと思っている。確かに救われるために自己決断が必要である。しかし救いの基本は神の側から出ているのである。私達の救いは神が永遠の昔に(永遠者は神)救いの約束をされたことに基づくのである。その神が「定められた時に」キリストを送り救いを完成されたのである。神が備えた確かな救済計画に私達が入れられたので私達は救われたのである。客観的な神の業に救いの基礎がある。私達が神の御手の中にあるのだから気分や環境の変化によって救いの確信が揺れる必要はないのである。
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テトス一章5〜16節(9前半)
《教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。》
テトスはクレテ島でいくつかの教会の指導に当たっていたので、パウロは彼に信仰生活の指導の指示をした。それはクレテの人々は元々平気で嘘を言う連中で怠け者だから(12)、キリスト者になった者には証しになるような信仰生活を築いてもらいたかったのである。長老や監督は信徒の信仰を指導する立場にあるが、指導者がまずきちんとした夫婦、親子関係を持ち、評判の良い人となるべきであり、指導者として健全な聖書理解を持つことが大切だと教える。 この箇所では健全な信仰生活について二つの点を教えている。その一は健全な教えである(9)。当時、空論や作り話が教会で自慢げに話されていた。これらは間違っている。健全な教えの原則は「イエス・キリストは主であり救い主である」ということである。キリスト教はキリストをどのような方として受け入れるかにかかっている。その二は、健全な倫理生活をすることである。神を信じると言って生活でそれを否定するようでは健全ではない。嘘を言ったり、互いに罵り合ったり、家庭を破壊したり、自己の利のためなら恥ずかしいことでもする人は信仰を自分で破壊している(11、16)。私達は聖書に教えられている正統的な教えと健全な倫理生活を維持すべきである。
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テトス二章1〜10節(2)
《老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧め、》
テトスへの勧めをパウロは具体的に語る。@老人について。「自らを制し、謹厳で慎み深く」とあるように、老人は自制を心がけるべきである。年を取ると人生経験があるため他人のことが気になる。それで自分の基準で物を言う。ひどくなると悪口を言う。教会に来る老人はそのあたりが変わってくる。謙遜と自制が身に着くからである。老人と言いながら特に「年老いた女」が取り上げられている(3)。「立ち居ふるまいをうやうやしく」を新改訳では「敬虔にふるまい」と訳す。厚かましくなったり、卑わいな話をしたり、夫を見下したりしてはならない。慎ましさがなくなると「人をそしったり、大酒を呑む」ようになる危険がある。むしろ先輩の信仰者は若い女の模範となって家庭を大切にし、純潔な生活を保つよう教えるべきである。「良いことを教えよ」(3)は、老年になると多くの知恵を持っているから、それを若い者に分けるようにせよと言う意味である。
A若い男に対して。「慎み深く」を新改訳は「思慮深く」と訳す。青年の特色はエネルギーである。それは良いことでありまた時として躓きともなる。誘惑にのめり込んで取り返しのつかない躓きの傷をもってはならない。若者の長い人生は尊いものであるから。
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テトス二章9〜15節(11)
《すべての人を救う神の恵みが現れた。》
クレテ島の人々は「うそつき、たちの悪いけもの、怠け者の食いしん坊」と悪い評判であった。この様な中で育った者はそのような生活が身につきやすい。また信徒になってすっかり変わる人とそれを引きずっている人もいる。パウロはその人々にキリストの救いとは何かを語る。@「キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望む」者となることである(13)。人には終わりが来る。人は生きたように死ぬと言われるが、喜びを持って生きた人はその様に死ぬし、愚痴を言いながらの人はその様に死ぬ。主と共なる生活する人は平安に主のもとに行く。A救いは「良い業に熱心な選びの民をご自分のために聖別する」ためである(14)。神は私達を選びの民と見て下さる。イスラエルは選ばれた神の民であるが、彼等が優れていたからではなく、ただ神が彼等を愛したからである(申命七7)。私達も同じで何の取り柄もない罪人であるのに、キリストにより贖われた。その様な者が救われたのは「良い業」をする者となるためである。良い業とは生活と福音を統合して生きることであって、喜びや悲しみの中で神の恵によって生かされる人生である。
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テトス三章1〜11節(6)
《この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。》
4節の「ところが」は回心以前の生活と以後の生活を区切る転換の言葉である。その転換は「救い主なる神の慈悲と博愛が現れた時」から始まる。神の愛がどれほど現されたとしても、それを私が受けとめなければ何の意味もない。人が情欲におぼれ、悪意と妬みを持ち、憎しみ合うのは「神の恵の現れ」を受けいれないからである。ましてそしらず争わず寛容と柔和を持つように勧めても、神の命がないなら変わるのは無理である。
ここに回心についての大切な二つの点が記されている。@一つは救い主キリストの十字架の恵である。それを慈悲と表現する。愛に二つの語があり、人の間違いを指摘して善導する愛と罪を赦し受け入れることによって善導する愛とがある。4節の慈愛は後者である。罪人をそのまま受け入れるのは神の憐れみによる。A二つは聖霊による新生である。聖霊は生きる命を与える。生まれたての山羊が間もなく歩き始めるように、新生した者は神への服従、人への寛容を身につけるようになる。さらに私達には信仰生活で継続して聖霊の「豊かな注ぎ」を受ける必要がある。そうでないと干涸らびた魂で、義務的な名ばかりの信仰生活をするようになる。聖霊による刷新が必要ではないだろうか。
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テトス三章12〜15節(14)
《わたしたちの仲間も、さし迫った必要に備えて、努めて良いわざを励み、実を結ばぬ者とならないように、心がけるべきである。》
本書には健全な教えが多く見られるが、「良いわざ」とか「良いこと」の語も多く8回も出てくる(一16、二3、7、14、三1、8、14)。良い(カロス)とは魅力があるという意味である。外面的に言えば容貌の美しさで魅力があること。内面的には愛から出てくる魅力である。キリスト者が求めるのは後者である。本書の「健全な教え」と「良い業」は深い関係があるように思う。健全な教えを持っている人とは、正しい教理を持ち非難のない生活をしているだけでは不十分な感じがする。立派ではあるが冷たい感じがするからである。健全さは良い業と結びついて生きてくるように思う。健全さを持つ良い人には何か引きつけるものがありそこに魅力がある。さて本書の良い業を観察すると、神との関係がしっかりしていることが挙げられている(二14)。また社会的に尊敬されていることもある(三1)。それは一般社会だけではなく教会という社会においてもそうである。良い業は個人的な品性にも関係がある(二3)。愚痴っぽさ、とげとげしい気性、卑わいさ、どん欲などを持っていると、その人の側には居たくなくなる。魅力がないからである。内住のキリストを仰ぎながら実りある生活を建て挙げたいものである。
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ピレモン1〜7節(5)
《それは、主イエスに対し、また、すべての聖徒に対するあなたの愛と信仰とについて、聞いているからである。》
本書は個人的な手紙である。コロサイにはピレモンという裕福な人がおり、その人の家が開放されて「家の教会」が運営されていた。初代の時期はコリント、ローマなどどの町でも家の教会が普通であった。アピヤは多分ピレモンの妻であり、アルキポはコロサイ教会の開拓者エパフラス(コロ一7)の補助者であろう。エパフラスは今ローマのパウロの所におり身辺の世話をしていた。パウロは彼からコロサイ教会の近況と家主のピレモンについて聞いていたので、手紙のはじめにピレモンの愛の労について述べ神に感謝する。だから「全ての聖徒に対するあなたの愛と信仰について聞いている」(5)は単なる挨拶ではない。ピレモンが毎週自宅を教会に提供し集まる人々のためにあらゆる便宜を図るのは世話好きの人柄だけでは出来ることではない。信仰から出る愛がなければ奉仕は続かない。それを聞いたパウロは非常に喜んだ(7)。それは彼にとっての慰めであった。パウロはこのピレモンのために祈る。それは彼の信仰の交わりが成長することである(6)。信仰の交わりとは神及び人との深みを持った交わりである。初代教会には他にもプリスキラ、アクラ夫妻など信頼できる信徒が多くおり、福音が広がったのである。
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ピレモン8〜14節(11)
《彼は以前は、あなたにとって無益な者であったが、今は、あなたにも、わたしにも、有益な者になった。》
ピレモン家の奴隷オネシモが盗みを働きローマへ逃亡した。ところが多分エパフラスによってであろうかパウロのもとに導かれ回心した。当時コロサイ教会のテキコがパウロと共にいたが、彼が母教会に帰るに当たって本書と教会への手紙を持参しオネシモも主人のもとに連れ帰ることになった(コロ四7以下)。奴隷が罪を犯せば処刑されても仕方なかった。ピレモンがその様にするとは思わないが、それでもパウロはオネシモのためにとりなすのである。彼の執り成しは罪人のためにするキリストの業に譬えられる。パウロは自分が囚われの身でありながら救いに導いた尊い魂オネシモのことを願っている(9)。彼について現在、過去、将来の点から見て執り成す。@まず現在の彼を見て、赦し受け入れてほしいと頼む(11〜14)。彼は「以前は無益な者」であったが(11)、今は「有益な者」であり、パウロの心であるとまで言われる(12)。推薦した人が良い証しをしてくれると推薦者は嬉しいがそうでないと推薦者は恥ずかしい思いをする。パウロはピレモンが彼を受け入れてくれることを期待し、オネシモも執り成しに応えてくれることを期待する。キリストも私達に同じような期待を持っておられるのではないだろうか。
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ピレモン15〜25節(17)
《そこで、もしわたしをあなたの信仰の友と思ってくれるなら、わたし同様に彼を受けいれてほしい。》
オネシモのための執り成しはなおも続く。(昨日の@を受けて)A15節は神の視点からのように見える。「彼がしばらくの間あなたから離れていたのは、あなたが彼をいつまでも留めおくためであったかも知れない」は、彼が盗み逃げたのは悪いことだが、それも神の摂理の中で起こった事と見られないかと問いかけている。というのは無益な者が有益な者と変えられたからである。だからパウロがピレモンに願っているのは、今後は奴隷としてではなく主にある兄弟、即ち自由人として受け入れてほしいと言うのである。16節がそれを示している。盗みは罪であり、それの賠償は当然すべきであるが、その費用はパウロが自分で負ってよいと書いている(18)。パウロは奴隷制度を心から認めていたとは思わない。神の前には奴隷も自由人も同じであると言っているからである(ガラ三28)。しかしこの時点では社会改革をしようとは考えていなかった。奴隷である者はその立場にいなさいと言う(第一コリ七21)。それではどの様に社会が変えられるのか。それはピレモンのように、主にある兄弟愛に根ざすことによってである。制度の変革は大切であるが、それで全てが変わるだろうか。パウロは神による内心の変化がカギだと教えている。
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ヘブル一章1〜14節(2前半)
《この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。》
聖書の神は語りかける神である。旧約時代には預言者を通して語られた。新約時代になって神はイエス・キリストによって私達に語られる。それが福音のメッセージである。新約時代を「終わりの時」とはどういう意味か。それは最終的な語りかけの時という意味である。昔は預言者だけではなく神殿で献げられる犠牲も受難のメシヤを示していた。しかしイエスによってこれら全ては完成したので「終わりの時」の語りかけとなったのである。 さて主イエスの語りかけはどの様にして得られるのか。それは福音書のイエス・キリストを研究するだけでは不十分である。神の語りかけを聞くとはもっと深いものである。それは神と人間との間にある罪の障壁が取り除かれることによって始まるものである。キリストは神との交わりの障害を取り除くためにこの世に来られた。このように御子によって語られるとは、罪を取り除くことによって神と人が交わることが出来るようになったということである。研究や学びで聖書を知ることは大切である。しかしそれと共に魂で神に聞くことが重要でそれは霊的、人格的な成長をもたらすのである。
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ヘブル二章1〜4節(1)
《こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。》
人は自分の価値観によってどのようにでも生き方を変えていく者である。例えば外国で勉強することに価値を見出す人は準備に必要なもののためにあらゆる努力をする。私達は救いについてどれほどの価値をもって受けとめているだろうか。主イエスがどの様なお方であり、主ご自身どれほどの犠牲を払われたかをこで説明する必要はない。3節には「こんなに尊い救い」と述べられている。その救いは「はじめ主によって語られ」彼に続く使徒たちが宣教し、神がそれを真実であると証しした福音である。ある人は最初は福音が何かも分からずだったのに、それが分かるようになり受洗した。また別の人は悩みを持っていたのに光を与えられ安心を持つようになった。キリストに来るには多様な道があるが、福音に命と価値を見出すようになったのである。ところがそれにも拘わらず信仰から離れる人々がいる。それを「押し流される」と言う。この語についてある人は船の錨をしっかり固定しないため潮流によって流されることだと説明する。世には様々な流行、思想、生活の潮流があり、私達もその流れにほんろうされる。問題は信仰の本質までも押し流すようなことに出会いながらその事に気づかないことである。福音をしっかり心に留めたい。
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ヘブル二章5〜18節(9後半)
《それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。》
一章はキリストの神性について記し、二章は人性について即ち神なるキリストが人となられた事につき述べている。@キリストが人となられたのは死を味わうためである(9)。神は死を経験できない。死には三つの意味がある。肉体的な死、霊的な死、永遠的な死である。霊的な死とは罪による神との断絶(エペソ二1)、それが永遠であるのを永遠の死という(ロマ六21)。イエスが死を味わわれたのは肉体的、霊的な死であった。神からの断絶を受けたとき「わが神なぜお見捨てになるのですか」と叫んだが、父と離れたことのない御子が罪を負われたためこの叫びとなったのである。人となったキリストはこの苦しみを受けられたのである。A第二に、主が人となられたのは贖いのためである。贖いとはユダヤにおいては本来家族の法律である。ある家族が貧しくて土地を売り奴隷として身を売るような場合、彼の親戚の中で最も身近な者が土地や人を買い戻し元の立場にする義務がある。これが贖いの法である。人類を贖うためには御子が最も身近な者にならなばならなかった。イエスは人間の兄弟になり(11)同じ苦しみを受けられたのである(18)。神の愛の故に受肉があり贖いが完成したのである。
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ヘブル三章1〜6節(6後半)
《もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。》
モーセとキリストの対照があり、両者とも神の家のために忠実であった。前者は旧約を後者は新約を代表する。モーセが忠実であったというのは彼が神からの十戒を民に教えることにあった。モーセは民に律法を実行させようとするのに不従順な民のために大変な苦労をした。彼は神が不従順な民を捨てるとまで言われたのに命をかけて執り成しの祈りをし、それゆえにイスラエルの民は存続することが出来たのである。そのようなモーセを忠実な僕と言うのである。これに対してキリストが神の家(教会)に忠実だというのは、律法によってではなく恵によって治めるのに忠実であると言う意味である。それは大祭司なるイエスのゆえである。祭司は人の弱さを知りそれを身に背負って神に執り成す人であるが、イエスはそれをして下さる(二17)。そのイエスを思いみなさいと勧める(三1)。 さて著者は私達に「望みの確信と誇りとを終わりまで持ち続けなさい」と励ますのである。恵みをもって忠実に指導して下るキリスト、それに対して信仰をしっかり持ち続ける者とは一体でなければならない。主イエスがしっかり手を取っていて下さるのだから、私達も主イエスに目を注ぎ信仰を持ち続けていたいものである。
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ヘブル三章7〜19節(15後半)
《「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。》
主イエスを見上げ信仰を持ち続けるために何をすればよいか。それをイスラエルの過去の歴史から学ぶ。@柔らかい心でみ言葉を聞くこと。イスラエルはみ言葉をかたくなな心で聞いたので祝福を受けることが出来なかった。厳しい荒野で神さまの供給を信じられないのも無理はない。こんな状況では無理だと最初から決めてかかると心はかたくなになる。しかしとにかくみ言葉を聞くことである。み言葉は毎日のデボーションや礼拝等公の集会で聖書からの語りかけに耳を傾けることである。A語られるみ言葉を信じること。不信仰な思いは捨てなければならない(12)。信仰が薄いということはあっても、自分を不信仰な者と言ってはならない、それは悪い心だからである(12)。からし種ほどの信仰でも主はそれを大きくして下さる。Bみ言葉の恵を互いに分かち合うこと。「日々互いに励まし合う」よう勧められている(13)。励まし合うのは一方通行であってはならない。私達は恵まれていると思うときや落ち込んでいると感じるときがある。励ましはみ言葉の分かち合いによってなされることがよい。その時聖霊は働きかけて下さるのである。
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ヘブル四章1〜13節(2後半)
《しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。》
安息の言葉が何度もみられるように、人に大切な心は「安息」である。誰が安息を与えるのか、どうすれば得られるのかを此処で取り上げている。@安息は神が与えて下さる。神は創造の業ののち安息されたが、それは創造の完成を意味する。それはまた神の安息に人もあずかるようにとの招きでもある(10)。ところが様々のことで不安が湧き神への信頼も失ってしまう。一番の根源は罪によって神から離れたことである(創世三章)。失った安息を回復したのは主イエスである(マタイ十一28)。真の平安は神から来る。
A私達は主が与える安息に入るように務めるべきである(1)。せっかく神が備えている安息でも、人の態度によって受け損なうことがある。11節の「努力しよう」は自力の努力ではなく私達の心の姿勢である。その姿勢とはみ言葉を信仰によって自分に結びつけることである(2)。み言葉は神の語りかけであるが、ある人には退屈な書物であり、信徒であってもただ字づらを読むだけでの時もある。ところがただ一句でも人生を変えるみ言葉がある。それは自分の魂への神の語りかけとして受けとめたときである。み言葉を信仰によって自分に結びつけるとはそのことである。
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ヘブル四章14〜16節(16)
《だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。》
ここで大祭司イエスが紹介されている。この内容は五章で展開している。大祭司はどの様なお方と言われているか。@彼は天の父のもとから来られた方である。「もろもろの天を通って行かれた」とあるのは主イエスが天の父のもとから来られこの地に下り、さらに死の後天に帰られたことを示している。即ち14節は神的祭司イエスを示すものである。同じく彼は「神の子」と呼ばれ単なるレビ族の一人である祭司以上のお方である。このような偉大な神よりの方を持っているのだから、信仰を堅く守ろうではないかと勧める。
A次ぎに大祭司は弱さを思いやることの出来るお方である。「試練に会われた」は彼の荒野の試みのこと。主は神の子としての誘惑をお受けになった。サタンは、イエスが神の子だから石をパンに出来るし、宮の頂から飛び降りても怪我などしないと誘い、サタンの言葉に巧妙に取り込もうとした。イエスはそれに「ノー」と答え罪を犯さなかった。罪を犯せば罪人のことが分かるのではない。罪の巧妙さ、厳しさを主イエスは経験し罪の恐ろしさを経験したのである。私達は誘惑にあってしばしば罪に陥る。その弱さを主は知り、必要なときは何時でも恵の座に来なさいと招いて下さる。
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ヘブル五章1〜10節(8)
《彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び》
続いて大祭司について述べる。此処でも昨日のように神的な性格を持つ大祭司と人として悩み苦しんだ大祭司の両面が紹介されている。@神的な大祭司を示すのは、イエスが神より生まれた御子である点と(5)、祭司メルキゼデクという点である(6)。メルキゼデクについては七章にも出てくるが、彼は世襲のレビ系の祭司ではない。突然創世記十四章に出現し父祖アブラハムでさえ十分の一の献金をささげるようなお方である。それ故イエスが神より遣わされた祭司であると言うために、神の大祭司の原型としてメルキゼデクを引用したのである。主イエスが神的起源の方であるのは、彼が自分のために罪の贖いを必要としないことを示している。 A次いで、人として苦しまれた大祭司イエスが示されている(7以下)。彼の激しい叫びと涙の祈りはゲッセマネの祈りである。苦しみは十字架で極点に達したが、それらの苦しみは御子の父に対する服従の印である。三位一体の神の間には愛による交わりが永遠にあった。その御子が父なる神に従うことを学ばれたとは驚くことである。さればこそ彼は「永遠の救いの源となられた」のである。人となられた神の子イエスにただ感謝するのみ。
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へブル五章11〜14節(14)
《しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。》
キリスト者は成長を期待されている。成長には霊的、知的、精神的、社会的、肉体的な成長が含まれる。信仰の成長にはこれらの各側面がいくらかづつでも関係があるだろう。ここに挙げられている教えは私達に刺激を与える。@学びをしない人は、神に聞く耳が衰え鈍くなる(11)。怠惰な人は無知でクリスチャン生活を過ごす。聖書についての知的学びと霊的成長は平行している。聖書の神、人間、教会、世界観などが分かると信仰は強くなる。また霊的な豊かさを経験するようになると聖書はおもしろくなる。これら両面がからみあって信仰は成長するものである。A成長の印は「善悪を見分ける感覚」を持つことである(14)。善悪を区別するとは、普通は社会的に常識で判断できることでよいだろう。それは当然のことであるが信仰者として物事の価値判断が出来ることはさらに高いレベルの善悪の区別であろう。例えば、エサウとヤコブは長男の権利については違った考えを持っていた。エサウは一杯の食物のために大事な相続権を捨ててしまう愚かをした(へブル十二16)。コリント教会では肉的な信徒が固い食物を食べられないでいた(第一コリ三1)。揺るがない霊性と健全な知識を養いたい。
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へブル六章1〜8節(1前半)
《そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。》
前章に続き成長の励まし。ここには基本から進んで完成を目指してほしいと勧める。ある人々がこだわっていた基礎的な教えがいくつか記されている。@死んだ行いの悔い改め。儀式や規定を守ることによって救われると考えたユダヤ教からの回心者が、いつまでも過去の儀式に捕らわれていた。そのような過去のしがらみは捨てるべきである。A洗いごと。ユダヤ人は何かにつけて手足を洗った。心が汚れるのではないかと恐れるのである。キリストの贖いを信じるべきだ。B復活と裁き。死後の問題につき不安を取りきれないでいる者がいた。主の復活を信じれば希望につながるのにと思う。いつまでも初歩的なことにこだわっていると、信仰は停滞し退歩する恐れがある。注がれている恵みの雨を受けて作物が成長するようにキリスト者も成長することが出来る(7)。キリスト者は新生とともに聖霊を受けていることを自覚すべきである。またみ言葉によって信仰生活が養われるのである。私達も日本人独特の無益な過去のしがらみを捨て、神が備えて下さる天の完成を目指して進もうではないか。
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へブル六章9〜20節(12)
《怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。》
1〜8節で著者は背教の危険を述べたが信徒たちがそうしたわけではなくただ警戒したのである。実際には愛を実践し固い信仰を持ち神に信頼している(10)。彼は生涯信仰を持ち続けてほしいと願うのである(12)。信仰を全うするために「忍耐」を強調する。忍耐とか我慢は物事が順調でなくつらい時に言われる言葉である。ヘブル人も逆境にあったことであろう。著者は何によって励ましたのか? @神から与えられている希望である(11)。聖書は希望について二方面から教える。一つは将来に向けてである。即ち復活のイエスと共にみ国に凱旋する終末の栄光である。二つは過去に向けてである。ローマ五5以下には十字架に表された神の愛の故に失望がないと言い、あれほどの愛を与えた神は失望に終わらせる神ではないとパウロは断言するのである(ロマ八28)。A神は約束を果たす方である(14、17)。神はメシヤの派遣を約束しそれを実行された。摂理の神は雀一羽を顧み保護して下さる。それでも時として私達は最善はこの道ではないかと考え、そうならないと不安になる。しかし神は救済の約束をどの方法にもせよ果たして下さる。「忍び抜いた人たちは幸いである。あなた方はヨブの忍耐を聞いている」(ヤコブ五11)。
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へブル七章1〜15節(1)
《このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であったが、王たちを撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福し、》
著者は祭司制度を熟知しているユダヤ人読者に、祭司によってキリストのみ業を説明する。祭司の性格について五章では、人の悩みを知る人としての人的祭司イエスと神が遣わした神的祭司イエスの両面を描いていた。七章では神的祭司の面をメルキゼデクによって説明する。@メルキゼデクはユダヤ人の父祖アブラハムから十分の一献金を受け取る神のような方である(2、6他)。しかも彼はアブラハムに祝福を与えた(6)。Aメルキゼデクは系図を重んじる世襲祭司と違って、創世記十四章に突然出現しそれ以後彼の記事は聖書に出てこない。誕生の始めも生涯の終わりも記録されない祭司メルキゼデを聖書は神的人物と見た(3、詩一一〇4)。彼は永遠のお方である。Bメルキゼデクはエルサレムの王である(1)。エルサレムは平和を意味する永遠の天の都の原型。イスラエルが求めるのは平和である。イエス・キリストがメルキゼデクのようだと言うとき、その意味は主は祝福を与える方、永遠に変わらない救い主、平安・安息を与える方であるということである。祭司は人の側に立って神に近づく道を備える者。天から来られたイエスは父の恵みを私達に届けて下さっている。
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へブル七章16〜28節(25)
《そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。》
七章前半でメルキゼデクを語ったのはキリストが永遠の祭司であると述べるためであった。「あなたこそ永遠にメルキゼデクに等しい祭司である」(17)。主イエスは永遠の祭司であるから「何時も生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を何時も救うことが出来るのである」。これまで語られた祭司キリストのみ業が25節に集約されている。@彼は「“いつも”救うことが出来る」。いつもを完全にと訳す新改訳がよい。救いは十字架によって完成しているので完全だと見るのであって、自分の不完全さで決めるべきではない。赤ちゃんは完全であるが未熟であるように、クリスチャンには完全な救いが与えられているが未熟である。A彼は「彼によって“神に来る”人を救うことが出来る」。神に近づくことが恵みを受ける秘訣である。「はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」といつも招かれている(四16)。何時でも何処でも「神よ」と祈り神に近づくのである。B「何時も生きていて、“とりなして”おられる」。昇天のキリストは神の右におられてとりなしていて下さる(ロマ八34)。キリストは罪の赦しと信仰の確立のために執り成していて下さる。
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へブル八章1〜6節(1)
《以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、》
七章でイエスは永遠の祭司であると述べた。その姿はどのようなものか。@1節に「大能者の御座の右に座す」とある。右の座とは訴えられた人を弁護する人の場である。また座するとは物事が完成したことを表している。キリストは既に十字架で完成した贖いの恵みを持って人々のためにとりなし弁護しておられるのである。どのような罪であろうとも、イエスの側に立つ者を彼は弁護する。執り成しについて、キリストは天で御座の前で執り成し、他方聖霊は私達と共にいて執り成して下さる(ロマ八26)。A大祭司キリストは、天の幕屋で祭司の務めをする(2)。イスラエルの祭司たちは荒野で幕屋を造りそこで礼拝していた。しかしそれは模型であって仮の礼拝場所であった。本体は天の幕屋である。キリストは真の礼拝場所で私達のために父のみ前で執り成していて下さる。B礼拝のために幕屋では羊などの犠牲をささげた。「なにかささぐべきもの」(3)とあるのは礼拝時に祭司がささげる羊などのことである。イエスは動物ではなくご自身をささげて罪の赦しの犠牲としたのである。B永遠の祭司であるとは、イエスが何時までもその務めをなさるという意味と、天の幕屋で父なる神の御前で奉仕なさる意味がある。
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