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2000年10月1日(日)

創世記九章18〜29節(23)

《セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。》

 洪水の後始末が終わって、ノアはホッとした気分になったのであろうか。ぶどう酒を飲んで酔っぱらい醜態を演じてしまった。聖書には酒を飲むことは罪であるとは書いていないが、酒には多くの落とし穴があり、「酒に酔ってはいけない乱行のもとである」(エペソ五18)とか、執事は「大酒を飲まず」等と言って酒の薬効よりも害を警戒している。クリスチャンが酔いつぶれて駅のホームで寝ていたり、暴力沙汰を起こすようなら証しにはならない。身辺が危機の時には緊張していて身を持ち崩すような失敗は少ないが、全てがうまくいっている時は失敗することがある。 父のこの醜態を見て三人の子等はそれぞれの対応をした。ハムはこの有様をじっと見ていた。彼はみだらな思いを持ったのではなかったか。父のふしだらな行いも悪いが父の恥を覆わない子も不出来である。とは言え、オリエントでは親への尊敬を重要視するので、ハムのこの態度にノアは彼とその子を呪った。他の二人は裸の恥を見ないように、そっと覆いを掛けてあげた。人はある程度の緊張感を持っていないといつ躓くか分からない。自分は弱いものであることを自覚し、主の憐れみに生かされていることを知っていたい。また人の恥を覆うものでありたい。

 

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2000年10月2日(月)

創世記十章1〜32節(32)

《これらはノアの子らの氏族であって、 血統にしたがって国々に住んでいたが、 洪水の後、これらから地上の諸国民が分れたのである。》

ノアの子等の諸民族が記録されている。 セムはオリエント系、ハムはアフリカ系、ヤペテはヨーロッパ系を含んでいる。ここには七十ほどの部族、民族名があるが、聖書を背景とする世界の諸民族を網羅するものである。このような系図は何を意味しているのだろうか?。

@世界の諸民族は一つであること。人は皮膚の色や言葉、習慣の相違で差別しがちであるが、神によって造られた人間は一つ人類である。創世記では人類の一体性を系図によって示そうとしている。それと同じように教会の一体性はキリストの贖いによって「新しく造られた人」であるので一体性を持っている。 A各民族がそれぞれの地域に住むように、神は摂理によって多様な地域に住むように導かれたことを示している。「神は一人の人からあらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し国土の境界を定めて下さった」(使徒十七26)。

 Bこの系図はイスラエル民族への橋渡しとして書かれている。即ちやがて神の民として選抜されるイスラエルが、セム族の子孫であることを示すのである。21節にエベルの名があるがヘブルの語源である。神は不思議な導きで世界を形成しておられる。

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2000年10月3日(火)

創世記十一章1〜9節(4後半) 

《「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。》

 イラク地方にジグラットというバベルの原型となる塔がある。その塔の由来を書く。

 @塔は天に届かせるためのものであった。それは人間が神の位置に自らを置く思いである(4)。煉瓦を焼きしっくいを作るのは人間の発明であり、文化を形成するすばらしい努力である。ところがその文化が神への背信の思いと結びつくとき、人類を破壊的にしてしまう。太陽、水、空気などを全部神から受けながら、神なしで生きようとする愚かさは人の罪深さを示す。自分を神化しようとする者は必ず破壊的になる、それは自分の考えが絶対で他を退けるからである。

 A塔を建てるもう一つの目的は、人々が地の表に広がることを、阻止しようとするもので(4)、「地に満ちよ」という神の意図に反する。

 Bこのような背信行為に対して神は「言葉を乱し、互いに言葉が通じあわないようにしよう」と裁きを下される。言葉が乱れるとお互いの意志は通じない。今でも同じ日本語を話しながら、お互いに話が通じない状況がある。それは他者のことを聞かず、自分を絶対化しているからである。言葉は違っていても愛を生み出す聖霊降臨(ペンテコステ)があると、交わりが始まる(使徒二章)。親子、夫婦で心が通じないのは心のバベル(乱れ)のせいではないだろうか。

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2000年10月4日(水)

創世記十二章1〜9節(8後半)

《そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。》

 神に選ばれた民アブラムの生涯が始まる。神は小さい民を選んだが(申七7)、それはその子孫にメシヤを送るためであった。アブラムは神の祝福を受けるという約束を信じて偶像の町ウルを出た。これは異教徒の家族の中で、ただ一人キリスト者になった人のようである。「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」を、アブラムはどの程度分かっていただろうか。しかし約束の地カナンに着いても、様々な困難に遭った。

 @新しい地にも偶像があった。テレビンの木(樫の木)はカナン人の神木のようなもの。せっかくクリスチャンになって生きようとしても其処に異教徒がいた。そのようなことは当然であるのに、信仰生活を何か特別の世界に住むように考えるとすれば間違いである。私たちの周りには、神について異なる考え方をする人々がいる。アブラムは良い住み家を求めてか、北のシケムから中部のベテルへ、さらに南部のネゲブへと移住した。ネゲブで飢饉に遭う。彼は入信間もなく信仰的、経済的な試練にあった。

 Aこのような状況にありながら、彼は礼拝のために祭壇を築いた(7、8)。主を信じる人が教会で礼拝を守ることは、一番大切なことである。礼拝において主を知り成長することが出来るからである。

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2000年10月5日(木)

創世記十二章10〜20節(17)

《ところで主はアブラムの妻サライのゆえに、激しい疫病をパロとその家に下された。》

信仰の歩みを始めたばかりのアブラムにとって、宗教的、経済的試練は大きかった。 神が導かれたのだから、彼は信仰を持ってカナンの地にとどまれば良かったのにエジプトへ逃げ、その地で過ちを犯した。

 @アブラムは嘘をつく人になった。妻だというと殺されるかも知れないとの恐れから、サラを妹と呼んだ。彼女はアブラムの親戚筋で妹と呼んでもよかっただろうが、やはり妻である。身を守るために嘘をついた。

 A妻に対して不誠実になってしまった。パロはサラが妹だと言うので、王宮に召し入れることにした。これは当時の権力者が持つハーレムである。サラのゆえに、アブラムは王から優遇され多くの家畜をもたった。妻を売るようなことをしながら裕福になったアブラムは、幸せだったのだろうか。彼は不誠実な人になり下がってしまっていた。お金が多少蓄えられ裕福になったとしても、家族に不誠実になるとすれば、不信者以下の者である。

 Bアブラムはエジプトでは祭壇を築いていない。礼拝しないので恐れに捕らわれ、嘘をつくようになったのか。罪を犯したから礼拝しなくなったのか。いずれにしても、礼拝は大切である。

 Cアブラムの危機状態の時、神の介入があった(17)。神が救出しなければ彼はとっくに霊的に死んだに違いない。

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2000年10月6日(金)

創世記十三章1〜18節(4)

《すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ。》

 アブラムは神の憐れみある介入によって、エジプトから出ることが出来た。

 @カナンに帰ったアブラムは、信仰の原点に立つことが出来た。彼が行ったのは最初に祭壇を築いたベテルである。其処が彼の信仰の原点である。私たちにとって信仰の原点とは、キリストの十字架である。私たちは信仰生活、自分自身、他人の言葉に躓くことがある。その時自分の考えがどんなに正しいと思えても、それを一切主に委ねて、キリストの十字架の前に出ることである。私たちは無条件で主によって救われた。この事実が私たちを神の前に謙る者とさせる。そこに恵みの回復があり、立ち直りがある。それを忘れて他人のせいにするとき、回復は難しい。

 A再びアブラムは経済の問題に悩まされることになった。ロトの羊飼いと牧草のことで争いが起こったのである。彼らは平和の内に別れることになったが、その時叔父のアブラムは甥のロトに場所選びの優先権を与えた。ロトは豊かな低地を選び、アブラムは牧草の少ない山地を選んだ。彼は損を取ったのである。神はそのようなアブラムを祝して「あなたが見渡す地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます」と約束された。この時アブラムは祭壇を築いた。彼の信仰は以前のように揺らぐことはなかった。

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2000年10月7日(土)

創世記十四章1〜16節(16)

《そして彼はすべての財産を取り返し、また身内の者ロトとその財産および女たちと民とを取り返した。》

 ソドム、ゴモラは崩壊以前の繁栄を楽しんでいた。そこに北方の連合軍が攻め寄せてきた。シナルはバビロン、エラムはバビロンの東方の地、ゴイムとはその他の諸国民のことである。北方の強力な連合軍がパレスチナを征服しようとして攻撃し、ソドム、ゴモラの連合軍は完敗した。しかしこの戦いにロトの一家が巻き込まれ、彼らは捕虜となり北方に連行されていた。ロトがソドム、ゴモラへ行くとき、神に祈ってその地を選んだのではなく、自分の計算で豊かな地だと思って選んだのである。しかし人生は予想以外のことが起こる。彼の財産は奪われ捕虜となり、奴隷の運命が待っていた。ロトが捕らわれたニュースは間もなくアブラムにもたらされ、彼は救出の行動を開始したのである。

 愛する者が敵の手にかかったなら、救い出すのは家族の責任である。滅び行く愛する者のことを思うなら、何とかして救出しようとするのが伝道である。少数者では大軍隊に勝ち目はないが、アブラムは三百十八名と共に連合軍の後を追った。彼は夜中の攻撃という奇襲作戦を採り、ロトと財産を取り返した。無鉄砲とも言える追撃は、愛の動機と信仰にあった。よくもあの軍隊に少数者で立ち向かったものと思う。小さい群よ、恐れてはならない。

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2000年10月8日(日)

創世記十四章17〜24節(19)

《彼はアブラムを祝福して言った、「願わくは天地の主なるいと高き神が、 アブラムを祝福されるように。》

アブラムはロトを取り返すために、北の連合軍と戦わなければならなかった。思いがけない労苦が私たちを襲い、汗と血を流すことを余儀なくされることがある。アブラムが戦いから帰って来たとき、其処には祝福が待っていた。

 @サレムの王メルキゼデクの祝福である。メルキゼデクはキリストの姿を示している。サレムはエルサレムのこと、メルキゼデクは義の王の意味。ヘブル七章によると彼は神的な存在者であり、受肉前のキリストの姿をうつし出している。神的なメルキゼデクはまた祭司である。祭司は人のために執り成す者。王にして祭司であるメルキゼデクは戦いから帰ってきたアブラムを祝福し、その労苦をねぎらうように、パンとぶどう酒を用意してくれた。この世での戦う者に、キリストは目を留めていて下さることを覚えていたい。

 Aアブラムは彼が得たものをメルキゼデクにささげた。十分の一を献げるのは、神に対する行為である。ロトのものを取り返したのだからすべては彼のものであるのに、それらの中から神に献げたのは、この戦いは神の助けなしには、絶望であったと思ったからであろう。アブラムの生活態度は、困窮してエジプトに逃れた時の態度とは、格段の違いである。彼は神をあがめ、信頼することを忘れなかった。

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2000年10月9日(月)

創世記十五章1〜6節(1)

《これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。》

 「これらの事の後」とは十四章の戦いである。アブラムはロト奪取作戦のために、へとへとに疲れていたであろう。主が「おそれるな」と語ったのは、彼が心配事で悩んでいたからである。もし将来、あの連合軍が襲うようなことがあるなら、アブラムはひとたまりもなく葬られるに違いない。神のこの語りかけに対して、彼は「わたしには子がなく」と答えた。それは子がないまま滅ぼされたら「あなたを大いなる国民とし、祝福する」(十二2)という約束はどうなるのだろう、という心配があったからである。アブラムにはまだ実子がなく、「海の砂のように子孫を増やす」と言われても、その約束を信じることは出来なかった。私たちは祈っていても、先が見えないと不信仰になる。このような悩みの時、神は二つの道で彼を励まされた。

 @神のみ言への信仰を持つように、との励ましである。神はアブラムに、エリエゼルではなく実子を与える約束をしたが、彼にそのみ言を信じ通してもらいたかった。

 A神は創造の業である空の星を見せ、神のみ業への信仰を持たせようとされた。ローマ四章には、アブラハムは「無から有を呼び出される神を信じた」とあるが、創造の神を信じてもらいたかったのである。神のみ言を頼りに、悩み多き道を生きたいと思う。

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2000年10月10日(火)

創世記十五章7〜21節(18)

《その日、主はアブラムと契約を結んで 言われた、「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。」》

6節に「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」とある。義と認められたとは「それでよし」という意味。不安な中にもアブラムが、約束と創造の神を信じた時、神はその信仰でよいと言われたのである。パウロはこの信仰を罪の赦しの適用し、十字架を見上げることで「よい」と教えたのである。子を与えると約束した神は、次いでカナンの地を与えると言う。ウルから導き出した神は、必ずその結末をつけて下さる。 その保証として、神はアブラムと契約を結ぶのである。契約の儀式は当時の方法であったが、動物を二つに裂き、その間を契約者が通過する。これは、もし契約を守らないなら、破った人がこの牛のように切り裂かれても良い、という意味である。

 ところで裂かれた牛の間を通過したのは、燃えるたいまつの入ったかまど(火壷)である(17)。「かまど」は神の臨在をあらわしている。其処を通過したのはアブラムではなく火壷だけである。つまり神がご自身で契約されたのである。古代には主従関係の契約というのがあった。それは権力ある王が弱い民を保護する代わりに、民は王に従うことを約束する。本章はこの契約方法である。神は、アブラムの子孫にメシヤを与えるため、契約をしたのである。われらの神は約束を守る神である。

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2000年10月11日(水)

創世記十六章1〜6節(3後半)

《これはアブラムがカナンの地に十年住んだ後であった。》

神はアブラムに子を与えて、カナンの地を相続させると約束しその契約までした。しかし実子は与えられず十年の歳月が過ぎた。最初のうちは待っていただろうが、だんだん神の約束に疑いが出始めたのではなかろうか。当時の法律では、世継ぎが生まれない場合は仕え女によって子孫をもうけてよかった。サラはハガルによって、跡継ぎを産むことがよいとアブラムに提案した。ところがハガルが身ごもると、仕え女の立場などかまわずサラを見下げるようになったのである。ハガルの高慢、サラの嫉妬と怒りが楽しいはずの家庭を破壊した。サラがアブラムに責任があるとなじると、アブラムは「あなたの好きなようにしなさい」(勝手にしろ!)と言い放つようになった。責任のなすり合いは問題解決にはならない。問題の発端は彼らが神の約束を待てず、人間的な方法を採ったことである。

 私たちは目的を達成するためならどのような手段でもよいと考える。ゴールだけが目についてよい成績をあげることに懸命になる。それは悪いことではない。しかしもっと大切なことは、ゴールに至までの日常的なプロセス、道のりである。過程の段階で、神は大切なことを教えて下さる。順境や逆境をどのように通過するかで、信仰と人格が造られることを覚えたい。

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2000年10月12日(木)

創世記十六章7〜16節(13前半)

《ハガルは自分に語られた主の名を呼んで、「あなたはエル・ロイです」と言った。》

ハガルはサラとのいざこざのため、家出をした。彼女が法的に間違いをしたのではないが、傲慢になったためサラとの関係を壊してしまった。それで自分の国エジプトへ逃げようとした。国境近くのシュルまで来たとき、主の使いが「あなたは何処へ行くのですか」と問いかけた。苦しいことに出会うと、何処か別のところに移りたいと願うのは、人の常である。

 サラのもとから去っていこうとするハガルは、やりきれない思いであっただろう。自分にだけ責任があるわけではない。主人達にも多くの問題があったのを、知っているからである。とは言え、問題から逃げても自分自身が変わらなければ何事も変わらない。主は彼女に謙った心でサラの元に帰りなさいと勧め、また生まれてくるイシマエルを、祝福すると言われた。何も変化していないのに、主の言葉を信じてサラのところへ帰ったハガルは立派である。確かにアブラムの子孫が十二部族になったように、イシマエルの子孫も十二部族になった。神はどの人も見守り導く方である。ハガルは「あなたはエル・ロイです」と言って主を礼拝した。それは、あなたは見たもう神ですという意味である。

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2000年10月13日(金)

創世記十七章1〜5節(1後半)

《「わたしは全能の神である。あなたは わたしの前に歩み、全き者であれ。 》

アブラム九九歳のとき主は彼に語られた。イシマエルの誕生後十六年が過ぎた。その期間アブラム夫婦の間には平和があったか、トラブルが続いていたのか。礼拝とか主の語りかけなどの記録がないのは、恐らく空しい信仰生活をしていたように見える。そのような者にも、神は何度も語りかけて下さる。「主はアブラムに現れ」たのである。神はこの時アブラムを叱責しなかった。むしろ神は「私は全能の神である」とご自身を示された。

 何年も教会を離れていて再び教会に帰る人にとっては、敷居が高く感じられる。しかし神は決して迷子の羊を叱らず、それを抱いて下さる。全能の神とはどういう意味か?。それは神は何事でも出来るとの意味であるが、特に救いのためなら何でもするということである。「全能の神」の原語はエル・シャダイである。それは乳房の意味。母の乳房は子にとっては命である。 

 神はすべてを供給するお方である。全能の神がアブラムに願うのは、供給者の神に信頼して生きてほしいと言うことであった。それが「私の前に歩み全き者であれ」の意味である。神の呼びかけに応えたアブラムは、名をアブラハムと変えられた。名の変更は生き方が変わることである。愛の神との交わりを深くするにつれて、生き方が変わってくる。

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2000年10月14日(土)

創世記十七章6〜14節(7)

《わたしはあなた及び後の代々の子孫と 契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。》

神がアブラハムに現れたのは、彼の信仰を回復し契約を再確認するためであった。契約の内容は彼の子孫にカナンの地を与えることである。それはアブラハムと子孫の繁栄というだけではなく、全ての民族への祝福を含んでいる。

 ところでパウロは7、8節の「子孫」が単数であるのをキリストと解釈し、アブラハムの子孫キリストを通して、すべての人が救いの恵みにあずかることが出来ることだと言った(ガラ三16)。だから「多くの国民の父となる」とは、祝福の根としてアブラハムを立て、その子孫キリストによって全世界の民に恵みが与えられるという事を意味するのである。神はアブラハムにこの契約を受け入れるように願っているが、その印として署名が欲しい。合意の署名に当たるものは割礼である。もちろんアブラハムは、この祝福を欲しいと願っていた。だからウルを出たのである。彼は実子が与えられることこそ契約の実現だと思ったが、神の道は少し違っていたようである。神は子を与えこの地を与えるという神の契約・約束を先ず信じて欲しいと神は願っている。結果を見る前に主を信じることは勇気がいる。アブラハムには、神が望まれる道が少し分かり始めたようである。

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2000年10月15日(日)

創世記十七章15〜27節(16)

《わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう  》

 神は続いてサライの名をサラ(女王)と変えるように語った。多くの民の母となる約束である(16)。またこの時初めて主は、サラから男子が産まれるとお告げになり、名をイサクとするということまで語られた。しかしアブラハムは、自分たちが老齢で子供が産まれるような力はないと分かっていたので、神の約束とは言え笑ってしまった。信じられなかったからである。むしろイシマエルはアブラハムの血を分けた子であり、彼が跡継ぎになるのが良いと考えていた。しかし神はご自分の計画をもっておられた。それはアブラハムとサラの子孫に、救い主を与えるというものである。それが神の祝福の道である。

 ついにアブラハムは神の導く道に従うことにした。神との契約関係を受け入れ、割礼を受けることにしたのである*。即ち彼らにはまだ子はいないけれども、神の約束を信じて一歩踏み出したのである。一同が割礼を受けたのは、神の約束を心から信じる決心をしたことを行動に表したことを意味する。アブラハムの年齢が九九歳だったとあるのは、彼の生涯に大きい変化があったことを示している。

(*割礼とは男性器の包皮の一部を切除することである。)

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2000年10月16日(月)

創世記十八章1〜15節(14前半)

《主にとって不可能なことがありましょうか。》

思いがけないときに主は近づいてこられる。しかも主だと分からない旅人の姿をもって。これを読み「靴屋のマルチン」を思い出す。三人の旅人がアブラハムを訪ねた時、主からの方々だと知らなかったにもかかわらず心から歓迎した。子牛の肉は祭りの時しか使わない料理、三セヤの麦粉は、四十リットルもの上等の粉である。三人の旅人にはあり余るほどの食事の準備に、アブラハムの丁寧な接待が見える。ヘブル十三2には「旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は気づかないでみ使いたちをもてなした」とある。主の思いがけない訪問を見過ごしてはならないと思う。

 さて、三人はサラに男子が授かると告げる。その約束はこれまでにも何度か彼らに言われていた。イシマエルでも、ダマスコのエリエゼルでもなく、サラから産まれた子が後継ぎとなり、イサクという名まで告げられていた。今回は来春にはイサクが誕生していると、時期まで語られる。それでもサラは信じられず笑ってしまった。13節では突然、語り手が旅人から主にかわり、「主にとって不可能なことがありましょうか」と語られる。自分を見、現状を見ると神の業を信じられないことが多い。自分の思いではなく主の御心が成るように祈りたいと思う。

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2000年10月17日(火)

創世記十八章16〜33節(22後半) 

《アブラハムはなお、主の前に立っていた。》

旅人(主)の来訪は、イサクの誕生とソドムの滅亡を告げるためであった。ソドム、ゴモラの罪は大きく、その叫びが天にとどいていた。主はこの町を滅ぼす見通しを持っておられたようである。その時「私のしようとする事を、アブラハムに隠してよいであろうか」と、主はご自分の心の痛みをアブラハムに語られた。神の思いを知らされたのは、アブラハムが「神の友」として信頼されたからである。真の友は心を打ち明けることの出来る関係にある。ソドム・ゴモラは重い罪の故に滅びる運命にあるが、その町の一人ひとりは大切な者たちであって、神のかたちを持つ人間が滅びることは神の痛みである。神の重荷を知らされたアブラハムは、「主の前に立って」執り成しの祈りを始めた(22)。

 彼は、@義なる神は、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼさないことを信じ(23)、また、

A少数の正しい者のゆえに憐れみの神は赦して下さるであろうと信じて祈るのである(24)。人々への愛の故に彼の執り成しの祈りは始まった。滅びる者に無関心ではいられなかったのである。また「ちり灰に過ぎませんが」と謙って祈る(27)。アブラハムの心にはロトの家族があっただろう。家族、知人、町の知らない人々の救いのため忍耐と愛をもって祈りたいと思う。

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2000年10月18日(水)

創世記十九章1〜11節(2前半) 

《「わが主よ、どうぞしもべの家に立寄って足を洗い、お泊まりください。」 》

 二人のみ使いがソドムに着くと門の傍らにロトが座っていた。門は政治、裁判、商取引などが行われる重要な場所。ロトは町でもかなりの地位にいたと思われる。彼が二人に会ったとき、ソドムの人々には見られない何か清いものを感じたのであろう。堕落した町に生活していても、ロトはアブラハムの信仰の感化を受けていたと思う。旅人たちは広場で野宿すると言ったが、夜になると町の連中が何をするか分からぬと思って、ロトは自宅に泊まるよう勧めた。日が暮れると間もなく町の者たちが、ロトに宿泊客を出せと言う。「われわれは彼らを知る」とは同性愛を意味している(5)。ロトは戸外の怒鳴り声に答えて、自分の娘を代わりに出すなどと言う。ソドム・ゴモラの罪深さの一端を見せられる。

 性の混乱は社会の混乱を招く。何故なら夫婦の家庭生活が社会の基礎になるのに、それが荒れると子供への影響は計り知れない。二、三十年の後には、恐ろしい結果を刈り取るようになる。パウロはローマ一24以下でそれを述べている。旅の二人はそのようなロトの提案を退け、代わりに外の連中の目をくらませて、入り口が分からないようにした。ロトが聖なる人々を招き入れたように、神を敬う雰囲気を家庭に作る努力が必要に思う。

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2000年10月19日(木)

創世記十九章12〜29節(17)

《「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。」 》

 この町の者は老人から若い者まで罪深かった(4)。神は十人の正しい人を見つけることが出来ず滅ぼすことにした。主イエスはロトの時代の人々について「食い、飲み・・・などしていたが・・・火と硫黄が降ってきて彼らをことごとく滅ぼした」と言う(ルカ十七28)。しかし神は「非道の者どもの放縦な行いによって悩まされていた義人ロト」とその家族を救おうとされた(第二ペテロ二7)。 ロトは娘婿たちにこの町から脱出するように促したが、彼らは滅びなど「戯れごとのように」思った(14)。昔も今も天国とか滅びとかを冗談のように思う人々が多い。信じない婿たちは火山活動による火と硫黄によって死んだ。み使いに促されてロトは妻と娘たちを連れ出した。み使いは「逃れて自分の命を救いなさい。後ろを振り返ってはならない」と警告した(17)。これは過去の罪の生活を断ち切り、新しい信仰の生活に立ちなさいと言う意味である。この勧めにも関わらず、ロトはぐずぐずしていた(16)。また彼の妻はこれまで築いた財産に後ろ髪を引かれる思いで振り返えり塩の柱になった(26)。

 どれほど神が救いの手を伸べてくれていても、自分自身が手を伸ばさないと救われない。救いの保持は神と自分自身の問題である。

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2000年10月20日(金)

創世記十九章30〜38節(37)

《姉娘は子を産み、その名をモアブと名づけた。これは今のモアブびとの先祖である。》

 ソドム、ゴモラは火と硫黄で滅ぼされた。ロトは命からがら逃げることは出来たが、多くの悲しみを味わった。彼は罪の町ソドムに対する神の厳しい裁きを知り、また突然妻を失ったショック、また財産をなくした絶望感で悲嘆にくれたに違いない。自分たちが助かったことは感謝だったかも知れないが、死んだ知人たちへの思いは心の痛みとなっただろう。父と娘たちはやっとの思いでゾアルまで逃げたが、再び噴火が起きると其処も危険になると思って山に逃げた。彼らは住む家もなく洞穴に住むことにした。 

 ところがここで、娘たちは酒に酔った父により子をもうけるという、恥ずかしい出来事を起こしたのである。近親相姦である。古代社会のハムラビ法典も近親相姦は禁じていたのに、娘たちは醜態をさらした。彼女らはソドムの影響を受けていたのかも知れない。ロトは全てを失って自暴自棄になっていたのだろうか。ノアもこれに似たことをおこなった。彼の場合は洪水が終わりその危険から解放されたという心のゆるみから、酒を飲んで醜態をさらした。緊張がなくなったとき、あるいは問題があまりにも大きくて失望の中に置かれたとき、異性に慰めを求めて思いがけない失敗をする。静かな心で神を求めていると道を踏み外すことは少ないように思う。罪が結果を残すように、彼女たちはモアブとアンモンという子孫を残した。

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2000年10月21日(土)

創世記二十章1〜18節(6)

 《「そうです、あなたが清い心をもってこのことをしたのを知っていたから、わたしもあなたを守って、わたしに対して罪を犯させず、彼女にふれることを許さなかったのです。 》

 アブラハムはゲラルの王アビメレクに、妻サラを妹だと言った。妻のために自分が殺されると思ったからである(11)。彼は以前もエジプトで同じ失敗をした。アブラハムは自己防御の思いが強くて、つい嘘を言ってしまう性質を持っていたようである。人は誰でも弱点を持っている。怒りっぽさ、嫉妬、落ち込み、異性への誘惑、他者の意見の受容困難等、それぞれ弱さによって失敗しがちである。自分の弱さは何であるのか、認めるべきである。自分には弱さなどないと否定する人は、繰り返し同じ失敗をする。「聖霊は弱い私達を助けて下さる」のに、弱さを認めない者は聖霊の助けを求めない。弱さを知っている人は神の前に謙虚になって祈る。アブラハムはかつての失敗を、どれほど真剣に悔い改めたのであろうか。ところで神は後宮に召し入れられたサラを、危険から守って下さった。他方、夢で正しいアビメレクに警告して、罪を犯させないように守った(6)。これを知ったアビメレクがアブラハムに詰問した時、彼は「この所には神を敬う人がない」などと信仰者らしくない言い逃れを言う。アブラハムが真に信仰を持っているなら嘘を言う必要はなかった。神は弱さを持つ私達を、助けて下さることを覚えていたい。

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2000年10月22日(日)

創世記二一章1〜7節(1)

《主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。》

 アブラハム夫妻は、これまで上がり下がりの信仰生活をしてきたが、神は彼らを懇ろに導き約束を信じて、遂に後継ぎを与えられるにまで至った。私達も同じで、不十分な者であるが神は私達を取り扱い、徐々に信仰の高嶺へと導いて下さる。神はイサクをお与えになり、神がいかに彼らを顧みられるかを表されたのである。

 @神は「先に・・告げられたように」とあるように、約束を完成される神である(1)。 A神はサラを顧みるように、私達を目にとめて下さる神である(1)。顧みるとは目をとめ心に掛けると言う意味。

 B「告げられた時になって」神の約束がなされた(2)。「私があなたがたにたいして抱いている計画は私が知っている」とあるように、私達への平安、希望、将来を与える計画は神が知っておられる(エレミヤ二九11)。 イサクが誕生によって、アブラハムの家庭だけでなく、近所の人々にも喜びが溢れた。イサクは笑いという意味である。私達は途中の経過を見て喜んだり悲しんだりするが、本当の結果は「神は、神を愛する者たち即ちご計画にしたがって召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」ことではないだろうか(ロマ八28)。信仰とは、神のこの結論を知りながら、人生の道のりを歩むことである。

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2000年10月23日(月)

創世記二一章8〜21節(19)

《神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。彼女は行って皮袋に水を満たし、わらべに飲ませた。》

 イサクの乳離れのお祝いの時、サラはイシマエル母子を追い出すようアブラハムに求めた。サラは二人の子等が遊んでいるのを見て、イシマエルが後継ぎになっては困ると思ったからである。「遊ぶ」にはいじめるとか、からかうの意味がある(新改訳)が、子供たち二人の様子を見ていて、サラに嫉妬や憎しみが起こって来たのかも知れない。古代の法ではハガルのような立場の者は、強制して追い出すことは出来なかった。難しい問題に直面して、アブラハムはハガル母子の将来を思って心配した(11)。しかし神がサラの要求を受け入れるようにと語り、イシマエルの子孫もまた祝福すると約束されたので、彼らを外に出すことにしたのである。荒野に出て数日も経つと持ってきたパンと水は無くなり、ハガル親子は死を覚悟し泣いた。神は彼らの叫び声に応えて、ハガルの目を開き井戸を見させられた。

 私達は困難に取り囲まれると、気持ちが動転して物事が見えなくなることがある。危機的な時には重要な決断をしてはならない。救いの神が見えるまで静まるべきである。待ち望む時、神が井戸の水を備えていて下さるのが見えてくる。間もなくパランに住みかを見つけ、彼らは主に励ましのなかでたくましく生き始めた。

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2000年10月24日(火)

創世記二一章22〜34節(22)

《そのころアビメレクとその軍勢の長ピコルはアブラハムに言った、「あなたが何事をなさっても、神は   あなたと共におられる。 》

 アビメレクは海岸沿いの地域で勢力を持っていた。ところがその地域にアブラハムが住むようになると、アビメレクは彼のことが気になり始めた。というのはアブラハムがこれ以上裕福になると、自分の領土にも勢力を伸ばしてくるのではないかと、心配したからである。そこでアビメレクはアブラハムを訪ね、契約を結ぼうと持ちかけた。実際にはアブラハムは羊飼いにとって重要な井戸のことで、アビメレクの家来とトラブルがあったので、これをキチンとしておきたかったのである。 今私達は、複雑な社会生活の中で利害関係が生じる場合には契約をする。ところが普段のつき合いでは契約などせず、お互いの信頼関係で物事を進めているのが普通である。ところが日本人の習慣として、甘えの感じをもって人々と交わろうとする傾向がある。クリスチャンの間で物事をルーズに考え約束事を守らず、こんなことをしても許してもらえるだろうという甘えの思いをもってつき合っていると、お互いの信頼関係は壊れやすくなると思う。私達は主にある兄弟姉妹であればこそ、真実な交わりの関係をもつべきである。その時アブラハムが「あなたが何事をなさっても、神はあなたと共におられる」と言われたように、私達も見てもらえると思う。

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2000年10月25日(水)

創世記二二章1〜8節(1)

《これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。》

 イサクが生まれアブラハムの家庭が順調であった時、神はアブラハムを試みた。試みとは信頼と献身テストである。神は愛するひとり子を献げなさいと言われる。主イエスが荒野の試みで彼の献身が深められたように、アブラハムもイサクを献げることによって、服従が本物とされたのである。「アブラハムよ」と言う神の呼びかけに、彼は「ここにおります」と答える。彼らは親しく結ばれていた。イサクを献げよと言う神の命令に、アブラハムは素直に従った。神に信頼していたから、どんなことでも委ねることが出来た。しかし実際にはそれは簡単ではない。此処に彼の信頼の姿を見る。@彼はすぐに従った。「朝早く起きた」のは即座の服従である。心に示されることを先延ばしにしてはならない。A彼の服従は変わらない。モリヤへの三日間の旅路は心の揺れる日々ではなかっただろうか。しかしこの箇所にはそのような印象はない。Bアブラハムは神の約束を確信していた。いよいよ山に登る時「礼拝した後あなた方の所に帰ります」と若者に言ったのは、彼ら親子は必ず帰宅できると信じたからである。神が与えたイサクを、神はどのような方法であっても再び与えて下さると信じていた。信頼、服従、献身を神はアブラハムに求め彼はそれに応えたのである。

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2000年10月26日(木)

創世記二二章9〜14節(12後半)

《あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った。 》

 本章には、神とアブラハムとの信頼の関係が、不思議なほど密接にあらわされている。イサクを縛って、今まさにはん祭として捧げようとしたとき、神はアブラハムの手を止めなさった(神は殺人を望まず、むしろ禁止される)。彼が真心から神に信頼していることが見えてきた時、主は「あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を畏れる者であることを私は今知った」と言われた。この時の神の喜びはどれほどであっただろうか。神の民の先祖としてアブラハムを選び、ついに此処まで来たとき、神とアブラハムとの関係は、深い信頼と喜びで結び合わされていたに違いない。神がひとり子イエスを十字架に献げたとき、(天の)アブラハムは父なる神の痛みを理解することが出来たのではないだろうか。だから彼は、神の友と呼ばれるようになったのである。

 アブラハムは最後まで「神みずからはん祭の小羊を備えて下さる」ことを信じていた(8)。そして「主の山に備えあり」(アドナイ・エレ)と感謝した。この章はアブラハムの生涯の最高峰である。神は曲折の人生を歩む者を選び、彼に近づき、声を掛け、忍耐をもって導かれた。主は信と不信の間に揺れ動く者を、「神の友」となるまで成長させてくださった。

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2000年10月27日(金)

創世記二二章15〜24節(18)

《また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである。 》

ひとり子を献げるほどに主を信頼したアブラハムに、再び神は天の星のように子孫を増やすと約束された。神はこれまでアブラハムにこの約束を何度もされたが、彼はどれほどの実感をもってそれを受けとめただろうか。ある時は信じることが出来ず、笑ってしまった。ところが、はん祭にささげたイサクを神がお返し下さったとき、アブラハムは神が将来について約束されたことを真実信じられるようになった。私たちは信じるとは言っているが、実は半信半疑の思いを持っていることがある。しかしギリギリの状態で神を信じる経験を通過すると、生ける神への信頼は本物になる。アブラハムはその経験をした。

 20節に突然、アブラハムの遠縁の家族のことが記されている。その中にリベカの名が出てくる(23)。リベカはやがてイサクの妻となるのである。神の行き届いたお取りはからいが、自分たちの知らないときに仕組まれている。「あなたのひとり子を惜しまなかったので、私は大いにあなたを祝福する」と約束する神は、イサクの妻のことまで準備しておられるようである。真の献身をする者に、神の約束の真実性が分かって来る。

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2000年10月28日(土)

創世記二三章1〜20節(6前半)

《わが主よ、お聞きなさい。あなたはわれわれのうちにおられて、神のような主君です。われわれの墓地の最も良い所にあなたの死人を葬りなさい。 》

サラは百二十七年の生涯を閉じた。

@サラの生涯をかえりみると、彼女は従順な人であった。彼女にもいくつかの失敗はあったが「サラはアブラハムを主と呼んで彼に従った」とあるように(第一ペテロ三3)、サラはアブラハムの従順な伴侶であった。

A彼女はまた信仰の人であった。イサクを献げた時、サラはあの時どのような思いを持っただろうか。詳細は分からないが、彼女もアブラハムと同様にイサクを神に献げる信仰を持ったのだと思う。サラも信仰の人に成長していたからである(ヘブル十一11)。  

 さてサラが亡くなりアブラハムは悲しんだが、やがて悲しみの座から立ち上がった(3)。妻を葬る墓地のために、さまざまな交渉をきれいに取りまとめている。それは、@アブラハムが近隣によい証をしていたからである。ヘテ人は彼のことを「あなたは神のような主君です」と賞賛している(6)。それでヘテ人はよい地を無償であげようと提供したが(11)、アブラハムはそれに甘えることなく丁重にお断りした。

Aアブラハムはお金をきれいに使う人であった。土地の値段が四百シケルだと聞くとそれをキチンと支払い、墓地はハッキリとアブラハムの所有となったのである(16)。近隣に信仰の証を立てたいと思う。

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2000年10月29日(日)

創世記二四章1〜9節(6)

《アブラハムは彼に言った、「わたしの子は決して向こうへ連れ帰ってはならない。」》

 イサクの結婚相手をきめる物語である。それは子孫への神の約束を知っているアブラハムが、死ぬ前にしなければならない大切な課題であった。アブラハムは年長のしもべを呼んで、嫁選びの条件を話し彼にその務めを頼んだ。アブラハムが基本にしたことは、神を信じる態度で結婚を考えるということである(3)。そのために僕に神への誓約をさせるほどであった。アブラハムの条件とは、

@親族の中から妻を選ぶべきで、カナン人の中からではない(3)。それは血統を守るというより、カナン人の信じる偶像礼拝が家庭に入り込まないようにとの配慮からである。Aもう一つの条件は親族からの女性であっても、出身地のハランへ帰るような妻であってはならないと言う点である(5)。アブラハムは神が導いてこの地を彼と子孫に与えると言われたのだから、この地を離れてはならないと態度を決め、僕にその趣旨をハッキリ伝えた。アブラハムは神がお与えになった信仰の遺産を、子孫に残す使命を受けとめていた。 今日、クリスチャンの中から配偶者を選べと言っても難しい事情がある。しかし結婚に当たって、相手に信仰を理解してもらう努力は必要であろう。そのようにして、信仰の遺産を子孫に残す努力をすべきではないだろうか。

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2000年10月30日(月)

創世記二四章10〜21節(21)

《その間その人は主が彼の旅を祝福されるか、どうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。》

しもべがイサクの配偶者を選ぶ知恵には、すばらしいものがある。

 @主人の言いつけ通り、親戚筋の多いアラム・ナハライム(北部メソポタミア)へ行った(10)。

 A彼は祈りをもって始めた(12)。祈りは具体的である。家族のためによく仕事をする娘であること、親切でよく気がつく人であることなどである。そのような人柄を備えた人が与えられるようにとしもべは祈った。間もなく娘たちが井戸に来たので、彼が水を下さいと頼んむと、リベカが近づき見知らぬ旅人に水を提供し、そればかりからくだにも水を飲ませてやった。十頭のらくだに十分な水を飲ませるのに深い井戸から何度も汲み上げることは、女性にとって力のいる仕事であった。しかし思いがけない余分な仕事をラケルは少しも嫌がらず、忍耐をもってしてあげた。

 Bしもべはラケルの対応ぶりを注意深く観察していた(21)。焦らず主の導きを待ちながら黙って見ていた。そのような時間の経過の中で、神は徐々にしもべにこの女性ではないかとの思いをお与えになった。しもべが祈り深く忍耐強く待っているとき、答えが見えてきたのである。人生の大切なことを決めるとき、祈りながら時をかけて待っていると、主は答えを与えて下さる。

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2000年10月31日(月)

創世記二四章22〜51節(50) 

《この事は主から出たことですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことができません。》

 祈りながら待っていたしもべは、リベカの対応ぶりを見ているうちに、この人こそ主がイサクにお与えになった女性であると思うようになった。お礼のつもりで腕輪などを贈りながら彼女の家について尋ねると、ベトエルの娘だという。これを聞いて彼女がアブラハムの親戚筋であることが分かり、彼はますます主の導きの不思議さに驚き、神に感謝をささげた。しもべは結婚への導きを信じながら、彼女の親にこの話をするためにリベカの家を宿泊場所にとお願いした。

 その依頼を受けた娘は、先に自宅へもどりアブラハム家の人に会ったことを話し、リベカと兄ラバンは、井戸のそばで待つしもべを迎えに行ったのである。家に迎え入れられたしもべは、食事の接待を受けるばかりになっていたが、「私の用向きを話すまでは食べません」と言って、これまでのいきさつを家族に話した。務めを第一にするしもべは立派である。そこで彼はアブラハムが親戚から嫁となる人をさがし、その人がカナンの地に来ることを条件にしていると言った。そしてこの希望にふさわしいリベカに出会えたのは、神の導きであると話した。これを聞いて父も兄も「これは主から出たことです」と答え、結婚の話は一挙に決まったのである。

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