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聖書日課
2000年 5月 |
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1 ヘブル8章7〜13 |
2 ヘブル9章1〜10 |
3 ヘブル9章11〜15 |
4 ヘブル9章16〜22 |
5 ヘブル9章23〜28 |
6 ヘブル10章1〜10 |
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7 ヘブル10章11〜18 |
8 ヘブル10章19〜25 |
9 ヘブル10章26〜39 |
10 ヘブル11章1〜3 |
11 ヘブル11章4〜7 |
12 ヘブル11章8〜16 |
13 ヘブル11章17〜22 |
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14 ヘブル11章23〜29 |
15 ヘブル11章30〜40 |
16 ヘブル12章1〜3 |
17 ヘブル12章4〜11 |
18 ヘブル12章12〜17 |
19 ヘブル12章18〜29 |
20 ヘブル13章1〜6 |
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21 ヘブル13章7〜17 |
22 ヘブル13章18〜25 |
23 ヤコブ1章1〜4 |
24 ヤコブ1章5〜11 |
25 ヤコブ1章12〜18 |
26 ヤコブ1章19〜27 |
27 ヤコブ2章1〜7 |
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28 ヤコブ2章8〜13 |
29 ヤコブ2章14〜19 |
30 ヤコブ2章20〜26 |
31 ヤコブ3章1〜8 |
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へブル八章7〜13節(10後半)
《すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。》
ユダヤ人信徒には古い十戒や礼拝の歴史がありそれに未練があった。しかし、著者は新しい時代が来たと繰り返して告げ、祭司はレビ族からメルキゼデクへ、指導者はモーセからイエスに代わったと語った。今日の個所では、古い契約が新しい契約に変わったと言う。その変更の理由を三つあげる。
(ア)古い契約(礼拝に関する規定)は不完全であったからである(7)。モーセによって作られた祭司制度、羊牛の犠牲による礼拝などは当時はよかったが、キリストの十字架による救いが完成したので、それらは不要になった。(イ)古い契約(十戒)は、それを守る力を与えなかったからである(9)。
(ウ)旧・新が取って代わる時代が来たからである。交代の時代がくることは、既に預言者エレミヤが告げていた(8〜12、エレミヤ三一31〜34)。まさにその時期がイエスによって来たのである。
それでは新しい契約はどのようなものか。
@神のおきては心に刻まれる。神は救いを「心に書きつける」。私たちの信仰は心から主イエスを信じるところから生まれる。それが心に刻まれた信仰である。
A「小なる者から大なる者まで」(新改訳がよい、11)。神は身分の低い者から始まり高い者にまで交わりを広げてくださる。
B完全な赦しの恵みを与える(12)。
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へブル九章1〜10節(3)
《また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。》
神を礼拝するための新しい時代が始まった。幕屋には様々な場所や器具があった。動物の犠牲をささげる祭壇、香をたく香壇、祭司が身を清める洗盤、供えのパンを置く机、十戒などを納めている契約の箱などの器具である(2、3)。また場所について言えば前には大庭があり、その奥には聖所、一番奥には至聖所がある。至聖所には大祭司が年一度罪の赦しを特別に祈るために入ることが出来た(7)。へブル九章のポイントは「第二の幕」と言われる神と人とを隔てる幕が、キリストの救いが完成するまで存在するということである(3、8)。至聖所は神の臨在される場所の象徴。隔ての幕があると神に近づくことが出来ない。しかし、その幕は主イエスが十字架で死なれたとき上から下まで裂けた(マルコ十五38)。イエス・キリストによって神と人を隔てるどのような障害物も取り除かれたのである。主イエスが「私は道である」と言われたように、天に通じる道が開かれた。だからこそ、「はばかることなく恵みの座に近づこうではないか」(四16)。神との交わりを至聖所の生活と言われるように、時折は天の霊的な空気を吸い、高く引き上げられたいものである。
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へブル九章11〜15節(14)
《永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。》
昔イスラエルでは神に近づくためにいけにえをささげた。しかしイエスの犠牲は神への道を完成させた。なぜ彼の死が贖いの完成なのか。
@主イエスは「ご自身を傷なきものとしてささげられた」からである。Iペテロ一19にキリストは「傷もしみもない小羊」のような方として献げられたとある。傷は外からの影響による罪、しみは内側からの罪であるが、イエスにはそれがなかった。罪なき方こそ罪人を救うことが出来る。
A主に罪がないのは彼が神の子だからではあるが、荒野でのサタンの誘惑は人間イエスが罪を犯す可能性を持っていたことを示している。そのお方が罪なき方として献げられたのは「永遠の聖霊」が彼の生涯をお守りし十字架に至らせたからである。主はこの聖霊に導かれその生涯を歩まれた。実に救いはキリストの神への全き服従、神に献げた生涯の故に私達に与えられるのである。
Bこのような完全ないけにえであるから、「良心を清めて死んだわざを取り除く」のである。死んだわざとは形式的にいけにえを献げる儀式または滅びに導く罪の行為のこと。良心は自分の間違った行為を赦さない、しかしキリストの赦しだけが全き赦しを宣言し内心の平安と自由を与える。だから神に仕えることが出来るのである。
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へブル九章16〜22節(22後半)
《血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。》
契約と遺言はデアセーケーの訳語である。ここで契約を遺言と訳し代えたのは、遺言には死が関わるからである。遺言がその効力を発揮するには遺言者が死ななければならない。羊のいけにえが身代わりに死ぬからこそ、罪の赦しが与えられる。キリストがどれほど罪の赦しを与えると言っても、赦しの代償としての身代わりの死がなければ実効性はない。キリストの救いの約束を遺言と言ったのは、彼の死が約束を効力のあるものにさせるからである。
さて死に関連して血という言葉が見られる。近代人の知識はなくても、古代の人々も血は命を支える源であると知っていた。聖書は血は命であると言っている(レビ十七11)。モーセが十戒を与えたとき牛の血を注ぎかけ契約の印としたが、それは命をかけ全存在をかけた神と人との約束(契約)であることを意味していた(出エジ二四8)。そのようにイエスの贖い・罪の赦しは血によるのであると教えるのである。人の死は必ずしも血を流すわけではないが、死にしても血にしてもその人の全存在をかけた行為であることを示している。遺言の発効のために、贖いの実効のためにイエスはご自分のすべてを投げださえれたのである。
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へブル九章23〜28節(24後半)
《今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。》
此処にはキリストの「現れ」(新改訳)が三度出てくる(24、26、28)。@第一のは罪を取り除くためにこの世に現れて下さったこと(26)。現れと言う表現は彼が受肉以前の存在であったことを示唆している。旧約聖書を見るとしばしば神がアブラハムとかモーセとかに現われ語られた。それがどれ程の時間であったか分からないが、彼らは神にひれ伏した。しかしキリストは三三年間絶え間なくご自身を現されたのである。その目的は一つ、贖いのためである。
B第二のは父の前での現れである。キリストの贖いの業は地上で行われ父の元に帰られた。それは彼の十字架の業が天の父の御心にかない父に受け入れられたからである。霊的な意味であるが、彼は血を携えて罪人のために執り成していて下さる。聖書にはキリストと聖霊の二者の執り成しがある。聖霊はキリスト者と共にいて、重荷を共に担いながら執り成し(ロマ八26)、キリストは天にいて父の側で私達のために執り成しておられる(ロマ八34)。主と聖霊の故に問題児の私達は生きていられる。
B第三のは、「彼を待ち望む人々」への現れである(28)。これは主の再臨のこと。これは主を信じている者の救いを完成するための来臨である。この時私達は栄光に化せられるのである。
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へブル十章1〜10節(10)
《この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。》
キリストの犠牲の尊さについて、九14では御霊によって傷なきものとして献げられたからだと述べた。この所ではキリストの犠牲は主ご自身が自発的な父への服従の故に尊いと述べている。5〜7節は詩篇四十篇からの引用であり、その要旨は真のいけにえは父なる神への心からの従順による献げものであると言う点である。だから「見よ、わたしはみ旨を行うためにまいりました」と要約している(9)。この考えはサムエルの時代からあった。「主はみ言葉に従うことを喜ばれるように、はん祭や犠牲を喜ばれるだろうか。見よ従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」(第一サム十五22)。旧約の犠牲の羊は「きたるべき良いことの影」である(1)。旧約のいけにえの羊は影でその実体は主イエスの十字架である。羊は屠られるとき抵抗もせず「毛を切る者の前に黙って」死んでいった(イザヤ五三)。しかし羊は自由意志によって死んだのではない。これに対してイエス・キリストは自由意志による父への従順によりご自身を献げたのである。キリストの従順がなければ私達には救いは及ばなかった。このことを思うと、「ひとりの従順によって多くの人が義とされる」恵みを有り難いと思う(ローマ五19)。
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へブル十章11〜18節(14)
《彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。》
旧約の祭司たちの働きとキリストの業が対照されている。祭司は「日毎に」「たびたび同じようないけにえを献げる」が、決定的な罪の贖いの業をすることは出来ない(11)。これに対してキリストは一回限りで永遠的な救いの業を完成された(12)。それはキリストが神からの者であり、彼の尊い血が流されたからである。キリストの業の一回性と永遠性はこれまでにも何度も語っているが、これは救いの理解に大切な点である。救いには過去、現在、未来の側面がある。過去についてみると、私達が何年前かにキリストを受け入れた時点で救われたと言える。現在についてみると、救われたから今も救われつつあると言うことが出来る。未来についてみると、私達の救いの完成は天国であると言えるのである。天国で救いが完成するというと、今持っている救いは不十分なのかというとそうではない。過去の時点で主を信じた時、救いは完成したのである。子供が誕生するとその子は完全である。しかし未完成であるから肉体的、知的、倫理的、霊的に成長し成熟しなければならない。救われたのは確かであるから、私達は神の助けによって救いを全うするのである。道に迷い躓いても、与えられた救いを心に持って神に従うことが大切なのである。
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へブル十章19〜25節(22)
《心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。》
昨日の箇所で教えの部分が終わり此処から実際的な部分が始まる。これまでの教えの内容はキリストによる贖いの完成である。それを受けて「・・・しようではないか」と勧めを三度繰り返す(22、23、25英訳聖書)。私達は何かを学ぶと分かったような気がするが、実際には身に着いていないことが多い。例えば人を愛する大切さを学んでも、それを実行することは難しいので時間をかけて身につける努力をする。
@第一の勧めは「近づこうではないか」である。神に近づくとは、礼拝を守ることとか祈ることである。しかしこれを継続することは難しい。それは時間が取れないだけではなく、心がいつも平安とは限らないからである。それを救い主キリストを信じて乗り切れるようになったら成長してきたと言えよう。
A第二は「告白する望みを」持ち続けることである。しかし失望する出来事はしばしば起きる。頭では信仰が分かっていても、事情が変わると揺れ動き望みが持てなくなる。雲の上に太陽はあっても暗雲に閉じこめられると魂まで暗くなる。上なる主を見上げようではないか。
B第三は「集会を励む」ことである。実際に信仰が身に着くのは礼拝とか兄弟姉妹の良い交わりである。励まし合うような交わりを育てたいものである。
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へブル十章26〜39節(39)
《しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。》
31節までは背教の警告を述べ二つに表現している。「ことさらに罪を犯し続ける」とか「恵みの御霊をあなどる」である。これは人は弱いから罪を犯すものだと言うレベルのことではない。「ことさら」の罪とは自分の意志を持って繰り返す罪である。聖霊は全ての人の良心や意志に働きかけ良い道へと導こうとしておられる。それは何か魂で感じるものであるが、それを振り払って捨てると自分自身で滅びへと進ませる。その結果としての「重い刑罰」は神が課すものであろうが実は自分自身が招いているのである。「光のある間に光の子となるために光を信じる」ことが大切である(ヨハネ十二36)。このような警告があるからと言って信徒がそのように生活しているわけではない。むしろ著者は「苦しい戦いに耐え」た過去をよく知っている。それが何時のことか特定は難しいが、イタリーからの人々の挨拶があるので(十三24)、紀元五十年のクラウデオ帝によるローマでの事件ではないかと思われる。彼がユダヤ人を迫害した時ユダヤ人キリスト者も苦難に巻き込まれた(使徒十八2参照)。私達も何時晴れるとも分からない悩みを背負うとつらくなる。しかし命の希望を与える神を信じるので忍耐を持つことが出来るように思う。
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へブル十一章1〜3節(1)
《さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。》
本章は信仰とは何かを教える。これまでにも信仰とは何かを語ってきた。信仰とは神さまに「ハイ」と応答することである(四2)。また神への信頼であるとも教える(六1)。さらに信仰は神の約束のみ言葉を受け入れることであり(六12)、それによって命を受ける道である(十39)。再びここで信仰について「望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認すること」と言う(1)。この聖句は信仰を二つの面から取り上げている。
@「望んでいる事柄を確信する」とは、神はご自身の時にしたがってみ業をして下さるという信仰である。私達は今良い結果を目にはしていないが、神は必ず何事かをしてくださると信じる。だから祈りの中で既に答えは与えられたと信じ感謝して待つことが出来るのである。その確信はみ言葉による。このように信仰は時間のわくを越える。
A信仰は「見ていない事実を確認すること」である。「まだ」の語は原文にはない。これは信仰は空間を越えて神を見させるという意味である。人は目に見えるものしか頼りにしない。しかし信仰を持つと物の世界をはるかに越えて神を心で見るように導く。このように信仰は時間と空間を越えて人を神に導くのである。だから現状だけで動かされないのである。
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へブル十一章4〜7節(6前半)
《信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。》
三人の証し人があげられている。
@アベル(創世記四章)。彼はカインよりまさったものを献げた。カインは農作物を献げたが、アベルは動物を献げたのでアベルの方が良いという解釈もあるが、むしろアベルの献げる精神が神に受け入れられたと見る方がよい。新改訳は創四4を「羊の初子の中からそれも最良のものを、それも自分自身で持ってきた」と訳す。
Aエノク(創世記五章)。エノク以外の人は何年生きて死んだとあるが、彼の場合は「神が彼を取られたのでいなくなった」と記されている(創五24)。彼には死の語がないので「死を見ないように天に移された」と言う。彼の終わりがどのようだったのか私達は知らない。しかし天に移されたことは明らかである。それはエノクが神に喜ばれる人生を生きたからである。喜ばれるとは彼が信仰を持っていたこと。彼の生活全体が神に結びついていたことがすばらしい。Bノア(創世記七章以下)。ノアは終末に生きる者のタイプ(予表)である。洪水という裁きの到来を人々に告げるように神から命じられノアはそれを語った。また滅びから救われるために箱船を造るよう命じられそれを造った。今の時代に私達はノアのように生きるだろうか。上記三人は信仰を持って生きた人々である。
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へブル十一章8〜16節(12)
《信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。》
アブラハムの信仰が見本として示されている。
@アブラハムは従順な信仰を持っていた。彼は神の導きを信じウルの地から「行き先を知らないで」出ていった。彼は地理的に知らない所へ行ったのであるが、私達の場合は時間的に知らない方向に進んでいくのである。未知の世界に進む時果たして私達は神のみを頼りに生きるだろうか。人を頼り金を頼りに生きるように思う。神に信頼することは無計画でよいと言うことではない。しかし自分の計画がどれ程の頼りになるのだろうか、私達はそれをよく知っている。
Aアブラハムはこの世の生活を仮のものと見なし、天を自分の最終の到着点と見ていた(9)。だから彼は今の生活を「他国にいるように」生き、その子孫も同様にこの世の旅路を歩んでいた(13)。
Bアブラハムは無力の中から祝福の子孫を与えられた(12)。アブラハムは最初から強い信仰の人ではなかった。神が彼を祝福し約束の地を与えると言われたが、神が与える相続人イサクの誕生を待ちきれずハガルによって子をもうけた。その彼が徐々に神によって信仰を強められたのである。自我の力が生きていると神は力を表されない。アブラハムが無力で「死んだような人」であると認めた時、命を与える者と変えられたのである。
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へブル十一章17〜22節(17前半)
《信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。》
アブラハムは「試練を受けた」。創世記二二1には「神はアブラハムを試みた」とある。試練は苦難の印象があるが、試みはテストである。神は彼が心から神に信頼しているかテストされた。アブラハムは老年になってようやく相続者が与えられた。イサクがいるだけで家庭は喜びで満ちていた。ところがこの家庭の一人子を献げよと神は言われたのである。祝福を与えた神がそれを取り上げるとは、理不尽で訳の分からないことをする神に見える。それなのにこの神にアブラハムが抵抗する様子が見られないのは不思議である。これまで信仰に浮沈のあった彼にそれがないのは、成熟したアブラハムを見るように思う。やがて父が子供イサクをいけにえとして屠ろうとした時、神はその手をとどめ、アブラハムの真実な神への信頼を嬉しく受け止めたのである。そしてイサクを父に返し彼と彼の子孫を祝福したのである。自分にとって最も大切なものを献げる時、私達は犠牲を払ったと思う。しかし信頼し愛する者へ最上のものを与えるのは犠牲ではなく喜びではないだろうか。神はアブラハムからイサクを取り上げようとは始めから思っていなかった。恵みの神に喜んで自らを献げる成熟した信仰を持ちたいと願う。
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へブル十一章23〜29節(27後半)
《彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。》
ここはモーセの物語である。
@両親の信仰。子を殺してよい法律はどの国もないのに王は子を殺すよう命じた。モーセの両親は王は間違っていると思い、子を守ることを信仰によって恐れなかった。神への信仰は恐れを打ち破る(23)。
A信仰は人生の選択に影響を与える。モーセはエジプトの栄光を受ける身分にあったが、自分がイスラエルの者であると分かったとき、同胞と苦楽を共にする道を選んだ(25)。私達が社会的な成功を収めることは嬉しいことである。しかし人生の重要な選択をしなければならないと思うことがあるだろう。その時キリストへの信仰を自分の価値観の土台に置いて進路の選択をして欲しい。
B信仰は上を見上げさせる(27)。奴隷の同胞を解放するとはいえ、文化の地エジプトを脱出し砂漠に進むことは苦しみの中に飛び込むようなものである。誰を目当てにそのような無謀なことをするのか。それは神がその民を先祖の地に導くと言われたからである。だからモーセは「見えない方を見ているようにして忍び通す」ことが出来たのである。信仰がなければ困難に出会えば、すぐに文句や不平を言う。モーセは神を見上げた。C信仰は道のない所に道を見いだす(29)。紅海に道を開いた神は私達にも道を開かれる。
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へブル十一章30〜40節(35後半)
《ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。》
本章は信仰の証し人の列伝である。34節までの人々は、信仰の曲折はあってもやがて立派な証しを話せるような者になった。いわば勝利者である。それを本書の著者は「信仰によって国々を征服し義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ・・・」とまとめている(33)。彼らは不屈の信仰を持っていたのである。ところが35節以下の「ほかの者は」からは全く逆の結果を見る人々のことを書いている。彼らは拷問を受け、むち打たれ、投獄され、斬り殺され、無一物になった。剣の刃を逃れた者は信仰があったからなのに、斬り殺された者は信仰がなかったからなのか? 本書の著者は両者とも信仰によって証しする人々だと言う(39)。私達が信仰を証しするとき、いわば格好良く耳障りよく響く証が立派だと思いがちである。もちろんそれはそれでよいが、実際にはよい結果とか誇れるような証のない場合も多いのではないだろうか。信仰を持っていたのにむち打ちや、切り殺されたり、無一物になっていては誇れないと思うのではないだろうか。私は戦いに勝利した信仰者より敗北と見える信仰者の方が強い信仰があるのではないかと思う。信仰が強くなければ苦難には耐えられないからである。私達は弱さを持つ証し人である。
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へブル十二章1〜3節(2)
《信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。》
十一章を信仰の章と呼ぶなら、十二章は希望の章と言えよう。ここに人生を競技(レース)に例えている。著者は勝利の人生について、信仰者の立場からいくつかのポイントを挙げる。@ゴールを目指すこと。「イエスを仰ぎ見つつ」走ることを終末におけるイエスとの面接と解釈する。人生が終わったとき全てが終わり私の存在は無くなると思いがちであるが、キリスト者はそうではない。死は人生の集大成であり完成である。しかも主イエスはその私をみ国において受け入れて下さる。ゴールは主にお会いするときである。A余計なもの即ち「重荷とからみつく罪」を捨てる。重荷の一つに思い煩いがある。人生にはどうしても切り離せない問題があり、面倒だからと言ってそれを捨てるわけには行かないことがある。しかし真に私達を煩わせるのは問題そのものより心の思い煩いである。祈りの中で主にゆだねることを経験する経験を持つとよい。
B信仰の先輩や同輩を思うことである。十一章のような信仰の人々は私達の身近にもいる。信仰の友とはそのような人との交わりである。
C主イエスを仰ぎ続けること。信仰者の現在の態度である。彼は十字架を負い続けた。その力は普段に父を仰いだことである。完成者イエスを仰いでいたい。
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へブル十二章4〜11節(11)
《すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。》
此処には「訓練」の語が8回もある。新改訳ではこれを「こらしめ」と訳している。こらしめには罰則の意味があるが、訓練には成長を助ける意味が強い。新共同訳は鍛錬としている。神は愛する者を懲らしめるような方ではないから、口語訳のように訓練がよい。
@さて訓練の目的は、「きよさにあずからせるため」である(10)。人はわがままで、お金と時間が自由になると緊張がなくなり、だらけた者になりさがって来がちである。聖書は苦難が人を危険から救う役割があると示唆している。もちろん人が清められるのはキリストの贖いによるのであって、苦難が人を清めるのではない。しかし痛みを感じる事柄に出会うことで自分を救っている場合もあるのではないだろうか。だからペテロも「肉において苦しんだ人は、それによって罪から逃れたのである」と言っている(第一ペテロ四1)。このような意味で神は人を訓練し清い者になさるのである。Aまた訓練は「平安な義の実を」与える。平安は静けさである。確かに人生の鍛錬を経た人は、物事に簡単には振り回されない。小さいことに騒ぎ立てる人は神への信頼の訓練が必要なのではなかろうか。
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へブル十二章12〜17節(14)
《すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。》
「神の御心はあなたがたが清くなることである」(第一テサロ四3)。聖化の信仰がクリスチャンに重要である。その理由がここに記されている。
@清められないと神さまを見ることが出来なくなる(14)。私達は十字架により罪赦されて神に近づき祈るようになる。しかし自分で罪と知っていながら罪を犯していると神から離れ祈らなくなる。その事を「主を見ることができない」と言うのである。罪の自覚があるならすぐに悔い改めなければならない。
A清められないと、苦い根が生え出て自分を悩まし他人を悩ます(15)。苦い根とは人を憎み妬み、苦々しく思うことである。このような思いを持ちながら神を信じる生活はできない。その結果神から離れ、人の交わりからも離れてしまう。苦い根を内心の罪、自我性、古き人、肉の性質などと言う。これは誰にでもあるから、普段は隠れていてもイザコザの問題が起こると恐ろしいほどの顔を出してくる。それには自分も他人も悩む。十字架によって己に死ぬ以外には解放の道はない。しかしキリストは聖化の道を開いていて下さる。
B清められないと天国さえも捨ててしまう(16)。エサウが長子の権利を捨てたのは天国を捨てたようなものである。聖化の恵みに進まなければ祝福を失ってしまう。
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へブル十二章18〜29節(28前半)
《このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。 》
モーセのシナイ山とシオンの山との対照がされている。モーセはシナイ山で十戒を頂いたが、その時の光景を暗闇や嵐の中で神に近づいたと述べて、恐ろしいばかりの山であったと記している。このように描くことによって、十戒により、宗教的、倫理的に欠けなき者として神に近づくことはとうてい人には出来ることではないと言うのである。神は聖なる方、また罪を厳しく罰する神である。だから十戒に照らして立派だと思っても、罪深い人は誰一人神に近づくことは出来ない。 それに対して、キリスト者が持っている信仰は仲保者キリストによって神に近づくことが出来るという信仰である。十字架による罪の赦しは、私達に神に近づく自由を与え喜びを与える。22節以降には、あらゆる言葉を尽くして罪赦された者に対する恵みの大きさを述べている。天のエルサレムには無数の天の使いが喜びの声をあげているだろう。裁き主なる神の前に立っても、誰も罪に定められない。なぜなら「全うされた義人の霊」だからである。それはイエスの血による。どれ程神が清い御手をもって震っても、私達には震われぬ国が与えられている。恐れがないからである。どうか確信を持って恵みの堅い土台の上に立っていよう。
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へブル十三章1〜6節(5)後半
《主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。》
十一章を信仰、十二章を希望、十三章を愛と呼ぶ人がいる。これらはクリスチャン生活の三要素である。兄弟愛は知っている者同士にだけではなく「旅人」という見知らぬ人に対しても向けられなくてはならない。さらに信仰の故に牢獄につながれている信徒のことも思いやるべきである。ペテロもパウロも、良い行いをしながらでも非難されるクリスチャンがいたことを記している。現代は人の交わりが薄く、相談をする人がいなくて悩み困っている人がいると聞く。そのような人々は特に都市に多い。ぶしつけに個人の家庭に割り込むことはいけないが、相談相手を求めている人々はいる。このような人々に愛を実践したい。 次の教訓は性の正しさを保つことである(4)。聖書の他の箇所にもこれは教えられている。この時代は性道徳は低かった。現代も同じである。
さらに次には、金銭について、「持っているもので満足する」よう教えている。予期しないお金が入ると人は堕落するかも知れない。このように愛の実践、清い生活、お金にどん欲にならないことなどは、「私は決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と神が共におられるからである。信仰生活のカギは共におられる神を認めることである。
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へブル十三章7〜17節(13)
《したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。 》
へブルの信徒たちに、身近な先輩である「指導者たちのことを何時も思い起こしなさい」と勧める。彼らの信仰にならうようにと言うとき、「神の言葉」を語った指導者たちという点を強調している。人にはいろいろ長所、短所がある。しかし、その人が神の言葉に従って生きようとしていることは大切である。その点を見習うようにと勧めるのである。パウロは「私にならう者になれ」と何度か勧めているが(第一コリ十一1)、それも彼が道徳的にすぐれた人であるからと言う以上に、キリストに従う者として生きているパウロを意味している。 指導者に習えと言うが、この指導者たちも結局は彼らが従い指さしているのはキリストである。このお方は「昨日も今日も、とこしえまでも変わらない」導き手である。このキリストはどのような道を行かれたのであろうか。それは十字架の道である。その事を「営所の外」へ行かれたキリストと述べている。営所とは犠牲の動物の汚物を捨てた場所である。十字架が立てられたゴルゴタである。主が苦難を受けながら営所へ行かれたからこそ救いの道が開かれた。私達が十字架を担う主の足跡を踏むとき、他の人への救いの道が開かれる。そのようにして福音は全世界に広がってきたである。
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へブル十三章18〜25節(20)
《永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神 》
手紙の終わりに当たって、著者は最後の挨拶の中で祝福の祈りを献げる。パウロやペテロの手紙の終わりを見ると、ほとんどが「恵みがあなた方と共にあるように」などの短い祝福の祈りである。しかしへブル書の場合かなり念入りな言葉が述べられており、最も美しい祝祷である。
@永遠の契約の神の呼びかけで始まる。本書はまさにこのことを取り上げていた。キリストによって新しい契約が古い契約に取って代わり(八章)、神の言葉は心に刻まれたものである。それ故心から神に従うものとなる。
A羊の大牧者なるキリストは羊のために命をささげて下さった方である。
B私たちの神はイエスをよみがえらせた神である。本書にはいけにえとしてのキリストのことが多く書かれていたが、イエスは死で終わった方ではなくよみがえられた方である。
C神は平和の神である。平和はへブル社会では広い意味で救いである。即ち魂の救いだけでなく、私たちが生活するに必要とする全てのもの。神はそれをよく知り満たして下さる神である。
契約の神、牧者なる神、復活と希望の神、そして平和の神を仰いでいたい。
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ヤコブ一章1〜4節(3)
《あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。 》
著者ヤコブは主の兄弟の一人である。彼はイエスが兄弟であるだけにメシヤとは信じられなかった(マルコ三21、ヨハネ七5)。しかし復活のイエスに会ったとき、不信を捨てて彼を救い主と受け入れ(第一コリ十五7)、ペンテコステのための祈りには参加する者となった(使徒一14)。だからイエスを主と呼び自分を僕と呼ぶ。
さて手紙の最初から「試練」を取り上げる。ヤコブは「私の兄弟たちよ」とキリスト者に呼びかけ、試練が誰にも来ると語りかける。主イエスも「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい、わたしはすでに世に勝っている」と言われた(ヨハネ十六3)。神は試練をお与えになることがある。しかしパウロも言うように神は「試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えて下さる」のである。その目的は人を「欠点のない完全なでき上がった」者にすることである。完全な人とは成長し成熟した人を意味する。誰でも欠点のない人はいない。
しかし神さまに従っていると聖霊の助けによって愛が正しく成長し、寛容な心、平和な関係と平安な心、相手への善意などが身に着いてくる。だからヤコブは「忍耐」を持つようにと勧めるのである。
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ヤコブ一章5〜11節(6)
《ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。 》
試練にあったとき誰でも将来への不安を感じ、自分の立場がどのようになるのかと心配になる。試練がどのような意味があるのか分からないときなお不安である。主イエスは「私がしていることは今は分からないが、後になって分かるようになる」とも言われた(ヨハネ十三7)。「知恵を求めなさい」の言葉は試練のときの勧めであることを覚えたい。知恵とはこれまで受けた知識を実践する力のことである。例えば、行き詰まったときには我慢し様子を見るのがよいとか、腹が立ったときには直ぐに喧嘩しないで一晩置くとよいなどということを知っている。ところがこれらを知っていても忘れていることが多い。知恵のある人とは知識を実践できる人のことである。
しかしそうできる人は少ない。なぜか?それは信仰からくる知恵を求めないからである。問題が起きたとき、しばらく静まって神に祈るとき神は知恵を与えて下さる。弱い私たちは神からの知恵を待ちきれないから、余計に不安を巻き起こし、こじらしてしまう。自分の知恵と神の知恵との間に揺れ動く人を「二心の人」と言っている。神よ、問題の時、特に試練の時、上からの知恵を与えて下さい。
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ヤコブ一章12〜18節(17前半)
《あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。 》
再び試練について。試練に似た言葉で「こころみ」があるが、善意を持った試みは試練で、悪意の試みが誘惑だと言った人がいる。誘惑は基本的にはサタンから来るものである。ところが私たちの内には欲がある。欲は必ずしも全て悪いわけではない、例えば食欲は人の命になくてはならないもの、また性欲は子孫のために神が与えたものである。ところが人には内心に罪があるから、これらのよいものが犯罪にさえも繋がるようになることがある。サタンはその点を巧妙に突いてきて罪に陥れ人生を破壊する。「人が誘惑に陥るのは、それぞれ欲に引かれ誘われるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」のである(14)。
ところで試練は神の手にあってコントロ−ルされそれぞれの人に及んでくるものだと、私は考えている。だから「試練を耐え忍ぶ人は幸いである。それを忍び通したなら、神を愛する者たちに約束された命の冠を受けるであろう」と言う。神からのものは、災いに見える試練もキット私たちの祝福となるよう変えられると信じる。だから、あらゆるよい贈り物は光の父から与えられると、ヤコブは告げるのである。しかし誘惑と試練は人を混乱させることがあるから上からの知恵を求めたいのである。
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ヤコブ一章19〜27節(21後半)
《御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。 》
「聞く」ことの大切さが教えられている。ここで聞くことについて二つの面から教えられる。
@第一は神の語りかけに聞くことである。幼児が親の語りかけで人間として育つように、神の子たちは神の言葉で成長する。み言葉は心の畑に「植えられた」(21)種のようである。種が畑で育まれるようにみ言葉を心の中でしばらく思いめぐらすことが大切である。ところがみ言葉を読んでもすぐ外に置いてしまうと魂の栄養にはならない。ましてや芽を出し実を結ぶには至らない。またみ言葉は鏡に例えられている(23)。み言葉は自分の今の姿を映し出すものである。問題に翻弄されている自分、欲や嫉妬で乱れている自分、平安を与えられている自分、神に支えられている自分など様々な姿を見るのである。ある時は感謝しある時は惨めな自分を発見するだろう。自分の姿を見ると神に近づく者となることができる。
A第二は人の話を聞くことの大切さである。「人は全て聞くに早く語るに遅く」(19)は多くの示唆を与える。人の話を聞かない人が多いように思う。話を途中でさえぎって早く結論を出したがるのは、人を知らない者のすることである。その意味で「舌を制する」ことは大切である(26)。
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ヤコブ二章1〜7節(1)
《わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。 》
今、差別の問題は何処でも問われている。貧富による差別、人種や男女の差別などである。だから「分け隔てをしてはならない」と言われなくてもよく分かっている。ところが差別しない基準を何処に置いているかを見るとそれは様々であろう。ヤコブはどのようにこの問題について考えているか見てみよう。
@神への信仰に基準を置く(1〜4)。人の平等は人間的に考えてもよいが、神を基準に置かないと差別の問題の真の解消は得られないと思う。実際には人は地位や経済的な力に振り回されている。知識を持ち社会的な地位を持つものはそれなりの役割を持っており尊重されるべきであろう。しかし社会で役割を持つことと神の前の個人の尊さとは別である。モーセの頃から礼拝の時には主人も奴隷も、ユダヤ人も異邦人も区別はなかった。神を敬うことを人間尊重の基本に置くべきである。
A次に、分け隔てをしないのは神がそれぞれを選んだからである。神の愛に選びの愛がある。選びは無条件の神の愛である。神に選ばれ救われた者の中には富む者も貧しい者もいる。そうであるなら神の愛の対象者をさげすんだり差別してはならない。やはり神を敬うことが基準の置かれるべきである。役割の区別はあっても差別があってはならない。
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ヤコブ二章8〜13節(13)
《あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。》
本書は初代教会に向けて書かれたと言われている。その頃身なりで差別する未熟な信徒がいたので(4)、主が教えた「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」をもう一度思い起こさせる必要があった。キリスト者はモーセの律法によってではなく、主イエスが「憐れみ深い人は幸いである、彼らは憐れみを受ける」と言われたように、神の愛により憐れみによって生かされている者である。憐れみを愛する神は憐れみを行う人を喜ばれる。しかし身なりや貧富で差別するなら、その人は憐れみを行わない人になる。もし私たちが一つでも罪を犯し裁かれるなら、誰も天国には行けないだろう。しかし神の憐れみがあるので罪赦され救われる。このような生き方は恵みによる生活であって、「自由の律法」(福音)による生活だと言う。ヤコブはそのように生き方を身につけてほしいと勧める。最後の裁きの日、キリストの赦しを受けているものは御国へ入れていただける。主の憐れみがあるからである。だから「憐れみは、裁きに打ち勝つ」と言ったのである(13)。私たちは誰かを憐れむ立場ではなく、主に憐れまれて生きるものである。その立場から自分の思いや行動を見るべきではないだろうか。
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ヤコブ二章14〜19節(17)
《信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。》
ヤコブは真の信仰に対して「死んだ信仰」があると言う。それは主の救いを信じていると言いながらそれが実際生活に生きてこない人のことである。その人はキリスト教の教えは頭で分かっていても、心がそれについて行かないのである。行いと信仰について、パウロは行いがなくても救われると教えた。それは救われるためにはどのような善行も必要ではなく、ただ信じることだけでよいという意味である。しかしそのパウロも救われた人は「よい行いをするように、造られたのである」と教える(エペソ二10)。同じことをヤコブも述べているのであって、信じた者の生活には変化が起こるのが普通であると言うのである。もしキリストを信じると言いながら少しも生活態度に変化がないとすれば、それはキリスト教の教えを頭で理解しただけであろう。というのはサタンも神がおられることは分かっているが、信仰を持っているわけではないので裁きの日を恐れている。ヤコブは口先だけの信仰を、本当の信仰だろうかと疑問を投げかけるのである。真心からキリストを受け入れるなら、たとい不充分であっても愛の思いを持つのが信徒と言うものである。
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ヤコブ二章20〜26節(20後半)
《行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。》
パウロは行いによらず信じるだけで義と認められると教えた。それは救われるためには信仰だけが必要だと言う意味である。ところがヤコブは信じた人は救われているが、その人には神を信頼した者としての行動が伴うと述べるのである。台の上から飛び降りようとする子供は、下にいる父親に受け止めてもらえる、と信じるから父親の胸に向かってジャンプする。同様に信仰は行動を伴う。
それがアブラハムの場合に起こった。彼は八五歳の頃神を信じ義とされた。その後九九歳の頃、真に神にゆだねる信仰を持つようになり後継ぎのイサクが与えられた。それから二十年近くが過ぎた時、神はイサクをいけにえとして捧げよと語られた。もしアブラハムが神に信頼していなかったら、イサクを捧げなかったのではなかろうか。ところが彼は神の求めに従った。神を信じていたから彼には行動が伴ったのである。25節にはラハブのことがある。彼女は神を知らない異邦人である。そのような人でさえ、信じたことを行動に移したとき救われたのである。理屈だけ分かったという信仰ではなく、神への信頼をもった人として生きたいと願う。
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ヤコブ三章1〜12節(2後半)
《もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。》
舌をコントロールする難しさを述べている。
@舌を船の舵と馬のくつわに例えている。舵もくつわも小さいものだが、大きい船や馬を自由に動かしている(4)。同じように舌は小さい器官であるが言葉による影響は大きい。その影響はよい場合も悪い場合もある。子供のときに親から受けた影響はその人の人生を形成するほどに大きい。真実な愛を受けるとその影響はすばらしいが、怒りや不安の言葉だけを出すと子供の人生にはよいものは残さない。大人でも同じである。周りの人々に何らかの影響を及ぼす。青年にとって異性の言葉が良きにつけ悪しきにつけ相手をどれほど動かすか、その力は大きい。
A次に舌が火と毒に例えられている(6、8)。これらは少しでも多くの人に害を及ぼす。ヤコブは舌の良い面より悪い面を取り上げている。罪人にはその傾向が強いのだろう。ある人が一人の人の中傷によって仕事ができなくなってしまった。被害を受けた人が老年になったとき、加害者は赦しを求めて老人の所へ行った。彼は赦した後二つのことを彼に頼んだ。一つは枕の羽毛を窓から撒き散らし、次はそれを集めることであった。彼は集めることは不可能だと言った。彼は悪口を修復できないのは散らした羽毛を集めるより困難だと教えた。
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