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聖書日課 |
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2000年 9月 |
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1 黙示録17章1〜6 |
2 黙示録17章7〜18 |
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3 黙示録18章1〜8 |
4 黙示録18章9〜24 |
5 黙示録19章1〜10 |
6 黙示録19章11〜21 |
7 黙示録20章1〜6 |
8 黙示録20章7〜15 |
9 黙示録21章1〜8 |
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10 黙示録21章9〜27 |
11 黙示録22章1〜15 |
12 黙示録22章6〜21 |
13 創世記1章1〜13 |
14 創世記1章14〜25 |
15 創世記1章26〜31 |
16 創世記2章1〜14 |
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17 創世記2章15〜17 |
18 創世記2章18〜25 |
19 創世記3章1〜7 |
20 創世記3章8〜13 |
21 創世記3章14〜24 |
22 創世記4章1〜7 |
23 創世記4章8〜16 |
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24 創世記4章17〜26 |
25 創世記5章1〜32 |
26 創世記6章1〜8 |
27 創世記6章9〜22 |
28 創世記7章1〜24 |
29 創世記8章1〜19 |
30 創世記8章20〜9章17 |
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黙示録十七章1〜6節(1)
《それから、七つの鉢を持つ七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。多くの水の上にすわっている大淫婦に対するさばきを、見せよう。」》
本章で神は「大淫婦」を裁くと告げられる。大淫婦は「多くの水の上に座っている」とある。水があらゆる国民を意味しているので(15)、大淫婦は諸民族を統治するローマを指している。しかし大淫婦はローマを意味するだけでなく、それによって表されるサタンのことである。淫婦と言われるのは、道徳的に不品行で堕落しているのでそのように呼ばれているが、神以外のものを礼拝する霊的な姦淫者なので淫婦と呼ばれるのである。彼女は神にたいして不誠実な者である。即ち皇帝は自らを神として礼拝を強制する大淫婦である。この女は「赤い獣」に乗っている。この獣はすでに十三章に出てくる。獣はサタンなる竜から権威を受けていて七つの頭と十の角を持っている(3)。七つの頭や十の角は七人のローマ皇帝とその部下たちを意味している。それらもまたサタンの部下である。この女は聖徒たちを殉教に追いやった(6)。
ローマが権力を持って世界を統治していても神は裁きなさる。ローマへの裁きは終末における神の裁きの予表であって、最終的には神はサタンを断罪する。ヨハネが勧めるように、キリスト者は神のみを礼拝し、霊的な姦淫者になってはならない。
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黙示録十七章7〜18節(14)
《彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る 》
女と女の乗った獣についての説明が続く。ヨハネは獣について「昔はいたが、今はおらず、そしてやがて底知れぬ所から上ってきて、ついには滅びに至るもの」と言う(8)。サタンがこのように呼ばれるのは、主なる神が「今いまし、昔いまし、やがて来るべきかた」と対照されるからである(一4)。私たちは移り変わる世に従うのではなく、永遠に変わらない主に従うべきである。
9節に、七つの頭のことがまた出てくるが、それは七人の王のことである。そのうち五人の王(ローマ皇帝)は既に過去の者であり、第六の王が間もなく出てきて、さらに未来において七番目の王が出てくる。これらは世の王たちであるが、それらの総まとめのような第八番目の獣が出てき、それは結局、滅びに至る(11)。教会が誕生してから二千年になるが、その間世界の歴史は様々に変わってきた。そしてその期間、平和をもたらす小羊キリストに逆らって戦いが続けられた。黙示録によると、小羊に戦いを挑むのはサタンなる獣である。わたし達の世代においても獣の挑戦を受けるかも知れないが、小羊によって勝利を得させていただきたい。
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黙示録十八章1〜8節(4後半)
《わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。》
バビロンの滅亡が予告されている。これは最後の大審判のことである。バビロンは当時の世界で強大さを誇っていたが、ペルシャによって幕を閉じた。バビロンと呼ばれるローマもやがて倒れると告げられる。ローマ皇帝は自ら神ととなえて神の座に着こうとしていた。神はそのような者を滅ぼす。一時的には繁栄しているかに見える世であっても、終末的にはサタンの支配するバビロンなる世界も滅亡する。なぜ滅びるのか?6節にその理由が述べられている。「彼女の罪は積もり積もって天に達しており、神はその不義の行いを覚えて」おられるからである。「今は恵みの時」であり、神は「今までに犯された罪を、忍耐をもって見逃しておられる」が、終わりの時にはそれらに最終的な結末をつけなさる。
このような悪に満ちた世にあって生活するキリスト者に、ヨハネは「私の民よ、彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ」と警戒する。私たちの国籍は本来的には神の国にある。そのことを覚えて生活すべきである。
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黙示録十八章9〜24節(19後半)
《この大いなる都は、わざわいだ。そのおごりによって、海に舟を持つすべての人が富を得ていたのに、この都も一瞬にして無に帰してしまった。 》
バビロンの滅亡が来るとき人々は泣き悲しむ(9)。人々は多くの富を得たが、バビロンの滅亡によってそれらを失い悲しむのである。富によって身の安定を得られると思っていたのに、それが一瞬のうちに失われてしまうので人々は恐れるのである。富を持つことは悪いことではない。しかし富に心の安心の土台を置くことがあろう。あるいはそのために不正を行うことがあるかもしれない。
また富によって権力を得ると人は更に不正を働くだろう。ソドム・ゴモラにいたロトの妻は、硫黄の火が降ったときでさえ、富への未練のため逃げ損ねて塩の柱となってしまった。この箇所には滅びが容赦なく来ると言って、「一瞬にして無に帰してしまう」と三度も述べている(10、17、19)。第一テサロニケ五3には「人々が平和だ無事だと言っているその矢先に・・・滅びが彼らを襲ってくる」とあるのと同じである。
神の子等にはキリストの再臨は滅びではないが、獣に属する者にとっては滅びである。人がいかに強大を誇っていても、神なしの強大さは砂地の上の家である。一瞬のうちに滅びるものに私たちの望みをかけてはならない。
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黙示録十九章1〜10節(7)
《わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁は その用意をしたからである。》
罪の世が裁かれた後、天においてハレルヤの賛美が響き渡る。なぜ主を誉めるハレルヤが歌われるのか。それは @神が正しい裁きをされたからである。「その裁きは真実で正しい・・・神のしもべ達の血の報復を、彼女になさったからである」(2)。主は聖なる方で義なる神である。彼は正しい裁きをして下さった。 A神は小さい者を覚えていて下さるからである(5)。「全ての神の僕たちよ・・小さき者も、大いなる者も、共にわれらの神を賛美せよ」と、小さい者をさえ尊んで下さるのである(5)。 Bさらに、ハレルヤを叫ぶことが出来るのは、嬉しいことに神の小羊の婚宴に招かれているからである。「小羊の婚宴に招かれた者は、幸いである」(9)。婚宴の主賓は誰か。花婿が主イエスであり教会が花嫁である。私たちは婚宴の客ではなくイエスと共に主役なのである。在世中、イエスは何度も王の婚礼に招かれる幸いを譬えで語られたが、本章はそれの実現の時である。花嫁は「光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許される」。花嫁なる教会が主イエスにひれ伏そうとすると、同じ僕仲間であると言って受け入れて下さる。み国の栄光と喜びを黙示録はこのように伝えている。
聖書日課の目次へ戻る黙示録十九章11〜21節(11後半)
《天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。》
本章前半では婚宴の喜びが描かれているが、後半では「勝利者キリスト」が描かれている。彼は聖徒たちを死に追いやった獣と戦い勝利を得られた。彼は諸国民を裁くが、裁判官のように座しているのではなく、不正な敵を打ち負かす戦士である。その戦いがあまりにも激しかったのでキリストは「血染めの衣」を着ておられる(13)。十字架で流された血である。血染めの衣を着たキリストは、最終的に獣であるサタン、これに従う偽預言者、サタンに刻印を押され彼に従う者たちと戦い、ついには彼らを滅びの火の池に投げ込んでしまう(20)。羊飼いであるイエスは羊のために命を捨てる(ヨハネ十章)。それは羊を襲う狼や獅子などから彼らを守るために戦うからである。主イエスは殉教する人々のために戦っていて下さった。その時には見られなかったが、此処においてそれが実現する。
17節には、鳥たちが神の宴会に呼ばれ、王、将軍、勇者の肉などを食べるように言われている。これは小羊の婚宴とは対照的で、サタンの宴会とでも言われる凄惨な呪いの会である。小羊の婚宴に加わる光栄がどのようなものか、私たちはまだ実感しない。しかしこの栄光ある宴に出るために、備えられている白い衣を何時も身に着けていたいものである。
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黙示録二十章1〜6節(4後半)
《彼らは生きかえって、キリストと共に 千年の間、支配した。 》
千年期について述べられている。千年とは文字通りではなく長い期間を意味する。千年期の示唆は旧約、新約にあるが、やはり明確なのは本章である。しかし聖書的資料が少ないのでいくつかの解釈がある。
@千年期前再臨説。これは比較的短い艱難時代の終わりに再臨があり、その後にサタンの活動のない豊かな千年期がこの世界に来ると解するものである。
A千年期後再臨説。これは主の救いにより恵みと祝福の時代は始まっている。世界は徐々に良くなり、千年と言われるほどの長い期間の後再臨があるとするものである。教会の黄金時代が来てそれが長期間続く、それが千年期であるとするもの。
B無千年期説。これは千年期と言う教えは聖書にはないとするものである。千年は象徴的な意味にすぎない。これらの解釈の内、多くの福音的な人々は@を取っている。世界はどんなに便利になっても神の祝福からははるかに遠い状態で、憎しみと罪に満ちている。世がますます悪くなる中で主が再臨するというのが聖書の教えのように思う。再臨の時すでに世を去った聖徒たちは復活のイエスのように甦えり、その時生きている者は栄光の身体に変えられる(第一テサ四13以下)。
聖書日課の目次へ戻る黙示録二十章7〜15節(12前半)
《また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。》
千年期が過ぎるとサタンは一時期解放される。そこで彼は諸国の王たちを自分の配下に置き神に反逆するように扇動する(8)。 ゴグ、マゴグ(エゼキエル三八、三九章参照)は神に反逆する諸国民の象徴である。ハルマゲドン(パレスチナ中部、メギドの丘の意味十六13)記事にも、其処に王達が戦いのために集まると言われているが、これもゴグ、マゴグに似ている。しかし神はこれらの反抗者を最終的に滅ぼす(9、10)。
11節には、「白い御座」が見られる。神が御座におられ最後の審判がなされるのである。その御座の前には、大いなる者も小さい者も全ての者が立っていて、これらの者はそれぞれの業に従って裁かれるのである。神の前での裁きに誰が「わたしは大丈夫です、間違いありません」と言うことが出来るだろうか。誰一人、自分の義を申し立てることの出来る者はいない。ただ、イエス・キリストの贖いにあずかったものが、「小羊の血によって洗われた者です」と言って「命の書」に名を記されてことを神に感謝するのである。
神はサタンだけでなく、彼に属する全てのもの、即ち「死もよみ」も滅ぼし無意味にしてしまう。肉体の死は第一の死、サタン及び彼に属するものの死は第二の死である(14)。
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黙示録二一章1〜8節(3、4)
《「見よ、神の幕屋が人と共にあり、 神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から 涙を全くぬぐいとって下さる。・・」》
新天新地の光景が見られる。ここに至って神の救済が完成する。新天新地も象徴的に描かれている。@海がない(1)。黙示録では海は獣が出て来る所と言われるように(十三1)、獣(サタン)の住む所であって、悪魔的な者は新天新地にはいなくなる。Aキリストと教会とが尽きることのない喜びを共にする(2)。死も悲しみも全てなくなる。そのことを婚礼の宴にたとえる。新しいエルサレムとは教会のこと。彼女は婚礼のために飾った花嫁のようで、神に整えられて天すなわち神の元から下ってくる。Bその住まいは「神の幕屋」である(3)。教会は何のへだてもなく三位一体の神との交わりに入れられるのである。C悲しみは全くなくなる(4)。死も恐れも、悲しみも嘆きもなくなる。その最終的な完成はまだ来ていない。しかし「事はすでに成った」と言われる(6)。それは神がこれらの永遠の祝福を、イエス・キリストの贖いの業によって完成されたからである。神はキリストによって全てを成し遂げられた。すなわち言は人となり、彼は十字架にかかり、復活し、昇天した。このように神の約束は着実に行われてきた。彼は再び来ると言われる。私たちは永遠の救いの計画を見つめながら今の生活を過ごしたいものである。
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黙示録二一章9〜27節(23)
《都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都の あかりだからである。》
災いをもたらす七つの鉢を持つみ使いは、かつてヨハネに大淫婦の裁きの様子を見せたが(十七1)、ここでは小羊キリストの花嫁であるエルサレムを見せようとする(9)。エルサレムは教会のこと。その姿は説明できないほどの華麗さで飾られている。このように飾って下さるのは神さまご自身である。それは花嫁の婚礼の時、父が全てを引き受けて娘を飾るようである。都の図形がきちんと示されているが、それは教会が理想的に整備されていることを示している。もはや天においては何の問題もない。聖書には教会の姿について二つの描写があるが、一つは戦いの教会である。それは今のこの世にある教会のことで、教会は福音宣教のために傷つき戦っている。もう一つは勝利の教会である。それは全ての働きを終わり、天において憩っている教会である。
現在でも戦いのただ中にある聖徒がおり、天で勝利の座に休んでいる聖徒がいる。二一章は全てを終えて完成した教会の姿である。勝利の教会の真ん中には神ご自身がおられる(22)。エルサレムの中心に神殿があるように、教会の中心には神がいて下さる。何という安息であり喜びであろうか。
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黙示録二二章1〜5節(5後半)
《主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。》
前章に続いて、神の都の情景が描かれている。新天新地はイザヤ六五17以下に既に語られていた。神は新しい天と地とを再創造すると言われた。其処に住む者は長い命が与えられ、喜びと平和が支配している。「狼と小羊とが共に食事をする」と語られている(イザヤ六五25)。これが黙示録において完成するのである。ここには川のイメージがあり、神の都の真ん中に命の川が流れている。ヨハネはこの流れをエデンの園の流れと重ね合わせているようである。あの時、エデンは罪によって失楽園となったが、ここにおいて復楽園が実現する。あの時、人は命の木から遠ざけられたが、復楽園においては命の木の実を受けることが出来る。
また、ここには川から命の水を受けるイメージもある。主イエスはヨハネ七章で「だれでも渇く者は、私の所に来て飲むがよい。私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹からいける水が川となって流れ出るであろう。」と言われ、この水は聖霊であると教えられた。そのことが黙示録で実現している。ここは命に溢れる都であって、暗黒、不安、怒り、涙はない。「主なる神が彼らを照らす」からである。ユートピアを人は小説で描くが現実ではない。神のみがイエスを通して実現して下さるのである。
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黙示録二二章6〜21節(20)
《これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。》
黙示録のまとめの部分である。本書は教会の歴史から始まって、終末時における出来事を不思議な表現で述べてきた。これらは単にヨハネの幻想的な夢の言葉ではなく、主イエスのメッセージである。「わたしイエスは、使いをつかわして、諸教会のために、これらのことをあなた方に証しした」とある通りである(16)。だからみ使いも「この書の預言を封じてはならない」と述べている(10)。さらに、この預言の言葉に付け加えることも、この言葉から差し引くこともしてはならない、と厳命している(18)。神の言葉は神の意志である。
さて、黙示録に記されている終末についての言葉を聞いて、私たちはどのように応答すべきであろうか。ヨハネは、御霊も花嫁も共に『来たりませ』と言ったと述べている。福音は戦いを平和に、暗やみを光に、死を命に変わらせるものである。今の私たちは平和の福音を語る務めがあるが、それでも戦いを引き起こす者がいる。最終的には終末において神が決着をつけて下さることによって完成するのである。それが聖書の伝えるメッセージだと思う。主イエスの来臨を待ち望みながら、神の助けを受けながら、今託されている使命を果たさせて頂きたいものである。
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創世記一章1〜13節(3)
《神は「光あれ」と言われた。すると光があった。》
創世記は聖書の基本である。一章から発見するいくつかを述べてみたい。
@神は創造の神である。「始めに神は天と地とを創造された」。これは神の宣言である。これは人が世界を観察したり、ある思想を構築して神の存在を認めるに至ったなどというものではない。神は人の思索が生み出すようなお方ではない。さらに、聖書は宇宙がどのような過程と方法を経て存在するようになったと言うことはほとんど述べていない。ただ万物の根源は神にあるということを告げるのである。「創造」(バーラー)の語は無からの存在を意味し、神だけがなし得る行為である。 A神は世界に秩序を与える神である。1節に神の創造の業があり、2節は宇宙の混沌があるので、ある人は1節の後にサタン(天使)の堕落があったのではないかと言う(イザヤ十四12他)。世界の混沌状況の中で神は「光あれ」と言われた。この光は太陽等のそれではない(14参照)。強いて言えば時間の創造とでも言うことが出来よう。神は混沌に光を備え世界に秩序を与えた。
B神は良い世界を造られた。本章には「良しとされた」が七回出てくる。本来聖書は物も精神も良いという思想である。それは神が造られた世界だからである。神は光を与え人生を照らして下さる神である。
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創世記一章14〜25節(21)
《神は見て、良しとされた。》
創造の記事は素朴であって、それを科学的に分析してみても、意味はない。私たちは、聖書に述べられているあるがままを、観察するとよい。
@神の業を「日」によって区切る。一日は二四時間ではなく何万年、何億年とかの長い期間であろう。
A業の内容。一日目は光の創造、二日目は上の水と下の水の区分。三日目は海と陸の区分。二日と三日のわざは連動している。上の水は大空の水であり下の水は海を形成する。四日目は植物の発生。植物は種類に従って発生している。これは動物についても言われており興味のある点である(21)。植物が太陽なしに成長するのは、3節の光によるものであろう。五日目は天体、六日目は動物の創造である。聖書の考え方は、神が全てのものの根源者であって創造者であるということ。だから「家はすべて誰かによって造られるものであるが、全てのものを造られた方は神である」と言う(ヘブル三4)。
B創造は神の栄光。自然については「もろもろの天は神の栄光を現わし、大空は御手の業を示す」とあり(詩十九篇)、人については「私は彼らをわが栄光のために創造しこれを造り」と言われる(イザヤ四三7)。ウェストミンスター信仰告白には、人生の目的は神の栄光を表し、神を喜ぶことだとある。
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創世記一章26〜31節(27)
《神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。》
ここで人の創造がある。人の創造については一26と二7にある。前者は創造(バーラー)で無から生み出す業、後者は「造る」(ヤツアル)で何かの素材を用いて形成する業のことである。神が人を創造される場合この二つの側面があるのを知る。さて一26でどの様な点が述べられているか。
@神の業である。ここに神が「われわれ」と複数で言われている。へブル人は神の複数は尊厳を表すと言い、別の者は三位一体の神を示唆する語だという。両者とも受け入れて良いと思う。罪によって人は本来の神のかたちを失ったが、キリストにあって再創造され(第二コリ五17)、神の傑作とされる(エペソ二10)。神は人も世界も再創造する。
A人は「神のかたち」に創られた。「かたち」とは外形のことではなく、自意識、理性、道徳性(良心)、霊性など人の内面性を意味している。パウロは、人を霊的、精神的、肉体的な要素を持っているとしたが、「神のかたち」もこれに似ている。霊性は神に応答する側面を指し、自意識、理性、道徳性などは精神的な側面面を指しているようである。これらはバラバラではなく人格的な統一体である。なぜ人が神のかたちに創られたのか。それは人が神の祝福を受け互いに交わりを持つためである。
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創世記二章1〜14節(7)
《主なる神は土のちりで人を造り、命の 息をその鼻に吹きいれられた。そこで 人は生きた者となった。》
一章では最初に光の創造があったが、二章では最初に人の創造がある。それは世界の中心に人間を置いて考える世界観によるものである。7節には「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた」とある。これは聖書の人間観を良く表している。 @人は土のちりで造られている。肉体は蛋白質、脂肪など多くの物質で成り立っているが、死ねば土になる。土はヘブル語のアダマーなので人をアダムと呼んでいる。
A土から成っている人に、神は息を吹き入れられた。息とは霊のこと。神の霊は人に内面的な命を与える。聖書は肉体が生きていても、霊的に神との交わりを持たないものを「死んだ者」と呼ぶ(エペソ二1)。バビロンに捕虜になったイスラエルの民を見て、エゼキエルは彼らは霊的に死んでおり枯れた骨だと言った(エゼキ三七)。
Bその人間に神の息が入れられると「生きた者」(ネフェシュ)になる。それは生きた人格的存在と言って良い。人が尊いのは生きた者だからである。人を肉体だけで値段を付けると安価な物質である。しかし人格的な存在としての人間には無限の価値がある。学問や社会的地位があるから尊いのではない。神のかたちに創られたからである。神はその人をエデンに置かれた。
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創世記二章15〜17節(16、17)
《・・[あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。・・」 》
川とか地名についてユフラテ川は今もあり、ヒデケルはチグリス川のこと、クシはエチオピアだと言われている。他の地名、河川名は不明である(10〜14)。著者は中近東の古代地図を描きこの世にエデンがあったと言う。二章は人を中心に置く世界観であるが、神は「はなはだ良い」世界を人のために備えたというメッセージを伝えている。エデンとは「喜び」を意味する。この園に男女が生活するようになるが、それは神がこの世界や個人の家庭にエデンを備えておられることを意味している。エデンを楽しみとしないで苦しみとしたのは何か。それが三章の課題である。 さて園には多くの木がありどの実でも食べて良いといわれる。このように神は人に必要なものを全て備えていて下さる。ところが「善悪を知る木」の実は禁止されていた。本来、善悪の基準を示すことが出来るのは神だけである。即ち、人が善悪を知る実を食べるというのは、神の位置に立とうとする意志である。だからヘブルでは善悪を知ることは自己の神格化を意味し、人間が神を越えようとする傲慢さを示している。また禁止命令は与えられた自由の中で、神への服従のテストがあることを意味している。人が神の位置に着き勝手な自由を行使すると破壊が起こってくる。
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創世記二章18〜25節(18)
《また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 》
聖書の示す結婚、家庭の姿が示されている。ある人々は独身生活が神への純潔を表すと考えるがそれは間違っている。結婚の制度は神から出ている。「人が一人でいるのは良くない。彼のためにふさわしい助け手を造ろう」が神の御心である。
@結婚のパートナーは「ふさわしい」者でなければならない。「ふさわしい」は釣り合っているとか似合っていることであるが、このヘブル語は応答するという意味がある。夫婦とはお互いに応答し合う関係の者である。動物とでは応答の関係は持てない。お互いの心を分かろうとするのが人間であり特に夫婦はそうでなければならない。現代は犬猫との交流程度の交わりしか持てない夫婦がいる。 A女性は助け手である。それは助手とか副手という意味ではない。聖書にはしばしば神が助け手(エゼル)だと言われている。神が助け手だというのは、人は無力なので神がして下さるという事である。妻でなければ出来ないことをするから助け手なのである。それが逆になって、夫でなければ出来ないこともあるに違いない。
B妻はあばら骨から生み出された。足の骨とか頭の骨からではなく心臓などを保護する骨からである。それは愛の対象を意味している。愛による家庭が生み出されるようにとの神の御心を覚えたい。
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創世記三章1〜7節(1後半)
《「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。 》
蛇はサタンの象徴である。象徴とはいえ実在しないのではなく現実である。
@サタンはまず神の言葉に疑問を差し挟もうとした。彼は「ほんとうに神は言われたのですか」と言って「取って食べると、きっと死ぬ」(二17)という言葉を少し変えて、女(エバ)を誘惑した。神を否定したのではなく神が語られたことを否定したのでもない。少しの変更であった。主イエスは、彼は始めから嘘つきであると言われた(ヨハネ八44英訳)。
A神のようになるという、サタンの誘惑である。先に善悪を知る木の実を食べる意味を人間の自己神化であると述べた。女は蛇の誘いを受け入れ「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから」それを食べた。誘惑のあることが罪ではない。それを受け入れ自分の意志として行おうとするとき悪の行為が罪となる。だからエバが自分が食べたのは蛇のせいだというのは言い逃れであって、自分の意志で行動したことは自分の責任である。
B実を食べた結果の一つは、神のようになることではなく裸の恥に目が開かれたことであった。かつては性器を見ても目や鼻を見るように恥かしくなかったのに(二25)罪を犯すと羞恥心に変わった。創造の神の栄光は罪によって破壊されたのである。
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創世記三章8〜13節(9)
《主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。 》
「日の涼しい風の吹く頃」神は人に近づかれた。@神は人を捜す神である。「あなたはどこにいるのか」と神を避けて隠れる人を捜しておられる。神は人が何処にいるか良く知っているはずであるのに、あえて問いかけるのは、交わりは自発的な行動によるからである。ドアを叩いている主は、「戸を開けるなら入って食事を共にする」と待っておられる(黙示録三章)。
A神の語りかけに対して、人は「裸だったので、恐れて身を隠したのです」と答えた。アダムは裸のことは語るが、神の言葉を疑いこれに従わなかった罪については何も話さない。彼は近づいてこられる神を愛するのではなく恐れる思いで一杯である。罪とは神との関係が壊れることである。だから人生に起こってくるいろいろの事柄を恐れるようになる。恐れる思いを根本的に変えて下さるのは、私たちを徹底的に愛して下るイエス・キリストである。
Bアダムはエバに罪の責任をなすりつけ、エバは蛇に責任を転嫁する。確かに誰かのせいで無用なトラブルを引き起こされることはある。しかし自分を守ろうとするために、自分に責任のあることまでも他者になすりつけてはならない。愛の神が分かってくると、恐れの思いはとり除かれるように変えられる。
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創世記三章14〜24節(15後半)
《「・・彼はおまえのかしらを砕き、 おまえは彼のかかとを砕くであろう」。》
@全ての罪の根源が蛇(サタン)にあることが明らかになり、神は蛇を呪われた者として断罪する(14)。「はい歩き・・・ちりを食べる」とは最も卑しいものという意味である。 A女に対しては苦しんで子を産むと言われる(16)。出産の肉体的な痛みはよく知られているが、それは罪を犯す前からもあったのではないか、あるいはそれ以前にはそれ程の苦痛はなかったのか、それとも妊娠の長期間の不快感を含んでいるのか、分かりにくい言葉である。それにしても子供が与えられることは苦しみを伴う喜びということが、妊婦へのある種の報いであるのは皮肉である。
Bさらに人に対しては、一生苦しんで地から食物を取ると告げられる(17)。労働がなくなると楽に思われるが、若くてする事がないのはつらい。堕落前にも神は地を治める務めを人に託しておられた。ところが此処に至って、労働が苦しみになるのは、女性と同様に男にもたらされた皮肉に見える。健全で楽しいことが、家族にも見せられない不健全な快楽に取って代わるのは罪の結果である。キリストによる救いの回復まで、人は命の木から退けられる者となる(24)。このような悲惨な結果の中で女の末(キリスト)がサタンの頭を砕くと約束されている。これが原福音である。
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創世記四章1〜7節(4)
《アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルと その供え物とを顧みられた。 》
エバはハバー(命ある者)の語に起源がある。彼らにカインとアベルの兄弟が生まれた。カインは農耕者、アベルは牧畜を仕事とした。ところが神への献げものから兄が弟を殺すという事件が起きた。カインは農耕者で地の産物を献げアベルは家畜を献げた。イスラエルの献げものには羊もあり麦などもあるのだから、献げものの種類によって神が受け入れたり拒否したのではない。問題は献げる心である。アベルは「ういごと肥えたもの」を持ってきた。ういごの中でも肥えたものは最上の献げものである。ところがカインは収穫した穀物の中から善いものを選んだわけではなく、ただ献げたのである。神への献げものは信仰によるもので真心からするべきである。 主イエスは、義務として十分の一を献げるパリサイ人の献金は喜ばず、自分の最善を献げた寡婦の献金を喜ばれた。このように主は「アベルとその供え物」「カインとその供え物」を顧みたとあるように、神は人の心を見られたのである。また「顧みる」は受け入れるというのではなく、じっと見るという意味で、神が最初からカインの物を拒否したのではなかった。彼は自分の思うようにならなかったことが「憤り」となったのである。献げものには神への真心が大切である。
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創世記四章8〜16節(14前半)
《あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりまん。》
カインは自分の献げものへの心が不純であったのを棚に上げ、それを受け入れなかった神に怒りを向け「顔を伏せた」(6)。自分の責任を他者に向けるのは、彼の親に似ている。やがてカインはアベルに怒りを向け殺害するのである。この後神は「アベルは何処にいますか」と問いかける。アダムへの問いかけに似ている。神は人が神に顔を背けることを悲しく思われる。もちろん神は事件の内容は知っておられるが、カインの自発的な言葉を聞きたかったのであろう。しかし彼は「私は彼の番人ではないので知りません」と責任逃れの答えをした。
自分の思うようにならない事への怒り、責任の転嫁など、これと同じ事はイスラエルの歴史の中でも現代でも起こっている。エサウとヤコブも兄弟抗争から殺人に発展しそうであった。私たちは「カインの末裔」(有島武郎)である。カインは罪の責任を自覚しており「私の罰は重くて負いきれません」と言う。殺人罪を犯した町では生活できず、神が彼を追放するとしても、自分自身でもその場から逃げたかったのではなかろうか。彼は罪の大きさより罰を恐れた。カインはその場からだけでなく「私はあなたから離れ」(14)と言うように神からも離れようとした。兄弟愛の回復はキリストの愛による。
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創世記四章17〜26節(26)
《セツにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。 》
ここにカインの子孫による数々の文化的な活動を見る。@カインは町を建て始めた。A芸術的活動があり、B青銅や鉄の生産も始まっている。文化活動はそれ自体人間のすぐれた働きである。しかしカインの子孫の文化活動は神から離れた者の築く人間文明を特色づけるように見える。
@それはまず家庭生活の乱れに見られる(19)。レメクは二人の妻をめとった。古代社会では正妻の他にそばめがいたが、創世記ではエサウの他には二人の妻のケースはない。
Aまた刃物の製造は武器の製造を思わせる(22)。青銅、鉄をもって刃物を造ったとあるが、それは武器の製品のようである。石器より青銅が武器として力があり、鉄はさらに強力な武器であった。
Bさらに、殺人や復讐の言葉が見られる(23)。この歌は多妻主義のレメクが妻たちに向かって歌ったものである。ヒットラーはキリスト教文化の中で育っていたが、神から離れた力の文化を築こうとしたとき、あのような破壊的な破滅をもたらした。神なしの者たちが生み出した文化には死のにおいがする。このような状況の中で「この時人々は主の名を呼び始めた」とあるのは一つの光である(26)。それはカインの子孫からではなくセツの子孫からである。主を呼ぶことは人の命である。
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創世記五章1〜32節(23)
《エノクの年は合わせて三百六十五歳で あった。 》
創世記は系図の集成である。カインの簡単なものから始まり、五章ではアダムの系図があり、ノア、セムの系図等が次々と出てくる。 ところで、聖書は多くの人を省略し物語に関係のある人物しか記さない。だから例えばアベルの死後、カインの他に誰がいるのかなどを考える必要はない。人口増加のことは記されていない。そうでなければカインの結婚など考えられない。アダムの系図について、
@これは神を敬うセツの流れであってカイン系ではない。
Aアダムが神のかたちに造られたように、堕落の後にも人には神のかたちはなお人に残されている。
B系図に出ている人々は超高齢である。高齢についていくつかの意見がある。当時は今の一月を一年と数えた、個人名と見えるのは家系名である、メソポタミアでは偉人を高年齢で数えたがそれを真似した等である。本章のポイントは人は長年生きても死ぬが、エノクは神によって天に移されたということである。三百六十五歳は他と比較して短命である。しかし彼は他の人々とは違って、天に挙げられる前に神と共に歩み神に喜ばれる人生を歩んだ。人生は長短よりもどの様に過ごしたかに意味がある。
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創世記六章1〜8節(5)
《主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 》
五章はアダムの系図であるがセツ系である。その子孫にノアがいる。六章はノア当時の社会状況を記している。ノアの世は水によって滅ぼされたので、福音書ではこの時代を終末期になぞらえる。それはどのような時代であったのか。@神の子達が美しい娘をめとった(1)。神の子とはセツ系の者だと言われるが、信仰を持っている人のことであろう。この人々が美しい娘と結婚した。これは悪いことではない。しかしこの文脈では悪い響きがする。なぜか?神を敬う者は同じ価値観を持つ者と結婚すればよいのに、ノアの時代はこのような考えで家庭を築く考えが著しく崩れてしまったようである。Aこの結婚の結果ネピリム(勇士達)が生まれた(4)。ネピリムは落ちるという意味で堕落した人々、無頼漢と見られている。良い家庭が徐々に破壊されているさまを見るようである。B世には悪がはびこってきた(5)。神はそのような社会状況をご覧になって心を痛めた。この世界を造り神は「はなはだ良かった」と見ておられたのに、罪の恐ろしさに痛んだのである。C神の霊はながくこの世界にとどまらない。聖霊はこの世におられる。しかし聖霊が引き上げなさるとこの世は全く暗黒になるであろう。今の暗黒の世にノアが必要である。
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創世記六章9〜22節(9)
《ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。 》
ノアの暗黒な時代が描かれている。悪が地にはびこり、心の内面が腐敗し、いつも継続的に悪をしている(5)。また世は混乱し、暴虐が満ちていた(11)。神はこの人々を見て心を痛め「人を造ったのを悔いた」(6)。神の悔いとは? 悔いるとは深く息を吐くことで、嘆息、怒り、安心の思いを表す感動詞。また態度の変更を意味する。例えばニネベの場合。神はニネベの悪を滅ぼすと言われたのにヨナの宣教で彼らは悔改めた。それで神は滅ぼすことを思いかえした(=悔いた)のである(ヨナ三10)。
人は自由な者だから自由意志で善にも悪にも進むことが出来る。人がそれぞれの道へと生き方を変えるなら、神はそれに応じて取り扱いを変える。滅びの日までが百二十年と示唆され(3)、この期間ノアは神と共に歩み裁きと福音を伝えたのである(第二ペテ二5)。しかしその日までカウントダウンされているのに人々は神への態度を変えなかった。人が罪を悔改めるなら神は滅ぼす方ではないが、遂に「私は全ての人を絶やそうと決心した」(13)。この文は全ての断絶がわが前に来たと訳される。いよいよ終末の日が来たのである。神はノアに箱船の建造を命じ彼は神の言葉に従った。私達は今の時代にノアの役割を果たすべきである。
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創世記七章1〜24節(16後半)
《神が彼に命じられたようにはいった。 そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。》
ノアは人々の中で正しく全き人であった。また彼は神の恵みを受け神との契約をした。神はこのノアに箱船建造を命じたのである。洪水物語は、創世記と共にメソポタミアのギルガメシ叙情詩は有名である。しかしこれら二つの内容にはかなりの相違がある。箱船のサイズは創世記のは長さ一三五M、高さ一三M、幅二二M(このサイズは安定している)、ギルガメシのは五十M立方体(不安定)である。また前者は罪の故の裁きであるが後者は神々の争いの故である。ただこれらの記録は太古に大洪水があったことを示している。
ここで私たちはこの記事から霊的な事柄を学びたい。ノアは神が語られたことを行っている。「すべて神の命じられたようにした」という句が何度も見られる(六22、七5、9、16)。ノアは正しい人と言われるが、正しいとは神に添った人のこと。彼は神と共に生きようと考えた人だったのである。
さていよいよ洪水が始まった。彼らが箱船に入ったとき「主は彼のうしろの戸を閉ざされた」。ノアが内から戸を閉めたとしても、すべてを支配しておられる神の業として記していることに、意味深さがある。神が戸を閉められのだから、どれ程の嵐が来ても安全である。不安が募る中に、神の保護を信じるのである。
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創世記八章1〜19節(1)
《神はノアと、箱舟の中にいたすべての 生き物と、すべての家畜とを心にとめ られた。神が風を地の上に吹かせられ たので、水は退いた。 》
箱船は救いの型。主イエスの救いに入れられた者は安全である。雨は四十日間続き水は全てのものをおおい百五十日間水が引かなかった。洪水がどの範囲のものであったのかについては、議論がある。地球全体を覆うとする者と、当時の世界で広範囲なある地域と考える者とがある。英国の考古学者ウーリーは膨大な堆積物を発見し大洪水の報告している。私たちは考古学より聖書が語る洪水の趣旨を学びたい。
@神はノアと箱船にいた全てのものを「心に留められた」(1)。百五十日は絶望的な長期間である。ノアは降り続く雨の中で、神が自分たちを覚えていて下さると信じていた。ようやくその雨が止み、彼らはどれほど神に感謝したであろう。やがて地に降り立ったときノアは礼拝をささげる(20)。
A地が乾き始めノアは鳩、からすを放って周りの様子を知ろうとした。鳩がオリブの葉を持ってきた時、ノアは新しくなっている地に希望を感じたに違いない。オリブは希望をもたらす木である。
Bノアは神が外に出なさいと語られたので箱船を出た。長い忍耐の時期を過ごし、新しい出発を始めた。彼は自分の判断から事を始めると言うより、周りの状況を観察しながら神の示しを受けて歩み始めたのである。
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創世記八章20〜九章17節(13)
《六百一歳の一月一日になって、地の上の水はかれた。ノアが箱舟のおおいを取り除いて見ると、土のおもては、かわいていた。 》
洪水後のいくつかのことが記されている。 @ノアは神に礼拝をささげた(20)。彼は滅びた人々への痛みを覚えつつも、自分たちが救われたことを神に感謝したであろう。 A神は「わたしはこの度したように、もう二度とすべての生きた者を滅ぼさない」といわれる(21)。これは人の罪を容認したことではない。ただ人を救いに導く神の忍耐が表されたと見るべきである。だからパウロは、今ただちに滅びに至らないのは、神の忍耐と寛容によるのであって、それを軽んじないで悔い改めよと言うのである(ロマ二4)。 神は、人間が救われることを願っておられ、ノアの時に滅びた人々には、特に黄泉での救いの機会を与えようとしているようである(第一ペテロ三20)。
B神はノアと虹の契約を結ばれる(13)。破壊の原因は人の罪のゆえであった。もしそうであるなら、何時の時代でも神は直ちにこの世を滅ぼすだろう。しかし主は忍耐をもって人を滅ぼさないと宣言される。その印(契約)として虹を示した。虹は雨上がりの時見られる自然現象である。雨の後、日が射して虹を見る時、神が寛容をもっておられる事を覚えよと主は言われるのである。
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