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聖書日課 |
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2000年 6月 |
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1 ヤコブ3章 9〜12 |
2 ヤコブ3章 13〜18 |
3 ヤコブ4章 1〜5 |
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4 ヤコブ4章 6〜10 |
5 ヤコブ4章11〜12 |
6 ヤコブ4章13〜17 |
7 ヤコブ5章1〜6 |
8 ヤコブ5章7〜11 |
9 ヤコブ5章12〜16 |
10 ヤコブ5章16〜20 |
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11 Tペトロ 1章1〜2 |
12 Tペトロ 1章3〜6 |
13 Tペトロ 1章7〜9 |
14 Tペトロ 1章10〜12 |
15 Tペトロ 1章13〜21 |
16 Tペトロ 1章22〜2章3 |
17 Tペトロ 2章4〜10 |
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18 Tペトロ 2章11〜17 |
19 Tペトロ 2章18〜25 |
20 Tペトロ 3章1〜6 |
21 Tペトロ 3章 7 |
22 Tペトロ 3章8〜12 |
23 Tペトロ 3章13〜22 |
24 Tペトロ 4章1〜6 |
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25 Tペトロ 4章7〜11 |
26 Tペトロ 4章12〜19 |
27 Tペトロ 5章1〜5 |
28 Tペトロ 5章6〜14 |
29 Uペトロ 1章1〜7 |
30 Uペトロ 1章8〜11 |
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ヤコブ三章9〜12節(10)
《同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。》
舌の問題について、第三の例えは泉と木である。中東では良質の水を出す泉もあるが苦い泉もある。一つの泉が両方を出すことはない。同様にイチジクはイチジクを、ブドウはブドウの実を産出する。この例話は人の心についての教えである。即ち人の言葉はその人の心の本質を表すものである。確かに言葉には表現不足のことがあり誤解されることもある。そのようなことは別として、しばらく交わりを持っていると言葉によってその人の人柄が分かるものである。何時もグチる人は心の何処かに不平不満があるからだと思う。人の悪口や非難をするのが好きな人は、何処かに怒りの思いが隠されているのかも知れない。感謝の言葉が知らずして出るのは、神と人に感謝する習慣が身に着いているからだろう。心に救いの恵みが生きていると、その人は人前で取り繕って良いことを言わなくても、自然と言葉に出るようになると思う。まして、この舌で神を賛美し次には人を呪うようなことはありえないことである。私たちがきよめを求めるのは、矛盾した二つの心を捨てるためである。心の深いところで聖霊による変革を経験しなければならない。
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ヤコブ三章13〜18節(18)
《義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。》
再び真の知恵を求めよと勧める。知恵とは知識を実際の生活の中で表すことである。ところが知恵の出所には二つあって、真の知恵は神から来、偽りの知恵は地につくもの、肉的なもの、サタン的なものである(15)。@まず神からの知恵について。神からのものは何よりもその根底には信仰と愛がある。それは総括的なもので、そこから17節のものが出てくる。第一に清さ。これはキリストの血の清めによる。その結果罪から離れようとする態度を持つ。次に平和。これは神と私の和解の関係また人との平安な関係である。平和は放置していて生まれるものではなく追い求めなければ得られない(第一ペテ三11)。続いて寛容、温順、あわれみなどである。穏やかな姿勢は御霊が与えてくれるものである。Aこれに対してサタン的な知恵は、たとい表面的に良く見えてもやがてその本音が出てくる。それは破壊的である。この根本には心の中に苦々しさがあるからである。誰でも神の知恵を身に着けたいだろう。一5には「知恵に不足しているものがあれば、神に求めるがよい」とある。自分には知恵の欠けがあると気がつくなら、神に求めることである。神は知恵を与え、清さ、平安、寛容を与えて下さる。
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ヤコブ四章1〜5節(5)
《それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。》
人には神に向かう心と罪に向かう心とがあり内面で戦っている(1)。@罪に向かう思いは「あなた方の中の戦いや争いは・・・あなた方の肢体の中で相戦う欲情から」とあるように自己中心の思いから出てくる。パウロはその戦いをローマ七章で告白している。彼は自分には善を願い神に従う思いがあるがそうする力がないと記し、その無力さは内にある罪の故であると述べている。パウロは他人との戦いまでは書いていないが、ヤコブはこの内面の戦いが原因となって他人との摩擦へと発展すると言う(2)。
A次に「神に敵対し」神と戦う者がいると言う(4)。キリスト者で神と戦う人などいないはずだが、神への不貞は神を敵とすることであると述べる。不貞とは神の真実に対する裏切りであって神よりも罪の世を愛することである(4)。旧約ではホセア書がこのテーマを取り上げる。罪の根源は神に対する不真実な態度であり、古き人(ローマ六6)とか肉の性質(ガラテヤ五19)とも言いキリスト者の内面にも潜んでいる。この古き人が十字架によってきよめられることがホーリネスの目指し強調している点である。
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ヤコブ四章6〜10節(8)
《神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。》
内なる罪の解決のためにヤコブは何よりも神をさし示している。@神はキリスト者をねたむほどに激しく愛する方である(5)。キリスト者は聖霊によって新生しており、聖霊は全ての信徒に与えられている。神は私たちの内に御霊を住まわせなさったので、御霊と共に私たちを熱愛しておられるのである。しかし人をそしったり、無慈悲なことしたり、怒り続けたり、盗んだりなど罪を犯すと、聖霊は悲しまれる(エペソ四30)。このように愛されている者が罪に汚されていては神の悲しみは大きい。だから私達を愛する神は問題を起こす内心の罪から清められることを神は願っておられる。Aそれだけでなく神は「いや増しに恵みを」下さる(5)。神は高い恵みへと導くお方である。その恵みに進むために以下のことを教える。@神に従うこと(7)。6、10節にはへりくだりを命じているが、神に従うとは主の前に頭を下げることである。A神に近づくこと(8)。まず自我の罪深さを認め、ありのままを主に祈ること。また罪の赦しを受けた人は、み言葉を心に持つことによって神の臨在(共にいる神)を自覚した生活を持つことである。このようにして成熟した日々を過ごすことが出来るようになるのである。
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ヤコブ四章11〜12節(11中)
《兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。》
裁くことには二つの意味がある。第一は物事を判断することである。理性が与えられている人は善悪を判断したり、物事を選択することが出来る。判断の意味でのさばきは人がすべき行為である。キリストを信じるか否かを決断することもその人の判断である。主イエスが「私は裁くためにこの世に来た」と言われたのは(ヨハネ九39)、彼によって救いが与えられるか否かを判断せよと言う意味である。第二に、人を断罪するという意味がある。主イエスがこの世に来られたのは世を裁くためではないと言われたのはこの意味である(ヨハネ三17)。 人の罪を定めるのは神であるから「互いに悪口を言い合って」相手を断罪してはならない。しかし人は他人の悪口を言いたくなる弱点を持っていることを覚えていたい。他人を裁くのは自分の考えが一番正しいと思っているからではないだろうか。自分の考えが判断の基準となるので、それに合わない人を裁いてしまう。パウロはコリントの教会に「主が来られるまでは、何事についても先走りをして裁いてはならない」と訓戒した(第一コリ四3〜5)。悪口を言うことがただ他人を傷つけるだけでなく、自分を神の位置に置くことになるとすれば恐ろしいことになる。
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ヤコブ四章13〜17節(15)
《むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。》
「他人を裁く」ことが神の座に自分を置くことになると昨日の箇所から学んだ。今日の箇所では、主の御心に従って生きる思いがないと確信のある人生を過ごすことは出来ないと教える。ある町へ行って商売をしようと計画することは間違いではない。しかしここでは、自分の生き方や人生設計の決定を自分の力で出来るとうぬぼれることは誤りであると言うことである。キリストの例え話にも、塔を建てようとする者がその費用を十分計算しないで始め、完成しない場合は人々に笑われると教えている。このように何かに取り組むとき細心の注意が必要である。しかし主は別の例えで、倉庫一杯の豊作を得た農夫が、何年間もの食料を得たので安心してよいと自分に言い聞かせたとき、神は今日のうちにも死ぬかも知れないと警告された。人生は神にあってこそ意味がある。四章には神の前に謙遜であるべきことを何度も教えている。それは人を裁く者になったり、自己過信の人生を送る者とならないためである。17節で「なすべき善」とは神を生活の真中に置くことである。この最重要事をないがしろにすることは罪である。神第一を基準にしたい。
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ヤコブ五章1〜6節(1)
《富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。》
四章に続いて富の警告を続ける。@富む人に「泣き叫べ」と言う。なぜか。一つの理由は富(当時の富は穀物、着物、金銀)は腐って使い物にならないからである。これらは生活に必要であるが、神に代わるものではない。それなのにこれを全てと思う者は災いである。もう一つの理由は「身に降りかかる災い」が来るからである。「終わりの時」(3)は再臨のこと。しかし主の再臨が遅れてもユダヤ人にとってエルサレムの滅亡は(それは近く起こりそうであった)、自分の命さえ危険になる時、富は何の力もなくなる。これほどの予期される危険を知るなら、魂は神に向かうべきではないか。私たちは何時召されることがあっても備えられた魂を持っていなければならない。 A富についての別の警告がある。それは彼らが得た富には賃金不払いという不正がからんでいたからである。しかもそれに関して裁判が開かれたのに、金持ちに味方する裁判官は正しい人を罪に定めた(6)。ヤコブはこのような社会を見て神の裁きが来ると語ったのである。これは当時の社会の一断面である。私たちは富の魔物性に気をつけなければならない。富それ自身は善でも悪でもないが、その獲得の仕方、使い方を間違って魂を腐らせてはならない。
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ヤコブ五章7〜11節(11後半)
《あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。》
此処には「忍耐」が何度も見られる。人生の嵐に遭うとき私たちは何もかも失ってしまうのではないかと不安になる。その困難が続くと何時までたっても終わることはないと思って疲れはてる。しかしここに神の約束が慰めとして与えられている。@農夫の場合。農作物は天候次第である。その年によって豊作があり不作がある。しかし農夫は必ず雨が降ると信じて種を蒔く。
A神の言葉を語る預言者たちの場合。彼らの多くはその当時は民衆には快く受け入れられなかった。しかし神は彼らの労をよくご存じで後になって彼らの蒔いた種は実を結んだ。Bヨブの場合。彼とその家族は様々な苦難によって悩まされた。これら三種類の人々を例に挙げて「忍耐」を教える。忍耐できる人は何を持っているのか。@彼らは約束の神を信じている。ユダヤ人の国がバビロンによって滅ぼされようとしたとき、神は七十年経つなら国を回復すると約束された。それは神の計画であって、誰よりも神ご自身が知っておられる(エレミヤ二九10)。A彼らは真実の神を信じている。ヨブは苦しみの中で「私は知っている、私を贖う方は生きておられる」と告白した。再臨される主イエスのみ前で受ける栄光を望みながら、私達も人生の馳せ場を走りたいと祈る。
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ヤコブ五章12〜16節前半(13)
《あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。》
12節で誓いは真実でなければならないと述べているが、13節以下に語る「祈り」こそ、神への真実な言葉であると言うことが出来よう。祈りには不真実な言葉はないと思う。ところでどのような場合に祈るのか。苦しいときも喜びの時もである(13)。しかし実際には病気のような苦しいときの祈りは真剣である。その人は自分でも祈るだろうが、体の弱っている人は祈る力もなくなるので先輩の長老に祈ってもらう事がよい(14)。霊肉共に弱っているときこそ友の祈りが必要になる。これこそ信徒の交わりである。昔はオリブ油には治癒力があると思われていたからオリブ油を塗って祈ったが、現代では神が与えて下さった知恵によって発達した医学により薬を用いながら祈ることが出来る。病気の他に、罪を犯した人も悔い改めをもって祈ることが出来る。罪を犯したと自覚したとき、人は神から離れたくなるものである。しかし救い主との綱を自分から切ってはならない。このような時こそ病気の時よりもっと魂は弱っているから、友達や先輩はやさしく取り囲んであげなければならない。謙った祈りは必ず聞き届けられる。
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ヤコブ五章16後半〜20節(20)
《かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。》
昨日の病者のための祈り、罪を犯した人のための祈りに続いて、此処には国のための祈りと迷い出た人のための祈りが教えられている。エリヤの時代はバアルという太陽神とその神殿周辺にいた売春婦の罪によってイスラエルは宗教的にも倫理的にも堕落していた。その頃、天は雨を閉ざし三年間干ばつが続いた。エリヤは窮状にある国のために祈ったが、実は天候のためだけではなく、もっと重要な課題である国民を「バアル神から救出」することを祈ったのである。これは国家全体のための祈りであった。 私達は自分の家庭のことや自分の教会のためだけでなく、他の教会のため自分の町の救いのため、国のためにも祈るよう範囲を広げたいものである。本書の最後に、真理から迷い出たもののための祈りの大切さを教えている。教会には洗礼を受けても脱落する者が多くいる。罪を犯したり、この世の快楽に引かれていったりして、信徒の友との関わりが薄くなる。また、ただ何となく無気力になったりなど様々な理由で教会から離れてしまう。そのようにするうち、徐々に交わりから離れ霊的に神から離れてしまうのである。この人々を引きもどす人が必要である。執り成しの人とさせていただきたいものである。魂を救う教会となりたい。
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第一ペテロ一章1〜2節(2)
《すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。》
本書は小アジアの広い範囲に散在している諸教会に宛てられている。これらの教会の信徒たちは迫害にあい困難な状況下にあったので、ペテロは彼らを慰め励まそうとするのである。手紙の冒頭の挨拶部分で「御霊のきよめに預かっている人たち」と呼びかける。苦しい状況にいる人に対して、ペテロはじっと我慢するようにと言わず、きよい者に変えられている恵みから書き始めるのは興味がある。著者は潔められた信仰を持つことが苦難に勝つ道だと教えている。2節を新改訳が「御霊のきよめによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ」と訳しているのは分かりやすい。ここにきよめられるために神の働きの二つの面が表現されている。御霊とキリストの血である。この両者はどのような関係なのか。@御霊がきよめるとは、私たちを聖別するお働きである。聖別するとはより分けること。子羊を礼拝用に捧げる時、祭司が相応しい子羊を選び分けるように、御霊は私を選び分けたのである。Aその者にキリストの潔めの血が注がれる。私の内面をきよめるのは十字架の血であるが、それが可能になるために、聖霊は私を聖別して下さったのである。
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第一ペテロ一章3〜6節(3後半)
《神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、》
ペテロは神への賛美から手紙の本論をはじめる。@神は「憐れみ豊かな神」である。私たちが「新しく生まれ」クリスチャンの人生を始められたのは神の憐れみによる。入信当初は自分の決断で信仰を持つことになったと思っていたが、実はすべての救いの業の準備は神の側からなされていたのである。用意されたエレベーターのドアが開いたので箱に入ると最上階まで運ばれるようなものである。憐れみの背景には「真実」がある。即ち変わることのない愛である。その愛は罪人にも向けられている。A私たちは「生ける望み」をもって生きるものとされた。生ける望みをペテロに結びつけるとその実感が深くなる。彼はイエスを裏切りと悔いの涙を流した。そのペテロを立ち上がらせたのは復活の主である(第一コリ十五5)。それは他の弟子も同じである。彼らはイエスの最後が十字架であったので失望の極みにあった。しかし復活は彼らを一変させ、その結果教会という集団が始まったのである。復活の主は今も生きており、聖霊は主が私たちと共におられることを実感させてくださる。活き活きとした信仰は主に会うことである。
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第一ペテロ一章7〜9節(8)
《あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。》
手紙の読者は火のような試練の中にいた。@試練に遭ったとき、私たちは神にそむくような何かが自分にあったのだろうかと悩むことがある。あの立派なヨブが病気になり苦難をなめたとき彼の友人たちはヨブに過ちがあったからだとつめよったが、実際はそうではなかった。後になって神は彼を弁護しておられる。苦しみは誰かに特別に起こるというのでなく、悩みの大小によらず全ての人に来るものである。ただペテロは、どんなことがあっても神は私たちのことを知っていて守っておられると確言する(5)。では苦難にはどのような意味があるのか。それについてペテロは苦難を金の精錬に例えて、カスを取り除き成熟した者へと導くためのものであると言うのである(7)。Aさらに高い信仰とは何か。それは「キリストの現れるとき賛美と栄光とほまれ」を受ける信仰である。主イエスの再臨の約束は、旧約聖書に預言されているメシヤの約束よりも多い。どれほど年月が延びても彼は約束のように来られる。だから主イエスを愛するのである。
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第一ペテロ一章10〜12節(12中)
《それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされた》
ペテロは肉のイエスを知っていたがこの手紙の読者たちは顔見知りではない。それにも関わらず主を愛するのは彼らが救われているからである(8)。それでペテロは救いがどのように準備され旧約時代の人々の関心事であったかを述べる。@まず預言者たちが救い主について関心を持っていた(10)。預言者イザヤ、ホセア、ミカらがキリストの誕生、十字架の苦難、さらには新しい天と地について預言したとき、それをどの程度まで理解していたか分からないが、それでも後の時代にこれが実現すると思ってそれを調べていた。Aまたみ使い達もキリストの贖いの実現をみようと願っていた(12後半)。契約の箱の上には金で造った贖い所があり、其処には祭司がいけにえの羊の血を注いでいた。その贖い所の両側にはケルビムの像が置かれていた。それはあたかも天使が血による贖いの秘義をかいま見、礼拝するようであった。その贖いがキリストによって実現されたのであるから、既に天に移った預言者もみ使い達も大賛美を献げたに違いない。聖書の中心は救いである。旧約聖書はその約束であり、新約聖書は約束の実現である。イエス・キリストがそれを完成して下さったことを感謝したい。
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第一ペテロ一章13〜21節(19)
《きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。》
救われた者にペテロが勧める内容が記されている。@キリストが再び来られる時に与えられる恵みを待ち望むことである(13)。A聖なる者となることである(15)。神が聖であるように聖なる者になることは私達に出来ることではない。そのためにキリストの贖いが備えられたのである。「先祖伝来の空疎な生活から贖い出されたのは・・・小羊のようなキリストの尊い血によったのである」。聖書では人でも物でもそれが神に所属する時、聖なるものと呼ばれる。人は自分の力では神の所属になれないが、キリストの血によって洗われるとき神のものとなることができる。だから神と私達の関係がしっかりすると、聖となるのである。もちろん神のものになると、倫理的にも清いものとなる。
私達はきよめられることを願っている。それは既に述べたように、何よりも神との関係が確立することである。その後聖霊の助けを受けながら倫理的に徐々に成長することを求めるのである。それを逆にして、倫理的に完成すると神との関係が出来ると考えると失望に終わるだけである。きよめられるのはただ恩寵であって「キリストの尊い血」によるのである。
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第一ペテロ一章22〜二章3節(二章2節)
《今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。》
先には御霊によるきよめ(一2)、イエスの血によるきよめ(一19)を教えていた。今日の箇所ではみ言葉による「きよめ」を述べている(22)。聖霊は人を聖別し、キリストの血はきよめの業そのものをして下さる。そしてみ言葉は聖化の確かさを保証するものである。人はしばしば自分が潔められたという信仰を自分の気分に置くことがある。例えば熱心に祈ったので気分がすっきりしたなどである。しかし大切なことは神が約束して下さったみ言葉に信仰の土台を置くことである。聖化の信仰を持つとき、罪の悔い改め、献身、祈り、十字架を信じることなどが勧められる。それらのことをして潔めの確信を持つのは結局み言葉である。牧師に「あなたは潔められた」と言われたので安心するのではなく、み言葉に根拠を置くことが重要であることを覚えたい。神が謙った魂に語られる約束には変わりはないからである。
さて潔められた者の歩みは、「霊の乳」を飲むことである。新改訳には「み言葉の乳」と訳している。聖書は単なる教えではなく魂を生かす命の食物である。神の言葉がキリスト者を生かすことをしっかり身に着けたい。
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第一ペテロ二章4〜10節(5)
《この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。》
2節ではクリスチャンは、一人の人として成長するためにみ言葉の乳を受けることが大切であると教えられている。今日の箇所では、個人の信仰から共同体としての教会との結びつきで信仰生活をする重要性が述べられている。その姿勢はパウロにおいても見られる。彼は自分の回心経験や召命について語ったとき「人からではなく主イエスから」と言って回心の独自性を強調していた(ガラテヤ一章)。救いを信じ受け入れることはその人の個人的な経験である。 しかしパウロは信仰を彼個人のものとだけせず、教会と関わりを持つものとして語っている。即ち彼の信仰が教会として受け入れられたものだと述べるのである(ガラ二章)。信仰はその人個人の霊的経験であると共に、教会という集団との結びつきを持つべきものであることを覚えていたい。ペテロは信徒一人一人は「生ける石」であり、一つ一つの石は教会という霊の家を建てあげていると教える。そのかしら石はイエス・キリストである。信徒はその教会の働き人、祭司、きよい国民、福音を伝える者として存在するのである(9)。ブドウの木と枝のように、教会につながらなければ信仰の持続は難しい。
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第一ペテロ二章11〜17節(12後半)
《そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。》
キリスト者はこの世界で生活しているが神の国に属する者である。旅人、寄留者とは国籍は別にあって今生活しているこの世は外国だということである。これは@キリスト者はやがて天の国に帰るときが来ると言う意味と、A天国籍を持つものはその者らしく生活するべきだという意味とがある。ペテロはここで後者の意味を強調している。 この国には肉の欲をもって内面を腐敗させるものがたくさんある。神の国の国民であるキリスト者は気をつけないと罪の誘惑に躓いてしまう。放蕩息子が遠い国へ行って悪いことにお金を使い果たし豚飼いになったように。ロトは繁栄の町ソドム・ゴモラへ移住した。しかし其処は淫乱と快楽の町で義人ロトでさえその風習に巻き込まれそうになった。それはどの時代にもあって、本書の読者が住む町にも偶像の神殿売春があった。それが社会全体に受け入れられていると、罪深いことであっても普通のこととして認められる。するとそれになじまない人を「悪人呼ばわり」する。このような状況は私達の周りにもあって、それに勝つにはかなりの力がいる。ペテロは神の国の者として「善を行うことによって愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神のみ旨なのである」と教える(15)。
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第一ペテロ二章18〜25節(21)
《あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。》
初代教会には僕(奴隷)でキリスト者となったものがたくさんいた。人権がないのだから彼らが信仰を持つには様々な困難があった。礼拝に出るにも制限があっただろうし、日常生活でも気むずかしい主人に仕えることは大変だったに違いない。ここでペテロは主イエスの苦難を模範として示している。キリストは神としてあがめられる立場にあるのに、ここでは奴隷の側に立つ者として紹介されている。イエスは「仕えられるためではなく仕えるために」と言ってご自分の命を差し出された。それは主がこの世に来られたとき、これを神の召しとして受けとめられたからである(ヘブ十7)。ペテロ達もかつて祭司たちにむち打たれ牢獄に閉じこめられたことがあった。その時彼らは「御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜んだ」が(使徒五41)、それはキリストに従う者に与えられた召しであると自覚していたからである。主に従うとき理不尽な仕打ちを受けることがあるかも知れない。その時主の弟子として歩む者にこのような召しがあることを覚えたいものである。ヨブは災いの中で「われわれは神から幸いを受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」と言って神に従った。
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第一ペテロ三章1〜6節(4前半)
《かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。》
ペテロはキリスト者で社会的に困難な立場の者ほど長い励ましを与えている。奴隷への励ましが一番長く次に妻である。当時の女性や子供はひどく軽んじられ離婚は夫によって簡単に決められた。だから妻たちは夫に気に入られようとして外面的なものによって自分を飾ろうとしたのである。 @これに対してペテロはまずクリスチャンの妻は神との関係を確かなものとしなければならないと勧める。「うやうやしい清い行い」を新改訳は「神をおそれかしこむ清い生き方」と訳している(2)。即ち行動の根底に神を敬う思いをもつべきである。Aその上で「内なる人」を飾ることが出来る。内なる人とは心のことで知性、感情、良心などの座。心に柔和、穏やかさを持つようになると黙っていても自然に証しとなる。無言の行いである。神を敬うことが第一で、それに伴って品性が備えられていく。このようにして内なる人の内容が与えられるにつれて、その人の外面的なものも変わってくるように思う。過度に外側のことに関心を持つ人は、もしかすると内面の内容が失われているのかもしれない。このような生き方は妻だけではなく夫も身に着けなければならいと思う。
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第一ペテロ三章7節(7)
《夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈が妨げられないためである。》
妻に続いて夫への勧めがある。昔は社会的にも肉体的にも男性が強く女性は弱かった。現代は昔とは状況は変わっている。しかしパウロが神の前に男女は平等であるが役割は違うと教えるように、男女の違いは今もはっきりしている。一般的には男性は理論的な傾向があり女性は感性がすぐれていると言われている。4節で内面の飾りを身に着けるのは妻だけではなく夫も必要であると書いた。同様に夫が弱い妻を顧みなければならないように、妻も弱さを持つ夫への親切を持たなければならないと思う(7)。もし夫婦がクリスチャンであるなら、恵みを共に受けるものとして、また共に祈るものとして互いに受け入れ合うべきである。そうでないと同信の夫婦とはならないのではないだろうか。互いに内なるものの成熟を求めていきたいものである。同時に夫も妻も他人には言えない弱さを持つ者であることを知って、共に祈りあうことが互いの成長になる。もし夫婦でクリスチャンでなくても誰か家族の一人が信徒であるなら、共に祈ることを勧める。ただ独りで教会に来ているなら、共に祈る同信の友を持つことを勧める。「三つよりの綱はたやすく切れない」からである(伝道の書四12)。
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第一ペテロ三章8〜12節(8)
《最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。》
各人への具体的な教えを述べた後、全てのキリスト者への勧めをまとめる。クリスチャンは自分一人で信仰を持っているのではない。二章に生ける石である各信徒が神の宮を建てると教えるように、教会という共同体で各人の信仰は形成されている。だからそれぞれは尊い存在であり、一人が欠けることでも宮の石垣は崩れてしまう。そこで具体的な教えを語る。基本的には「愛」の大切さを強調し、愛の多様なあらわれを述べる。「心を一つにする」のは愛と謙遜がなければできない。共同体の中心に主を置くと謙遜になる。また愛が自分にあるか無いかは誰かと交わりを持ってみると分かってくる。難しいことが起こると、御霊によらなければ愛は生まれないことを知るのである。御霊に満たされるとき、悪口ではなく祝福を祈れるようになる。
もう一つ大切なことは「平和」を持つことである。平和は何もしないことではない。「平和を追い求めて、これを追え」とあるように、平和は追い求めて与えられるものである。兄弟愛を身に着けることができるようにしたいものである。
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第一ペテロ三章13〜22節(15)
《ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。》
この地方の信徒たちは困難な社会状況下で信仰を持っていた。ペテロは迫害の嵐が止むまで待っているようにとは言わず証しをするように励ます。証しについて聖書は次のことを教える。@信徒は誰でも証し人である。A証しは日常的にするものである。教会では時間も相手も限られているが、日頃友達とつき合っていると思いがけなく教会について話すことがある。それが証しとなる。ところが機会があっても信仰について語るには心備えがないと話せない。だから「いつでも弁明の出来る“用意”をしていなさい」と教えるのである。そのためには「心の中でキリストを主とあがめる」ことである。話し上手の人が証し人になるとは限らない。大切なことは主を心に持つことが身についていることである。
ところで前述のように、この信徒たちは困難の中にいた。彼らに対してペテロは受難のキリストを指し示す。18節以下の内容の説明は諸説があり難しい箇所の一つでありここでは十分解説できない。しかし要点は苦しみを通過し黄泉(よみ)にまでも証しされた模範者イエスを述べるものである。ペテロは、主イエスを模範として困難の中にも証しをして欲しいと願っている。勇気のある証し人となれるように。
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第一ペテロ四章1〜6節(1節後半)
《肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。》
1節は苦しみと救いについて述べている。苦しみは古代から現代まで人々の問題である。道徳的に悪をしたものがその結果を刈り取るなら誰も納得する。しかしそのような因果関係がないのに苦しみに合うと、神がいるのかいないのかと言う議論にまで発展する。それがヨブの問題であった。C.S.ルイスはこの問題に焦点を合わせて「痛みの問題」を書いた。さて、ペテロは苦難の問題を議論しようとするわけではない。彼は異教徒の人々が、好色、欲情、酔酒、暴飲のような荒れて自堕落な生活をしたため体を悪くし、苦しみの中から主を求めて救われたようである。だから以前は様々な悪をした者ももう罪の快楽は十分ではないかと言い(3)、「肉において苦しんだ人はそれによって罪から逃れたのである」と言ったのである。6節は難解であるが、それは肉体的に病み(罪の結果と思われる)遂に死んだけれど、魂は救われて神の国へ導かれたという意味であろう。時間とお金が自由になり神を敬わない人は、タガがゆるんで罪に陥ることが多いのではないだろうか。しかし苦しいときには緊張していて外れた道には行きに難いものである。苦難はしばしば人を真の道へ、また救いへと導く。光の中を歩みたいものである。
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第一ペテロ四章7〜11節(8)
《何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。》
キリスト者の生活態度が多方面から教えられている。@私達は再臨に向かって生きている。一時カルト集団が九九年八月に世の終わりが来るなどと言って騒いだことがあり、マスコミが愚かにもこれを煽り立てたことがあった。主の再臨はそのようなものではない。十字架と復活を通った現実的な教えで、破滅ではなく救いの完成である。教会はどの時代にも再臨を待ち望んだ。その信仰は人を健全な生活へと導く。即ち、A「努めて祈りなさい」とあるように祈る生活を確立する。というのはこれに続く教えは祈りなしには出来ないからである。
B愛すること。主イエスは神を愛し隣人を愛せよと教えた。隣人への愛の一つとして「多くの罪をおおう」が示される。反対に憎しみは相手の過ちを言いふらして問題をこじらせる。C次に二種の奉仕について。一つは言葉の奉仕で説教や証しのこと。「ふさわしい」言葉ですべきである。品位を壊すような言葉は証しにはならない、真摯な言葉が人の徳を高める。第二は行動による奉仕である。これにも「ふさわしさ」が求められている。自分のためではなく神の栄光のための行為がふさわしいものである。
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第一ペテロ四章12〜19節(12)
《愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、》
苦しみに二つある。一つは罪を行って受ける苦しみ(15)、もう一つは神を信じて受ける苦しみである(13)。重い犯罪には死刑や投獄がありこれは当然の苦しみである。また「他人への干渉」は無分別に他人の問題に首を突っ込むお節介で、これは出しゃばりがもたらす苦しみである。続いてペテロは神を信じる故の苦しみ、即ち「キリストの苦しみにあずかる」意味を説く。苦難には多様なものがある。@読者たちの苦難は迫害によるものであった。宗教紛争の問題は現代でもあるが、世界福音連盟は人権保護のために国連などを通してまた日本でも働きかけている。A今の私達は当時程の迫害はなくても、嫌がらせ程度の反対を受ける人がいる。それもキリストと共なる苦しみである。この課題については神の解決を信じながら、家族や友人に行いと証しすることが大切である。B迫害ではなく病気やつらい出来事などで悩む人もいる。これも苦しみである。その苦しみの原因が罪だとすれば悔い改める。もしそうでなければ自分を責めずキリストの苦難にあずかる信仰を持って内なるキリストをあがめて進めばよいと思う。
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第一ペテロ五章1〜5節(2後半)
《しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。》
長老への勧めである。@奉仕は「強いられて」ではなく「神に従って自ら進んで」すべきである。これは長老ばかりではなく全ての人について言えると思う。私達のする奉仕が不十分だと思っても神さまに対してするなら神は喜んで下さる。A奉仕は「恥ずべき利得のため」ではないように。聖書には専属して奉仕する者が適切な報酬を受けることを認めている。しかし恥ずべき利得を得る思いは悪い。それは貪欲が奉仕の動機にあるからである。「本心からしなさい」とは喜んで、熱心にという意味で新改訳が「心を込めて」としているのは示唆に富む。B奉仕は模範であること。模範と言えば非の打ち所のない奉仕のことであろうが、この語の意味は手本とか見本のことである。自分に出来る範囲のことを主のためにする奉仕が模範となる。この姿勢は「キリストの苦難の証人」という信仰から出ている(1)。ペテロは主イエスがピラトに裁かれたとき主を見ながら裏切ったが、赦されたので主を愛する者と変えられた(ヨハネ二一章)。真の奉仕は主を愛する信仰から出ると思う。
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第一ペテロ五章6〜14節(6)
《だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。》
5節以下に何度も謙遜の大切さを教える。神は高ぶる者は拒否するがへりくだる者には恵みを注いで下さる。謙遜な心は「神の力強い御手の下に自らを低く」なることである。全能の神の前に謙るのは当然である。@それはただ小さい存在であるだけではなく罪ある卑しい者だからである。A問題が来るとすぐに「思い煩う」者だからである。人は何事もなく順調にいっているときは強がりを言うが、問題が来るとすぐ落ち込む者である。しかも私達の周りにはサタンが獅子のように獲物を求めている。獅子は何を獲物にするか。それは群を離れ保護者から離れたものである。神の大能の下にいる人こそへりくだる者であり、サタンは指一本触れることは出来ない。
さて「時が来れば神はあなた方を高くする」とはどういう意味か。高い所にいるお方は神である。即ち神のそばへ導き命が豊かにされることである。だから「しばらくの苦しみの後、いやし、強め、力づける」と言うのである。「謙遜を身に着けなさい」とあるが、新しい靴や着物が足に慣れ着こなすのに時間がかかるように、謙遜が普段着になるためには時間がかかる。何時でも神と人の前に謙遜であり、それが自然であるようになりたいものである。
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第二ペテロ一章1〜7節(4後半)
《それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。》
救われた者には「神の性質にあずかる者」という約束が与えられている。これは驚くべき約束である。パウロはこれと似た内容を「主と同じ姿に変えられる」と言っている。私達は御国において栄光の姿に化せられると約束されているが、その原型を復活の主の姿に見る。そして神の国に入れられている者は既に変化し始めている。即ち、キリスト者は壊れた神のかたちを修復され成長途上にいる者なのである。それを具体的に言うと、@徳を身に着ける。善を求める品性を持つことである。A知識を持つ。単なる聖書知識ではなく神を心で知ることである。み言を通して愛の神を思うこと、また神を信じる者らしい考え方で物事を見る習慣を身につけることである。B節制する。物事には限度がある。ところがハメをはずして良いことと悪いことがあるがそのバランスをわきまえることである。C忍耐。忍耐は神の約束に立ってこそ保つことが出来る。D敬虔(信心)。神をあがめる精神から敬虔が生まれる。E兄弟愛と愛。同信の友には兄弟愛であり、全ての人に向けられるのを愛としている。私達はこれらの品性を身に着けるのに試行錯誤する。大切なことは、これを自分の努力でするのではなく信仰によってすることである。
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第二ペテロ一章8〜11節(11)
《こうして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。》
神さまを見上げながら歩んでいると、5節に述べた実がみのるようになる。ところが神を見上げない人は物事を信仰を持って見ないので霊的な盲人と言われ(9)、他人ばかり見て神を見ない人は近視の者と言われる(9)。神の子は罪から清められたことを忘れてはならない。このように戒めた上でペテロは信仰の持ち方を教える。
@召しと選びの確かさを心に持つことである(10)。召しとか選びは私が決めることではない。「あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選んだ」と言われるのは主イエスである。このように救いの確かさを決めるのは自分の気分によるのではなく、み言葉と信仰によるのである。この点をしっかり心に持つと、人の言葉に振り回されるような「あやまちに陥る」ことはない。Aそれぞれが人生を終えたとき御国に入ることが出来る。しかも豊かに与えられる(11)。御国に入る豊かさとは何だろう。多くの人は死を恐れるが、復活の主は死の棘を抜き恐れを取り去って下さった。これは命の豊かさによるのである。さらにキリスト者は天に帰る希望を持って死を迎えることが出来る。これも命の豊かさである。近視眼的な信仰ではなくしっかり主を見上げながら歩もうではないか。
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