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Uヨハネ 1〜6

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2000年 7月1日(土)

第二ペテロ一章12〜21節(19後半)

《あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。》

 ペテロは一時主を否定することもあったが、憐れみによって信仰を回復しキリストの弟子として信仰を守り通した。今はネロの迫害による死を予期していたのだろうか「幕屋を脱ぎ去る時が間近である」と言っている(14)。そのようなときペテロの心にかかっていたのは後に残るものたちが信仰を受け継いでくれるどうかであった。彼の願いは自分が死んだ後も信徒達が信仰を堅持し奮い立つことである(12〜15)。

 ゆるがない信仰に立つためにペテロは二つのことを上げる。それは@神の御子のみ業である。救いは私達の側にあるのではなくイエスのみ業特に十字架と復活の出来事にある。ペテロが目撃した「ご威光」とは主の誕生、教えと奇跡、十字架と復活及び昇天などである。ここでは特に変貌山でイエスが輝く姿に変わったことを挙げているが、この出来事は弟子たちに神の子イエスの印象を強く与えた(17)。神は御子を遣わしこの世界で人の目にも見えるように神ご自身を示して下さった。この紛れもない事実に信仰は立つのである。Aゆるがない信仰はみ言葉に立つことによる。預言の言葉が御子の誕生によって現実になったように、キリストの救いは再臨のとき完成される。この約束に立つことで信仰は堅くされるのである。 

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2000年 7月2日(日)

第二ペテロ二章1〜3節(1後半)

《彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。》

 キリスト教の歴史が三十年以上にもなり多くの信徒が教会に加わるとさまざまな異端が起こってくる。教えの内容が全く別のものは異教と言うが、似ていながら最も大切な教えの部分がずれているものを異端という。ヨハネ、パウロ、ペテロの晩年には異端が出始めていた。本書は偽教師に対して警戒の黄信号を点滅させている。@異端の共通点はキリスト観の間違いである。本書の場合は「贖って下さった主を否定する」(1)。現代ではエホバの証人がキリストの神であることを否定する。それでは罪からの贖いはありえないし福音の中心を否定するものとなる。A異端者は放縦や貪欲のような罪の恐ろしさを教えない。放縦は性に関する罪のこと。これが破壊されると男女の関係、夫婦の関係が壊れやがて社会全体に腐敗が起こってくる。今の日本はこの病気に冒されつつあり危機的である。もう一つの罪は貪欲で金銭的な罪である。性も経済もそれ自体は悪ではないが、それが正しく制御されていないと社会の崩壊が来る。コントロールする方は神であることを忘れてはならない。B異端は「甘言」であざむく(3)。真理に立っていないとキリスト者でも欺かれる。救いの恵みをしっかり保っていなければならない。

 

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2000年 7月3日(月)

第二ペテロ二章4〜11節(9前半)

《こういうわけで、主は、信心深い者を試錬の中から救い出し、》

 偽教師達は悔い改めなければやがて滅ぼされる。ここに神に裁かれた三つの例がある。@罪を犯したみ使い達(4)。イザヤ十四12以下の天から落ちた「明けの明星」は堕落した天使であると言われる。彼らはやがて審判を受ける。A次にノアの時代に彼が伝えた救いのメッセージを拒否した人々の裁きを挙げている。創世記六章によるとその時代は破壊と混乱に満ちていた。神を恐れぬ世は暴虐と乱れで覆われ、一時的とはいえ聖霊さえもこの世界から手を引かれたようである(創六3)。偽教師達も悔い改めなければ滅びると警告する。B次にソドム、ゴモラであるが、これらの町の滅びの原因は放縦である(創十八章)。これらの例は警告であって、ペテロはキリスト者が滅びないために信仰を持ち続けるよう励ますのである。救われた者の例としてノアの家族とロトがいる。ノアは人々があざ笑う中でも神の真理を守り通し黙々と箱船を作り続けた。またロトは火で燃えてしまう堕落の町からかろうじて救われた。奸悪な時代に生きる私達は「信心深い者を試練から救う」神の保護を信じて生活すべきである。どんな人も滅びてはならない。

 

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2000年 7月4日(火)

第二ペテロ二章12〜16節(15)

《彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、》

 二章は全体として偽教師への警戒である。偽教師は以前はキリストを信じていたが信仰から外れて間違った道へ進んだ(20)。彼らはキリスト教を知っていて、まじめな信徒を罪の道へと誘惑しようとする。

 昨日の箇所は彼への神の裁きを述べ、今日は偽教師の姿を述べる。@彼らは神に仕える光栄ある者をそしってはばからない(10後半)。サタンの攻撃の一つはリーダーを陥れることである。羊飼いを打てば群は散るからである。A偽教師は間違った知識を知ったかぶりをして教える(12)。彼らは間違った教えに少しばかりの正しい教えを混入して人々を導こうとする。いま精神的に飢えた多くの人々を脅しや甘言を用いて誘惑するカルト集団が出現しているので注意が必要である。私達は聖書を読み信仰と共に正しい知識を身に着けていなければならない。Bさらに偽教師の道徳的な姿を描いている。彼らは貪欲である。その例としてバラムを挙げる。彼は行っていけないと知りながら欲に引かれて出かけていき、ロバに止められた愚かな預言者である。また、偽教師は快楽を愛し性的に堕落している。人は誰れでも時代の風潮に影響される。多数者が歩む道が必ずしも正しいとは限らない。神の光の中を歩まないと滅びに行ってしまう。

 

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2000年 7月5日(水)

第二ペテロ二章17〜22節(17)

《この人々は、いわば、水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている。》

偽教師は「水のない井戸、突風に吹き払われる霧」である。渇いた人が水を求めて来ても渇きをいやす恵みを提供しない。何かあるように見せかけているが風に吹き去られる霧のように実体は何もない。現代は物質的には満たされているが、多くの人は霊的な渇きを感じている。何処に行って渇きを癒して良いか分からないので怪しげな集団にでも飛び込む。キリスト者は魂の渇きに応えられるように福音を提供できる用意をしている必要がある。日ごろ接触している人の心の求めに、私達は聞く耳を持ち心を開いていたい。「良いサマリヤ人」の譬えの、傷ついた旅人の側を通り過ぎるレビ人や祭司になってはならない。

 偽教師はかつては福音を持っていたのに、恵みから落ちたため以前よりも悪い者に成り下がった(20)。私達は絶えず恵みに生きていないと形は整っていても水のない井戸のようになってしまう。私達に信仰がなければ命がなく人に恵みを与えることは出来ない。ペテロはこの手紙を読む信徒達が、困った偽物が周りにいるにもかかわらず宣教の業を果たしてくれることを期待していた。彼はただ警戒の言葉だけでなく、そのような時代だからこそ福音を求めている人々に真理を伝えることを願っていたのである。

 

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2000年 7月6日(木)

第二ペテロ三章1〜7節(1)

《愛する者たちよ。わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり、これらの手紙によって記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせようとした。》

 信仰生活がだらけ始めた信徒を見て、ペテロはかつての「純真な心」信仰に今一度帰るよう第一と第二の手紙を書いた。信仰生活が長くなると成熟する人とマンネリ化してラオデキヤ教会のようにぬるま湯の信仰になる人とがある。前述のように本書の偽教師達はかつては信仰を持っていたし主の再臨についても知っていた。しかし信仰から離れた彼らは、世界は昔のままで変わらず再臨はないと言う者になってしまった。 そこでペテロはノアの洪水による滅びを引用し、かつては水によって滅びたが、主の再臨の時には不信仰な者が火で滅ぼされると、主イエスの教えに基づいて警告するのである。

 私たちには時として信仰の揺らぎが起こるものである。その場合、私たちの個人的な状況に影響されることが多いように思う。例えば自分の願っている道が思うように開かれてこないとか、自分の思いを誰も分かってくれないとかなどである。

 苦しいときには暫くじっと待つことを主は願っておられる。ペテロは預言者が語ったこと、弟子達が伝えた主イエスの教えから離れないように強調している。正しい光を見失ってはならない。

 

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2000年 7月7日(金)

第二ペテロ三章8〜13節(9後半)

《ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。》

 主の再臨はないのではないかという疑問が偽教師達から出ていた。最初の弟子たちは再臨について主の口から聞いたし、自分たちが生きている間に来られると思っていたようである。しかし主イエスは再臨の時期は父の御心の中にあることだと告げていた(使徒一7)。だから再臨が遅れていることについて、主の言葉を基準に考えるべきである。偽教師のような発言は何時の時代にもあり、例えばエホバの証人は、再臨の日を定めそれが外れたため信徒達に信仰のダメージを与えた。

 ペテロはここで再臨の遅れている理由を語る。第一は、神の時間と人の時間の感覚が異なる点である。私たちにとって長い時間も神にとってはそうではない。千年も一日も永遠者である神にはかわりはない(8)。第二は「一人も滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望む」神の御心である。私たちは多くの人に救われてもらいたいと願っているが、人々が罪を悔い改めて神の元に帰って来るのを一日千秋の思いで待っておられるのである。第三に、再臨は信徒には救いの完成の時であるが、神に背く者には滅びの時である。再臨の前に多くの人に救われてもらいたい。

 

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2000年 7月8日(土)

第二ペテロ三章14〜18節(17)

《愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。》

 ペテロの手紙が宛てられた地方ではクリスチャンに対する社会的な圧力がかけられていた。良いことをしていても彼らをさげすむのである。ノン・クリスチャンからの迫害も苦しいが、以前信徒だった人から信仰についていろいろ言われるのも嫌な話しである。このような環境の中で信仰を持つ人々に、ペテロは忍耐をもって証しの生活をするように励ます。最後の部分で彼はもう一度信仰生活の在り方を教える。@「しみもきずもない」清い生活を守るように教える(8)。A安らかであるように。再臨があるからと言ってあわてることなく普段の生活をしておればよい。B周りの人々に振り回されずみ言葉に立って生活するように。パウロの手紙にも言及しているが、要点はしっかり聖書に基づいた信仰を持っているようにと言う忠告である。17節の勧めのように、非道な人々がクリスチャンを揺すぶるような言動をしても、み言葉に立っているなら動かされることはない。ペテロはこの手紙の後まもなく殉教したと思われる。彼は自分のことよりも後に残す人々のことを心に掛けていたようである。ペテロの手紙を読んだこれらの信徒達は確かな信仰をもってペテロが教えたように主イエスに従って歩んでいったと思う。

 

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2000年 7月9日(日)

第一ヨハネ一章1〜4節(3後半)

《それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。》

 キリスト者に与えられている大きな特権と祝福は神と交わることである。「父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」の意味を考えてみたい。

 この聖句は@第一に、私たちが三位一体の神との交わりに入れられることを意味している。このことがどれ程驚くべき事か、私たちには想像がつかない。私が三位の神の交わりに入るには、三位の神の交わりの一端が切られることによって可能になる。父は十字架によって御子との関係を切られ、其処に私たちが入れられたのである。A第二に、三位の神との交わりによって、神は私たちに命を与えて下さる。命には肉体的な命と精神的な命がある。無気力になったり倫理的な頑張りがなくなるのは精神的な命が衰えたときであろう。更に人には霊的な命がある。罪によって人は霊的に死んだ者であるが、新生によって霊的な命を持つ者となる。そして霊的な命は神との交わりによって豊かにされる。この命は肉体にも精神にも強い影響を与える。B第三に、三位の神との交わりはどのようにしてなされるのか。それはみ言による神の語りかけと祈りによってなされる。この関係が普段になされる時、命は新しくされ成長するのである。このような交わりによって言いしれない喜びが湧いてくる。

 

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2000年 7月10日(月)

第一ヨハネ一章5〜10節(7)

《しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。》

 この手紙には神は光であり愛であると示され、今日の箇所には光としての神が表されている。神が光であると言うとき、導く神、命を与える神、聖なる神などの意味がある。ここでは聖なる神を意味している。@「光の中を歩く」とは私たちが神と共に生活することである。しかし私たちが聖なる神との交わりに入れられることは不可能である。ただ御子イエス・キリストの血による罪の潔めによってだけ神に近づくことが出来るのである。私たちが光に入れられる恵みのすばらしさは闇の恐ろしさを想像してみると分かる。闇にいるとき、私たちには真の希望を持つことが出来ない。苦しみの先にも光を期待することが出来ない。死の先のことは全く分からない。信仰の対象としての神を知らないでどのような光も持つことが出来ない。神は御子によって罪を潔め何のとがめもなく神と交わることのできる者として下さった。A「光の中を歩く」とは誠実に正直に神の前に生きることである。透明な魂である。全てを知っているお方の前にありのままに生きるとき自由があり恐れはない。自分を飾りいつわる必要はない。神の臨在の中に自由な思いで生活しよう。

 

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2000年 7月11日(火)

第一ヨハネ二章1〜7節(6)

《「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。》

 私たちはイエスのあの犠牲によって罪赦された。だから私たちはこの後いく度も繰り返して罪を犯すべきではない。もし罪を小さい事のように思うなら恐ろしい。私はまだクリスチャンでなかった頃無賃乗車をした。その後それを示され悔い改めたが村の駅長さんにお詫びする時たまらなく恥ずかしい思いをした。神さまと人に悔い改める辛さを思うと二度とこのような罪をしようとは思わない。だから光の中を歩むべきである。しかしそのようにしていても人は罪を犯すことがある。そのような時信仰から離れてはならない。「父のみもとに助け主、キリスト」がおられるからである。謙って悔い改める者を神は主の執り成しのゆえに赦して下さる。助け主は弁護者である。主と共に光の中を生活する大切さを思う。ところで、光の中を歩むことを具体的に3節以下に述べる。それは「彼の戒めを守る」ことである。戒めは戒律ではない。「戒めというのは神の子イエス・キリストの御名を信じ・・・互いに愛し合うことである」(三23)。キリスト者とは救い主を愛し友を愛する人のことである。命の溢れる信仰生活を身に着けたいものである。

 

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2000年 7月12日(水)

第一ヨハネ二章7〜11節(10)

《兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。》

 戒めを守る者は光の中を歩く者であると言われ、その内容をここで教える。イエスはご自身「世の光」であり主に従うものは「命の光」を持つと言われた(ヨハネ八12)。命の光を持つとはどういうことかを考えたい。@命の光を持つとは暗中模索の人生ではなく何処に向かって進むのかを知っているという意味である。その道は自力で見つけるのではなく主が導いて下さるので分かるのである。Aまた、命の光を持つとは神を知るという意味である。心が明るくなることにより神が愛がよく分かってくる。それは御顔の栄光の輝きが照らしているとも言うことが出来る。神はご自身をあらわし私たちの現在と将来の道を明るくしてくださる。Bこのように命の光を受けたものは兄弟愛を持つようになる。これとは反対に「兄弟を憎むものは闇の中にいる」。憎しみには嫌いねたむ思いと共に軽蔑、無関心なども含む。主は救いを受けたものが兄弟愛をもちそれが成長することを願っておられる。それはまず人々のために祈ることから始まる。その人の救い、守り、導きなどをお祈りする。この祈りに私たちはどれ程の人々を組み入れることが出来るだろうか。祈りは無関心を乗り越えさせる。このようにして横の交わりが始まるのである。

 

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2000年 7月13日(木)

第一ヨハネ二章12〜17節(17)

《世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。》

 本書は一世紀の終わり頃晩年のヨハネが書いた。当時キリスト教は世界に広まり、多くの信徒が起こされたが他方異端も出てきた。思想的な危機が諸教会に及んでいるのを知ってヨハネは読者達に警戒をうながした。はじめに信徒一般に「子たちよ」と呼びかけ続いてそれぞれの年齢の者に対して語りかける。「父たちよ」は壮年というだけでなく円熟した信仰の先輩に対するものである。「子供たち」は信仰の幼い者であり、「若者」は少し成長した信徒のことである。ヨハネは彼らがもっと確かな信仰に立つようにとの願いを込めて二度も繰り返して呼びかける。「世と世にあるものとを愛してはいけない」とあるがヨハネは世を二つの意味で用いる。一つは神が愛して救おうとする世であり、もう一つは罪が支配し神に帰ろうとしない世である。サタンの支配する世に自分を置いてはいけない。 世は本質的に「肉の欲」(堕落した罪深い性質)で満ちている。私たちの耳や目が御霊のご支配に置かれないと、肉の欲を内に引き入れる役割を果たすことになる。「持ち物の誇り」は暮らし向きの自慢(新改訳)のこと。異端を警戒すべきではあるが誰もが注意しなければならないのはサタンの世である。私たちはこの世に生きる者だからである。

 

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2000年 7月14日(金)

第一ヨハネ二章18〜29節(20)

《しかし、あなたがたは聖なる者に油を注がれているので、あなたがたすべてが、そのことを知っている。》

反キリストと呼ぶ異端は(18)先にも書いた仮現説である。この異端はキリストは神だから罪ある肉体を取らなかったと教える。主は神であり人だからこそ救い主なのだということを忘れてはならない。キリスト教が世界に影響を与えないうちは間違った教えも出てこなかったが、教会の働きが大きくなると道をそらす者、迫害する者など多様な反キリストが出てきた。魔術師シモンが神の恵みをお金で買おうとしてペテロに叱られた(使八章)。反キリスト者のユダヤ人はパウロたちを迫害ししばしばローマ当局に訴え出た。コリント教会には義理の母と同棲してまるで夫婦のような者がいてパウロに非難された。これも間違った思想に毒されたクリスチャンの姿である。 パウロは送別会の説教で、エペソ教会の長老たちに違った教えをする狼のような人々がいるので注意して欲しいと警戒した。黙示録には恐ろしいネロ皇帝を思わせる描写がある。このようにさまざまなサタンの手だてが私たちの周りにあることを知っていたい。とは言え私たちは恐れる必要はない。それは「聖なる者の油」(聖霊)とみ言葉による真理が与えられているからである。絶えず内なる聖霊とみ言葉に導かれているとき道を誤ることはない。

 

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2000年 7月15日(土)

第一ヨハネ三章1〜7節(1)

 《わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。・・》

 私たちが神の子とされるために神は大きい愛を与えて下さった。「大きい愛」は直訳するとよその世界の愛という意味である。この世界では見ることもできない愛、即ち天からの愛が私たちを神の子にしたのである。やがて主が再臨されるとき、全てのキリスト者は復活の主のように変えられる。毛虫がやがて蝶に変わるように、弱い肉体を持つ神の子も栄光の体に化せられる(2)。この望みを持つキリスト者はみ国に入るためにその準備をする。主の譬え話には、婚礼に招かれた者が白い衣を着て宴席に出席するように、キリスト者は清い着物を身に着けて御国に入ると教えている。その衣は神が備えてくださる。私たちは与えられた義の衣を清く保つ信仰を持つべきである。「この望みをいだいている者は、彼が清くあられるように自らを清くする」(3)。キリストの血潮によらなければ、だれも自分の力で清く出来ない。私たちは弱さの故に罪に陥る事がある。しかし主に従おうとする者を主は憐れんで下さる。だからと言って罪と分かっていながら罪にのめり込む者は、自分を清く保っているとは言えない。私たちは天よりの愛によって救われたのだから、天国に行く身支度をしていなければ申し訳ないではないか。

 

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2000年 7月16日(日)

第一ヨハネ三章8〜12節(9)

《すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。》  

 「神の子が現れたのは悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである」。サタンは始めから罪を犯す者であり嘘つきである(ヨハネ八44)。彼は人を誘惑するのは巧妙であって誰でもたやすくその手に乗ってしまう。そのようなサタンの働きを破壊することは私たちには不可能である。それが出来るのは神の子だけである。主は十字架によってサタンの業を破壊された。だからへブル書には、イエスの死によって「悪魔という死の力を持つ者を滅ぼす」と述べている。さらに救いを受けたものには「神の種」が宿る。神の種とは神の命のこと。それは聖霊とみ言によって与えられる。神の命を持つ者はサタンには従わず否、従うことが出来ない。彼は罪を犯すことが出来ないのである。罪を犯さないというのは絶対に過ちをしないという意味ではない。私はこれまで伝道をしていて、真に主イエスを受け入れた人は変えられた生活をしているのを見てきた。他人が批判すれば欠点や落ち度はある。入信当初は頼りない信仰生活に見えるが、生まれ変わった神の子は必ず成長する。その人は悪い時代の風潮に押し流される生き方ではなく神の命をもって生きている。苦難にあっても光を見ながら生きている。イエスによる勝利と神の種の力は不思議な恵みだと思う。

 

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2000年 7月17日(月)

第一ヨハネ三章13〜24節(16)

 《主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。》 

 ヨハネは主の十字架によって「愛ということを知った」と言う。十字架の下には母マリヤとヨハネが立っておりイエスの臨終を見ていた。人間的に見れば残酷な死である。しかしヨハネはそれが贖いの死であると分かり神の愛を知ったのである。彼は船主の家庭に生まれ、ある程度、裕福な生活環境の中で両親からの愛を受けて成長した。しかし神の愛はこの人間世界では見いだすことのできるものではない(三1)。だから十字架によって真の愛とはどのようなものかを知ったと言うのである。本書は「兄弟愛」を教えているが、それは神の救いの愛に根ざさなければ生まれるものではないと強調する。「これによって愛ということを知った。それ故に私たちもまた、兄弟のために命を捨てるべき」なのである。兄弟のために命を捨てるとはどういう意味か。身代わりとして死ぬことが出来るのは主イエスだけである。私たちの場合は困っている友に憐れみの心を持つことである(17)。私たちは伝道の大切さを知っているが、それは身近な人々に対してなされるべきではなかろうか。それは心くばりをすることであると思う。それとても完全にできるものではない。しかし真実をもってそうするなら、「神の前に安んじてよい」と言って下さる(19)。

 

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2000年 7月18日(火)

第一ヨハネ四章1〜6節(4)

《子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。》  

 「全ての霊を信じるな」とは、霊的なこと即ち神に関することを何でも簡単に信じてはならないという意味である。一世紀の終わり頃「仮現説」という異端が出て、イエスは肉体を取られたのではなく人間らしく見えたにすぎないと主張した。受肉の否定は贖いの否定につながるので教会は注意していた。だからそのように語るものを反キリストの霊と言ったのである。これは二18以下の詳しい説明である。聖書の教えるキリスト教と似て非なる異端がはびこっているが、オウムのようなカルト集団は霊的な渇きを覚えている現代人に呼びかけている。学歴や知識があっても、霊的なことを知らない人々は、ただ自分の渇きを癒そうとしてそのような集団にのめり込んでいく。偽預言者のような運動は何時の時代にも起こっている。受肉を否定するのは十字架の否定であり、そのようなキリスト教は間違っている。本物の信仰とはキリストの十字架を信じる者である。しっかりした信仰生活をしていないと思いがけない躓きに引き込まれるかも知れない。異端やカルト集団だけでなく、この世の風潮に流されると神への信仰を失ってしまう。「神から出た者」はサタン的で世的な力に勝たなければならない。

 

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2000年 7月19日(水)

第一ヨハネ四章7〜12節(8)

《愛さない者は、神を知らない。神は愛である。》

この箇所ほど愛の語が多く見られる所はない。愛について三つの真理が示されている。

@「愛は神から出たもの」である(7)。愛には家族愛、兄弟愛、男女の愛、人類愛などがあるが、それらを支えるのは神の愛である。神の愛がなければこれらの愛も自己中心的で醜いものに変わってしまいかねない。人類愛と言っても自己宣伝になってしまったり、男女愛にしても相手を傷つけて終わることもある。神の愛を持つときこれらが真のものとなる。

A神は「愛を明らかにされた」(9)。ある人が愛は名詞ではなく動詞であると言った。名詞とは愛を頭で考えるだけのこと、動詞というのは行動を伴うものである。神は御子を世に遣わす事によって愛を示された。明らかにされた愛を知るのはこれを経験するしかない。十字架による罪の赦しの愛をただ無条件で受け入れることで自分のものにする。ところが人は自分の足りないところを見たり、知識を振りかざして信仰を知識として取り上げようとするので愛を経験できない。

B「罪の贖いの供え物として御子をお遣わしになった。ここに愛がある」(10)。これは愛は道徳と言うより救いを意味する。だから愛は神から来るのである。神によって活かされ命が与えられていることを実感していたい。

 

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2000年 7月20日(木)

第一ヨハネ四章13〜21節(18前半)

《愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。》

  続いて愛について教える。

@愛は私たちを神のうちにいる者とさせる。「人がイエスを神の子と告白すれば、神がその人のうちにいまし、その人は神のうちにいる」(15)。この表現が何度も出てくることに注意したい。神さまと私とが一体になっている嬉しさを知るべきである。神の愛に包まれて生きている人は、その人の内から神の恵みが自然に出てくる。思いやりのなかった者が思いやりを現わすようになり、愚痴や文句で一杯の者が感謝を言うようになる。神が内におられるので、見せかけのための行いではなく実際の生活に出てくる。そうでなければ信仰生活は恵みではなく律法になる。

A「愛には恐れがない・・・完全な愛は恐れを取り除く」(18)。キリストにある救いを完全だと信じる人には、裁きがあっても恐れはない。完全な人にならねばならないと思うと、信仰は律法的になり自由がなく神を怖がるようになる。「恩寵あふるる」の著者バンヤンは怖がりながら神を信じ縛られた思いで信仰生活をしていたが、救いの完全さが分かったとき真に自由になった。B神の愛を知った者は、人との間に起こる恐れを取り除く者となる。交わりを壊すのは恐れである。神の愛に包み込まれると人をも包むことが出来るようになる。

 

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2000年 7月21日(金)

第一ヨハネ五章1〜5節(4)

《なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。》

 神の愛をヨハネは各方面から説いている。ところが私たちが神の愛の対象にされていると言われてもその愛を素直に受けられないことがある。どんな場合か。

@まず神が備えて下さる道と私たちが願う道とが食い違うと感じるとき、神の愛を信じられなくなる。例えば、自分の希望がかなえられると神は愛だと感じるが、そうでない結果が出ると神を信じられなくなることが多いように思う。豊かさを得られたり、高い評価を受けたり、希望が叶えられることで神の愛を頂いたと思うなら、真に神の愛を受けたとは言えないのではないだろうか。不都合なことがあっても、長い人生を通じて神は「万事を益となるようにしてくださる」方だと信じるべきではないだろうか。

A次に私たちの持つ親のイメージが神と結びつくと神の愛を素直に受けられなくなることがある。親や近しい人に長期間不信感を持っていると、神の愛を心の深いところで受け入れられない。例えば人は誰でもある程度の劣等感を持つが、余りにそれが強いと「あなたは尊い存在です」と言われても、それをお世辞だと思ってなかなか「ありがとう」と言えない。その思いを神に向ける人は愛の神を信じにくい。そのような魂の弱さが愛の父を受け入れることによって癒されるように。

 

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2000年 7月22日(土)

第一ヨハネ五章6〜12節(11)

《そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。》  

 ここには「あかし」の語が多い。証しが二つの意味で語られている。

@一つは人間イエスはメシヤだという証しである。このような説明をするのは、背景に先にも述べた仮現説がある。主は「水と血を通って来られた」(6)とある水は主の洗礼を、血は十字架を意味する。異端者は洗礼の時天のメシヤの霊が人間イエスに乗り移り、十字架直前にはメシヤの霊は天に帰って人間イエスが死んだのだと言う。メシヤを間違って尊びすぎてこのような教えをまことしやかに説いたのである。彼らはイエスは肉体で来られなかったと言うが、それでは十字架の贖いはない。それでヨハネは確かに主は人となられたと明言する。

Aもう一つの証しは、私たちが神の子であると証しする方がいるということである。それは聖霊である。入信の当初、十字架による赦しを信じた人は、救われていると考えてよいのに、自分がクリスチャンであることに自信を持てないでいる人がいる。そのようなおぼつかない内心を支えてくれるのが聖霊なのである。この手紙を受け取った人々の中には、自分がクリスチャンになっても聖霊が内におられると思わなかったのでヨハネはその過ちを正そうとした。御子を持つ者は命を持つ。聖霊はそれを確証してくださる。

 

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2000年 7月23日(日)

第一ヨハネ五章13〜17節(14)

《・・わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。》

 信徒になっても信仰の初歩が分からず悩む人がいた。ヨハネはこのような問題を持つ人々に手紙を書いたのである。

@第一の問題は救いの確信について(13)。読者の中には自分が救われているのかどうか自信がなく、しっかりした確信を持ちたいと願っていた。ヨハネとしても彼らが信仰の確信について分かってもらいたかった(13)。12節のように、御子イエスを受け入れている人は永遠の命が与えられているのだから、救われていると信じてよいとヨハネは教える。

A次は祈りについて(14)。どのように祈ればよいのか。A神は祈りを聞いていて下さるという事実である。幼児が親にどのような言葉で話そうかなど考えないように、独りでの祈りはどんなことでも祈ればよい。祈りに上手や下手はない。B「神のみ旨に従って願い求める」ことである。神の御心に従う祈りとは誠心誠意の祈りである。キリスト者は救われた良心を持つので真心の祈りについてよく分かっている。

C祈りの答えは様々である。すぐ答えられる場合、暫く待つ場合、何故か分からないが「ノー」と言われる場合などがある。

D罪に陥っている人のためには、痛みを覚えながらも滅びに至らないように陰で祈ってあげたい(16)。人は祈ることによって成長する。

 

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2000年 7月24日(月)

第一ヨハネ五章18〜21節(20)

《さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。・・》 

 終わりに当たって短い言葉であるが大切な点をまとめている。

@「神から生まれた者は罪を犯さない」(18)。これは一つも罪を犯さないと言うのではなく、罪を犯し続けないという意味である(現在形)。クリスチャンでどっぷり罪につかって良い気分であるはずがない。A神の保護に置かれている(18)。サタンは神の子を誘惑し神の御手から引き離して滅ぼすだろうが、神の保護の中にいる者には指一本触れることは出来ない。ピラトが主イエスを解放する権威があると言ったとき、主は「あなたは私に対して何の権威もない」と言い放った。神が「守っていて下さるので、悪しき者が手を触れることはない」。驚くべき確信ではないか。

B 神の子が来て、真実な方を知る知力を授けて下さった」(20)。「知る」ことには二つの意味がある。科学的な知識と人格的な知識である。人格的な知識は倫理的な欠陥があると得られない。例えば酸素と水素が水を作ることは倫理には関係ないが、偏見を持つと人は正しく知ることは出来ない。宗教的知識は人格的知識に関係する。だから福音の真理は単なる知識だけでは理解するのは無理である。御子キリストが私たちから罪を取り去って下さるから神を知るようになるのである。

 

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2000年 7月25日(火)

第二ヨハネ1〜6節(4)

《あなたの子供たちのうちで、わたしたちが父から受けた戒めどおりに、真理のうちを歩いている者があるのを見て、わたしは非常に喜んでいる。》

  この短い手紙は婦人とその子供のために書かれたものである。書の目的は互いに愛するように励まし、またキリストの受肉を否定する異端に気をつけるよう注意をするためである。ヨハネは「みんな互いに愛し合おうではないか」と勧めているが、それは真理の内を歩いているから出来ることである。真理は福音の恵みに生きる者に与えられる。もし真理を持たず人間的に愛するだけなら、しばらくは続くだろうがやがて燃え尽きてしまうだろう。しかし福音を知りそれを身に着ける人は、愛の深みを知りますますお互いに建てあげていくようになる。「何時までも存続するものは信仰と望みと愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは愛である」(第一コリ一三章)。愛は主イエスが言葉だけでなく身をもって教えてくれた尊い宝である。「信、望、愛」の語はパウロの言葉と言うよりも、初代教会が主イエスから受けて信徒たちに教えたものである。愛する者は相手を受け入れ相手の益をはかる。人を受け入れるのに自己主張していたのではどうにもならない。愛と真理とは一体である。このようにして私たちの信仰生活は成長するのである。

 

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2000年 7月26日(水)

第二ヨハネ7〜13節(9)

《・・その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。》

  愛(アガペー)は感情的な響きがありか弱い感じがするが、真のアガペーは理性的に善悪をわきまえ辛抱強いものである。愛する者が間違った道に進もうとすると何とかして止めようとするのは愛があるからである。老年になった長老ヨハネは、古くからの友人が異端に連れゆかれないように気を配っていた。だからイエスの受肉を否定する教えを「人を惑わす」危険な教えとして注意したのである。現代にもそのたぐいがあり多くの人にとまどいを与えている。今は思想の自由があり人の信条に難癖をつける必要はないが、キリスト者である私たちは何でも無分別に飲みこまないようにすべきである。しかし霊的な渇きが恵みによって癒されていないと、異質なものが何処からとなく心の中にしのび込んでくる。重要なことは福音によって「父を持ちまた御子を持つ」ことである。即ち父なる神とイエス・キリストとの不断の交わりを持つことが命である。奉仕も大切だが、祈りを抜きにしてはただ疲れるだけである。10節に「家に入れることも、あいさつもするな」とあるが、間違った教えについてははっきり一線を引いてよいという意味である。魂の内に神との交わりによって命の泉を持っていたい。

 

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2000年 7月27日(木)

第三ヨハネ1〜8(2)

《愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。》

 ヨハネはガイオの精神と肉体の両方面に配慮している。体が弱い人が霊的に恵まれていないわけではないが、体も心も健康で「全てのことに恵まれる」ことは嬉しい。むかし信仰者は清貧にあまんじ社会的に高い地位につくことより下座にいるのが美徳のように思われたことがあった。しかし韓国や西欧では尊敬されるような立場に立って良い働きと証しをしている人々は多い。ヨハネにとって嬉しいことはガイオが真理に歩んでいることである。「あなたが真理に生きていることを、あかししてくれたので、ひじょうに喜んでいる」と喜びを表している。実際にガイオは旅人に親切をしている(5)。旅人とは「御名のために旅立ったもの」とあるように、当時すでに始まっていた諸教会を巡回する伝道者のことである。教会は初代の頃から互いに助け合う精神に満ちており、アンテオケ教会はエルサレムの貧しい者たちを援助した(使徒十一29)。エペソの長老たちにもパウロは「受けるよりは与える方が幸いである」と教えた。だからエペソ教会には身よりのない老人のために特別な組織を作って支援したのである。ある程度豊かでないと他者を助けることは出来ないが、魂が恵まれていないとなおさら難しい。心身ともに健康であるように。

 

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2000年 7月28日(金)

第三ヨハネ9〜15節(12)

《デメテリオについては、あらゆる人も、また真理そのものも、証明している。わたしたちも証明している。そして、あなたが知っているとおり、わたしたちの証明は真実である。》

 ガイオの属する教会にデオテレペスという野心家がいた。彼は指導者ヨハネを排除し、自分がその地位につき勢力を広げようとした。どの団体でも傲慢で野心家がいるならまとまりは生まれないだろう。まして教会というキリストの体にそのような人がいるなら腐敗する。デオテレペスは兄弟姉妹を受け入れず、受け入れようとする人々の妨害さえした。エペソに長老たちがいたように、教会には役割にしたがってそれぞれの立場につく人がいるが、デオテレペスのような人はいないだろう。教会は弱いところを美しいもので飾って見よくする所である(第一コリ十二章)。教会の調和も考えず混乱を起こすものは体でいえば癌のようである。

 これに対してデメテリオは、福音の真理を身をもって体験しそれを証ししている(12)。「善を行うものは神から出た者であり、悪を行うものは神を見たことのない者である」。良いことにせよ悪事にせよ、神との関係で決まってくる。神を信じるなら裏表はなく真実がある。仕事が完全かどうかより、真実を込めてすることを善と見て下さると思う。

 

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2000年 7月29日(土)

ユダ1〜4節(3)  

 《・・聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、・・》

 著者ユダはヤコブの兄弟だという。ヤコブ書の著者は主イエスの兄弟である。ユダは当初イエスをメシヤとは信じなかったが、兄ヤコブと同様復活の主にお会いしてメシヤと信じるようになったのであろう。だから今では彼はもはやイエスの兄弟ではなく「主イエスの僕」となるのである(1)。兄ヤコブがエルサレム教会を中心に活動していたように、ユダもパレスチナの諸教会に奉仕していたようである。彼がこの手紙を書いたのは、偽教師たちが間違った教えを宣伝し信徒たちがその影響を受けていたからである。彼は堕落した思想やみだらな生活をする者に対抗して戦うことを勧める。@伝えられた福音を守るように。信仰はイエス・キリストから始まり弟子から弟子へと受け継がれてきた。それは個人的にではなく教会という共同体によって伝えられた信仰である。その信仰を守るべきである。Aその信仰は聖徒たちによって伝えられたものである。聖徒が守ってきた信仰は間違いなく次世代に伝えるべきである。 

B信仰は戦いである。キリストは敵を愛すると言われた。しかし、信仰に無節操になって、何でも同意して受け入れるて良いわけではない。十字架をになうことは戦いである。信仰の大切さを守って行かなければならない。

 

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2000年 7月30日(日)

ユダ5〜16節(12) 

《・・彼らは、いわば、風に吹きまわされる水なき雲、・・》

 ふしだらな者に神の裁きが来ることを、旧約に見られる三つの例を通して警告する。第一は、エジプトから救出されたイスラエルが荒野で神に従わず戒めに背いたため滅ぼされたこと(5)。第二は、堕落した天使に対する裁きである。彼らは傲慢になって神の座にさえ立とうとしたため神は滅ぼす決定をされた(6、イザヤ十四12以下他)。第三は、ソドム・ゴモラが裁かれたこと(7)。道徳的堕落に対する神の裁きである。クリスチャンであれば右記の例をよく知っている、それなに神に従わず悪の道を教えるとは恐ろしいことである。そのような悪い人々の例を何人かあげる。アベルを殺したカイン、欲に目がくらんだ預言者バラム、荒野でモーセに反抗し混乱を起こしたコラ。これらの人々のように偽教師たちは行動している。すなわち彼らは自分の腹を肥やし、地は涸れているのに雨を降らさない雲のように、信仰の形はあるが何ものも人に与えることが出来ない(12)。私たちは偽教師ではないことを感謝するとしても、渇いている人に命の水を提供できればと思う。美しの門で「金銀はないが私にあるものをあなたに与える」とペテロが言ったように福音を提供できる者になりたいものである。

 

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2000年 7月31日(月)

ユダ17〜25節(21)

《神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。》

 最近の世界の状況を見ていると経済的な問題は人々の生きた方を変えるようである。ソ連の崩壊、ドイツの壁の崩壊、中国の改革路線など。他方お金は人の生き方を変える。経済が豊かになると生活がだらけてき犯罪が増えるように見える。お金には罪はないがそれを使うものに罪があるからだと思う。本書の異端者は肉欲的な生活をしていた。時代がどのように変わってきても、神を信じる者は堅く信仰に立った生き方をすべきである。多様な考え方の多元化時代と言われても、ポスト・モダン(近代化後の時代)と言われても、私たちが大切にする生活基準はイエス・キリストの福音を基礎にしていることである。それで手紙を終えるに当たって二、三の点を指摘する。

@神聖な信仰に自らを築き上げる。信仰には清さがなければならない。二,三世紀の頃一般に流行した宗教で密儀教があった。神秘的である種の満足を人に与えたが倫理的にはひどく堕落していた。そのために四世紀頃にはなくなってしまった。

A祈ること。信仰生活は結局祈りである。祈りなしの信仰は頭の信仰でしかない。それには命はないし成長もない。

B神の愛と憐れみに守られている信仰を持つこと。信仰は自力ではない、神の御手に支えられることである。

 

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