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聖書日課 |
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1999年 6月 |
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金曜日 |
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1 ヨハネ8章21〜30 |
2 ヨハネ8章31〜32 |
3 ヨハネ8章34〜41 |
4 ヨハネ8章41〜47 |
5 ヨハネ8章48〜59 |
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6 ヨハネ9章1〜12 |
7 ヨハネ9章13〜34 |
8 ヨハネ9章35〜41 |
9 ヨハネ10章1〜21 |
10 ヨハネ10章22〜42 |
11 ヨハネ11章1〜16 |
12 ヨハネ11章17〜27 |
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13 ヨハネ11章28〜44 |
14 ヨハネ11章45〜57 |
15 ヨハネ12章1〜11 |
16 ヨハネ12章12〜19 |
17 ヨハネ12章20〜35 |
18 ヨハネ6章36〜50 |
19 ヨハネ13章1〜11 |
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20 ヨハネ13章12〜20 |
21 ヨハネ13章21〜30 |
22 ヨハネ13章31〜38 |
23 ヨハネ14章1〜11 |
24 ヨハネ14章12〜24 |
25 ヨハネ14章25〜31 |
26 ヨハネ15章1〜8 |
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27 ヨハネ15章9〜17 |
28 ヨハネ15章18〜27 |
29 ヨハネ16章1〜11 |
30 ヨハネ16章12〜15 |
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ヨハネ八章21〜30節(28)
《そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。」》
25節の「あなたは、いったいどいう方ですか」は、今日の個所を解くかぎの質問である。
ここには、イエスがどういう人であるかが述べられている。
@イエスは上からの者である(23)。Aイエスは神と共におり、彼のみこころを行っている(29)、とまとめられている。ところでイエスがこのような方であると分るのはどのようにしてかが問題である。28節には「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であるこたが分かる」とある。上げてしまった後とは、十字架に上げた後の意味である。実際、弟子達でさえイエスがどんな方であるかは十字架と復活なしにはわからなかったのである。
これは私たちにも言えることで、十字架による罪のゆるしを受けた後に、イエスがどんな方かを知り始めるである。そうでなければ、罪のうちに死に(21、24)、イエスの所へは来られない。十字架のイエスを知ることがかぎである。
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ヨハネ八章31〜32節(32)
《「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。》
31節に、イエスは「自分を信じたユダヤ人に」教えておられる。しかし、このユダヤ人は、頭で信じたという程度のものである。それは、32節以下の部分を見れば分かる。
それでは、イエスを信じるとはどういうことか。それはずべてを委ねて信頼するということである。子供が親に頼ることに似ている。その内容が31節にある。
@「わたしの言のうちにとどまる」ことが第一の要件である。つまり聖書を通して私達の内心に語られる言葉に、耳を傾けることである。そしてその言を心の中にいつも留めておくことである。
A次にキリストの弟子になることである。弟子と、学ぶ者とはギリシャ語では同じ語である。イエスの弟子とは、イエスに従い、学ぶ者のことである。その結果、真理がわかる。真理は科学の真理ではない。人格的な真理である。「真実さ」とでも訳すとよい。人の真実が添うて分かるように、神の真理は彼に従ってみて分かる。主に従ってその真実を知らせて頂きたい。
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ヨハネ八章33〜41節(36)
《だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。》
自由の問題をイエスが語られた時、ユダヤ人は「人の奴隷になったことはない」と誇らかに言った。もちろん彼らはかつてバビロンやエジプトで、奴隷になっていたことは知っていたはずである。それにもかかわらず、こう言ったのは、たとい体はそうでも、心はそうでないと言いたかったのであろう。 これに対して、イエスは「罪を犯す者は罪の奴隷である」と心の問題を取り上げられた。さらにイエスは、ユダヤ人が立派な先祖、アブラハムの子孫ではないとほのめかした。父がアブラハムであるなら、彼は人殺しなどはしなかったのだから、その子も人殺しはしない筈である(40)。
ところがイエスを殺そうとするのはどうしたことか(37)。体の父はアブラハムでも、心の父はサタンではないのか、とイエスは示唆した(41)。
木は実によって分かる。神を敬い、彼に従う者は神の子である。イエスのみが罪からの自由、心の自由を与える。主の御苦しみを覚えたい。
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ヨハネ八章41〜47節(47)
《「神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである」。》
ユダヤ人は自分たちの父はアブラハムであるといい、更に神が父だと主張した(41)。
不品行の結果の者ではない、と言うのは、偶像礼拝者の子孫ではない、との意味である。偶像礼拝を不品行といっていたからである(ホセア二章4)。
これに対して、イエスはたてまえや伝統によってではなく、彼らの現実を見て、父は悪魔だと断定された(44)。それは、彼らが理不尽な人殺しであり、しかもそのような計画をたてつつも、そうではないと嘘をついているからである(44)。
これと対照して、神を父と呼ぶ者は、@イエスを愛する(42)。
Aイエスの語られることを悟る(43)。これは聖書が全部分かるというこではなく、自分の考えや行為が、イエスが教えることかどうかを分別できるという意味である。
Bそうならば、神の言に従うようになる(47)。複雑な出来事の起こる生活の中で主の語って下さる言を失ってはならない。神の子として生活したいものである。
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ヨハネ八章48〜59節(51、58)
《「よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」。》
《イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。》
イエスがどういう方であるかについて八章の最後の部分に来て、いよいよ頂点に達する。
58節はその鍵の句である。「アブラハムが生まれる前からわたしはいるのである。」唯一神観をもつユダヤ人の言であるゆえに、その言葉には重みがある。神である方がこの世に来られたのである。当然のことながら、彼は父に栄光を帰し(50、54)、神を知り(55)、そして御言を守っている(55)。
このようなイエスに対して、ユダヤ人たちは彼がサタンからの者であるという(48)。受け入れようとしない者にとっては、どのようなわざがなされようと、それは全く無意味に見えるし、永遠の命を与えると言われたことも受け入れがたいことにひびく(51〜53)。 永遠者である方が、父の栄光をあらわすために、また永遠の命を与えるために、死に、甦えって下さったことを覚えたい。
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ヨハネ九章1〜12節(3、11)
《イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」》
《彼は答えた、「イエスというかたが、どろをつくって、わたしの目に塗り、『シロアムに行って洗え』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」。》
生まれつきの盲人を見て、弟子たちは、それが本人の罪のゆえか、両親の罪のゆえかとイエスに尋ねた。生まれつき盲人である者がいつどこで罪を犯したと言えるのか分からないのに、弟子達はそのような質問をした。
苦難の問題に簡単な答えはないが、その人の対処の仕方で暗きにも、明るきにもなる。その原因を探ろうとする人は後ろ向きになり、目的を求める者は前向きになれる。だから、苦難については、なぜという何のためにと問えと言われる。
弟子は前者、イエスは後者である。イエスはこの盲人に昼があるのだと言われる。そして光りの生活を始めるために、目に泥をぬって、シロアムで洗えと言われたのである。イエスは彼をシロアム(遣わされた者)の池で洗わせたかった。その意味は暗示的である。それはイエスを示している。イエスによって心の目を洗われた者は、神の栄光を表すものとなる。どんな小さい者でも、神は栄光のためにお用いりになる。
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ヨハネ九章13〜34節(25)
《すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」。》
パリサイ人がイエスのわざを認めようとしないのは、律法主義による。
律法主義者は、安息日に泥をぬったり、いやしたりする者ではことごとく不法な者、神にそむく者であるときめつけてしまう。律法主義者だけでなく、一つの既成概念にしばられてしまうと、想像的な考えは生まれて来ないし、人は死んでしまう。どんなによいことをしても、それをほうむり去ってしまう。固い頭を捨てねばならない。
盲人であった人は、イエスのわざを体験していた。だからイエスを預言者だと思うと言う(17)。また今は見えるという一つの事実を知るとも言う(25)。 さらに彼が神を敬う方に違いないと確信する(31)。盲人の両親でも彼の心の確認を知り得ない程であった。著者ヨハネは、心の目の開かれた者がどんなに幸いかを語るのである。
神学が分からなくてもよい。イエスに重荷を取り去っていただいた信仰に生きている者には輝きがある。
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ヨハネ九章35〜41節(35)
《イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。》
盲人だった人のイエスの呼び方には変化がある。最初はイエスと言う方であり(11)、次は預言者と呼び(17)、さらに神を敬い、みこころを行う人と言った(31)。そして38節には「主よ」と言って礼拝している。イエスのわざを経験する者は、結局、彼を主として生きるようになるのである。
パリサイ人たちは盲人が自分たちの意のままにならないのを見て外へ追い出した(34)。これは破門であって、彼にとっては、大変なことであった。というのは、破門はユダヤ人との社会生活の拒否を意味したからである。しかしそのようにされた時に、イエスは彼に会われた。
私たちはクリスチャンになったために、家族の中から追い出されないようにせねばならない。しかし、時として救いの内容についてまで理解されないことも有り得る。その時、主は私たちに会って強めて下さる。そして、やがて家族や友人たちにも分かってくれるような証人にして下さる。
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ヨハネ十章1〜21節(11)
《わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。》
昔、宗教的、社会的リーダーは羊飼いと呼ばれていた。だから9章のパリサイ人達は羊飼いの立場にいたのである。
ところが盲人がいやされたのに彼を追い出したのは、社会生活の拒否であるから、羊飼いとしてはしてはならないことであった。イエスが、わたしが良い羊飼いであると言われたのは、パリサイ人への挑戦であって、彼らはもはや羊飼いではないと言う断罪でもあった。
イエスが羊飼いだと言われる時、さまざまの意味があった。
@導き手であること(4)。主は羊の先頭になって行く。
A羊の命を豊かにする(10)。
B羊のために命を捨てることもいとわない(11)。ことに、命を捨てる、という語が11節以下に6回も出てくるのに注意したい。イエスが羊のために十字架に命を捨てられたのは、彼の自発的な行為であった(18)。
「自分からそれ捨てる」といわれる程に、羊のひとつひとつをかえりみて下さるとすれば、安心して彼の声に従っていきたいものである。
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ヨハネ十章22〜42節(38)
《「しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう。」》
宮きよめの祭りは、ハヌカといって一二月二五日である。ユダヤ人はイエスがキリストか否かにとまどっていた(24)。一方では律法主義の目で見ると、安息日を破るのでキリストとは思われず、他方では、驚くべきみわざを見てメシヤかも知れぬと思った。
ところがイエスの口から決定的と思われる言が出た。「わたしと父とは一つである」の言葉である(30)。これが、イエスは神であるという意味であることは明白である。それゆえ石打にしようとした。34節以下のイエスの言葉は、詩篇八二篇6節の引用で、「裁判官が神の大権を行うので神と呼ばれるなら、神から遣わされている者が、神の子と呼ばれるのは当然ではないか」というものである。イエスは父のわざをしておられた。だから「たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい」と言われた(38)。
私達の人生には様々の事が起こってくるが、主に従う者のために、彼は父のわざをして下さっているのだと受けとめたい。
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ヨハネ十一章1〜16節(3、4)
《姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。》
イエスが愛しておられる者に病気が来た(3)。このおとずれは近親者にとっては悲しみである。主が愛しておられる者にも病気はやってくる。
イエスはこれを聞いて「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため」であると言われた。新改訳が「この病気は死で終るだけのものではなく…」と訳しているのは興味深い。
死は暗黒な状態。神の栄光を表わすとは光であり、救いである。つまりラザロの病気は暗黒に終るものではないという意味であろう。
この時は彼は生き返った。しかし数年後に体は死んだに違いないが、イエスによって救われた者にとっては、希望のない死で終りを告げるのではない。 神の栄光の中へと入れられ、彼の死の後にも神のみわざは地上に残されていく。
イエスは私たちの人生にも、父のわざをしていて下さると信じるなら、祈りの答えに二日の後れがあったとしても(6)、なお神の栄光のみわざを信じていたい。
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ヨハネ十一章17〜27節(25、26)
《イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。》
ラザロはすでに死んでおり、埋葬もされていた。しかしユダヤでは葬式は七日間続き最初の三日間は泣く日であったから、イエスの到着した日はその日が明けた日であった。
マルタに対して「兄弟はよみがえる」と主が言われた時、彼女は「終りの日によみがえる事は存じています」とユダヤ人が持っていた終末の希望を述べた。
しかしそれはマルタには救いにはならない。それでイエスは「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」と驚くべき宣言をされた。ラザロの復活は、イエスの復活の象徴に過ぎない。人類の最後の敵は死である。死は単に肉体の死だけではなく、魂が永遠に神から追放される事である。 その問題解決のためイエスは贖いの死を受け、彼の蘇えりによって死を滅ぼされた。
「わたしは命である」と言う者は、世界には一人もいない。イエスによる永遠の命の尊さをしっかりと受けとめていたい。
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ヨハネ十一章28〜44節(42、43)
《あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。》
イエスがラザロの墓に行ってみると、多くの者が泣いていた。その姿を見てイエスは激しく感動した(33、38)。 新改訳にはいきどおりを覚えたとしている。これはどういう意味か。死は罪のゆえに来たのだというのが聖書の教えである。人類の敵がもたらす冷酷さに悲しい心の動きをおぼえられたのであろう。
このような事実がすべての家庭に及んでいることを今更のように見、罪と死からの救い主になるとはいえ、死が多くの者を悲惨に追い込んでいることにイエスは憤りを持ったのであろう。
イエスは深い同情を悲しむ者のために持っておられる。しかし同時に彼は悲しみの解決者である。あたかもラザロに命令するように、「ラザロよ、出て来なさい」と言われた(43)。神なる立場におられるので、このように決定的に宣言できるのである。イエスこそ、命とよみがえることのできる方である。
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ヨハネ十一章45〜57節(51、52)
《このことは彼が自分から言ったのではない。彼はこの年の大祭司であったので、預言をして、イエスが国民のために、ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっていると、言ったのである。》
本書においては、一つのわざがイエスによってなされると、その結果として人々が信仰と不信仰に分かれると書いている。ここにもそれがある。多くのユダヤ人が信じ、パリサイ人とサドカイ人は信じなかった。多くの奇跡がなされてはいたがラザロの蘇えりは決定的な印象を人々に与えた。
47、48節の祭司長の言で「みんなが彼を信じるようになる」とあるのは、人々がイエスをメシヤと信じることになると言う意味である。民衆が彼を王に仕立てるようなことになれば必ずローマが介入し全土は混乱すると言う(48)。そこでイエスに死んでもらおうとカヤパは提案した(50)。しかし彼の無知な発言がイエスの身代わりの死を意味していたなどとは誰も知らなかった。著者のヨハネは、不信仰なカヤパをさえ神の御支配の下にあるのだと言いたかったのであろう(51)。イエスのわざのゆえに殺害計画が始まったが、神は彼らのわざさえ用いて、神の子らを集め始めなさる(51)。
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ヨハネ十二章1〜11節(3)
《その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。》
マルタたち一家の者がイエスに対してどれ程大きい感謝をもっていたか想像に余りがある。
前章においてラザロは生き返されたのであるから。それゆえ彼らは心をこめてもてなし、感謝を表わした。
そのような思いを無視してユダはマリヤの行為を浪費だと言って咎めた。イエスは彼女の油注ぎを弁護するだけでなく感謝の表われ以上のものと評価して、葬りの備えなのだと言われた(7)。こんな言葉は、マリヤにさえも理解できないことだったに違いない。 そして貧しい人への奉仕はいつも絶え間なく要求されており、イエスへの奉仕は今しばらくのことであると言われた(8)。
スクロギーは、とがめだてられる程の奉仕を私たちはするだろうか、と問いかけている。何も不評を買うような奉仕をしてよいと言うのではないが、惜し気のない心が大切であろう。主に対して仕える心が生まれると、人に仕える心も生きてくる。
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ヨハネ一二章12〜19節(15)
《「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。》
時期は過越の祭りであって、多くの民衆は諸方からエルサレムに集まりつつあった。その頃、ラザロの復活があり、大勢のユダヤ人がイエスとラザロとを見に来ていた(9)。イエスをメシヤだと思う人々は、いよいよ増し加わり歓迎した(18)。その時のエルサレム入城である。人々はシュロを取り、凱旋将軍を迎えるようにした。
イエスがロバに乗って入城されたことには意味がある。馬は軍馬で、戦いのための王。ロバは平和の象徴である。民衆は、ローマ帝国を覆すメシヤを期待したが、イエスは平和の君である。この時にはイエスの真意を弟子は理解できなかったが、イエスが栄光を受けられた時、つまり死と復活の後にそれが判ってきたのである(16)。
人々の理解が不十分であったとしても、とにかくイエスは王として来られる。「あなたの王が…おいでになる」。主は死を破られる王である。王なるイエスを心の中にお迎えしたい。
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ヨハネ一二章20〜36節(24)
《よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。》
過越の祭に参加するため、ギリシャ人が来ていた。彼らはイエスに面会を求めた。それはイエスの教えやみ業を見聞きしたからであろうし、さらに良く教えを聞こうとしたからであろう。 全世界の人々の救いを思っている主イエスは、「一粒の麦が地に落ちて…死んだなら豊かに実を結ぶようになる」と言われた。一粒の麦としての死とはいえ、父のみもとから離されたことのないイエスにとっては、贖いの死は心の騒ぐことであった(27)。
しかし彼の十字架は全世界の人々のための救いであるから、「私がこの地から上げられる時には、すべての人を私のところに引き寄せる」と言われたのである(32)。
上げられるとは、十字架のことであり(三章15)、また復活のことである。ギリシャ人の来訪は、その地方へ行くようにとのサタンの誘惑だったのかも知れない。イエスの死無しに、教えだけでは人は罪から救われない。一粒の麦としての死を選んで下さった主に感謝したい。
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ヨハネ一二章36〜50節(46)
《わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。》
イエスのみ業や教えがなされたあとで、いつも信仰と不信仰の対応の対照が表れてくる。ここにもその対照がある。しかも他のところより詳しく書かれている。
これまでの多くの業はメシヤの印であった(37)。そのことをイザヤの言葉を引用してヨハネは説明している。 40節はイザヤ六章10節である。この時、イザヤは神殿の中で主の栄光に接した。その栄光は受肉前のイエスの栄光だったのだとヨハネは言う(41)。 イザヤが主に接した時、自分の罪深さに泣き、心の清めを求めた。ところが、この世に来られたイエスが人々に直接語り、み業を行い、印を示したのに信じないとは何と言うことか。イザヤ当時の人々がかたくなだったように、それ以上のみ業を見ても信じない。イエス当時の人々は不信仰であった。
しかし、主はなおも裁かない(47)。救おうとされる。光のあるうちに光を信ぜよ、と主は求めなさる。
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ヨハネ一三章1〜11節(1)
《過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。》
最後の晩餐の席でイエスは弟子達の足を洗われた。それは彼らの間に誰が偉いのかという論争があり、ユダも主を売ろうとしていたからである。イエスは汚れた足を洗い、またその心も洗いたいと思われたのであろう。
ところで順次、弟子の足を洗って来られると、ペテロはそれを拒否した。多分、師に足を洗っていただくことは申し訳ないと考えたからであろう。しかし、イエスは「私が足を洗わないなら、あなたは私と何の係わりもなくなる」と言われた。主に洗っていただくことは必須のことなのである。
人々は最初教会に来るとき、何か立派な人にならなければならないと思うものである。そのように考えるのは自然であろうが、間違っている。キリストに洗っていただかないで、神に喜ばれる者になることは出来ない。
主にきれいにしていただくことが最重要のことである。主に罪を清めていただいたので、神の前に正しい者と言えるのである。
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ヨハネ一三章12〜20節(14、15)
《しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。》
イエスは「手本を示した」と言われた。手本とは足を洗ってあげたことである。これに類したことは誰でもすることが出来るようであるが、主はこの手本は他の人には出来ないことだと言われる。
というのは、人の心の罪を洗うことが出来るのは主イエスにしか出来ないのであって、人間には真似が出来ないからである。「手本」とは原作品のことでコピーでは無いという意味である。 では「互いに足を洗い合え」とか「わたしがあなたがたにしたとおりにせよ」と言われたのはどういう意味か。 私たちにはイエスが洗ったように、人の罪を洗ってあげることなど出来ない。しかし洗われた者は、他の人に洗われる道を教えてあげることが出来るはずである。
自分が救われたら、他の人にも救いを語ることが出来る。そのような救いの道を語ってあげるために、私たちは、どんなにでも謙虚な姿勢でいたい。足を洗ってあげるほどの思いを持ちたい。
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ヨハネ一三章21〜30節(23)
《弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。》
裏切ったユダの記事である。ダビンチの「最後の晩餐」の絵には、ユダは机の端にいるが、ヨハネ伝にはそのようには記していない。
23節の「イエスの愛しておられた者」はヨハネのことである。彼は主のみ胸近くにいた。ユダヤでは食事の際、左脇を下にして長椅子に横になって食べた。一同がU字型に座るから、ヨハネの頭は自然にイエスの胸に来る。
26節ではイエスはユダにパンを最初に与えている。これはイエスの左側、即ち最も敬愛するべき者の座にユダが座っていたことを示している。イエスは決してユダを無視したのではない。彼の心を知っていたイエスは、最良の座を彼に備え、愛していることを知らせたのである。ところが、そのパンを受け取るや否や、立ち上がって暗闇の中へと出て行った。お金の失敗からきた出来心が、取り返しのつかない穴へと自分を落とし込んだのである。
少しばかりのお金のことで、イエスを売り、永遠の救いを捨てるようなことがあってはならない。主は愛しておられる。
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ヨハネ一三章31〜38節(36)
《シモン・ペテロがイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのですか」。イエスは答えられた、「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」。》
ユダが晩餐の席を立った後、イエスはいよいよ栄光の時が来たと語られた。 ヨハネ伝において栄光は、十字架のことを含んでいる。それはこれによって人の罪が贖われ、多くの人が神のみもとに引き寄せられるからである(一二章32)。
ユダの背信は悪いことである。しかしそんなことを変えても神は救いの道を用意される。その十字架にまでは弟子達もついて行く事は出来ないと主は言われたので(33)、ペテロは「あなたのためには、命を捨てます」と言った(37)。これはペテロの軽々しい言葉である。実際、この数時間後にはイエスを知らないと否定したのである。 こんな時に、イエスが「あとになってから、ついて来ることになろう」と言われたのは意味深い(36)。つまり、ペテロは主の十字架を見、その救いを確認した後で、殉教する程にまでイエスに従ったのである。
私たちも主に従って行きたい。私達はイエスの救いを経験したのであるから。
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ヨハネ十四章1〜11節(1)
《あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。》
「あなたがたは心を騒がせない方がよい」と言われたのは、弟子たちの心に混乱と不安があったからである。というのは、前章31節からイエスがどこか分からぬところへ行くと言い始めたからである。
どこへ行くのか。それは父のみもとであり、天国である。そして弟子たちもそこへ連れていってもらうことができる。イエスは真の道だからである(6)。
ところが弟子にはそれが十分理解できなかった。父への道が分かれば、心の騒ぎは収まってくる。これを死んだ後のことと考えると共に、現在の経験として考えたらどうだろう。心の不安は父を知らないところから来てはいないだろうか。父のところには住まいが多い(2)。家は安息の場である。父の家で、この時も憩うものでありたい。不安症、神経症は父にゆだねることで癒される。10節には父がイエスと共にいて、彼の中で働いておられるとある。
イエスの中で働き、みわざをなされる父なる神は、私たちの中でも働かれる。父をもっと知り、彼による安息を与えられたい。
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ヨハネ十四章12〜24節(23)
《イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。」》
心騒ぐ弟子たちに対して、父を示し、また彼に近づく道を示した後、12節以下においてはさらに別の励ましの言葉をイエスは述べられた。
一つはイエスが世を去った後、聖霊が遣わされるということである(16)。聖霊はイエスのように目で見ることはできないが、教会を形成し、人の心に変化を与え、信頼するものを導かれる。彼は「助け主」とか「心理のみたま」とか呼ばれている。聖霊は私たちの困難なときに助け、いつも正しい道に導くからである。
二つは、イエスの復活である。19節の「私を見る」、「生きる」は復活を意味する。彼の復活に希望がある。事実、失望と混乱の弟子は一変した。私たちはひとりぼっちの孤児ではない。
第三の励ましは、イエスの約束の言葉である。23節以下に、「言葉」の文字が多い。聖書のみことばを手がかりにして、頼りにして、神に祈ることができるのがキリスト者の力である。「言葉を守る」(24)は言葉を心に持っている、の意味である。助け主を仰ぎたい。
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ヨハネ十四章25〜31節(27)
《わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。》
「心を騒がせない方がよい」(1)の励ましはなお続いている。
@もう一度、聖霊について語られる。彼は教える方である。イエスが語られたことを思い出させることによって教えるという。人は一度聞いて物事を理解できるものではない。問題に直面しながら、弟子たちは、神の教えを分かっていく。その都度聖霊が教えなさる。私たちの信仰生活も同様である。
Aイエスは平安を残して下さることによって心の騒ぎを取り去る。主は今まさに十字架について死のうとしている。そして平安を遺産のように与えるのである。世が与える平安とは異なると言われるが、軍事力のバランスによって保たれているような平和はいつ崩れるか分からない。世が移り変わるとも、また死が来ようとも変わらない神の平安は、キリストの十字架の救いと交換に私たちに与えられるものである。
この世の君がイエスに対して何の力もないように(30)、私たちに与えられている救いについて、サタンは何一つ干渉し得ないのである。
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ヨハネ十五章1〜8節(5)
《わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。》
ブドウの木のたとえには、大切な二つのポイントがある。
一つは実を結ぶことである。「実」という語がこの箇所だけでも七回出てくる。実とはキリスト者の品性が円熟してくることである。愛の生活、喜びに満ちた生活、平和な心の状態等々、ガラテヤ五章22節に述べられている。また伝道の実がある(十五章17)。一人の人でも主に導いたなら、その人は伝道の実を結んだことになる。
たとえのもう一つの点は、「つながる」、「居る」と言うことである。多くの人は、よいクリスチャンになろうと思って努力する。よい心ではあるが、間違った努力をしている。キリストに居ることなしには何一つ実は結ばれないと、主は言われる(4)。人格の成長、伝道の実は、神が私たちに与えられるものである。
では「彼に居る」とはどういうことか。祈りを持って毎日主につながること。みことばに信頼すること。そうすることによって魂に命を与えられること。これによって徐々に実は与えられる。
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ヨハネ十五章9〜17節(16)
《あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。》
1〜8節に「実を結ぶ」、「つながる」(とどまる)の句が多いが、9〜17節には「愛」が多い。九回も出てくる。
愛とは何か。その内容は深く小文では表し得ない。愛は己を与える行為である。父と御子との関係においては、それぞれの意志を何の隔てもなく交流しあえる状態にあることである。人間相互においてもそれができるようになるなら、豊かな愛を持っているといえるであろう。
ところで、9節のように、キリストの愛のうちにいなさいというときには、キリストの救いの中に生きなさい、という意味である。神の私たちへの愛は、単に好ましい感じのことだけではない。私たちを救いなさる神のわざである。そして、その愛は13節のように、友のために命を捨てる如くに、贖いの十字架に主が死んだことに表されている。
愛は16節のように私たちを選ぶことに表れている。選びは愛である。
1〜9節の「主につながる」は愛に生きることであり、愛に生きるのは、救いの中に生活していることである。そのとき結実する。
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ヨハネ十五章18〜27節(19)
《もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。》
18節以下には「憎しみ」の語が多い。世がイエスとその弟子たちを憎しみ迫害するというのである。世という場合、単に世界という意味ではない。それは罪の世の人々という意味である。世界は善でも悪でもないが、世というと、何か倫理的に悪いというニュアンスがある(22)。
キリストに従い、神の言葉を守るとき、世は憎む。初代の教会の人々はそのような目にあっていた。良いことをしているのに迫害を受けた(使徒三〜四章、Iペテロ二章12)。
私たちは、自分が良い行いができず、だらしのない生活をしていて、未信者に笑われるのを迫害されていると思ってはならない。それは改めるべきである。しかし、誠実にやっているのに、なお嘲笑する人、揚げ足を取る人もいる。そのようなとき、主イエスもそのような立場に立ったのだと覚えてほしいといわれる(18、20)。
私たちはイエスが憎しみに勝つために、愛によって対処したことをも覚えたい。
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ヨハネ十六章1〜11節(8)
《それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。》
イエスは、弟子たちがやがて多くの者から迫害されるときが来ると語られた。しかもそのようにしている者が自分は神に仕えているのだと自負している。ちょうどタルソのサウロのようである。
自分が罪を犯しながらもなお神に仕えているのだと考えている者に、彼が罪人であると教えるのは不可能なことである。このような人だけでなく、一般的にいってその人が罪人であるなどということを知らせることは困難なことである。
ところが、聖霊が臨まれると「世の人の目を開く」(8)。
@罪の根源はイエスを救い主と信じないこと(9)。
A義について目を開くとは、イエスが復活し、昇天し、彼が正しい神の子であると確認されること(10)。
Bさばきについては、この世の君主がイエスをさばいたのは間違いで、逆に主が彼らをさばくと知らせること(11)。
人が罪人であると心の底から分かるのは聖霊の働きである。それが分かれば救いへの道は近い。聖霊のお働きを祈りたい。
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ヨハネ十六章12〜15節(13)
《けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。》
聖霊が来られると、世の人(罪人)に罪を自覚させる(8)。ところが信者に聖霊が働きかけると「あらゆる真理に導いてくれる」。
真理とは十四章6にあるように、イエスご自身である。それは客観的な科学的真理のことではない。イエスが真理だというのは、人格的真理のことで、彼こそ真に信頼できる方であるという意味である。
私たちは、頭でキリスト教はよいものだなどと分かっただけでは信仰があるとは言えない。そこに信頼の関係が生まれてこないと、キリストを信じたことにはならない。
さて聖霊が働かれると、私たちの心の中に主イエスが大きく映し出されてくる。このお方に頼って歩む人生に間違いがないと分かり、それを体験する。それが真理に導かれる人生である。
信仰は成長すればするほど、自分が高くなるのではなく、イエス様がますます分かってくる。だから「三珠は私のものを受けて知らせる」というのである。
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