聖書日課
1999年 3月
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土曜日 |
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1 ルカ7章1〜10 |
2 ルカ7章11〜23 |
3 ルカ7章24〜35 |
4 ルカ7章36〜50 |
5 ルカ8章1〜15 |
6 ルカ8章16〜25 |
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7 ルカ8章26〜39 |
8 ルカ8章40〜56 |
9 ルカ9章1〜17 |
10 ルカ9章18〜27 |
11 ルカ9章28〜36 |
12 ルカ9章37〜50 |
13 ルカ9章51〜62 |
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14 ルカ10章1〜16 |
15 ルカ10章17〜24 |
16 ルカ10章25〜37 |
17 ルカ10章38〜42 |
18 ルカ11章1〜13 |
19 ルカ11章14〜32 |
20 ルカ11章33〜54 |
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21 ルカ12章1〜12 |
22 ルカ12章13〜34 |
23 ルカ12章35〜48 |
24 ルカ12章49〜59 |
25 ルカ13章1〜9 |
26 ルカ13章10〜21 |
27 ルカ13章22〜35 |
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28 ルカ14章1〜14 |
29 ルカ14章15〜35 |
30 ルカ15章1〜10 |
31 ルカ15章11〜32 |
1999年4月|八王子教会のページへ戻る
ルカ七章1〜10節(7)
《
それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。》
今日は百卒長のことについて学びたい。彼の僕が死にかかっていたときのことである。ユダヤ人の長老たちは「あの人はそうしていただく値打ちがあります」といったが、当の本人は「値打ちさえないと思っていた」(7)と全く別のことを言っている。
どれほど他の人がその人の価値を認めていても、そしてその評価が本当であっても、主の恵みにあずかることのできる姿勢は、この百卒長の心ではないだろうか。
実際、「値打ちのない者です」という心が、ローマの百卒長のような身分の高い者をして、地上的にはユダヤ人の一人に過ぎないイエスの所へ来させたのである。
この姿勢とともにさらに大切なのは、「お言葉を下さい」である。神はお言葉で「光あれ」と言い、それを創造された。救われる、清められるのは、主のみ言葉による。
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ルカ七章11〜23節(16)
《
人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。》
ナインはガリラヤのナザレに近い町である。やもめの一人息子である青年が死んで葬式をしており、そこにイエスは行かれた。ヤイロの娘が生き返ったことは8章にある。この青年の出来事は、この種のことでは初めてである。 誰がこのようなことをなさるとイエスに期待しただろうか。イエスはたった一人の息子を頼りに生きてきた母親に同情して彼を生き返らせなさった。このみわざの結果、イエスの噂はユダヤ全土に広まった。
この事には深い意味がある。それは、イエスがやがて復活し、永遠の命を与える方であると教える前兆である。すなわち、イエスは人が単に肉体が元気であればよいと教えているのではない。魂の問題である。主のみわざはヨハネにも伝えられた。福音は命を与える。民衆はイエスこそ命を与える方であると受け止めたので「神の民を顧みて下さった」と神を賛美したのである。
主は命を与えられる。いきいきとした生活をしたい。
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ルカ七章24〜35節(26)
《では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。》
「笛ふけど踊らず」の言葉は32節から来ている。これはお祭りのことである。
「弔いの歌を歌う」は葬式のことである。これらは子供たちの遊びであったが、自分のことに夢中な友達はどの遊びにも応じようとしない。
このような態度は今の世の大人にも当てはまると、イエスは言う。すなわち、ヨハネが来て悔い改めを語ってもパリサイ人たちは真面目に受け止めず、イエスが喜びの福音を伝えても、彼らは反応を示さない。
一体人々は何を求めているのか。もしきれいな着物を見るのなら宮殿に行けばよい(25)。しかし人生の生き方はそのようなものでは決まらない。本当に見るべきものは神ではないか。それゆえ主は「そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者」を見るべきだと言われたのである。
現代は相対化の時代である。基準がはっきりしない。自分だけをあてにして、基準にする。そして自分のことのみに夢中になる。ところが、その自分が時々おかしくなってしまう。「預言者以上の者」を見つめなければならない。
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ルカ七章36〜50節(42)
《「
ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。》
罪のあった女が食卓にいるイエスの足に香油を塗り、泣きながらその足を拭った。その女は主によって罪の赦しを与えられたので、そのような方法で主に対してご恩に報いようとしたのである。
ある人は困ったときに助けられたので泣きながら感謝する。ある人は病気が治ったので神様をありがたいと思う。それはそれで結構なことである。しかしどれだけの人が罪が許されたことをこの女の人ほどに感謝するだろうか。つまり救われたと言うこと、神の子とされているということを、どれほどに価値あることと考えているかによって、感謝の度合いは決まるのではなかろうか。
多く赦してもらった方が多く愛するとある。それは、より重い罪を犯した人のことか。そうではない。罪の感じ方の程度が問題なのであり、主の赦しの恵みの大きさを知ることがカギである。それが深められるとき、イエスへの愛は深くなる。
私たちはどちらだろうか。
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ルカ八章1〜15 節(15)
《良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。》
種まきのたとえは、神の言を聞く姿勢が正しければ、必ず実を結ぶようになると教えるものである。共通していることは、どの人もみ言を聞いている事である。「道ばた」は足で踏みつけられた所で、かたくなな心を意味している。先入観をもっていて、それが全ての判断の基準となり神の言を土の中(心)に入れない。
「岩の上」とはその上に少し土があるので、芽は出るが根を伸ばせないので枯れる。それは一時的な熱心である。堅い岩なる自我性が底にあると、一寸何かあると倒れる。
「いばらの中」は、神も快楽も欲しい人である。人生に楽しい事があって悪いことではない。しかし神ぬきの楽しみは快楽となり堕落となる。神を第一とする生き方こそ楽しみは健康的になる。
「良い地」は、み言を心の中に受けとめる人のことである。「良い心でしっかり守る」とある。毎日、一句のみ言を心をとめて生きる人は、必ず実を結ぶ。種であるみ言自身に命があるので実は結ばれてくる。
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ルカ八章16〜25節(25)
《イエスは彼らに言われた、「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」。彼らは恐れ驚いて互に言い合った、「いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは」。》
あかりをつけた、しょく台をベッドの下にはおかない。人が心に光を与えられたら、自然に外にあらわれる。心に恵みや命が無いのにクリスチャンらしくしようとするのは、どだい無理なのである。誰かに良く見られる前に自分自身が内に恵みを持たねばならない。外に表れるのは結果である。
同じ事が、真の兄弟姉妹と呼ばれる者についても教えられている。「み言葉を聞いて行う者」こそ兄弟である。「行う」というと、すぐ難しくて実行出来ないと否定的に言う人がいる。「行う」とは、種まきの話にもあったように、心に受け入れる人のことである。そうすれば結果としての良い行いは時と共に表れてくる。
22節以下には嵐の中の弟子が書かれている。信仰の試練である。その時私たちはイエスが眠ってでもいるかのように思い、死にそうだと嘆く。心にみ言をまかれており、結実も来るはずなのに、信仰を失ってしまう。嵐の中にも立っていて下さる主を仰ぎたい。
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ルカ八章26〜39節(39)
《「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた。 》
悪霊につかれているとは、精神的な病気にかかった者のことであろう。しかし健全だと思っている者でも、レギオンというこの男と同じことを行っているのではないだろうか。
彼は長い間着物を着ず、墓に住みついていた。着物を着るのは、その一つの理由として、ちゃんとした社会生活のためだと言う事が出来る。墓場に住み、裸でいたというのは、レギオンが健康的な社会生活が出来なかったという事である。私たちにも同じ事が起こる。健全にお交わりが出来ない人はレギオンと同じである。一つの家の中でも、友人の関係であっても、憎しみ、傷つけ合い、話もろくに出来ないとすれば、それは悪霊につかれた者と少しも変わらない。
なぜか。それは自分の事のみ考えるからであり、ひとたび不幸にも事が起こった時に、ゆるす心がないからである。へりくだりの心がないからである。レギオンは「神の子イエスよ」と主に求めていやされている。彼は家で証するよう命じられた。家庭の証人になろう。
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ルカ八章40〜56節(50)
《しかしイエスはこれを聞いて会堂司にむかって言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。》
ヤイロの娘と十二年長血を病む女は共に命にかかわることであった。後者の場合は、「あなたの信仰があなたを救った」(48)と言われ、小さいながらも長血の女に信仰があった。
前者の場合は「娘よ、起きよ」とイエスの一方的な言葉によって命が与えられた。これらの場合は肉体的なわざである。この事は一時的には家族の慰めとなったが、やがては死んだはずである。イエスが来られたのは一時的な慰めのためではなく、永遠の救いである。そして永遠的な救い主である事を表すために象徴的にこのようなことをなされた。
この救いあずかる事が根本であるが、そのために前述の二要素がある。一つはイエスの一方的な命の付与である。もう一つは、私たちの信仰である。救いが与えられた魂にとっては、肉体の死は、眠りである(51)。死の恐怖にとりつかれている弱い人間に(ヘブル二章15)、命を与えられる方に恐れず頼したい(50)。
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ルカ九章1〜17節 (11)
《ところが群衆がそれと知って、ついてきたので、これを迎えて神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた。》
イエスは弟子たちを「神の国をのべ伝え、かつ病気をなおすために」使わされた(2)。また多くの人々がイエスのもとに来た時、「神の国のことを語りきかせ、また治療を要する人たちをいやされた」(11)。
ここに神の国の宣教の重要性が語られている。病気のいやしと福音宣教はいわば医療伝道であろう。また五千人の人々にパンの供給をしたのは、社会福祉と宣教とでも言えるであろう。ところで、医療や福祉はだれにでもできるだろうが、神の国について語るのは、キリスト者だけが持つものである。榎本師は、病気の人は健康な人を羨ましく思うが、健康だからといって、喜びに溢れている人を見ない。それは、生きる目的を見いだしていないからだと言っておられる。同様に食糧に困らないからといって、人生の目的を見出している人はいない。それは、宗教的なもので、福音による以外に発見の道はない。医療も食物も重要である。しかしたとい医術が及ばないことがあっても、福音はその人に救いを与え、希望を与える。福音を伝えたい。
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ルカ九章18〜27節(23)
《それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」》
弟子たちの信仰告白の個所である。これまでに、もう二年半近くもイエスと共に生活した弟子である。主の教えとわざをつぶさに見せてもらったペテロは、「神のキリストです」と告白した。唯一神観に徹しているユダヤ人が、主を「神の」と言ったことに重大ないみがある。
ところで、イエスがメシヤであるとの告白に続いて、受難の予告がなされた。十字架についての言葉が、この時期のあとで次々と語られている。弟子たちに「受難者である救い主」という全く新しいイエスを伝えたいためである。
今の私たちには、キリスト教と十字架の結びつきはやさしい。しかし十字架の意味が分かったあとでも、それの理解が深まっていくべきではあるまいか。どうすればそうなっていくだろうか。その為には、自分に与えられた十字架を負うことである。「日々自分の十字架を負うて、わたしに従え」といわれる、イエスの足跡をふむことによって、一層、主のみこころを知る者とされる。
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ルカ九章28〜36節(35)
《すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。》
イエスの変貌の出来事である。神の子が神性の上に人性をつけて受肉したのがナザレのイエスである。変貌山のことは内なる神性の光がもれ出るかの如き状態であった。フランスのゴーデーは、あの時、主がもし望まれるなら栄光の姿に変わって父のみもとに行くことができたであろうと言っている。 ところが、この時のモーセ、エリヤとの話題は、「エルサレムで遂げようとする最後のこと」であった(31)。主の関心事は十字架である。「最後のこと」のギリシャ語が、出エジプトの意味の語であることは興味深い。イエスは十字架にかかり、万民の贖いをなしとげ、彼に従ってくるすべての者をエジプトから連れ出そうとしておられる。
モーセがかつて導いた出エジプトはイエス・キリストのそれの予表にすぎない。それゆえ、この変貌から、主は十字架へと直進されたのである。35節の「これはわたしの子…」の句は主の受洗時の言と同じであるが、それは受難のしもべの句である。十字架にむかって進まれた主に感謝したい。
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ルカ九章37〜50節(48)
《「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。》
弟子たちや一般の民衆に与えたイエスのわざは強烈であった。「人々はみな、神の偉大な力に非常に驚いた」(43)とあり、「みんなの者が…数々の事を不思議に思っている」ともある。 弟子たちは、先頃の信仰告白と共に、イエスこそメシヤと思っていた。ところが主ご自身からは、十字架の予告である。その意味を尋ねるのを恐れた。 これは納得しにくいことではあるが、やはりメシヤとの確信は強かった。それで王国政府が樹立の時には、「だれが偉いか」との論争さえ起ったのである。
これはイエスにとっては悲しみであった。十字架の真意を理解しないのであるから。弟子たちは地上的な偉さを求めていた。偉いメシヤにつけば、高い地位につけると。しかしイエスは、幼な子を受けよ、彼につけと教えられた。真の、天的な偉さは、謙遜になることである。そのきわみに行かれたのが主であった。へりくだられたイエスにつく者となりたいと思う。
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ルカ九章51〜62節(57)
《道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。》
イエスがエルサレムに顔をむけられたとあるが、弟子たちにはその雰囲気が伝わったのであろう。いよいよメシヤの国到来、という期待が沸いてきた。 サマリヤ人を焼き払ってしまいましょうか、という弟子の言葉は、間違った選民意識によるもので、彼らの「上に立つユダヤ人」の思想からであった。イエスは人類の罪の贖いをなさるためにエルサレムに行こうとし、弟子たちは、自分中心の夢を見ていた。受難のキリストに従う用意もなしに、彼について行こうとする弟子たちである。
57節以下にそれが表れている。主に従う者には、寝る所さえないことがあるが、その心がまえがあるのか(58)。父の葬儀に出席するのは子としての当然の人情であるが、人情さえも(大切なことであるが)献げねばならぬことがあるがそれでも従っていくか(59)。 同様のことが別れを言いたいと頼む者の言にも見られる。十字架のない服従はない。犠牲のない奉仕は趣味にすぎない。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いたい。
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ルカ十章1〜16節(5)
《どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。》
七十二人の弟子たちが神の国の宣教の為につかわされた。先には十二使徒であったが今度は大勢である。
この宣教のメッセージは、やはり神の国の到来についてである(9)。情況については、かなり緊急なものであった。「財布やくつを持たず、あいさつもするな」(4)は、急ぎの用を表わしている。「平安を祈れ」は、率直に福音を語れ、ということであろう(5)。
また、家から家へ渡り歩くなというのは、求める者に福音を語り、気うつりして走り回るのではないということであろう。しかしもし福音を受け入れないなら、その責任は本人にある(10、13)。この場合は緊急だったので、その通りに今の時代にあてはまらない。しかしいくつかの点では共通点がある。率直な福音の伝道。あいさつのようなことは、たくさんしていても肝心の福音は伝わっていないことがある。また、福音を「家に」伝えることである。個人の救いは家の救いになるようにしたい。彼の家に平安を祈れ。
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ルカ十章17〜24節(20)
《しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。》
七二人の伝道はよい結果であった。その様子を、サタンが天から落ちたとか、へびやさそりを踏みつける権威が与えられているとか言われている。へび、さそりは、サタンの象徴にすぎない。福音の宣教はそれを受け入れる者にとっては、救いであり、大きい喜びをもたらした。弟子たちは、そのようなよい結果について、喜こんで報告した。そのことは、それで感謝であるが、主は「霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」と言われた。
奉仕の結果に喜びがあると、誇りとなりかねない。それが失敗だと失望に終わる。喜びの根源は恩ちょうによって救われ、天に名が記されたことである。その恵みの救いを思って、イエスは喜び溢れている。21節以下はそれを語る。父なる神は救いのわざを御子に委ね、それを幼な子のような者に与えられる。弟子はやがてその救いを見るようになる(23)。国籍を天に与えられた幸いを思い、喜びつつ生活をしたい。
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ルカ十章25〜37節(37)
《彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。》
律法学者が救いを求めて、永遠の命を得る道は何かと尋ねた。彼はイエスに求めながら、自分でその答えを知っていたのである。即ち、神を愛し、人を愛せよと自ら言っている。
イエスはこの問答を受けて、「よいサマリヤ人」のたとえ話をされた。これは隣り人ヘの愛は神の愛に根ざしていることを教えるものである。
しかし、私たちの問題は、本当に隣人を愛することが出来るか、ということである。レビ人や祭司は死人にふれると汚れると思って見すごしたのだと説明する人もあるが、やはり危険に会いたくないとの思いがあったのではあるまいか。
本当に隣人を愛したのはイエスしかない。彼は遠くから愛したのではなく、人間となって、私たちを愛された。イエスが学者に向って、あなたの正しい答えを実行できるか、と問うたのであろう。
私たちは、律法による良い行いができない者だと認めるべきである。主の十字架によるゆるしの愛を受けて救われ、その後で、人を敬い、人を愛すべきである。
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ルカ十章38〜42節(39)
《この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。》
マルタとマリヤの行動はよく対照的にとりあげられる。聖書ではマリヤが良い役になり、マルタは悪い立場になっている。ところが実際には活動的に立ち働く者がいなければ、教会でも家庭でも生活は成り立たない。また聖書の他の所にも活動せよとも教えている。
問題はどこにあったのか。マルタは「忙しくて心を乱して」いたこである。その結果妹にも、イエスにも不平をもらした。
人はだれでも、静思し、神のみ言葉を思う面と、活動して神のため人のために働くべき面とを持つべきである。だから、マリヤ的タイプだとかといって座り込んだり、マルタ的人間だといって働き回るのは間違っている。
人には両面がある。しかしどちらが根底におかれるべきかは明白であろう。 静思の時、神の言を聞く時が根本である。家庭、会社、教会で働くことは大切なことである。しかし「主の足もとに座って、み言葉に聞き入る」時間を持たずに働き回ると、霊的命がなくなり、やがて不満や淋しさが出てくる。
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ルカ十一章1〜13節(8)
《しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。》
弟子たちは、イエスに祈りについて教えを乞うた。彼らも幼い時から祈りをしていたのに、祈り方を聞いたからには、イエスの祈りは特別なひびきがあったのであろう。
祈りは教わらなければ成長しない。最近信仰を持った人は特に信仰の先輩と共に祈ることによって、体験的に分ってくるものである。そのようにしながら、神ご自身から祈りかたを教えていただくのである。
ところで、2節以下には「主の祈り」が記されている。それは神があがめられるようにとの祈りから始まっており、私たちのための祈りへと進んでいる。
さらに5節以下には友人のために隣家へまでもパンを借りに行くほどに、友人のためのとりなしの祈りの大切さを教えている。ある人は祈りは、祈ることによって成長するといった。また、ルターは祈ることは多く学ぶことだともいった。いつも簡単な祈りで済ませず、時間をかけ「しきりに願う」ほどの熱心な祈りを時に応じてしたいものである。
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ルカ十一章14〜32節(28)
《しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。》
イエスの反対者は、イエスのわざを見て、彼はサタンの王国の者でいわば悪霊をあやつって奇跡を行っているのだ、といった(15)。これに対してイエスは反論された(17〜26)。
それは、@内部分裂している王国は自滅するはずだということ、Aイエスのわざは神の国をその人の内に到来させているのだということである。「神の指」という表現は出エジプト八章19節にあり、神の力あるわざのいみである。それほどにイエスのわざは人々に強い印象を与えていた。それなら信じればよいのに、メシヤのしるしを求める心は更に不思議なことを彼に要求したようである(16、29以下)。
そこで主は、29節以下を語った。メシヤのしるしは、ルカのしるし以外はない。しるしとは、マタイ一二章38節以下にもあるように、彼の復活と説教である。どれほど奇跡的なことが行われても、人々は救いは与えられない。 結局、神を信じるのはみ言によるのであり(説教のこと)、救いの根拠となる十字架と復活である。後者は神のわざ。私たちは、み言葉を受け入れることである。
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ルカ十一章33〜54節(36)
《「もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。》
イエスはパリサイ人に対して、三つのことを強調された。
A心の内側をきよめよ(37〜41)。
B愛にみたされよ(42〜44)。
律法主義は信仰生活を形式的にし、「・・・・・するな」という消極的にし、外面的なことにこだわるようになる。
これに対してイエスは宗教の内面性を強調した。手や食器を洗うことも大切だが、心の内側が大切だといい、十分の一献金をすることもよいことだろうが、神が愛している人間へのつとめも重要である。
45節以下では形式的にのみ神に仕えていたイスラエルの歴史を引き合いにして、イエスは語られた。律法主義は重荷である。私たちの内なる光がいつも燃やされていないと、命のない信仰生活になる。
今は一応豊かな社会である。だからといって、皆んなが喜びに満ちてはいない。それは内なる光が消えているからである。36節を心にとめたい。
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ルカ十二章1〜12節(6、7)
《五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。》
ここに五回も「恐れるな」、「恐れよ」と語られている。恐れはさまざまの問題を生み出す。「思い煩い、劣等感、うたがい、ごうまん、不安、内気、迷信、優柔不断、過度の攻撃・・」等は恐れから生まれると、ラヘイ氏は言う。失敗したら困る。誰かに悪く思われるなどは人を恐れるからである。
ところがひどく他人の悪口を言って攻撃するのも恐れの裏がえしである。だから、つっぱりも恐れが根にある。 人の言葉と顔を恐れてはならない。神を恐れるべきである。神を敬うことである。神に認められ、彼によしと受け入れてもらっているなら、他の人の顔色をうかがう必要はない。もちろん、誰かが親切心をもって忠告してくれるなら、それは謙そんに聞く必要があろう。そのような受け入れる心も、その人が神に対して生活しているから持ち得るものである。
神様は、一羽のすずめさえ、また頭の毛までも知っておられる方である。神を敬って生活しよう。その者には確信がある。
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ルカ十二章13〜34節(31、32)
《あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。》
13〜21節は「愚かな金持」のたとえである。この話の中心は貪欲へのいましめである(15)。
貪欲とは何か。単にお金を貯えることではない。無計画で気ままにお金を使う人が、貪欲でないのではない。それはお金に自分の安心を求める人である。お金持ちは、たくさん貯えてあるから「さあ安心せよ」と自分に言い聞かせたので、愚かな者と言われたのである。
それで主は22節から、着るもの、食べるもの、命の長さのことを思い煩うなと言われた。今の時代は、思い煩うよりもむしろ不平を言うのが多いのではなかろうか。不安にしろ、不満足にしろ、要するに心の空虚に原因があるように思う。「ただみ国を求めなさい・・み国を下さることは、父のみこころなのである」(31、32)。
今は余りに物質主義的ではなかろうか。今こそ、与えられている物と金を、神のみ旨に従ってしっかり管
理することを求められている時代である。
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ルカ十二章35〜48節(37)
《主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。》
35〜40節では再臨のキリストを迎えるために目を覚ましているべきことを教えておられる。
いつ主人が帰ってくるか分らないように、キリストの再臨も時期は不明である。そのことを盗賊の侵入にたとえている。ただし眠っている者に盗人のように不意に来られるのであって、覚めている者には、キリストは、主人が給仕をしてくれるように来てくださる(37)。
肝要な点は心が目覚めて活きた信仰生活をしてさえおればよいのである。さて、それでは生きた信仰生活とは何か。それが41〜48節にある。
そのポイントは、忠実な管理人であれ、ということである。管理人は主人から全財産を委ねられて運用するよう求められている。そのために大切なことは忠実なことである。管理人職のことをスチュワードシップという。私たちにとってスチュワードシップの点で求められているのは、お金と時間と才能の管理である。私たちに委ねられているものを、神と自分と他人のために配分よく用いねばならない。
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ルカ十二章49〜59節(57)
《また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか。》
イエスは間もなく自分の身に起きる事、世界に起きることを予告しておられる。
それはまず「火を投ずること」である。火は聖霊の火であろう。火は心を燃え上がらせるものであると共に、かすを焼き尽くす働きもする。むしろ後者の働きがまず最初に考えられねばなるまい。だから、平和ではなく、むしろ分裂をもたらす、といわれた。しかしこれは分裂のための分裂ではなく底から病根をいやしての平和であるから、一時的な分裂である。
「受けねばならないバプテスマ」は十字架のこと。十字架の大犠牲なしに罪のゆるし、購いの完成はない。そうだとしたら、表面的、見せかけの平和は本物ではない。
54節以下には今の時代を見る目をもてと教えている。主がいつおいでになるか分らない。また世界がどのように変わっていくか分らない。自分の心にひっかかっているものがあるなら、和解すべき人には和解し(58)魂に納得のいく真の平和を確立したい。
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ルカ十三章1〜9節(8、9)
《すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』》
総督ピラトはガリラヤのある者たちが反乱を起こしたので殺した。またシロアムの塔が倒れて十八人が死んだ。 こんな災難を聞いた者がイエスにこれらの人々は特別に罪深かったのかと尋ねた。これに対して主は、あの人々が特別な罪人だというのではない、誰でも悔い改めなければ神の国に入ることはできないと教えられた。
突然の災いがみな刑罰だというのではない。ところで6節以下のぶどう園のたとえであるが、これは悔い改めて実を結ぶ者となるようにと待っておられる神の忍耐を教えるものである。
いちじくの木はそれを植えて三年もたつと実を結ぶものである。それでも結実しない木は絶望的だという。
三年はキリストの三年の伝道に関連づけて言われているのだろうと解説する人がいる。それは同時に私達にも適用される。実を結ばない木でも、もう一年、猶予を下さいと求め、それが許された。今は恵みの時、救いの日である。悔い改めの必要な者は悔い改め、実を結び者となりたい。
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ルカ十三章10〜21節(12、13)
《イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。》
18節以下のからし種とパン種のたとえは同じ意味をもっている。からし種は小さくても大きい木に育ち、パン種は少なくても全体を大きくする。
このように神の国の福音は小さく、取るに足らぬほどに見えても、世界中に浸透し、それを内側から変えていく。それは一人一人の個人であっても同じである。
十八年間、身がかがんだままになっていた女にも福音が入った。その結果、体が伸びた。しかも更に幸いなことに「群衆はこぞってイエスがなされた素晴らしいみわざを見て喜んだ」。
イエスがなされた素晴らしいみわざは、身体が伸ばされたこともさることながら、魂を救い、喜びをもたらすものであった。
イエスがお与えになる救いは、たとえ話のように増え広がり、その人を変えていき、成長していくものである。
主イエスが「あなたの病気はなおった」と女に言われたように、私達にも宣言して下さる。
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ルカ十三章22〜35節(33)
《しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである。》
「狭い戸口から入れ」とすすめられている。普通、狭い門というと出入りの空間が狭いと理解する。ところがここでは時間的に狭いと言っている。
入れなくなるのは家の主人が戸を閉じてしまう時があり、そうなると誰も入れなくなる(25)。
「今は恵みの時、救いの日」という聖句があるが、神が与えておられる救いの日をもてあそんでいると、門の閉じられる日が来る。あるいは、考え方によっては、自分でその門を閉じてしまうことがあるとも考えられる。
私達は天国に入るために心を用いなければならない。神の国の宴席に着かなければならない。地上的な成功も幸いなことであるが、天国に入れなかったらどうなるだろうか。「わたしはあなたと飲み食いしました」(26)と、イエスと知り合いだと言っても何にもならない。
天国の狭い門、悔い改めの狭い門に、今、入るようにとすすめておられる。 イエスのこのお心は、エルサレムに向かって進む態度や十字架への思い(33)、彼らへの呼びかけの言葉(35)の中に見られる。
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ルカ十四章1〜14節(11、14)
《おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。》
《そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう。》
今日の箇所には二つのたとえ話がある。第一は末席を選ぶことについてのものである。これは末席に座っていれば、やがて上座に招かれるようになるだろうから、そこをまず選べというものではない。これは偽の謙遜であろう。要点は11節にあり、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」である。真の報いを天に求める人は幸いである。天での高い座は、イエスのみそば近くに置かれることではあるまいか。
第二は日常的な招待のことである。12節の「・・・呼ばぬがよい」は、「呼ぶ習慣とするな」の意味である。彼らは返礼のやりとりのできる者同志である。私達が返礼をしてはいけないと教えるのではない。それを期待する奉仕では駄目だというのである。私達は、しばしば、何かをすると見返りの品のようによいことが神から返ってくるかのように思いがちである。
神はみ国に於いて真の報いを得よとすすめられた。パンを水の上に投げるような奉仕もある。
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ルカ十四章15〜35節(27)
《自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。》
神の国の価値を人々は十分に知らないために、自分の決断で自分自身をそこから締め出しているというたとえである。
みんな神の国へと招かれている。ところがいよいよ招きに応じるべき時になると、土地を買ったとか、牛を買ったとか、結婚したとかという理由で晩餐会出席を断った。
誰でも天国へ行くのはよいことだと思っている。ところが、自分にとって何かが起こってくると、天国に行くことと、今、自分が直面しているものと、どっちが価値があるかと値踏みして、自分の都合のよいものを取る。
理性では、天国のほうがよいに決まっていると思いながら、実際にはこの世の快楽を取ることが多い。
自分にとって最高の価値あるものと思うもののためには、どんな犠牲も人は惜しまないおのである。最高の価値を土地や五対の牛におくか、イエスに従うことにおくかが問われている。
イエスに従うなら肉親や財産を捨てよと言うのではない。何を私の生き方の根底におき、最上の価値あるものとするかを問われているのである。主に犠牲をささげたい。
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ルカ十五章1〜10節(7)
《よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。》
一匹の迷った羊を探し求めて見つけた喜びを語り、失った銀貨を見つけた喜びを述べている。
多くの悩む人々がイエスによって救われるのを見て、パリサイ人たちがつぶやいた。イエスともあろう者が彼らと交わるのを見て彼らは不愉快に思ったのである。それに対してイエスは、見つけた喜びを語っている。「大きい喜びが天にあるであろう」とか「神の使いの前で喜びがあるであろう」とか言われている。
なぜ、私達は伝道するのか。義務によってか。教会拡張の一策か。否である。一人の魂が救われ、神のふところに帰って行く様を見た人にしか伝道の喜びは味わえない。
自分自身でも救われたことは喜びであった。人生には多くの悩みはあるが、神に救われたことは私達の命である。この救いの中に一人の人が入れられるのを見ると、導いた人は深い喜びにひたる。救われる人へのイエスの喜びに、私達もあずかる者とされたい。
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ルカ十五章11〜32節(24)
《『このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。》
11〜24節は、放蕩息子が帰って来た部分である。次男息子が不幸に陥ってしまったのには様々な理由があろう。「放蕩に身をもちくずす」ような歓楽街があったこと、その上、「ききん」に会うというような運の悪さ。
確かにききんは人間の力ではどうにも出来ないような力がある。さらに彼は適当な仕事がなく、ユダヤ人が最も忌み嫌う「豚を飼う」仕事しかない。
しかし、実際には、真の原因は彼の自分中心の考え方である。それが根本的な罪であり、不幸の原因である。「私がいただく分を下さい」(12)にその響きがある。
しかしこの息子は悔い改めた。「罪を犯した者です」と言うことは難しい。しかし自己破産しなければ救われない。
ところで、いくら人間側でどのようなことをしたところで、神の側で手を差し伸べて下さらなければどうにもならない。父は彼を迎えてくれた。ここに神の愛がある。
さて、弟の救いを喜ばない者がいた。真面目な兄である。彼の真面目さも試された。彼は父の喜びを知らなかったのである。「死んでいたのに生き返った」恵みに感謝しよう。
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