聖書日課

1999年 5月

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ヨハネ6章41〜51

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ヨハネ6章52〜65

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ヨハネ7章1〜13

28

ヨハネ7章14〜24

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ヨハネ7章25〜36

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ヨハネ7章37〜53

31

ヨハネ8章1〜20

 

 

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1999年 5月1日(土)

ルカ二四章33〜43節(34)

《「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。》

 

 エマオへの二人の弟子がエルサレムに帰りイエスにお会いした体験を話していると、そこに主が来られた。ここの箇所には、弟子たちの驚きの様子が生き生きと描かれている。「恐れ驚いて」、「おじ惑う」、「喜びのあまりまだ信じられないで不思議に思う」等の表現に弟子達のとまどいがある。

 二日前の十字架のイエスがここに生きているなどとは、誰も信じられるはずがない。しかしここに主がおられる。それは彼らにとって、おじまどうばかりのことであった。この弟子に対してイエスは、安心せよ、と平安を語り、食物など食べる必要のない復活体、栄光体であるのに、魚でさえ食べてみせて、生きておられる事を示された。まさに「主は本当によみがえってシモンに現れなさった」のである(34)。

 主のよみがえりは、十字架の贖いが神に承認されたものであることを意味し、私達の信仰の基礎である。主は今も生きておられる。

 

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1999年 5月2日(日)

ルカ二四章44〜53節(50)

《それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。》

 

 主は聖書を開かれる。み言葉を悟らせるために心を開きなさる。教会に主が渡された大きい遺産の一つは、み言葉である。それは開かれた心で読まないと私達の命にはならない。研究をしても人の魂は満たされない。

 主が残された第二のものは聖霊である。上から授けられる力によって彼らは証人になった。罪の許しや悔い改めの宣教は聖霊のわざによらなければできないが、イエスはこのお方を私達に注がれた。

 第三にイエスが印象づけておられるのは、祝福のために挙げられた手である。今も主は天にあってとりなしの祈りの手を挙げ続けていて下さる。

 クリスチャンの生活に必要なものは、みことばと、聖霊と、イエスのとりなしの祈りであるが、これによってどんな苦境にも勝っていくことができる。弟子達は非常な喜びをもってエルサレムに帰った。これらの三つのものを頼りに、証人として喜びの生活をしたい。

 

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1999年 5月3日(月)

ヨハネ一章1〜18節(14、16)

《そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。》

《わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。》

 

 言葉はイエス・キリストである。彼は先在者である。しかも人に命を与えるお方である。言葉(ロゴス)という表現はギリシャ哲学でもよく用いられていた。その場合ロゴスは原理的なもの、理論的なものである。それは人が頭で納得のいくものである。今でも彼らの理論は受け入れられているから、よいものであろう。しかし理論は人を救わない。心に命を与えないからである。ここにイエスのことをロゴスとして紹介したのは、ギリシャ人のそれとは違い、受肉して人となり神を表わされたイエスであるというのである。「ひとり子なる神だけが神をあらわしたのである」と述べている。イエスは神を人間の目の前に分かるように示して下さった。しかも恵とまことに満ちた方を教えて下さった。神を知るのに理屈では駄目である。人が理解できるはずがない。恵みの経験によって神が分かってくるのである。

 

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1999年 5月4日(火)

ヨハネ一章19〜34節(29)

《その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」》

 

バプテスマのヨハネはイエスを紹介している。この場合、彼は「わたしはこのかたを知らなかった」(31、33)と二度もいい、「あなたがたも知らない方」だという(26)。イエスとヨハネは親戚関係だったから人間的に知らない筈はない。しかし彼がどういう出身の方であるかについては知らなかったのである。

 ところがヨハネにそのことが分かって来た時、「見よ世の罪を取り除く神の小羊」と紹介した。ユダヤの人々は罪を除く小羊のことをよく知っていた。それは毎年神殿で献げられる羊のことで、人の罪を負って死ぬものであった。そしてイエスこそその羊なのだというのである。贖いを与えるイエスを紹介できたヨハネは偉大であった。彼はかつてその方を知らなかった。

 イエスが救い主だと分かるのは聖霊による。イエスはよい人であるとか、よい教えをするとかでは充分な理解ではない。私の罪を除いていただく時、イエスを分かったといえるのである。

 

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1999年 5月5日(水)

ヨハネ一章35〜42節(42)

《そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」。》

 

二人の弟子がイエスを紹介されて、彼について行ったという箇所である。 「イエスについて行った」(37)、「彼らがついてくるのを見て」(38)、「彼らはついて行って」(39)、という句が何度もでてくる。さらにイエスのところに「泊まった」ともある(39)。

 イエスに従い、彼についていく生活が重要である。イエスが神の小羊、つまり救い主であると分かることは素晴らしい。しかしその後、彼について行かなければ成長はない。ついて行った弟子は遂に、大変化する。

 シモンがケパになった。シモンは彼の父からもらった名前である。生まれつきの人間そのままを表わしている。いつでも揺れ動いていたシモンである。ところがそれがケパに変わる。ケパとはペテロのこと、岩のことである。根のない草のようではなく、岩のように動じない信仰の持ち主になるのである。確かにペテロは変えられていった。彼が、つまづきつつも主について行ったからである。

 

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1999年 5月6日(木)

ヨハネ一章43〜51節(47、49)

《イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」。》

《ナタナエルは答えた、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。》

 

 本章には最初の五人の弟子のことが書かれている。ペテロ、アンデレ、ピリポ、ナタナエル、そして名を記していないがヨハネである。ピリポはナタナエルに、メシヤであるナザレのイエスに会ったと告げた。ところが彼は「ナザレからなんのよいものが出ようか」と答えた。メシヤはエルサレムから来るのであって、ナザレは卑しい町である。これに対してピリポは議論をせず、「来て見なさい」と言った。

 ピリポがどれ程変わったのかは知らない。しかし、「来て見よ」とイエスを紹介する確信は持っていた。イエスはナタナエルがいちじくの木の下にいるのを見たと言った。そこは祈りの場所である。彼は神を求めるまじめな人物であった。そのような人なればこそ、イエスに会いさえすれば直ちに変わってくる。ナタナエルは、ヤコブがかつて夢でみ使いがはしごを上り降りするのを見たように、神との交通を持てるようになると告げられた(51)。まじめな追求者でありたい。

 

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1999年 5月7日(金)

ヨハネ二章1〜11節(10) 

《言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。》

 

 ぶどう酒は喜びの象徴である。それが結婚式の最中になくなったというのだから悲劇であり、新郎にとっては恥であった。このようなことは家庭でよく起こることである。最も楽しくあるべき家庭で喜びがなくなることがある。 この問題はイエスの所へ持ってこられた。この時の母の言葉は意味深くひびく。3節では「ぶどう酒がなくなりました」とある。なくなった酒がほしいのである。不足したものを、私たちは欲しいと神に祈る。ところが5節には、イエスが言いつけることは何でもしなさいと言っている。

 3節では私達の願望の表現。5節では神のことばへの服従。そしてイエスの言葉に従ったので、奇跡が起こった。

 10節はこのわざのカギである。即ち、人は後になるほど悪いものを出すが、イエスは最後にベストのものを出しなさる。私たちは主に従うことによって、神が私たちによいものを出し、そして最後にベストを出して下さることを期待したい。神はそのように私達をみちびく方である。

 

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1999年 5月8日(土)

ヨハネ二章12〜25節(22)

《それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。》

 

 イエスはエルサレムの宮を清めようとされた。それは神を礼拝するべき場所が商売の場とされていたからである。五百年ほど前に第二神殿が再建された時には、再建のゆえに人々は大喜びした。それが習慣と惰性に流れる中に、利己的な商売の場に変わっていき、イエスはそれを嘆かれたのである。

 ところが19節において、イエスが「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちにそれを起す」と意味深いことを語られた。神殿をこわすというのは、もはや旧約時代の礼拝は終わりに近づいているという意味である。では何処が礼拝の場なのか。19節には、「三日のうちにそれを起す」と言われ、21節には神殿とはイエスの体であると説明されている。つまりイエスご自身が礼拝の場だというのである。

 十字架と復活が神への新しい道である。この話の時には、充分理解できなかった弟子たちであったが、復活後それが分かってきた。「聖書とイエスの言」を信じる者は幸である。

 

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1999年 5月9日(日)

ヨハネ三章1〜15節 (15)  

《それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。》

 

 ニコデモはユダヤ人の指導者でパリサイ人であった。また教師を教える教師であった。

 挨拶もそこそこにイエスは新しく生まれ変わるべきことを語られた。ニコデモほどの人格者はいなかったはずであるのに、新生せよ、と言われた。

 新生はどのようにして起きるのか?「水と霊」による。これは、人に命を与える水のような働きをする聖霊の働きによる心の生まれ変わりを意味する。これについて彼は「どうして?」と尋ねた(9)。

 イエスは、「天から下り」(13)、十字架に上げられた者から救いがくるのだ、とご自身のことを語られた(13節は新改訳がよい)。モーセのへびの故事はイエスが罪の呪いを受けて十字架に死んだことを意味している(14)。十字架を受け入れる時、聖霊が働かれて、魂を生まれ変わらせてくださる。キリスト教は単なる道徳を教える宗教ではない。救いを与え、命を与えるものである。

 新生すると人生が変わり活き活きとしてくる。今も十字架の力は、聖霊の働きにより、豊かに人々に与えられる。

 

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1999年 5月10日(月)

ヨハネ三章16〜21節(16)

《神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。》

 

 @「光」と「闇」の対照がある。また、A「裁き」と「救い」あるいは「愛」の対象もある。これら二つの対照には関連がある。イエスは救い、愛、光を与えておられるのであるが、これに対して私達がどう対応するかによって、私達の生き方に変化がくる。

 ところで「裁き」には二つの意味がある。一つは滅びるという意味、もう一つは決断という意味である。イエスは救いを示しておられるが、私達がそれに対してどう決断するかによって、滅びが、救いが決まっていく。その意味で人は自分で自分の生き方を裁いていると言える。

 例えばユダに対して、イエスは愛のきわみを示されたが、彼はそれを拒否した。しかし、ペテロは背信の後でさえ主の愛を受け入れたので救いへと回復された。

 神は人々を滅ぼすことを望まれない。16節には、神が世の人を愛する愛があまりにも大きいので、神の子をさえも、この世に送られたとある。神の与えられる救い主を受け入れるという、それだけの決断をしていただきたい。

 

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1999年 5月11日(火)

ヨハネ三章22〜36節(27、29)

《ヨハネは答えて言った、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。」》

《花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。》

 バプテスマのヨハネとイエスの対照が書かれている。多くの人々がイエスの所へなびいていくのを見て、ヨハネの弟子がそのことを自分達の師に伝えた。ヨハネが無視されたのかと思ったからであろう。

 こう思うのは当然であった。というのはヨハネの働きはすばらしく、国中の者がこぞって彼のもとに行くほどだったからである。しかもイエス自身もヨハネから洗礼を受けていたのである。

 これに対してヨハネの姿勢は素晴らしい。@イエスは花婿、即ち主役なる方であり、自分は花婿の友人、脇役であることを知っていた。Aこのような立場を神から与えられていたと自覚していた(27)。

 ヨハネはイエスによって全ての人に勝る優れた人だと称賛されるほどの人である。それでも、ねたみの思いをかきたてられる危険にさらされた。人は才能の有無や地位の上下でしっとがなくなるものではない。誰の心にも起こりうる。神の前に謙虚な者でありたい。

 

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1999年 5月12日(水)

ヨハネ四章1〜14節(14)

《しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。》

 ユダヤ人とサマリヤ人とは交わりがなかったから、急ぎの旅以外はユダヤ人はサマリヤ人の地を避けて通ったと言われている。ところがイエスは、サマリヤを通過しなければならなかった(4)。

 急ぎの用があったのか。そうではない。40節にはそこに二日も滞在したとある。サマリヤ通過の理由はなにか。人々に嫌われていた不倫の女を導くためである。

 イエスは女の日とに「水を下さい」と日常的なことで接触をはかった。交わりは日常生活の中で始まる。日常的な交わりなしに福音を伝えることは難しい。やがて交わりが始まり、イエスは水をくださいから始まって、水を与えようと言われた(10)。

 しかし、女は井戸のことにのみ関心をもっている。井戸は深いとか先祖ヤコブが作ったとかいう。井戸は水を得る方法にすぎない。人は福音の水をもらうよりも、井戸のような形式やいきさつを気にする。大切なのは水だ。湧き上がる水で命のある生活をしたいものである。

 

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1999年 5月13日(木)

ヨハネ四章15〜26節(23)

《しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。》

 

 生ける水を欲しいと願った女に対してイエスは「夫を連れてきなさい」と言った。この問題は女にとっては一番心の痛むことである。なぜ主はこんな古傷にふれたのか。神からの真の祝福は、罪の問題を避けては与えられないからである。女はイエスの言われることを認めた(18)。

 多くの戦いが女の心の中にあっただろうが、それを乗り越えて自分の罪を認めたのは、イエスに何か神的な力を見出したからであろう。29節には「何もかも言い当てた人」と言っている。

 女の心にこのような接点を見出した時、イエスは礼拝について語り始めた。この短い部分に十回も礼拝の語がある。卑しい者に対して、このように惜しげもなく礼拝の奥義が語られている。

 女は魂の渇きを物質(水)に求めた。また異性にも求めた。しかし満足はなかった。真に渇きをいやすのは、礼拝、即ち神に近づく道しかない。神はまことの礼拝者を求めている。

 

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1999年 5月14日(金)

ヨハネ四章27〜38節(34)

《イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。》

 

 弟子たちが町から帰ってきて、イエスと女の話し具合をみて「不思議」に思った。何か近づきがたいほどのものを感じたのであろうか、尋ねようともしなかった。

 女の心の中は神の命と恵みで満ち溢れていた。「イエスが私達の心の中に泉を開かれると、私達は自分の水がめを放り出す」(F・B・マイヤー)。そして彼女は自分の町の人々の所へ出かけて、イエスのことを語った。イエスや弟子ではなく、変えられた女である。「人々は町を出て、ぞくぞくとイエスの所へ行った」(30)。

 このような作り変えられた人の魂を見るのがイエスの満足であった。「わたしの食物は、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」と言われる。心を作り変えて下さるのは神である。しかしイエスのもとに連れて行くのはサマリヤの女の仕事であった。私達は、救われる魂を見る時、心の満ちる思いがする。救霊者となりたい。

 

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1999年 5月15日(土)

ヨハネ四章39〜45節(42)

《彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。》

 

 サマリヤの人々がイエスを信じるのに、二つの要素があった。

 第一は女の言葉によってイエスを信じるという点である(39)。女の言葉には人々の心をひきつけるほどの真実味があったものと思う。それは演技力ではなく、彼女の実感である。イエスを信じて心から幸いな生活だと思ったら生活の中にそれは表われる。内実がないのに信仰生活は素晴らしいとは言えない。女はイエスと語っている中に心に変化が起こり、喜びに満ちたのでそれを人々に話しただけのことである。その言葉に真実な実感があって人を動かしたのである。

 第二はイエスと親しく話すことである(42)。女の話はイエスへの橋渡しであった。人がイエスにつながると、直接にイエスと交わる。イエスは人々の心の中に語りかけなさる。キリスト者の生活は、イエスとのこのような交わりで成長する。そして救い主であることが、ますます分かってくる。

 

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1999年 5月16日(日)

ヨハネ四章46〜54節(50)

《イエスは彼に言われた、「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」。彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。》

 

 三章にはニコデモへの福音が記されている。これはユダヤ人も福音が必要なことを示している。

 四章はサマリヤの女の救いである。サマリヤ人は、ユダヤ人と異邦人の混血であり、半ユダヤ人への福音があることを語る。

 今日の箇所は、役人への福音である。役人は、異邦人である。このように、信じた人々を列記して福音は全ての人のためであることを示している。

 さて、@役人は謙虚であった。彼はヘロデの高官であったが、イエスのもとに来た。A彼はイエスの言葉を信じた(50)。主が来て下さるというのであれば、一つの慰めであっただろう。しかしここでは言葉を信じただけである。帰る途中、不安な思いにとらわれなかっただろうか。神の救いのわざは、しるしを見ることによってではなく、み言葉を信じることによる。「彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰っていった。」

 

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1999年 5月17日(月)

ヨハネ五章1〜18節(17)

《そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。》

 

伝説によってであろうか、ベテスダ池はみ使いが来て水を動かし人にいやしのわざをするといわれていた。そこに多くの病人が来ていた。イエスは三十八年もその池のそばにいる人の所に来て「起きて、歩きなさい」と言われた。恐らく一番長くここにおり、悩んでいた人だと思う。「起きよ」と言われるイエスは、私達が立ち上がろうとする時、その力を与えて下さる。主は出来ない事をせよとは言われない。水野源三さんは手も足も動かせない障害者になった時から、希望を失ってしまった。しかし牧師の訪問を受けて信仰をもち、神を信じる生活を始めた。彼の心から生まれて生きている証が生まれた。それがまた人々の光ともなった。

 17節に「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」とある。イエス・キリストが今もなお私たちの中に働いておられるのは、大きい力ではないか。

 

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1999年 5月18日(火)

ヨハネ五章19〜29節(24)

《よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。》

 

ここには、イエスが人々に霊的な命、永遠の命をお与えになる方である事が述べられている。それを表すために、いくつかの事が語られている。

@父とみ子イエスとが共同でその事をされた(19)。命を与える救いのわざは神のみこころから出たものである。救いの計画は父から出たものであり、子はそれに全く従った。「子は父のなさる事を見てする以外は、自分から何事もすることができない」とある通りである。

A命を受けるのは、イエスの言われる事を信じることによる(24)。神の言である聖書を信じる以外に命を受ける道はない。神のことばをただ一句で良いから、それを受け入れることである。その時「死から命に移っている」(24)。しかも救いの時は「今すぐに来ている」(25)。

イエスが神の救いの計画に従って下さったから救いの道が開かれた。そしてそれは今、みことばを受け入れることによって与えられる。

 

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1999年 5月19日(水)

ヨハネ五章30〜37節(36)

《しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。》

 

イエスとはどういう方か。それをあかしするものが四つある。

@バプテスマのヨハネである(33〜35)。ヨハネは偉大な指導者であり、ユダヤ人の尊敬をうけていた。彼は一章にもあるように、イエスのこを主であり、救い主であると語った。しかも燃えて輝くともしびとしてあかしをした。心がもえる証し人とは私たちに励ましとなる。

Aキリストご自身のわざがあかしをする(36)。イエスのなさるわざには多くがあった。これらは神が救い主であ

る事をあかしする。ことに五章ベテスダ池の病人のいやしは、律法主義者にはつまづきとなったが、当人にとっては命を受ける神のわざであった。イエスを信じる者が変えられていくのを見ると、神は生きておられると分かる。

Bイエスが救い主だとあかしするのは、父ご自身である(32、37)。父を見た者は一人もいない、とあるが、それは神が見えない心の中の部分に確信をもたせる方だとの意味である。魂に救い主の確信を得たことを感謝し、ヨハネのような証人になりたい。

 

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1999年 5月20日(木)

ヨハネ五章38〜47節(39、40)

《あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。》

 

イエスについて、あかしするものが四つあると述べたが、第四のものは聖書である。39節に「この聖書はわたしについてあかしするものである」とある。聖書とは何か。これは大きい問題である。当時のユダヤ人は聖書こそ自分たちのものだと考えており、しかもそれは律法だと考えた。中心がモーセの律法だからである。ところで律法とは何か。「・・・せよ」、「・・・してはならない」であるから45節のように「訴えるもの」となっている。

 これに対して聖書とは何かという点について、それはメシヤについての証しの書だと、主ご自身は言うのである。そのかたからは、戒めではなく、命が与えられる。聖書を読む人はいる。しかし多くはただ目を通すだけである。文学の書、道徳の書として見るだけである。イエスが与えようとしているのは命である。命を与えられると魂は躍動する。喜びが湧く。その力によって、一日一日を生活したいものである。

 

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1999年 5月21日(金)

ヨハネ六章1〜14節(11)

《そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。》

 

パンの奇跡は四つの福音書に見られる。それほどに重要なものであった。ユダヤ人の中にメシヤは大いなる祝宴を開く方であるとの考えがあったが、それがここに反映しているという人がいる。場所はベツサイダである(ルカ九章10)。この町出身のピリポにパンを買う場所を尋ねたのは自然であろう(5)。

 結局すべての弟子は、お金も品物も到底五千人の者には足りないと分かった。「そこで、イエスはパンをとり、感謝してから座っている人々に分け与え」なさった(11)。人間の目には、どうしても足りない事は分かっている。

しかしイエスには、すでにお考えがあった(6)。イエスの手によって、小さくつまらなく見えたものが祝福され、多くの人々に供せられたのである。私たちは、小さく、不足しているものに目をとめやすい。そして、足りないという。また、この問題は決して解決されないと思う。しかし私たちは、イエスを見つめたいと思う。彼に依り頼む時、人が考えないような方向へと道が開かれる。主を見たい。

 

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1999年 5月22日(土)

ヨハネ六章15〜21節(20、21)

《すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。》

 

パンの奇跡の後、民衆はイエスを王にしようとした。彼らはイエスこそ物質的にこの世を救う方だと考えたのである。それを知って主は山に行った。祈りのためであろう。さて、その間に弟子たちはカペナウムに向けて船出したが、その途中嵐にあったのである。この嵐の中で弟子たちは難渋した。彼らの中の何名かは漁師であったし、このあたりは慣れた所である。嵐の経験もあったろうし、対処の仕方も知っていたであろう。

 私たちは、慣れた所で、しばしばどうにもならないような状態におかれることがある。そこへイエスが近づいて来られた。復活体のようなイエスの姿は変貌山の時にも見られるのであるが(マタイ十七章2)、ここもそれである。彼は海上を歩いて弟子たちのところへ来られた。彼らは平安を取り戻したのである。「わたしだ。恐れることはない」とは、慰めである。また、「船はすぐ、彼らの行こうとする地に着いた」は人生の導き手なる神をしめしている。

 

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1999年 5月23日(日)

ヨハネ六章22〜40節(33、35)

《神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである。》

《イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」》

 

パンの奇跡に続いて、これについてのイエスの解説が六章の主な部分である。ユダヤ人はメシヤはパンの問題を解決する者であると考えていた。それはかつてモーセが出エジプト後、荒野でマナという食物を与えたことに関連して第二のモーセの如き人物なるメシヤも同様のことをすると考えられたのである。だからユダヤ人はイエスにそのようなしるしをせよと要求したのである(30、31)。

 このような求めに対して、イエスの言われた事は、今日の個所について言えば、二つの要点がある。

@朽ちる食物のためでなく、永遠の命に至る食物、即ち霊的な命のために働けと言われた(27)。

A天からのマナとは、モーセのそれではなく、イエスご自身である。だから「わたしは命のパンである」と言われたのである。霊的というと抽象的、観念的に聞こえるが、そうではない。それは人を動かし、生かす、原理的な、根源的なものである。イエスを信じて命を得よ。

 

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1999年 5月24日(月)

ヨハネ六章41〜51節(45)

《預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである。》

 

イエスが天からのパンであるということばを聞いて、ユダヤ人はつぶやいた(41)。イエスは天的起源の者ではない。ナザレのヨセフの子であると彼らは主張した(42)。神の子の受肉の真理が分からない。

 しかしここに大切なことを主は語っておられる。「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない」(44)。とか「父から聞いて学んだ者はみなわたしに来る」とか言われている(45)。イエスが天からの者であって神の国の福音を持って来た方であると分かるのは、「父に聞かなければ」分からないという。このことはまた、五章37節のことばを思い起こさせる。

 神は、ご自分に聞こうとする者には人々の内心に語りかけて下さる。聞くというのは、聞いたならそれに従う意志のあることをいう。都合の悪い事には従わない者には語りかけはない。パンなるイエスを食べる、即ち従う者には永遠の命が与えられる。

 

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1999年 5月25日(火)

ヨハネ六章52〜65節(63)

《人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。》

 

 ここには何度も肉を食べ血をのむということばがでてくる。これを文字通りとったユダヤ人が「これはひどい言葉だ」といった(60)。そのようなことはありえないのであるが、誤解があったので、イエスはただちに「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり命である」といわれた(63)。つまり霊的なことに解さねばならない。では肉を食べる、血をのむとは何を意味するのか。

@食べ物をたべると、それはその人の血肉となり、その人の一部になる。つまりイエスを食べるとは彼と一体になるということである。この場合、神と人との区別のなくなるような一体を意味しているではない。神は神である。一体とは、彼のもつ一切の祝福、例えば神の義が、私のものとなるというのである。

Aまた、血を飲むという場合、血は命であるから、キリストの命にあずかることを意味する。一体になるのは彼を信じることによる。キリストの十字架の救いが人を生かす。それを精霊が各個人にあてはめて人を生かす。

 

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1999年 5月26日(水)

ヨハネ六章66〜71節(68)

《シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。》

 

 六章はパンの奇跡の解釈だったのであるが、最後の晩さんの時、イエスが教えた内容に似ている。晩さんのあとでユダはイエスを売り、弟子たちはローマに捕らえられた主をみて逃げた。66節以下はこの場面に似ている。もちろんこの場面はイエスの最後の時期ではない。68節のペテロの告白は、他の福音書のペテロの告白である「あなたは生ける神の子、キリスト」ににている。ともあれ、本章においてイエスの救い主たることが徐々に表されるにつれて彼に従う者とそうでない者とが明らかにされてくる。そのような時に、ペテロが主に対して語ったことは、すばらしい。「主よ、わたしたちは誰の所に行きましょう。永遠の命をもっているのはあなたです」。このことばは、主イエスにとって、どんな慰めであっただろうか。主が喜ばれるのは、何をささげるにまさって、彼に従うことである。  

 

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1999年 5月27日(木)

ヨハネ七章1〜13節(6)

《そこでイエスは彼らに言われた、「わたしの時はまだきていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。》

 

 仮庵の祭りはユダヤ人の三大祭りの一つである。イエスの兄弟は、ユダヤに行って自分を公にあらわす方がよいとすすめた。その意味するのは、イエスがメシヤなら異邦人のガリラヤでなく、ユダヤ教の中心地の、エルサレムにおいて活動すべきだということである。しかし兄弟のいうようには、イエスは行動しなかった。というのは彼らはイエスのことが真に分かっていなかったからである(5)。それでイエスは、祭りに行く時ではないといった。彼はこのような兄弟と共に、祭りの最初から行くべきではないと考えたようである。しかし、イエスはあとからひそかに祭りに行かれた。主は他の人によって自分の真意から外れたことで、宣伝されて、肝心のメッセージが伝えられるのを妨げられたくなかった。だから「わたしの時は来ていない」と二度とも言っている(6、8)。イエスに神の時があったように、わたしたちにも時がある。このような言葉は、神を信じ、委ねている人でないと言えない。神は好機をくださる。祈っていれば、それは分かる。

 

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1999年 5月28日(金)

ヨハネ七章14〜24節(18)

《自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。》

 

ひそかに祭りにのぼられたイエスは、宮で教えられた。これに対してさまざまの批判が、ユダヤ人の間から出てきた。その一つは「学問をしていない」である。それはイエスがユダヤ教の教師学校に行かなかったことを意味している。とはいえ、どの子供も六才から会堂で教育を受けていたから、イエスはもちろん、ユダヤ人は聖書を知っていたはずである。さて、人々の驚きに対して主が言われたのは、

@イエスの教えは、神の教えであること(16)。聖書を読んで、それを自分の教えだという者はいない。しかし、ラビは聖書解説に自分の権威をもたせた。イエスは虚心に聖書から父の教えを得ようとした。この差は大きい。

Aそのように聖書の語りかけに聞こうとするのは、神の栄光を求めようとするからだと言う(18)。自己主張を捨てないで聖書を読んではよくない。自分中心に考えて、神のみ栄えを求めないのでは、私の命にはならない。「自分をつかわされた方の栄光を求める者は真実であって偽りがない」。

 

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1999年 5月29日(土)

ヨハネ七章25〜36節(28、29)

《イエスは宮の内で教えながら、叫んで言われた、「あなたがたは、わたしを知っており、また、わたしがどこからきたかも知っている。しかし、わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない。・・・・・。」

 

エルサレムでの教えを聞き、なさっているみわざを見て、ある人々はイエスはメシアだろうと思った(26)。ところが他面、この人々はイエスの出身がナザレであることを知っているので、メシアではないだろうとも思った。27節に「この人がどこから来たのか知っている」と言う。というのは、キリストの出現がどこからか知る者はない、との言葉のように(26)、メシアの出現は突然だとの信仰が、ユダヤ人の間にあった(マラキ三章1参照)。それ故、イエスのメシア性を疑った。これに対して、イエスは、ユダヤ人達の知らない方(神)から来たと明言された(28、29)。ユダヤ人が神を知らない筈はない。しかし他面イエスがそういわれたのは真理である。彼らは、律法のみ求めて、神を求めなかったからである。 また33節で、父の元に帰るといわれた。ユダヤ人は真実な父を知らなかった。私達は、形式主義の信仰ではなく、真実なる神を世に示された主を信じ、その方をさらに知る者になりたいと思う。

 

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1999年 5月30日(日)

ヨハネ七章37〜53節(38、39)

《わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。

 仮庵の祭りの期間、祭司達は昼間はシロアムから祭壇まで水を運んでそこに注いだ。それは昔イスラエルの民が荒野で渇いた時、神が水を与えてくれたことを記念するためのものであった。ところが、その行事を見ておられたイエスは、人の渇きをいやし命を与えるのはその水ではなく、私が与える水、即ち聖霊によるのであると言われた。37節の「叫んで言われた」の表現に、イエスの切なるせまりを感じる。心の空虚を知る者は誰であっても、イエスのもとに来るならば、自分の心が満たされるばかりでなく、「その腹から生ける水が川となって流れ出る」(38)。その腹とは各自の心の奥底のことである(新改訳)。このようなみことばを祈りの中に信じる時、私達の心の中から人を生かす福音のことばが豊かに生まれ出る。同じことばを語っていても、聖霊のお働きを信じつつ語る時、人々の魂を生かす。パリサイ人や祭司のようではなく、主の約束を信じて行動にうつしたい。

 

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1999年 5月31日(月)

ヨハネ八章1〜20節(12)

《イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。》

 

 姦淫の女の話は人間のもつ二つの暗さを表している。一つは罪を犯した女の暗さである。なぜこのような罪に陥ってしまったのか分からないが、婚約者だと言われているこの人の心は真っ暗だったに違いない。石打ちの刑に処せられる人だからである。もう一つの暗さはこの女とイエスとを陥れようとする民衆の心の暗さである。人の罪は憎むべきであろうが、それを自分達の興味のたねにしようとしている人々の心は暗い。しかし、イエスはこの女の罪を赦された。女にとっては救いの光であった。仮庵の祭の夜、神殿の境内ではあかあかとひがもやされた。

 その火の光にまさる魂の光を与えるのはイエスである。それゆえ、12節の「わたしは世の光である」のことばが語られたのである。14節にはイエスがどこから来て、どこに行くのかを知っているとあるように、彼が天的起源の者であることを述べている。彼こそ天の光を与える方である。

 

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