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聖書日課 2000年 8月 |
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1 黙示録1章1〜8 |
2 黙示録1章9〜16 |
3 黙示録1章17〜20 |
4 黙示録2章1〜7 |
5 黙示録2章8〜11 |
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6 黙示録2章12〜17 |
7 黙示録2章18〜29 |
8 黙示録3章1〜6 |
9 黙示録3章7〜13 |
10 黙示録3章14〜22 |
11 黙示録4章1〜5 |
12 黙示録 4章6〜11 |
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13 黙示録5章1〜5 |
14 黙示録5章6〜14 |
15 黙示録6章1〜8 |
16 黙示録6章9〜17 |
17 黙示録7章1〜17 |
18 黙示録8章1〜13 |
19 黙示録9章1〜12 |
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20 黙示録9章13〜21 |
21 黙示録10章1〜11 |
22 黙示録11章1〜14 |
23 黙示録11章15〜19 |
24 黙示録12章1〜17 |
25 黙示録13章1〜10 |
26 黙示録13章11〜18 |
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27 黙示録14章1〜5 |
28 黙示録14章6〜20 |
29 黙示録15章1〜8 |
30 黙示録16章1〜11 |
31 黙示録16章12〜21 |
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黙示録一章1〜8節(8)
《今いまし、昔いまし、やがてきたるべき 者、全能者にして主なる神が仰せになる、
「わたしはアルパであり、オメガである」。》
黙示録には人々の興味を誘うような比喩的で不気味な描写で満ちている。本書には象徴的な表現が多いので分かりにくい。なぜこのような形で書いたのか。一世紀末頃、ドミチアヌス皇帝が教会を激しく迫害しており、信徒はあからさまに反皇帝の発言をすることが出来ないためこのような表現をしたのである。しかし信徒にはその意味が分かっていた。 私たちも学ぶうちにおおかたの意味は理解できる。黙示とは「明らかにする」という意味で、終末についての神の御心をあらわすという意味である。本書の主題は、キリストの贖いが終末の神の国の完成に向けて進んでいるのを示すことである。
このような危機的な状況にある教会に対してヨハネは「今いまし昔いまし、やがて来たるべき方」のメッセージを伝える(4)。「彼が雲に乗って来られる」とは勝利者なる栄光の主として再臨されるキリストのこと(7)。人類の歴史がどのように進展するにしても、キリストは歴史の完成者として来られるのである。それを「アルパ(A)でありオメガ(Z)である」という(8)。
ヨハネはこの預言のメッセージを心に留めよと教える。なぜなら神は贖い者であり善悪が混在する人類の歴史に決着をつける方だからである。このお方にこそ希望がある。
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黙示録一章9〜16節(13)
《それらの燭台の間に、足までたれた上着 を着、胸に金の帯をしめている人の子の ような者がいた。》
ヨハネは迫害のためパトモス島に流刑にされていた。この島はエペソから六〇キロ程沖合の岩島で、流罪人たちは石切りの重労働を強いられていた。ヨハネはこのような状況下にあって主を礼拝していたのである。その礼拝の中で最初にヨハネが目にしたのは「金の燭台」である。教会は世の光であり燭台は教会のこと。主イエスは世にある諸教会に臨在しておられる(12)。主は教会が困難の中に置かれているのを知っておられる。主のメッセージを語る前に、ヨハネはキリストのお姿を見せられたのである。私たちが伝道や奉仕をするよりも大切なことは主イエスを見ることである。信仰生活の基礎は教会であっても個人であっても主を仰ぐことから始まる。主のお姿は、@足までたれた上着と金の帯を身に着ける。これは高い位の人の衣服で威厳に満ちた神を示す。A真っ白な頭髪。永遠者で罪のないキリストのこと。B燃える目。全てのことを見通すお方。Cしんちゅうの足。全てのものを従わせる神なる主のこと。D口から出る両刃の剣。神の言葉を語るイエスは、一方では人を救い他方では従わない者の心を刺し通す。栄光の主を仰ぐことが勝利のカギである。困難に勝つことができ忍耐の力が与えられる。主が勝利者だからである。
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黙示録一章17〜20節(17後-18前)
《すると、彼は右手をわたしの上において 言った、「恐れるな。わたしは初めであり、 終りであり、 また、生きている者 である。 わたしは死んだことはあるが、見よ、世々 限りなく生きている者である。》
私たちの人生でそれ程の問題がないとき、それなりの生活をし教会生活もする。ところがヨハネのように状況が変わり過酷な環境に置かれたとき、私たちはどの様な対応をするだろうか。石切場では他に信徒はいなかっただろう。
ヨハネは一人で礼拝していた時、復活した栄光の主を礼拝したのである。数十年前お会いした復活の主である。あの時は親しく語られた主であるが、今は王の王である威厳に満ちた神である。彼はひれ伏してしまった。死んだようなヨハネの背に触れながら、主イエスは「恐れるな」と語りかけられた。
私たちが神に近づこうとするとき恐れと敬虔さをもつことは当然である。しかし主の側からは「恐れなく近寄れ」と手を差し伸べて下さる。「死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている」と言われたとき(18)、ヨハネはどれ程勇気づけられたであろうか。
十字架の後の弟子たちは、ローマと祭司たちの攻撃を心配して恐怖で一杯だった。その彼らの間にイエスが来られたのである。「弟子たちは主を見て喜んだ」。パトモスのヨハネは老人になっており誰も助ける人はいなかった。
主を知ることは私たちの命である。
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黙示録二章1〜7節(4)
《しかし、あなたに対して責むべきことがある。 あなたは初めの愛から離れてしまった。》
エペソ教会はパウロが三年かけて形成したしっかりした教会である。初期の信徒たちはエペソ書を理解出来るほど成長した信仰を持っていた。それだけではなく身よりのない老人のケアー・グループも作っていた。パウロがエペソの長老に告別説教をした時、異端を教える狼に気をつけるようにと忠告したが(使徒二十)、彼らは忠実に守った。
ヨハネは彼らが間違った教えのニコライ宗を退けたことをほめている。ニコライ宗はこのあたり一体に悪い影響を与えていた(二15)。エペソの信徒たちは正統的な信仰を持っており、多くの困難の中で忍耐を持って労し主と人々のために尽くしてきた(3)。このようにエペソの人々はしっかりした信仰を持っていたのである。
ところが初代から三十年以上も経った教会は正統信仰は持っているが、愛を失っていた。それでヨハネは「はじめの愛を離れた」と譴責したのである。パウロは、どれほど信仰の奥義を知っていても愛がなければ無益だと言う(第一コリ十三1)。完全な行為は出来なくても、動機が愛なら主は喜んで下さる。
初めの愛とは主の救いの恵みに感動した純真な信仰である。エペソへのメッセージは「主への愛を持ち続けよ」である。
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黙示録二章8〜11節(10後半)
《死に至るまで忠実であれ。そうすれば、 いのちの冠を与えよう。》
スミルナはエペソと並べられるほどの町で商業都市として栄えていた。だから多くの市民は富んでいた。そのような町で教会員の多くは貧しく苦難の中にいたのは理由があった(9)。
一つはローマ時代のキリスト者は下層階級の者が多かったからであう。また当時クリスチャンだと言うだけで暴徒によって財産を奪われることがあった。これも貧しさの原因だと考えられる。さらに苦難に会っていたのは、神を信じているはずのユダヤ人がキリスト者を迫害したからである(9)。
ヨハネは迫害は十日間ほど(短い期間の意味)だから恐れることはないと励ました。励ましの言葉は「死に至るまで忠実であれ」である。死に至るまでとは一生涯忠実であれという意味。忠実な人とは、信頼すると決めたらどの様なことがあっても信頼の思いを変えない人のことである。ヨハネはこの信頼をイエス・キリストに対して持つべきであると教える。
ところが私たちは時として祈りの答えがないと神への信頼感が薄れ、揺れ動くことがある。嬉しいことにスミルナの信徒には「責むべきことがある」という言葉がない。彼らは忠実な信仰を持っていたのである。
スミルナへのメッセージは「生涯信仰を全うせよ」である。
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黙示録二章12〜17節(17)
《・・勝利を得る者には、隠されているマナ を与えよう。また、白い石を与えよう・・。》
エペソ、スミルナが商業の町であるのに対してペルガモは政治と文化の都市であった。またBC29皇帝アウグストの像が建てられて以来皇帝礼拝の盛んな町になり、他のギリシャの都市のように偶像も多く祭られていた。 偶像の一つにアスクレピオスの神殿がある。それは蛇を象徴とする。創世記にはサタンを蛇にしているから、「サタンの座がある」と言うのもこの偶像や皇帝の像があったからであろう(13)。アンテパスについては詳しく分からないが、皇帝礼拝拒否のために殉教した人である。偶像礼拝は拒否することが出来ても、剣を持つ現存の皇帝を拝むのを拒否することは難しい問題である。
これは戦時中のキリスト者がひどく経験した。天皇を拝み彼のために死ななければ日本人ではないと言われた時代だったからである。私たちの周りにも偶像はたくさんあるが、問題は仏壇であろう。先祖を大切にし花を飾ることはキリスト者もすることであろうが、そのことと先祖を拝むこととは意味が違う。祈りは神にする行為だからである。
私たちは信仰を守り続けたい。その人には永遠の命であるマナが与えられる。また白い石が与えられる。それは私の名が記された天国への証書である。
信仰を持ち続けるように、主は助けて下さる。
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黙示録二章18〜29節(25)
《ただ、わたしが来る時まで、自分の持っ ているものを堅く保っていなさい。》
テアテラは毛織り、染色、皮なめし、銅材工などが盛んで多くの同業組合があった。紫布の商人ルデヤはこの町の出身である(使徒十六)。この町の教会員は愛と忍耐の信仰をもって奉仕をしており、主はこれら全てを知っておられる。誰が知らなくても主が知っていて下さることは慰めである。
しかし主はイゼベルの行為がこの町で広がっているのを悩んでおられる(20)。イゼベルはアハブ王の妻で外国から偶像、神殿売春、占いをイスラエルに持ち込んだ女である。また、策略を講じて他人の土地を自分のものするような、毒婦でもある。イゼベルの罪のどれかがテアテラの町にもあり、同業組合の中で行われていたと言われている。この当時、信徒たちは「サタンの深みまで知らず」まだ恐ろしい悪には染まっていなかった。しかし同業組合に加盟する信徒は気をつけるべきであった。
快楽の誘惑はどの時代にでもある。私たちのすぐ近くにもある。悪と分かるものを親友が持ってきたら、私たちはどの様に対処するだろうか。主は「私が来る時まで、自分の持っている者を堅く保っていなさい」と言われる。
信仰の崩壊は一挙に来るものではなく徐々に来るものである。再臨を覚え目覚めるべきである。「清くあれ」がメッセージである。
聖書日課の目次へ戻る黙示録三章1〜6節(3前半)
《だから、あなたが、どのようにして受け たか、また聞いたかを思い起して、それ を守りとおし、かつ悔い改めなさい。》
サルデスはこの地方の行政の中心地で豊かな人々の多い町であったがペルガモのような迫害はなかった。むしろ問題は教会内が無気力な信仰に陥っていることであった。主は「生きているというのは名だけで、実は死んでいる」と非難している(1)。かつては生き生きした信仰を持ち活発な働きをしていたのに、今はどうしたことか死んだようになっている。恐らくみ言葉の食物を食べていなかったからであろう。詩篇には「やせ衰えたのは食べることを忘れたからです」(百二4)とあるように、み言葉を受けなければ命は衰える。このような状態にあっても「わたしは命の書から消すようなことを決してしない」言われているのは憐れみである。かつては命に満ちた信仰だったのに今は命が消えそうである。そこでヨハネは「あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起こして」ほしいと過去を振り返らせている。もう一度立ち上がって欲しいからである。
長い信仰生活の中では、誰でも挫折したり躓きを覚えたりするものである。どんな人でも優等生の信仰生活を過ごしてきたと言える人はいないだろう。サルデスへのメッセージは「過去のよい評判に頼るな」である。そのままで萎んでしまっては残念である。
信仰のリバイバルを!
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黙示録三章7〜13節(8)
《・・見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。・・》
ヒラデルヒアの教会へのメッセージは「力が小さくても恐れるな」である。私たちはしばしば自分は小さく力が弱いから何もできないと言う。もし会社でそのようにばかり言っているなら上司から「やめてもいいよ」と言われるかも知れない。しかしキリストはそのようには言われない。
本来伝道は自分の力で出来るのではなく、聖霊のお働きがあるので出来る。だから自分の能力を見て、主の役に立たないなどと言うべきではない。むしろ私たちが覚えることは、キリストこそ天国への門を開くカギを持っており、そのお方が「わたしは、あなたの前に、だれも閉じることの出来ない門を開いておいた」と言われたことである。私たちのすることは、その門まで連れて行きさえすればよいのである。
この教会の人々は力が弱いと言っていたが、すばらしいものを持っていた。それは「私の言葉を守り、私の名を否まなかった」ことである(8)。ペテロでさえ主を知らないと言ったのだから、ヒラデルヒヤの信徒がキリストを否まず、主のみ言葉を守っているとすれば、むしろ内には眞の力を持っていたのではないだろうか。
人はそれぞれの賜が与えられている。それに従って「自分の持っているものを堅く守って」信仰を全うしようではないか。
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黙示録三章14〜22節(20)
《見よ、わたしは戸の外に立って、たた いている。だれでもわたしの声を聞いて 戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。》
二、三章の七つの教会について、ある人は教会歴史の七つの時代区分だというが、むしろわたしは教会の歴史にはどの時代にも七つの教会のような教会があると述べていると思う。さてそのひとつにラオデキヤ型の教会がある。ラオデキヤは商業の盛んな町であり人々は豊かであった。この町は偶像礼拝が盛んでなく迫害もひどくなかった。環境は平和で良かった。ただ人々は裕福を楽しんでいたため自己満足に陥り、なまぬるい信仰になっていた。キリストを知りながら積極的の奉仕をするわけでなく、ただ無関心で教会生活をしていた。
主は「冷たいか熱いか」を願っている。それは信仰に賛成か反対のどちらかであるようにというのではなく、真剣な信仰態度を持って欲しいと言う意味である。なまぬるい者を主は「吐き出そう」と言われるが、私たちを捨てると言うことではない。主が捨てなくても自分の方から挫折するのが危険である。熱心さとは熱狂的なことではない、み言葉に親しみ礼拝を守り、自分のことだけではなく他者のために関心を持って祈ることである。またもし主のために何かが出来るなら、それをさせてもらいたいと言う心構えである。主を外に立たせていないだろうか。
主の内住の信仰こそが信仰の基礎である。
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黙示録四章1〜5節(4)
《また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。》
二、三章は教会の時代を描き四章からは終末の時期を描いている。ヨハネが礼拝をしていたとき教会の様子を主から知らされていたが、教会の時代が終わり終末時が来るとどの様なことが起こるかを示された。四、五章はその第一幕で天における礼拝の様子である。 @まず、御座にいる主なる神が示される(2)。座とは王が座す席である。碧玉や赤めのうは神の栄光をあらわす象徴であり、稲妻や雷鳴のような声は威厳に満ちた神の声である(5)。栄光の神は主権者であり、全ての者は主の前には跪く。
A神の御座の周りには二四人の長老が座っている(4)。彼らは全ての信徒たちを表す。神の座の周りには虹があるがこれは契約のこと。キリストによる贖いの契約の故に長老たちは神の側にいることが出来る。また長老たちは白い衣を着、冠を与えられている。白い衣は清い心と勝利者の衣服を意味する(七14、六11)。これはいずれも主イエスによって無代価で与えられたものである。
Bまた御霊が長老たち共におられるのを見る(5)。灯火は教会のこと。七つの霊とは一つ一つの教会に与えられている聖霊である。聖霊は教会がどんな状況にあっても何時も共におられる。そのお陰で教会は信仰を保ち続けることが出来たのである。
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黙示録四章6〜11節(8)
《「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。》
なおも続いて神の座の周りの情景が描かれている。ガラスの海は神の栄光の象徴であろう。御座の周りには獅子、雄牛、人、鷲のような四つの生き物がいる(7)。不思議な言葉であるが、ある人々は獅子は獣を、雄牛は家畜を、鷲は鳥を、人は人類を表していると言う。これらの生き物には翼があり目で満ちている(8)。目は見つめる器官、翼は行動器官である。つまり全ての被造物が全存在をあげて神を賛美し礼拝している様子を描いているのである。どのように賛美しているのか。 @聖なる神への賛美である。聖とは全てのものを越えた存在者のこと、また罪のない清い方という意味。人は近づくことが出来ないので神の側から近づいて下さったのである。 A全能者への賛美である。全能とは何事でも出来るという意味であるが、勝手気ままに何事でもするということではない。主権者なる神が御心に従ってなさることであり、その全能は救済に表われる。難渋している者にとって、全能の神が共におられることは慰めである。
@昔いまし、今いまし、やがて来るべき方への賛美である。神は歴史を支配される方であり、私たちの人生の歴史を守り導いて下る方である。礼拝とはこの神を拝むことであり、
キリスト者の生活の基盤はこの方にある。
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黙示録五章1〜5(5)
《・・「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビ デの若枝であるかたが、勝利を得た・・」 》
四章では全ての長老と被造物が神に礼拝を捧げている。五章での礼拝の対象は、小羊なるキリストである。小羊に捧げる礼拝の描写の前に、神の手にある巻物について述べられている。巻物は封印されていて誰も見ることが出来ない。巻物の内容は六章以下で封印が解かれるに従って分かってくるが、終末における世界の様子である。
しかしこの時点ではどの様なことが展開するのか分からない。確かに歴史の展開を知る者は神以外にいないのは当然のことである。とは言え、今迫害にいる愛する者のことを思うと、今後どのように状況が変わっていくのかが分からないのでは、ヨハネにとってはつらい。それで彼は泣いた(4)。その時長老の一人が巻物を解くのは「ユダ族の獅子、ダビデの若枝である方」だと告げる。これはイエス・キリストのこと。これらのタイトルはメシヤに付けられる名称であって、王的権威を持つ勝利者メシヤである。このお方が歴史の進展を見ていて下さり、その先行きを知っておられる。
私たちの人生にしても、泣くような悩みに会い、どのように神は導いて下さるのであろうかと悩むことがある。そのような時、「善にして善を行う神」が、巻物を手にしていて下さることを覚えていたい。
主は栄光を現して下さる。
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黙示録五章6〜14節(9)
《 ・・「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。」・・ 》
神の前には「四つの生き物」(全被造物)と「長老」(全キリスト者)がおり、その真ん中に「小羊」(キリスト)が立っている。小羊には二つの面がある。
@キリストは悩みと痛みを知る方である。小羊が「ほふられたと見える」とあるのは、かつて十字架で受けた傷が、天においてもなお残っていることを示す。彼は父にも人にも捨てられ、ただ独りで十字架に死なれた。
痛みと悲しみを知る方である。
A一方、キリストは全てを知る神である。彼には七つの目と角がある。目は全知、角は力の象徴。七は完全の意味。即ち主イエスは聖徒たちの悲しみを全て知っておられる神である。このお方が巻物を解いて下さる。迫害に遭っている者の痛みを良く知るのは、イエスである。イエスの目を通して人生を見るとき、私の人生はこれでよいのだと分かるようになる。だから聖徒たちは、小羊の前にひれ伏して祈りを捧げたのである(8)。
誰でも自分の悩みを人に訴えたくなることがある。しかし誰が真に私の痛みを分かってくれるだろうか。イエスだけが私たちの全てを知っていて下さる。イエスは個人的な救いでなく、全人類のために救いを完成されたお方。贖われたものは大声でこの小羊をほめ讃え、栄光を捧げるのである。
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黙示録六章1〜8節(2後半)
《それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上に もなお勝利を得ようとして出かけた。》
小羊なる主イエスが、第一の封印から次々に解かれたとき、多様な馬が出てくる。このような書き方を黙示文学と言って、この時期に三百年ほど流行していた。この形式でヨハネは、終末の苦難の状況を、主の啓示として描くのである。
さて、第一は白い馬である。十九11の白い馬はキリストを指すが、六章ではキリストは小羊であり白馬には別の意味がある。騎士は圧倒的な勝利者である。彼は武力で世界を支配し一時的ではあるが、見せかけの平和を築く者である。
第二は赤い馬。この騎士は平和を奪い、互いに殺し合う世を作り出す。戦争はどの時代にもあったが、終末時にはもっと恐るべきことが起こるという。
第三は黒い馬。これは戦争や不順な季節のために飢饉があり、食糧難の時代が来ることを示す。騎士ははかりを持っている。「小麦一枡は一デナリ、大麦三枡は一デナリ」とは飢饉のため物価が上がることを表している。 第四は青白い馬。これは世界に大規模な死をもたらす。第四の封印までは、戦いと自然がもたらす災害である。誰も災害を望む者はないし、世界的な平和連盟も作られているのに、戦いは絶えない。原因は人の罪にあり、神の裁きの表れである。
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黙示録六章9〜17節(11)
《・・「彼らと同じく殺されようとする僕仲 間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」・・》
第一から封印が解かれると、徐々に災害の度合いがエスカレートしてきている。第五の封印では、殉教者が「早く裁きの時を到来させて欲しい。」と神に訴えている。これに対して、殉教者の数が満ちるまでもうしばらく待って欲しい、との神の声があった。これまでの歴史において、宣教のために多くの犠牲が支払われた。パウロも殉教者の一人であるが、彼はピリピ教会に「あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、私の血をそそぐことがあっても、私は喜ぶ」と書いている。それは、主に従う者が十字架を背負って歩く信仰を表すものである。神が殉教者が起こるのを願うはずはないが、一人でも多くの者が救われることを願っておられ、そのために「もうしばらくの間」犠牲を払って欲しい、と頼んでいるのである。
第六の封印が解かれると、天変地異が出てくる。主イエスはこれと同じ内容を、マルコ十三24以下に述べておられるから、黙示録がヨハネの独特なメッセージだと言うわけではない。ヨハネはこのような天変地異は「御怒りの大いなる日」であり、神の裁きだという。
私たちは大災害が起きるのを見て、世の終わりが来たと、短絡的に考えてはならない。しかし、再臨について、何時も目覚めていなさいとイエスが教えられたことを覚えるべきである。
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黙示録七章1〜17節(14後半)
《「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」》
これまでに見た六つの封印は、再臨の前に艱難の時代が来ることを示している。ところが第七の封印を開こうとする時、本章で天に挙げられた人々の礼拝の様子が挿入される。終末期にはこの世界では希望を持てなくなるだろう。しかし四人の御使いが大嵐をコントロールしている(1)。同様のことをパウロは第二テサ二章で述べる。即ち終末期には「不法の者(サタン的な悪)」が人を挫折させようとするが、それを「阻止する者(聖霊)」がおられるので恐れることはない。十四万四千人は、全ての神の民を意味する象徴的な数である。この神の民にはいくつかの特徴がある。
@彼らの額には神の印が押されている(3)。パウロは信徒には聖霊の印が押されると述べるが、それは神が所有者であることを意味する。だから誰も神の民を損なうことは出来ない。
A彼らは白い衣を着ている。それはイエスの血によって罪洗われた衣である。また白い衣は多くの艱難を通過しつつも、それに打ち勝ったしるしである(14)。
B彼らは天で安息を与えられ神の恵みをほめたたえる(15)。どの様な艱難があっても、苦難を忍びぬかれた小羊イエスを礼拝できることは、栄光であり慰めである。初代の人々は迫害で血を流したが、天を仰ぎ見て望み、生きたのである。
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黙示録八章1〜13節(13)
《・・一羽のわしが中空を飛び、大きな声で こう言うのを聞いた、「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。・・」 》
第七の封印が解かれたとき、短い静寂の時がある。嵐の前の静けさのような厳粛な沈黙である。この静けさの中で聖徒の祈りが捧げられている。祈りの内容は記されていないが、正しい神の裁きを求める祈りではないかと言われている(六10参照)。第七の封印が解けるとラッパが吹き鳴らされる。本章には第四のラッパまで書かれているが、それは封印の時よりも激しい大災害の様子である。第一のラッパの時、地の三分の一が破壊された。地球大におよぶ破壊がなされるのは、人がもたらす自然破壊によるのであろう。ヨハネはそれを神の裁きだと言う。このような破壊は、ヨハネの時代には考えられない事だっただろうが、それが現代起こっている。第二のラッパは海の破壊、第三のラッパは川の破壊であって、飲み水不足のために人は死ぬ。第四のラッパによって破壊は天体に及ぶ。その結果天からの光は人間まで及ばなくなる。
これらの災いは、出エジプト記の十の災いに似ている。本章の終りに「災いだ」と叫ぶ鷲がいるが、神の業を知りながらも悔い改めないパロ王を思い、主の救いを受け取らない人々への警告である。 「今は恵みの時、救いの時」であることを覚えて、一人でも救われるように努力したいものである。
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黙示録九章1〜12節(4後半)
《額に神の印がない人たちには害を加えて もよいと、言い渡された。》
先の四つのラッパは、神の裁きが自然界に及ぶと警告するのに対して、第五のラッパからは、人間の世界に及ぶ神の裁きについて記している。天から落ちた星はサタンであろう(イザヤ十四12参照)。底知れぬ穴はサタンや悪霊などの住むところと考えられる。その穴から煙と共に不気味なイナゴが出て来て猛威を振るう。彼は不気味な姿形をしていて、まるで重装備をした軍隊である。彼はサソリのような毒と痛みを人々に与え、しかも額に神の印のない者たちに害を及ぼす。「額に神の印がない人」にイナゴが襲撃するとあるから、神を信じない人々の中に何か恐るべき事が起こるのだろう。
社会が進歩し生活が便利になったとしても、神を離れた文化は人を生かすよりも、殺すことになるのではないだろうか。サソリの毒によって刺されたものは、あまりの苦しさに死にたい思いになるが、死ぬこともできない。生きているのが苦しい時代が来るとすれば、恐ろしいことである。今の時代には、そんな前兆があるような感じがする。アバドンとかアプルオンは「滅ぼすもの」という意味である。第五のラッパは、終末期には恐ろしいばかりのサタンの働きがあるという趣旨である。イナゴの害を受けない、額に神の印を持つ者が多く起こればと思う。
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黙示録九章13〜21節(21)
《また、彼らは、その犯した殺人や、まじないや、不品行や、盗みを悔い改めようとしなかった。 》
第五のラッパは、人から生きる希望を奪い取る時代が来るという警告である。ところが、第六のラッパでは更に災いが増幅し、人々を殺す行動に及ぶと言う。ユウフラテ川の四人の御使い、不気味な馬等々はサタンの働きを示すものである。彼らは二億の騎兵隊を組織する、つまり考えられないほど大きい攻撃力を持つサタンの力が、終末時には発揮されるというのである。
なぜそのように惨禍が増すのか。それは20節以下にあるように、人々の罪深さの故である。人々は罪を犯しながらそれを少しも悪いことだとは思わない。その罪とは、神に対する背信行為であって、悪霊を信じ偶像を礼拝すること。そして殺人である。最近は人命を軽く見る傾向にある感じがする。また不品行も罪として挙げられる。性の堕落は一般家庭にまで及んでいる。性が罪に汚染されると家庭は破壊される。それが幼子たちに及ぼす影響は計り知れない。そして盗みの罪である。このような罪を犯しながら、「悔い改めようとしない」態度が問題であり、人間社会は危機的である。
四人の御使いがつながれている状態なら、サタンの働きも幾分制限されているようであるが(14)、それが解かれるとすれば世の混乱はどれ程であろうか。それが終末というものであると警告する。
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黙示録十章1〜11節(11)
《その時、「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」と言う声がした。》
第七のラッパが鳴る前に、二つの出来事が起こる。一つは神の裁きと救いのメッセージがヨハネに告げられることであり(十章)、他は艱難の時代に人々に福音を語ることである(十一章)。
まず天から神のみ使いが下ってくる。顔は太陽のように輝き虹を頭に持つ。彼は開いた巻物即ち主のメッセージを持っている。その内容は何か?。ヨハネはそれを書きとめようとしたが禁じられた。しかも神はその預言が成就するときが近いと言う。今度はその巻物を受け取り、さらに食べなさいと言う。そこでヨハネが巻物を食べると密のような甘さと共に苦味を味わった。「甘さ」とは福音の恵みの豊かさを意味し、「苦味」は裁きの厳しさを意味する。神の言葉には救いと裁きという両面がある。先に示されたメッセージを書きとめるなと言われたのは、神の裁きの厳しさがあるからだと考えられる。
だから、自分勝手な生き方をして来た者には、厳しい裁きが待っている事を覚えるべきである。しかし他方では、神は救いの恵みを備えておられ、それを知る者はみ国の豊かさを知っている。そのような両極を見ると、ヨハネは滅びの苦さを思ってたまらない思いを持つ。そこで彼は多くの民族に、神の言葉を語ろうと決心したのである。
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黙示録十一章1〜14節(3)
《「そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。》
第七のラッパが鳴る前にもう一つの事が述べられる。それは患難の中で、キリスト者が証しをすることである。聖所の外庭では不信者なる異邦人が四二ヶ月間(三年半)聖なる都を踏みにじる(2)。一方、二人の証人が一二六〇日(三年半)福音を語る(3)。証人とは教会の人々のこと。サタンが激しく戦いを挑んでくるときにも、キリスト者は福音を語らなければならない。この証人にはオリブの木(聖霊)と燭台(光)が与えられている。(4)。彼らは危害から守られ、神の力を表す特別な賜物が与えられている(6)。三年半という短期間であるが、救いの証が出来るのは神の憐れみの時である。この証し人の活動が終わると、獣なるサタンの働きが活発になる(7)。証し人を殺した獣はイエスを十字架にかけたものである。証し人の殉教を見て、サタンの仲間である世の人々は喜ぶ(10)。恐ろしい背信の世界である。しかし一度は死んだと思われる証し人は復活し、
「ここに来なさい」という神の声によって天に挙げられる(11、12)。
終末時には患難の時代が来る。それは自由主義者が、文化の発達によって人は良くなり生活も良くなる、と言うのとは違った展開である。真に人を救うのは神の福音であることを覚えたい。
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黙示録十一章15〜19節(17)
《今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。 》
第七のラッパが鳴ると災いが起こると思われたが、そこには賛美の声が聞かれた。この賛美の声は、殉教したが生き返り「ここに上ってきなさい」と言われて主のもとに帰って行った人々のものであろう。これらの賛美を聞きながら二四人の長老は、「今いまし昔いませる、全能者にして主なる神よ、大いなるみ力をふるって支配なさったことを、感謝します」と言い、小さい者も大きい者も、天に引き上げ報いを与える神を誉め讃えるのである。しかもその時彼らは「天にある・・聖所の中の契約の箱」を見た(19)。契約は神と民との約束である。神が世界を救うと約束された言葉である。
日本ではキリスト者は少数者である。しかし真のキリスト者は、キリスト教国といわれる欧米であっても、少数者のように見える。殉教のようなことは現代では少ないかも知れないが、少数者ゆえの戦いは様々な形で私たちに迫っている。私たちはそのような困難の中で、信仰の戦いをすることを余儀なくされる。しかし、ただこの戦いは自分のための戦いではなく、キリストを信じる戦いである。そのような者こそ人生の戦いを終えたとき「ここに上れ」と言われて主のもとに行き、大声で贖い主を賛美する者となるのである。
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黙示録十二章1〜17節(6)
《女は荒野へ逃げて行った。そこには、彼 女が千二百六十日のあいだ養われるよう に、神の用意された場所があった。》
第七のラッパで予期される終末の災いは、まだ見えてこない。実際には十六章以下の、「七つの鉢」が第七のラッパの内容である。その災いの前に、十二章では初代教会の頃からのことを述べる。神とサタンとの戦いは、終末時だけではなく、初代教会からすでに始まっている。
さて一人の女(神の民)が男の子(イエス)を産んだが、その子を竜(サタン)が食べようとした(4)。蛇とか竜はサタンの象徴である。これは幼子イエスを殺そうとしたヘロデのことである。サタンは贖いの完成を阻止しようとしたが、イエスは救いを成し遂げて神のもとへ帰られた(5)。一方、女(神の民=教会)は竜の迫害を受け、それから逃れるために荒野へ逃げた。荒野では一二六〇日間(三年半)、神の保護を受ける(6、14、十一5参照)。サタンは基本的にはイエスによる救いの完成と人々の救いを妨げようとする。7節からは神のみ使いとサタンとの終末的な戦いを描くが、究極的には竜は滅ぼされ、天において神の民が殉教者と共に、小羊による勝利を賛美する。イエスを陥れようとしたサタンは、救われた者さえも巧妙に不信者に返らせようとする。
私たちはサタンに侵入されないよう心しつつ、小羊の血と証の言葉をしっかり持って、勝利を得なければならない。
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黙示録十三章1〜10節(10)
《とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。 》
本章には、二つの反キリストが出てくる。一つは権力、武力によって教会を迫害する者。二つは偽りの教えによって、教会を破壊する者である。ここでは、一つめの反キリストについて記されている。
獣は海から現れるが、これは十一7に既に出ている。獣は竜(サタン)を拝み権威を受けている(4)。獣はサタンの部下であろう。この獣の圧力を受けて「命の書に名を記されていない者」は獣を拝む(8)。この獣はローマ皇帝を指していると解釈する者がいる。当時の権力者も、サタンの手下の一人であろうが、世界の歴史にはこのような者はしばしば出てきた。獣は徳川時代にも、第二次世界大戦の時にもいた。当時の為政者は自らを神とし礼拝を強制し、それに反対する者は迫害された。反キリストの働きは、日本だけでなく世界の何処にでも出ている。多分ここに見られる獣は終末時のサタン的な力を持つ権力者であろう。天から投げ落とされ究極的な敗北を知っている竜は(十二9)、何時の時代でも暴力(第一の獣)や偽預言者(第二の獣)によって多くの人々を破壊しようとする。ヨハネはそのような時代にあっても信仰に踏みとどまっている「聖徒たちの忍耐と信仰」をほめている。健全な信仰を持ち続けられるよう聖霊の助けを頂きながら目覚めていたい。
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黙示録十三章11〜18節(18)
《・・知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。・・》
此処には小羊のような獣が出てくる。外面は優しそうであるが獣であることに変わりはなく、第一の獣が権力で圧迫するに対して、第二の獣は偽預言者のようである。どの権力者も自分の地位を堅くするために、宗教的な背景を作ろうとする。ローマ皇帝の多くは自分を神として拝ませ、神的権力をもって民を制圧しようとした。ネロ帝(AD54〜68)は暴君であったが、ドミチアヌス帝(AD81〜96)は神として自分を礼拝するよう強制した。このような権力者は、時には打撃を受けて傷つくが、また息を吹き返し権力を回復する(3、14)。獣は像を拝まない者を殺し他の者には刻印を押す。七章ではみ使いが神の子等に印を押したが、サタンはそれと同じ事をする。印とは所有を表すものである。
さて、獣の数字で六六六があり、知恵のある者がその意味を解くようにと言われる。
当時、文字に数字を当てはめ隠語とする表現があった。それによるとこの数字は、ネロ帝ではないかと言われる。ただ此処で私たちが覚えるべきなのは、獣はローマ時代のことではなく、終末時のサタンの働きだと言うことである。暴力も恐ろしいが、表面的には優しくても、実はその陰に獣の姿があるのを知らないことは、もっと恐ろしい。
本物と偽物を見分ける信仰的知恵を持つべきである。
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黙示録十四章1〜5節(4後半)
《小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる 初穂として、人間の中からあがなわれた者である。》
獣の活動の後、再び天の光景が見える。十三章には獣に従った者たちのことがあり、十四章には小羊に従った十四万四千人のことが述べられている。聖徒たちの特色を何と言っているか。@彼らは小羊と共にいる(1)。バプテスマのヨハネは主イエスを「世の罪を除く神の小羊」と紹介したが、身代わりとなって死なれた小羊キリストである。この方のお陰で今は天に入れられている。だから神を賛美するのである。Aその礼拝の参加者の額には小羊と父の名が記されている(1)。それは獣の印を押された者とは対照的である。神の印が押されているのは、主の所有であるとの明らかな宣言である。B天に挙げられた人々は「新しい歌を歌う」(3)。聖歌には、憂いの中にも慰めがあるとか、世の嵐にも平安があるなどの歌があるが、天ではそのような歌ではなく、むしろ五章の歌のように喜びと神をほめ讃える賛美が歌われるのではなかろうか。C聖徒たちは純潔な人々である(4)。純潔とは倫理的に清いことと偶像を拝まないという意味である(二20)。同様に5節には傷のない者と言われている。D聖徒は小羊の行くところへは何処にでも行く(4)。自分の好みの時だけイエスについて行くのではなく、何時でも主を第一にするのである。
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黙示録十四章6〜20節(7)
《・・「」神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。」・・》
@一人のみ使いが「永遠の福音」を携えて飛んでいる(6)。それは、救いの恵みが全世界に宣べ伝えられることである。実は宣教の役割は、天使と言うより救われた者の務めである。主イエスは「み国の福音は全世界に宣べ伝えられ、それから最後が来る」と言われた(マタイ二四14)。終わりの時が来る前に、福音は伝えられる。
A次に第二のみ使いが「バビロンは倒れた」と告げる。それはローマである(8)。その中には獣に仕えた者も含まれる。ローマとは自分を神であると主張する皇帝のいるローマである。このみ使いのメッセージの要点はローマ市の滅亡を言うのではなく、神に反逆する者に神の裁きが終末的に臨むということである。
B終末の裁きは神の定めによる(15)。世界の歴史には国家、民族の盛衰がある。これを社会学的にも分析できるが、神の目から見ると神の摂理と定めの歴史と見る事が出来る。裁きも神から出る。ここに鎌を手に持つ「人の子」がいるが彼はキリストである。彼の指示のもとに天使が刈り入れが間もなく始まろうとする事を告げる。いよいよ十一章にある第七のラッパの災いが始まろうとする。神の裁きを厳粛なことと思う。今のこの世における人生を畏れを持って生活したい。
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黙示録十五章1〜8節(2後半)
《このガラスの海のそばに、獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が、神の立琴を手にして立っているのを見た。》
裁きについて始めに封印があり、次にラッパがあった。第七のラッパはこれから出てくる七つの鉢に展開し、災害は頂点に至る。本章は鉢の裁きの序章である。黙示録が書かれたのはAD九〇年頃で、ドミチアヌス帝が支配した時代。彼は自分を神とし、組織を用いて徹底的にキリスト者を迫害した。キリスト者と分かると、ろくに物を売ってくれないため飢えに苦しむ者がいた。そのような状況にいる人々にヨハネは、神は世界を支配する神で、正しい裁きをなさる方だと告げて励ますのである。ヨハネは出エジプトの出来事を引用する。イスラエルはエジプトで奴隷として辛酸をなめた。しかしモーセによりエジプトを脱出する。彼らが紅海まで来たときパロの軍隊は彼らを追撃し襲ったが、この海がパロとイスラエルを滅びと救いとに分けたのである。紅海は「ガラスの海」と言われている(2)。神はこの海によって最後的にパロを裁いた。だから彼らはモーセの歌を歌ったのである。同じようにドミチアヌスのような凶暴な迫害者が終末時にいても、裁きの火の海で決着をつけて下さる。紅海を渡り、み国において「全能にして主なる神よ、あなたのみわざは大いなる、また驚くべきものであります」と歌う幸いを覚えていたい。
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黙示録十六章1〜11節(9)
《人々は、激しい炎熱で焼かれたが、これらの災害を支配する神の御名を汚し、 悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった。》
神の最後的な裁きが七つの鉢として現される。封印やラッパの災いは限定的であったが、鉢の災いはこの世全体に及んでいる。罪に対する最後的な神の裁きの厳しさを見る。第一の災いは獣を拝む者に悪性のでき物ができること。これは出エジプトの十の災いと似ている。医学が進みどんな病気でもなおると思われる時代である。しかしそれでもなお難しい病気が出てくる。第二、第三は海と川が血のようになって生物がみな死ぬこと。これもモーセの時の十の災いに似ている。自然が破壊され海も川も死んだようになっている。第四は太陽が余りに熱くて、焼け死ぬほどに苦しくなること。第五は獣の国が暗くなり、神を呪うほどの苦しい思いをする。これらは自然界の異変を示唆する出来事である。既に見たように、パロ王はモーセを通してさまざまな災いにあい、それが神の裁きだと認めているのに悔い改めようとしなかった。パロは心を頑なにしたのである。同様に、最後的な神の裁きにあっていても、人々は罪を悔い改めない(9、11)。人が神に聞かないとき、決して自分の考えを変えない。このような強情な魂が終末時の人々の心なのであろうか。
救われるのは教えられやすい柔らかい魂であって、そのような人こそ恵みにあずかることが出来る。
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黙示録十六章12〜21節(17後半)
《すると、大きな声が聖所の中から、御座から出て、「事はすでに成った」と言った。》
第六の鉢がユウフラテ川に傾けられると、川はかれた。川の東にはパルテヤ人がいて、西方へ侵略し西の勢力と激突するであろう。他方、竜(サタン)と獣(サタンの部下)と偽預言者(サタンの部下)から、蛙(汚れた生き物)のような汚れた霊が出る(13)。 要するにサタンと汚れた霊どもは、王たちの心を混乱させ、戦いを起こさせようとするのである(14)。戦いに加わる王はエジプトか、ローマか、あるいはパルテヤか。彼らはハルマゲドンに集まる。ハルは丘の意味、マゲドはガリラヤの一角の町の名。ここは平原で王たちがしばしば戦った戦場であり、ヨハネはハルマゲドンを、神とサタンが衝突する象徴的な場所と見たのである。終末時には、世界的な国と国との戦いが起こることを示唆している。これは人がもたらす災いである。
第七の鉢が空中に傾けられると、地震の災害で見られるように、自然災害が地球大で起こる(18)。天変地異が起こるとイエスも言われた。島も山もなくなるほどである(20)。またバビロンが三つに裂けるとあるように、都市の大破壊が示唆されている。世界に及ぶ災いを私たちは止めなければならないが、人間の持つ悪魔性がサタンに利用されて世界を破壊に至らせる。それが神の手の中で起こる。
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