申命記二八章1〜14節(9)
《もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。 》
本章は前章を受けて、祝福(1〜14節)と呪い(15〜68節)を述べている。祝福の条件として「主の戒めを守り行う」ことが再三告げられたが、1、13節にもそれが語られている。戒めとは十戒であって、それは神と民の契約のこと。約束事は誠実に守るのが基本である。古代には契約に二つの方式があった。 一つは対等関係の契約、もう一つは主従関係の契約である。強い王が弱い民を庇護するのは後者であって、神とイスラエルの契約もこの形式を取っていると言われる。民が神に対して持つべき態度は、ただ彼を敬い人々を愛することである。その者に神は町の平和、畑の祝福、子孫の祝福等をお与えになる。
ところがイスラエルだけでなく世界の民は戒めを守らず、その結果祝福を失って来た。人々は神を忘れ人々を愛さなかったために、町は平和を失い畑の祝福を失った。私達は損失の長い世界歴史を知っている。しかも祝福の最も高いものは聖なる者とせられ、頭となることである(9、13)。聖なる者とは神に愛され彼の所有となる者のこと、頭になるとは自己存在の価値(アイデンティティー)を持てない者ではなく、自信を持って歩める者のことである。救い主なる神を信じる者として、主の戒めを守り従っていく日々を維持したいものである。
申命記二八章15〜35節(15)
《しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。》
15節からは呪いが述べられる。此処に語られる災いは、国家的なものより個人的なものが多い。
@敵の前から逃げ去る(25)。住むべき所を失うと言うのは、自分の居場所がなくなることであろう。しかしこれは住居の問題ではない。自分がくつろぎ楽しむ場所を失うことである。人がこの様な場所を失うと生きられなくなる。神は居場所を作り直して下さる。 A癒されない病(27)。病気であっても魂の健康な人は多くいるが、健康に見えても病んでいる人がいる。神を忘れてしまうと、癒して下さる方を見失ってしまう。
A真昼にも手探りをしている(29)。歩む道が順調に見えても、自信を持てず不安な人がいる。一方、逆境に見えても勝利者のように生きている人がいる。それは単なる強がりの自信家ではなく、神により頼んでいる人である。「自分の愛する者によりすがって、荒野から上って来る者は誰ですか」は雅歌八5の句であるが、彼は荒野の征服者である。
Cブドウ畑を作っても、その実を摘み取ることがない(30)。人は労働によって良い収入を得ることが出来よう。しかしそれが豊かな人生を生み出さないとすれば、「実を摘み取っている」とは言えないのではなかろうか。神ではなく自我を中心に置くなら、豊かさは味わえなくなるだろう。
申命記二八章36〜57節(45)
《これはあなたの神、主の声に聞き従わず、あなたに命じられた戒めと定めとを、あなたが守らなかったからである。 》
此処に語られている災いは、国家的な要素が多い。36節に「あなたが立てた王を携えて、あなたもあなたの先祖も知らない国に移される」とあるのは、イスラエルの捕囚を意味している。残念なことに、彼らはアッシリヤやバビロンによって国を滅ぼされ、多くの者は捕虜として移されてしまった(紀元前五八六年)。国を失うことは無念であるが、神の民にとって最も残念なことは「木や石で造った他の神々に仕える」ことであった。列王記には国家滅亡の理由や経過を見ることが出来るが、その根本原因は神を神としなかったことである。彼らは敵国に移され、ダニエル書で見るように王を神として拝むことを強要された。ダニエルら少数者は王の命令を拒否したため迫害されたが、多くのイスラエル人は言われるままに王を神として拝んだのである。 国家滅亡の時、飢えのために自分の子を食べるというの悲惨さを47節以下に述べているが、それは列王下二五章に実現し、その詳細はエレミヤ三九章以下に記されている。国家を失うことは、全ての生の基盤を失うことである。イスラエルはそれを経験した。
しかし憐れみの神は、彼らを回復されたのである。どうか私達の存在の基礎である神への信仰を失わないように。憐れみの神を何時も仰いでいたい。
申命記二八章58〜68節(66)
《あなたの命は細い糸にかかっているようになり、夜昼恐れおののいて、その命もおぼつかなく思うであろう。 》
一日の解説で、神と民との契約について書いた。即ち二八章は契約を守る者を祝福し、これを破る者を呪うという神の対応を述べていた。これをイスラエルの歴史に照らし合わせると、残念ながら彼らは契約を破り、呪われた者となっていることがよく表れている。 結局、イスラエルが契約を守らなかったために滅ぼされたのではあるが、神の民が起こされたのは何のためであったのか、という疑問がわいてくる。神の正義が強調されるのはよく分かるが、イスラエルの選びの意味がほとんど無いに等しい感じさえする。63節は滅ぼすことを喜ぶ神をさえ感じさせる(本質的には神は憐れみのお方であって、ショック的表現だと言う注解者がいる)。整った契約である十戒であったのに、それを守れなかったため神と民の関係が破綻した状況の中で、神は新しい道を用意される。それは「新しい契約」である。やがてエレミヤがそれを提示するのである(エレミヤ三一33〜34)。
新しい契約は、イエス・キリストによって実現したのである(ヘブル八8以下)。此処にいたって初めて祝福と呪いの意味が分かってくる。主イエスに罪の呪いが置かれ、彼の赦しによって神の祝福が下るのである。このように、新約にいたって旧約の意味が実現することを感謝したい。
申命記二九章1〜15節(14、15)
《わたしはただあなたがたとだけ、この契約と誓いとを結ぶのではない。・・・きょう、ここにわれわれと共にいない 者とも結ぶのである。》
二九〜三十章はモーセの第三説教である。イスラエルが最初律法を受けたのはシナイ山(ホレブ)で、あれから四十年がたち第二世代となったとき、ヨルダン東の地モアブで律法が再述された。この時モーセは、最初の出来事を民達に思い出させている。@出エジプトに際しての不思議な出来事、A荒野での神のみ業、Bヨルダン東のシホンとオグへの勝利等である。今まさに目的の地に入ろうとするとき、モーセは今一度戒めを守ること、即ち契約に誠実であることを命じるのである。此処で二つのことを学ぶ。
@約束事は繰り返される必要があること。モーセは人が信仰生活に慣れっこになって、恵みを忘れてはならないと戒める。確かにキリスト者としてその第一歩を始めたとき、私達は新鮮な気持ちを持っている。しかし徐々に慣れるに従って、恵みが当たり前のように思われる。エペソの教会員は熱心に奉仕をしているのに、「初めの愛」から離れたために叱責された(黙示二)。初めの愛とは緊張した、恐れの思いさえ持つ愛である。
A契約は、一人一人となされていること。一般には契約は代表者がすればよい。ところが此処には、「全ての人」との契約とわざわざ書いている。主は各信徒との交わりと、信頼関係を持とうと願っておられるのである。
申命記二九章16〜29節(18)
《あなたがたのうちに、きょう、その 心にわれわれの神、主を離れてそれら の国民の神々に行って仕える男や女、 氏族や部族があってはならない。 》
モーセは今一度、神ならぬ偶像を拝んではならないと熱心に訴える。それは根のようなものであって苦い実を生らせる(18)。それには毒があって、食べると人を害する(三二32)。神ならぬものは偶像ばかりではない。主イエスはお金も偶像になり得ると言われた(マタイ六24)。偶像崇拝の問題は「心を祝福して、心をかたくなにして歩んでも私には平安がある」と言い始めることである(19)。 神を忘れてうぬぼれることほど恐ろしい心はない。人は絶望によって神を離れることがあるが、それでも神への道はつながっている。しかし神に対する傲慢は、手のつけようがないほどである。サタンはかつては天使であったと言われているが、それが堕落したのは「神のようになる」傲慢であったからである(イザヤ十四12他)。傲慢さを産み出す「根」を作ってはならない。根を作る種を蒔いてはならない。根は何時までも残るからである。へりくだる思いを失わないようにしたい。
何故偶像に傾くのか。それは主を離れるからである(18)。「離れる」を新共同訳では「心変わりして」と訳している。それは「変わったものへの関心」である。様子の変わった異教に興味を示す程度のことである。しかしそれが人生の車輪を変えてしまう。心すべきである。
申命記三十章1〜10節(6)
《主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、 》
「心をつくし精神をつくして、主に従う」「主を愛する」と言う言葉が、この書にひんぱんに出てくる。主イエスはこれこそ律法の中心だと言われた。この信仰は私たちの人生のいろいろな場面で尋ねられることである。神がイスラエルに期待したことは何が出来ると言うよりも、神に対してどのような心の態度を持つかと言うことであった。クリスチャンに対しても同じである。ところがそれが難しく感じられる。ここに二つの点を示しているのを学びたい。
@主に立ち帰ることである(2)。これはなにも回心の時だけではない。信仰生活の中で悔い改めすることはある。悔い改めとは悪いと思ったり、申し訳ないことをしたと思うことではない。それまでの生活のあり方の「この点」について、意識の変化を見つけることである。そのことに気づいたら、意識の変化から生活の変化へと表れるものなのである。主に立ち帰った人は、小さいことから主を愛することを始める。
A心の割礼をする人である(6)。割礼とは心の汚れを取り除く象徴的な言葉。強情、傲慢が最も悪い汚れと言われるが、十字架の血潮によらなければ取り去られない。イエスはそれをして下さる。そのとき不思議に主を愛する者と変えられるのである。これを心の聖化という。
申命記三十章11〜20節(14)
《この言葉はあなたに、はなはだ近く あってあなたの口にあり、また、あなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。 》
律法の精神は、神を愛し隣人を愛することであると主イエスは言われた。申命記はこのことを長々と伝えているのである。人々はこれを難しいと思う。確かにその面があると感じられる。これに対してモーセは「この戒めは難しいものではなく、また遠いものでもない」という(11)。難行苦行をしてこの戒めを守れと言っているのではない、身近なところから始めればよいと言うのである。「主を愛する、隣人を愛する」ことを口の中に入れておくだけで、実行できるようになると言う(14)。パウロはこの句をローマ十6以下に引用し、律法的な行いに縛り付けられていた人々に「イエスは救い主です」と信じて言い表すなら、それだけで救われると教えた。この告白は、神への服従の告白である。
誰でも「主よ、あなたに従います」と祈るなら、不思議にも心と体がそれについていく。神が変えて下さるからである。そのような経験を筆者も経験した。それなのに自分の力や意志によってしようとするから、何時まで経っても従うことが出来ない。本来自力では、神に従うことは出来ないものである。ただへりくだる思いと、心砕けた思いがないと祈ることは出来ない。15節から右か左かと究極の選択を求める。神に顔を向けて、歩もうではないか。
申命記三一章1〜8節(8)
《主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない。》
三十章で説教を終え、本章からはモーセの生涯の締めくくりとなる。歴史的には三27で止まっており、そこから律法を伝えるモーセの説教が始まっていた。再び此処で、歴史の舞台が元に戻る。使命を果たし終えたモーセは、此処でヨシュアを次の指導者として任命する。リーダーが替わるときは不安な緊張が起こる。これから進むカナンは知らない土地であり、何が起こるか分からないだけに不透明である。未知の世界に突入するのは不安である。私たちにとっても、生活上の変更がある場合はそうである。この時モーセは「強く勇ましくせよ」と二度も励ました。神の励ましは次の通りである。
@「主があなたと共に行かれる」。これはモーセ自身が体験したことであった。民が罪を犯し捨てられそうになったとき、彼は神に嘆願した。その時「私自身が共にゆく」と語られ、彼は安心して進むことが出来た。問題がある時もない時も、主は共に歩いて下さる。「共に」は横にいる立場、「先に」は困難の敵に立ち向かう姿勢を示唆する。主はそのように共にいて下さる。
A「あなたを見放さず見捨てない」。この句は、昨日も今日も変わらないキリストに結びつけて、ヘブル十三5に引用されている。主が私を見捨てないと言われるのは、なんと心強いことであろう。
申命記三一章9〜13節(12)
《男、女、子供およびあなたの町のうちに寄留している他国人など民を集め、彼らにこれを聞かせ、かつ学ばせなければならない。 》
モーセは律法の管理を、後継者に指導した。 @律法は祭司と長老に委ねる(9)。聖書は全ての者の書である。しかし、その責任者は明らかにしておかなければならない。祭司は教職者、長老はこの世の指導者である。古代ではこの両者の区別は現代ほどではなかっただろうが、それでもある程度の役割分担はあった。今では教会にはこの区別はあるが、聖書は両者の手に与えられている。教職はもちろんのこと、信徒もしっかり学び実践する責任がある。
A選ばれる場所で聖書を読むようにと言われた(11)。それは十二章で言われたようにやがて神殿が設置される所である。古代では始まったばかりだから、自分勝手な場所ですると混乱が起こることが予想されたので、ある一定の場所でと決めた。今では聖書は家庭と教会で読む。両者とも大切であるが、教会で聖書を聴くのを除いてはならない。
Bある一定の時に、聖書は読まれるべきである(10)。当時は祭りの時などであった。今は安息日ごとである。
C全ての人に、読み聴かせるべきである(12)。男女、子供、外国人までもこれに含まれる。昔は印刷した聖書はなかったので、特定の人しか聖書は持たなかった。だから彼らはみ言葉を覚えなければならなかった。それがイスラエルを記憶の民としたのである。
申命記三一章14〜30節(21)
《多くの災と悩みとが彼らに臨む時、この歌は彼らに対して、あかしとなるであろう。(それはこの歌が彼らの子孫の口にあって、 彼らはそれを忘れないからである。) 》
既にモーセはヨシュアを後継者に立てていたが、ここで幕屋において正式な式典を行い指導者に任命する。それはモーセの死の時が近づいてきたからであった。ところがその直後モーセは残念なことを告げられる。それは民がカナン入国後、異なる神を拝みその結果滅ぼされ、神は顔を隠されるということである(17)。これは先にも言われていたが、せっかくモーセが民を率いて此処まで来たのに、その将来は滅びにつながる行動をすると告げられると、彼は何ともやりきれない思いを持ったに違いない。
しかし民が道を踏み外すであろうと告げた神は、モーセに歌を作って後世の民に歌わせると良いと言われる。この歌は彼らに対して証しとなり、それによって子孫が神を忘れないためである(19、21)。昔は書物がなく、記憶によって神の言葉を覚えた。御言葉を暗唱するのは、相当集中しなければ出来ない。レビ人などには出来ても、一般庶民には難しい。歌はその点覚えるのに便利である。三二章がその歌。今は何時でも聖書を自由に読めるが、それでも短い聖句とか聖歌を暗記していると良い。とっさの時の助けとなるからである。聖書に親しんでいると徐々にみ言葉が身につき、生活の中で信仰が活かされる。 そのようにして信仰が本物になる。
申命記三二章1〜7節(6)
《主はあなたを生み、あなたを造り、あなたを堅く立てられたあなたの父ではないか。》
モーセの歌である。1〜7節は前置き。 @まず呼びかけから始まる(1、2)。主は語りかけを聴いてほしいと言われる。普通、自分のことを話しても他人の話は聴かないことが多い。聴かないから意志が伝わらないし、覚えることもできない。私たちの祈りも願い事のみが多く、慈雨のように命を与える主の言葉を聴いていないのではなかろうか(2)。 A神は信頼できるお方である(3、4)。神は真実な主である。真実とは、変わらないこと。彼の愛と正しさは変わらない。岩とか山は変わらない象徴である。だから岩の上に家を立てるように、御言葉の上に人生を建てるのである(マタイ七24)。神の真実は契約に表れる。主は変わらず受けとめて下さる方だから、信頼できるのである。
Cこの神に対して民は不真実であった(5、6)。彼らは約束したことを守らなかった。悪を行い曲がったことをしたとあるのは、神への裏切りである。「愚か(ナーバール)」は、人生について正しい判断の出来ない人のことである。
C神の恵みの始めを考えよと言われる(6、7)。アブラハムのこと、また後代の時点からでは出エジプトのことである。恵みの過去を思い返すとき、堅い信仰を持つようになる。「数えてみよ主の恵み」とあるように、恵みを忘れてはならない。
申命記三二章8〜14節(11)
《わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、》
神の救いの業の始めの時を思い出すようにと述べたモーセは、次いでその後における神の配慮を語る。神の愛は、モーセ自身が体験したことであった。
@何よりも始めに伝えるのは、「民が主の分である」こと(8、9)。主の分とは主の所有、財産の意味である。神はイスラエルを自分の宝としていて下さる。主が私たちをそのように見ておられるのは、主イエスの贖いによるからである。「私のような者が・・・」と言う言葉を聞くことがあるが、救われた者は決して駄目人間ではなく、神の宝であることを心に留めたい。
A神は目のひとみのように、また鷲が雛を守るように民を守られる(10)。鷲のたとえは出エジ十九4にある。鷲が雛を育てるようすは、愛に満ちたものだと言われる。親鷲は必要な食べ物を与え、時が来て雛が巣立つときには、母鷲はその下を飛び子を保護する。親は雛に自立を促し、励まし育てる。鷲が断崖に巣を作り雛を育てるように、イスラエルは荒野で育てられた。厳しさの中での神の愛を、鷲のたとえで知らせようしたのである。神の配慮は、このように行き届いている。 B神はカナンに入った後も農産物、畜産物を与えて民を養われる(13、14)。私たちの向けられている神の慈愛と、訓練を覚えたい。
申命記三二章15〜33節(29)
《もし、彼らに知恵があれば、これをさとり、その身の終りをわきまえたであろうに。 》
かつてモーセは祝福と呪いを述べていた(二八章)。その時彼は、民が神ならぬものを拝むなら呪いが来ると告げていた。この歌でも、背信の民に災いが来ることを警告している。14節までには神の慈愛を受けてきた民について記しているが、15節以下には愛された民(エシュルンはイスラエルの愛称)が神に逆らい、神の裁きを受けるようになると語っている。即ち、悪霊にいけにえを捧げるようなことをするなら、神の怒りを受けることになると告げる。恵みを受けた人々が、神から離れるとは悲しいことである。偶像に礼拝を捧げて神を怒らせた民を、神は熱病や疫病によって滅ぼすとまで言っている(21、24)。 しかし憐れみの主の御心の真意は、民を徹底的に消し去るまでには考えておられないようである。それは「わたしは敵が誇るのを恐れる・・・」(27)に表れている。神はエレミヤが言うように「はらわたの傷む」心を持って民を愛し、見ておられるのである。そして主は「彼らは思慮の欠けた民、その中には知識がない」と嘆き(28)、「滅亡が来た場合、自分たちの身の上がどうなるかを考える知恵を民達がもったら良いのに・・・」と、嘆息する神の心を表している。私たちの心から、毒蛇の毒を捨ててほしいと主は願っておられる(33)。
申命記三二章34〜43節(43)
《国々の民よ、主の民のために喜び歌え。主はそのしもべの血のために報復し、その敵にあだを返し、その民の地の汚れを清められるからである。 》
33節まではイスラエルの滅びを述べていたが、34節からは民の回復を語る。回復に際してイスラエルを悩ました敵を罰すると言う。35節の「彼らの滅び」の文言の「かれら」はバビロンを指す。彼らがイスラエルを滅ぼすのに歴史的な役割はあったが、バビロンとても傲慢さで神のように振る舞っていたので、神は彼らを処罰する(イザヤ十三章)。だから「彼らの災いの日は近い」というのである。 さてイスラエルを回復するに当って、神はただ無条件で回復するのだろうか。此処にはイザヤ書等の内容が述べられていないが、民の服役の期間が終わるので民が回復されると見るべきであろう。そこで36節以下に神の回復を伝えるのである。此処に「主はその民をさばき」とある。裁くのは罪を罪として正当に処分すること。しかし神から正当な罪の裁きを受けるとき、誰が主の前に立ち得ようか。イスラエルが七十年の捕虜生活をしたからと言って、それで罪の償いが済んだことにはならないだろう。やはりキリストの贖いによって、完全な償いがなされなければならない。 36節の「さばく」を新改訳は「主は御民をかばい」としている。「かばう」の語は「憐れみを加え」と同義語である。神がかばって下さるので、人は立ち上がることが出来るのである。
申命記三二章44〜52節(47)
《この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。 これはあなたがたのいのちである。 》
モーセとヨシュアは長い歌を民に読み聞かせた。彼らの命令は、この歌の言葉を心に納めることである。「きょうあなた方に命じるこの全ての言葉を心におさめ・・・」と言う(46)。心におさめるとはどういう意味であろう。私たちの多くの知識は頭脳に蓄えられる。知性は記憶のために重要な役割を果たす。しかし頭脳の知識は、必ずしも経験したことではない。百度の温度がどれほどの熱さかは、何らかの実験で知ることが出来る。しかし、もし人が何かの間違いで百度の熱湯に手を入れて火傷をすると、きっと生涯忘れられないだろう。経験は人に強い印象を与える。それでも経験の種類や程度によっては、すぐに忘れてしまうに違いない。
ところが経験が更に深い内心にまで来ると、その人の生活態度に変化が起こってくる。これが聖書で言う回心である。意識が変わり、生活の原理が変わるのである。私たちがみ言葉を心におさめると言うとき、頭脳の記憶のレベルのことがあり、経験のレベルのことがあり、さらに意識の変化にまで及ぶことがある。回心は入信の時だけではなく、広い意味での回心が人生の折々に起こるなら、私たちは上に向かって成長すると思う。「これはあなたの命となる」と、約束されている通りである(47)。
申命記三三章1〜 11節(3)
《まことに主はその民を愛される。すべて主に聖別されたものは、み手のうちにある。彼らはあなたの足もとに座して、教をうける。 》
モーセの臨終前の祝福の言葉であるが、むしろ内容は十二部族の将来に関する言葉であり、父祖ヤコブの言葉に似ている(創四九)。 まず緒論として1〜5節。これはイスラエルの特徴を示している。@彼らは神に愛される者。この民族は神の愛に起源がある。世界には多様な民族があるが、「神の愛」で始まる民族はいない。しかし神の愛は彼らだけの占有ではなく、全ての国民に分かち与えられるものである。アブラハムの召しがそれを良く表している。だから「その民」を新改訳では「国々の民を愛する」と訳している。神の祝福を自分が良くなることだとするなら、自己中心的信仰になり下がってしまう。他者に目を向けるキリスト者であるように。Aもう一つの特色は、神の言葉によって生きる者である。「教えを受ける」とか「律法を授ける」の言葉に留意したい。神の民は神の言葉によって形成される。幼子が親の語りかけで人間となるように、神の子は神の語りかけによって神の子として成長する。
さて、6節からは各部族への言葉である。@最初にルベン。これは人口の減少に強調点があるのではなく、「生きる」ことにポイントがある。Aユダは全体の先頭に立つ人々。Bレビは幕屋を預かる者。皆それぞれの持ち前で貢献する人々である。
申命記三三章12〜29節(27)
《とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。 》
@ベニヤミンが「肩の間に住む」とあるのは、肩車のような格好なのだろうか。ヘブル人は物事を絵画的に表現する。この上なく可愛がられている表現である。
Aヨセフの二人の子はエフライムとマナセで、父祖ヤコブによって二部族に数えられた。ヨセフにはたくさんの賜物が与えられている。そのように彼らは、パレスチナ中央部の肥沃な土地が与えられている。
Bゼブルンは海によって富を得、イッサカルは内陸地で牧畜によって生活を営む。
Cガドは獅子のような力を得、外敵を防ぐため、全体のために大きい貢献をする。
Dダン、ナフタリ、アセルは一番北の地域に住む。ダンはガドと同様に獅子のようであって、外敵に立ち向かう。ダン、ナフタリ、アセルは雨の多い地域で農産物に恵まれる。(シメオンへの言葉がないのは、後にユダ族に吸収されるため、それを示唆しているのだろうか)。各部族への祝福はそれぞれ異なるのを見る。それが各人への神の恵みである。 私が誰か別の人のようになる必要はない。誰かと比較してはならないし、他者をうらやんではならない。全ての神の子らは神のすみかに住んでおり、永遠の腕によって支えられている(27)。だから安心して生きることが出来る。永遠者の腕に守られている者は、何と幸いであろう。
申命記三四章1〜12節(10)
《モーセは主が顔を合わせて知られた者であった。 》
いよいよモーセの最期の場面である。彼はその任務を全うし、最期に当たってカナンの全土を見せてもらった。その時モーセは、この地こそ「アブラハム、イサク、ヤコブに・・・あなたの子孫に与えると誓った地」であると告げられた。これを聞いて、彼の胸にどれほど深い感慨が迫ったであろうか。モーセはピスガの峰で生涯を終わり、モアブの谷に葬られた。あまりにも偉大であったため、民が彼を偶像視してはならないためだろうか、墓の所在は分からない。最後までその気力は衰えなかったとあるが、真剣に生きた者の最期にふさわしい。申命記を閉じるに当たって付記を書いた人は、モーセについて次のように締めくくる。
@彼は最も偉大な預言者である。歴史的に見て、ユダヤ民族を統合した人物であることは間違いない。その点で彼は歴史を作った指導者である。しかし預言者と言われるように、神の言葉(十戒)を預かり、それを伝えたという点で偉大である。
A神と顔を合わせて語った人である。モーセにとって、これほどの光栄はなかったに違いない。しかし新約においては「私たちは顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ」生活することができる。何時どのような時でも、主の御顔を見つめながら進む人生でありたい。
ヨシュア一章1〜9節(5)
《わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。 》
本書はモーセの後継者、ヨシュアの生涯を記す。彼についての最初の言葉は、
@モーセの従者である(1)。従者とは「仕える者」の意味。彼がモーセに仕えていた時、失敗もあり恵みの経験もあった。失敗したときはたしなめられたが(民数十一28)、主の臨在経験の時には彼はモーセから離れなかった(出エジ三三11)。どんな時にもモーセと共にいたことで、ヨシュアはモーセの従者と見られた。それは単なる知識の受け継ぎではなく、人格的な交わりである。信仰は人格を通して受けとめられる。
A神が約束される地に進み入ることである。ヨシュアは「民と共に立つ」必要があった(2)。ある時には先立ち、別の時には後に歩く。しかし多くの場合共に歩むのである。 B神はヨシュアに「モーセと共にいたように、共にいる」と約束された(5)。神の臨在は、私たちがこの世にいる間の最高の祝福である。私たちは、「神共にいます」ことを普段の生活の中で体験する必要がある。余りにも多くのなすべきことがあり、そのために騒音が絶え間なく心を支配し、平安を失い、生活を混乱させる。御言葉への服従は、神の臨在を確かにさせる。
C勇気づけが与えられる(7)。自力の頑張りではなく、自然体の中で神の力を受けるのである。
ヨシュア一章10〜18節(11)
《主があなたがたに与えて獲させ ようとされる地を獲るために、進み行かなければならないからである。 》
新しい指導者ヨシュアのもとに、イスラエルはいよいよヨルダンを渡り、カナンの地に踏み込もうとする。新しい行動のために、二つの確認をする。
@まず準備である(10)。カナン侵攻のためには、兵と兵士が必要とするものを用意しなければならない。そのためにヨシュアは、食糧の準備を命じた。また彼は三日のうちにヨルダン渡河の行動を開始すると指示した。カナンは、主が与えると約束された地である。それだから、たやすく得られるのであろうか。それが神の御心であることは、確かである。しかし、ただその地に進めばよいと言うわけではない。神は整えられた民の行動を通して、その地が得られるようにされるのである。
A次に民全体の結束である。ルベン族、ガド族、マナセ族の半分はヨルダン東に住むことを約束され、その地は既に手に入っている。しかしカナンは民全体で戦い取るべきである。そのためにヨシュアは結束を約束させた(12以下)。人が救われるのは、神の御心である。しかしそのためには、主の御心を受けとめて福音宣教の行動をする人を通して御心は成就する。怠惰な人の集団では宣教の実は結べないし、教会の形成は出来ない。いろいろな面で宣教のために準備し、一致した祈りをもって福音を伝えようではないか。
ヨシュア二章1〜14節(12)
《それで、どうか、わたしがあなたがたを親切に扱ったように、あなたがたも、わたしの父の家を親切に扱われることをいま主をさして誓い、確かなしるしをください。 》
ヨシュアはエリコへ二人の偵察を出した。彼らは、遊女ラハブが営む宿屋に宿泊した。なぜ、こんな宿屋に泊まったのか。それは、@町の多くの情報を得るのに、最適の場所である。A町の城壁の一部に部屋があるので、何事かがあると、逃げ出すには都合のよい場所である。B不思議にも神がその場所に導かれた。彼女はイスラエルの出エジプトのこと等を知っており、彼らがカナンに入ってくることも聞いていた。しかもラハブは、イスラエルの神と民に対して心を開いていた。もしそうでなければ、スパイ二人は殺されたかも知れない。ラハブが心を開いた人だったのは偶然にみえるが、神の導きと言うべきであろう。彼女としても彼らの来訪を感謝した。 ところで、ラハブはイスラエル侵入の時に救われたのであるが、遊女でも救われるのかということを、問題と感じる人がいる。このような倫理的な問題について、当時の社会状況などからさまざまな議論をする人がいる。それを此処で取り上げる余裕はない。しかしヘブル十一31には「信仰によって遊女ラハブは探りに来た者たちを穏やかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅び」なかったとある。彼女は神を信じ、神もまたどんな罪人でも信じる者をお救いになった。これは、意義深いことである。
ヨシュア二章15〜24節(17)
《ふたりの人は彼女に言った、「あなたがわれわれに誓わせたこの誓いについて、われわれは罪を犯しません。・・」 》
ラハブの物語から幾つかの事を学びたい。 @ラハブは救いの機会を捕らえた。彼女は出エジプト以来イスラエル人に起こった話を伝え聞いて、神が生きておられる方であると知り始めていた(10以下)。其処へ、二人の斥候が現れたのである。彼らの信じる神こそ真の神だと知ったラハブは、これを救いの機会と信じた。ぐずぐずしていては機会を逃す。 Aラハブは約束に誠実である。此処に「誓い」の語が何度も出てくる。ラハブは二人を窓から逃がし、そのことをエリコの追っ手には黙っていた。一方イスラエルの二人も後日エリコ攻撃の時には、窓に赤い紐をつけた家の者は全て守ると約束し、それを実行した(六22)。約束に誠実な者を神は祝福なさる。私たちは神と人にいろいろな約束をする。ところがそれを守ることの出来ない事態が生じる。大切なことは正直さを持つことである。 Bラハブは約束したことを行動で表した。ヤコブ二25には「ラハブでさえ・・・行いによって義とされた」とある。私たちは信仰によって義とされ、行いにはよらないと信じる。ところがこれを曲解して、行いはどうでもよいと思うなら、信じた後の行動は無責任だと言われるに違いない。ラハブは信じたことを行動に表した。それで家族一同救われたのである。
ヨシュア三章1〜6節(3)
《祭司たちが、あなたがたの神、主の契約の箱をかきあげるのを見るならば、あなたがたはその所を出立して、そのあとに従わなければならない。 》
いよいよヨルダン川を渡り、カナン入る。ここで契約の箱の重要性を見なければならない。 @契約の箱は、神の臨在と御心を表す象徴的なものである。箱の上にある贖罪所では贖いの秘儀が行われ、神は其処で民に会われる。また神の意志である十戒が納められている。だから契約の箱は、神の臨在のしるしだと言われる。 Aまた神の箱は、ヨルダン渡河に際して先頭に進んでいる(6)。契約の箱は本来十二部族の真ん中に置かれていたが、あまり聖書には登場していない。民の進軍の先頭に立ったのは、荒野を行く時などであった(民数十33)。ところが渡河に際しては、神の箱が先頭に立つ。なぜ先頭に進んだのか?。それはイスラエルが「この道を通ったことがないからである」(4)。未知の所を進む時、神の臨在が常に私たちと共にあることを覚えたい。ただこのお方に従えばよいのである。そうすれば「行くべき道を知ることが出来る」のである 。Bヨルダン渡河にあたって、彼らは身を清めた(5)。それは神の業が此処で行われるからである。渡河は彼らにとって、紅海を渡る時ほどの重大事である。カナンに入ることはイスラエルの長年の願いであった。それが神によって今実現しようとしている。神のみ業を拝するために、民は身を清めるべきであった。
ヨシュア三章7〜17節(15、16)
《箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると・・・ 上から流れくだる水はとどまって、 》
イスラエルがヨルダンを渡ることは容易なことではない。ヨルダン川の水流は激しく、特にこの頃は太陽暦の三〜四月で水量の多い時期であった。なぜこのような時期に川を渡ろうというのか。それには神の御心があった。 @すなわち、ヨシュアがモーセの後継者として相応しいことを表すためであった(7)。モーセが紅海を渡ったようにヨシュアがヨルダン川を導くことによって、神は彼の指導者としての立場を堅くしようとされた。リーダーシップはしっかり立てるべきである。
A信仰を持って川を渡るとき、神は道を開いて下さることを知らせるためである。彼らが川を渡り始めたとき、エリコの北二五キロの町アダムのあたりで川がせき止められた。ヨルダンはひどく蛇行した川である。アダム近辺の断崖は崩れやすく川がせき止められて、十五時間以上も下流に水が来なかったことが過去にあった。そんな二つの記録がある。だから、それは自然現象だと言う人もいるだろう。たといそうであっても、イスラエルが渡河しようとした丁度その時に、この事態が起こったことは不思議である。神の時というべきであろう。神は思いがけない方法を通して道を開くことがある。神の恵みは人為的な方法以上の道によって、もたらされるものである。
ヨシュア四章1〜10節(7)
《それらの石は永久にイスラエルの人々の記念となるであろう。 》
ヨルダンを渡った人々は、驚くほどの喜びを体験したに違いない。この噂はカナンに住むヘテ人、ペリジ人などその地の民族にすぐに知られるようになり、それを聞いた彼らは肝をつぶした(五1)。この勢いに乗って、直ちにカナン征服に向けて前進してもよかったかも知れない。しかし神の御心はそうではなく、十二部族ごとに川底から石を拾って、記念の塚を建てることであった。なぜそのようなことが必要だったのだろうか。それは神の奇跡の恵みを覚えるためである。誰が荒野を導いたのか、誰があのヨルダンを渡らせたのか、道なきところに道を造られた神を忘れてはならないからである。
私たちは恵みを忘れやすい者である。そして自分の仕事に熱中して、前進に次ぐ前進を計画し神のことを思わない。苦しくなると神を求めるが、それが終わると自分のことしか考えなくなる。そのような人は危険な人生を歩んでいる。
後日イスラエルの人々は、この記念の石を見かけて、神がどのように助けて下さったかを思い出したに違いない。同様に私たちも自分の誕生日を覚えているほどに、洗礼を受けた日を覚えたいものである。詩篇百三篇には罪赦されたこと、病が癒されたこと、死から命に移されたこと、慈しみと憐れみを受けたことを覚えよとある。
ヨシュア四章11〜24節(22)
《『むかしイスラエルがこのヨルダンを、かわいた地にされて渡ったのだ』と言って、その子どもたちに知らせなければならない。》
記念の石は二カ所に建てられた。一つは川の中に、一つは宿営場所である(9、10)。ヨルダンとは死を意味する。川の中に立てられた石塚は、それまでの荒野の生活に終止符を打ち、陸地に造られた石塚は、これからの人生を意味するように見られる。記念の石塚について、子供たちが「この石はどうしたわけですか」と父に尋ねると、父は子どもらにヨルダン渡河の物語をするべきである。これは神の生きた証しを、語り継ぎなさいと言う勧めである。イスラエル民族が長い年月自分の国も持たないで、民族として存続し続けアイデンティティーを持ってきたのは、過去における神の業への確証を持っていたからである。彼らは今も過越しの祭りを祝っており、そのたびに出エジプトの故事を子どもらに話している。
なぜ私はキリスト者なのかを子どもに聞かれるとき、親は恵みの証しをしっかり話すべきではないだろうか。それぞれのクリスチャン生活にドラマティックな出来事がなくても、恵みの経験は蓄積されているはずである。それが証しとなる。記念の石を生涯の所々に建てるべきではなかろうか。それこそが親の信仰生活に、子どもが信用を寄せる根拠になることだと思う。
ヨシュア五章1〜9節(ローマ二29)
《文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。 》
イスラエルはヨルダンを渡った後、すぐにカナンの征服活動を始めないで記念の石を立てた。しかもなおヨシュアは、若い世代の者に「割礼」を受けさせた。割礼とは男性陰茎の先端の包皮を、少し切除することである。これは中近東のある人々も行っているが、それは成人男子の印としての意味があった。 しかしイスラエルではアブラハムの時に制定され、神に属し神と契約した者という意味がある(創十七9)。
ところで荒野で死んだ人々は割礼を受けていたが、今の者たちは割礼を受けていなかったのでヨシュアはこれを実行することにした。彼らは父祖たちの信仰は継承した。しかし割礼は受けていない。ちょうどイエスを救い主と信じたが、洗礼はまだ受けていないのに似ている。このけじめをきちんと付けて、カナン征服に進むべきであるとヨシュアは考えたのである。ところで割礼について、それを外面的な形として受けとめるだけでは不十分である。パウロは形に現れた割礼よりも、心の割礼が必要であると説いた。それは聖霊の働きによって、心の汚れを切除することを意味する(ロマ二29)。洗礼を受けることは大切であるが、それと共に心のよごれを十字架と、聖霊によって除いて頂かなければならない。それが新しい出発となるのである。
ヨシュア五章10〜15節(14)
《「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。 》
カナンに入って、少しずつ事情が変わり始めている。
@マナが止みカナンの産物を食べ始める(12)。マナは天からの食物で、ほとんど何の労もせずに食べることが出来た。しかしカナンでの食物は自分たちが労して種を蒔き、手入れをし、収穫しなければならない。クリスチャンも最初のうちは誰かに聖書を開けてもらい、お祈りの仕方を教えてもらって信仰をもつ。しかし年月を経ると自分で聖書から日々の魂の食物を得、自分で祈るようになる。他人に依存するのではなく、自立した信仰を持つ。
A過越し祭りの祝い。この祭りは出エジプトを記念するもので、モーセが制定した。彼は既に世を去った。次世代の者が先代に習って、自分たちで祭りを守るのである。彼らは自立で礼拝を確立した。クリスチャンになれば誘われて礼拝に出席するのではなく、自分の意志で計画し礼拝する生活を確立する。そうできたら自立した信仰と言えるだろう。
B軍勢の将。ヨシュアは、どのようにしてカナンを征服しようかと案じていた。その時軍人が剣を手に近づいて来た。彼は「主の軍勢の将として」ヨシュアと民とを助けるために来たのである。ヨシュアはモーセと同様に、靴を脱いでひれ伏した。この後、軍人の姿は見えないが、戦いの時には共に戦って下さったのである。
ヨシュア六章1〜14節(2)
《「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている。・・・」 》
カナンに入っての最初の攻略はエリコであった。この戦いは、私たちが信仰生活での困難に勝つ道を示している。
@エリコは攻略するには難しい町である。町全体を城壁で囲む町としては、エリコは最古の町だと言われている。四十年も荒野で過ごした元奴隷集団が、この町を攻めることなど出来るはずがない。イスラエルは町を見て驚いたに違いない。私たちは解決困難な問題に直面することがある。しかし神を信じる者は、それに取り組むことが出来る。主が共におられるからである。
A神はこの町をイスラエルに渡したと言われる(2)。神の側では既に勝敗は決まっている。苦難に直面する弟子たちに主イエスが言われたことは、「あなた方はこの世では悩みがある、しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」という勝利の言葉である(ヨハネ十六33)。勝利の主と共にいるので勇気を持つことが出来る。
B民がなすべきことは、ただ神に従うことである(3)。この時も契約の箱は先頭に立っているが、これは臨在の神に従うことをよく示している。ラッパを吹きながら城壁の周りを回るだけのイスラエル人の行列は、不思議で滑稽である。しかし神の約束に従った結果、彼らは大勝利を得た。問題の中で私たちは信仰に立つことが出来るだろうか。