聖書日課

 

 

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30

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1999年 9月1日(水)

 使徒十五章30〜41節(40)

《パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。》

 

 エルサレム会議の決議文(23〜29)はアンテオケ教会にも伝えられ、異邦人の多いこの教会員はそれによって励まされた。

 間もなくパウロとバルナバはガラテヤの諸教会を再訪問しようと話し合ったが、パウロはマルコを連れていくことに反対した。そのことで二人の間に激論があり、結局分かれることになった。

 これを簡単に信徒間の喧嘩と見てはならない。マルコは生粋のエルサレム生まれで、祭司の家系の者と言われ、主の最後の晩餐の場所を提供したとも言われる。彼にはユダヤ的色彩が豊かにあったはずである。それを非難することはない。だからマルコが伝道チームから離脱しエルサレムに帰ったのも(一三章13)、パウロの異邦人伝道に疑問を持ったからではなかろうか。

 第二伝道旅行に際して、パウロがマルコを連れて行きたくなかったのは人間的好き嫌いではなく、伝道方針によるものと思われる。後の手紙を見ると彼等の間には何のわだかまりもない。 いずれにせよ、両者とも「兄弟達から主の恵みにゆだねられて」それぞれ伝道に出発したのである。福音はそれぞれに委ねられている。

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1999年 9月2日(木)

 使徒十六章1〜10節(10)

《パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。》

 

 ガラテヤの諸教会の訪問後、パウロはアジアでの伝道を計画していた。

 ところが聖霊はそれを禁じた。アジアとはエペソ市のことである。彼らは方向転換して北方のムシヤに行こうとすると、その方面も許されないという。 なぜ聖霊が伝道を止めなさるのか私にはよく分からない。いずれにせよ何らかの事情でこの度の計画は中止することになった。後になってアジアの伝道がされたのだから、神さまは別の時を備えておられたのである。

 やがて彼はトロアスに来た。そこでマケドニア人の幻を見たのである。研究者ラムゼーによると、この人物はルカであるという。ルカがこの町へ来ていてパウロと出会ったのではないだろうか。

 ルカはマケドニアのピリピの人である。幻というと夢のような感じで、それを頼りに物事を決めるのはどうかと思うが、幻の人物がルカなら、彼の町の伝道ならと真剣に考えたに違いない。 これまでの経緯を考えて祈り、パウロは「神がお招きになったのだと確信した」のである。道が閉ざされたり開かれたりする中で神の導きがある事を覚えたい。

 

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1999年 9月3日(金)

使徒十六章11〜24節(14)

《ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。》

 ピリピでパウロ一行はまずは祈り場を探した。普通彼等はユダヤ人の会堂へ行くのを常としたが、ユダヤ人の人口が少なくこの町には会堂はなかった。それで祈り場を川辺にした。全ての働きは祈りをもって始めることがよい。 パウロはすぐに伝道を始め、ルデアという婦人を導いた。彼女の出身地はアジアのテアテラ市である。かつてパウロはアジアで伝道しようとしたのに聖霊に禁じられた。それなのにピリピでの最初の実がアジアの人であるとは、不思議な巡り合わせである。「主は彼女の心を開かれた」。

 次にパウロは占いの女性を救いに導いた。彼女は「救いを伝えるかた」と叫びながらパウロの後を追った。この人が救われ占いをしなくなったため、主人はパウロを訴えた。長官はパウロが認可されてない宗教を広めているという理由で投獄したのである。

 聖霊に導かれてピリピへ行き、其処で導いたのがアジア人、また占いの女性を導いたため投獄されるとは、何のための導きかと思われる。しかし、彼等がピリピに来たのは神が備えた人々が救われるためであった。

 神の不思議な導きをそのまま受け止めたい。

 

 

 

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1999年 9月4日(土)

 使徒十六章25〜40節(31)

《ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。》

 

 投獄されたパウロとシラスは真夜中に賛美を始めた。むち打たれた体で祈りをした。その時地震が彼等を襲った。 古代の日干し煉瓦の建物はもろく倒れやすい。パウロ達は死を覚悟したのではなかろうか。その中で神は彼等を保護された。

 囚人が逃亡したと思った牢番は、責任を感じて自殺しようとした。人は仕事が十分でないと分かった時自殺を考えるものである。しかしパウロは自殺を思いとどまらせ「主イエスを信じなさい。そうしたらあなたもあなたの家族も救われる」と話した。

 地震の瓦礫の中でも福音を伝え、人々は救われる。31節の御言は多くの人が励まされる聖句である。一人だけで教会に来ている人が多い。しかしこの約束の言葉は、私達にとって慰めではないか。

 コリントの信徒達には自分の伴侶が信仰を分かってくれないので、いっそのこと離婚しようかと考えた。これに対してパウロは、信徒を通して神の祝福は家族に及ぶのだから、離婚してはならないと教えた(Iコリ七章14)。 一人が救われるなら、その人を通して家族全体に神の恵みが届けられる。

 

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1999年 9月5日(日)

 使徒十七章1 〜15節(11)

《ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。》

 パウロたちはピリピからテサロニケへ移動しここで三週間伝道した。聖書に基づいてイエスがキリストであると語ったのである。その結果多くの人々が救われた。ところがそれに反対したのがユダヤ人で、パウロはカイザル皇帝のほかにイエスという王を拝んでいる、と市当局に訴えクリスチャンを迫害した。訴えた者達の「天下をかき回してきたこの人たち」という言葉は、パウロ達の伝道による社会的な影響が、どれほど大きいものであったかをよく表している。弾圧は激しくパウロはベレアへ移った。ここでも多くの人々が福音を信じ救われたのである。この二箇所での伝道について気がつくのは、パウロは福音を聖書にしたがって語ったのであり(2)、人々も「日々聖書を調べた」のである(11)。クリスチャンは聖書に基づく者である。信仰の成長も御言葉を読むことが重要である。毎日聖書を読むなら必ず成長する。また、ヤソンという人について驚く。彼はほんの一ヶ月程度の信仰生活をした人である。その人がパウロのために保証金まで払って彼等の弁護をしたのである。救いの恵みが真に身についているなら、福音のために真剣になる。初代の教会はそのような信徒によって守られたのである。

 

 

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1999年 9月6日(月)

 使徒十七章16〜34節(30)

《神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。》

 アテネ伝道の様子が記されている。ここは哲学の町である。思想を深めるのはよいことだが、ここの人々は「何か耳新しいこと」を探しているに過ぎなかった(21)。おもしろ半分で人生を送っている人もあるようだが、ほとんどの人間は真剣なのではないだろうか。パウロはそれでも福音を語った。ユダヤ教の会堂で話す場合は、聖書からの話が普通であったが、ここでは聖書など知らない人々なので、パウロは造り主なる神を話した。自然のすばらしさ、人間そのものの不思議などを調べて、その背後に神がおられることを知らせる伝道の仕方がある。パウロはそのように伝道した。ところが珍しいことのみ求めていたギリシャ人は、「いずれまた聞く」と言って福音を受けいれなかった。「求めなさい、そうすれば与えられる」と約束した主は、豚に真珠は与えるなとも言われた。このような人々にも「熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さる」とパウロは語り、悔い改めて神を信じるように勧めたのである。真剣に生きている人もいるのだが、現代はアテネの人々のように、今の時だけを楽しめばよいと言うような生活をしている人も多いような感じがする。私達は混乱している時代にあって、知恵を用いて福音を証ししなければならない。

 

 

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1999年 9月7日(火)

 使徒十八章1〜17節(10)

《あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」。》

 パウロはアテネからコリントへ向かった。その時彼は不安だった(Iコリ二章3)。それはテサロニケ教会のことが心配であったし、アテネでの伝道もあまりよい結果ではなかったからだと思われる。コリントには多様な民族が集まり、文化程度は高く、商業都市でもあった。しかし多くの偶像の宮とそれを取り巻く神殿売春のために、コリントは罪の多い町と言う評判になっていた。それでもパウロは伝道した。8節に「ぞくぞくとバプテスマを受けた」とあるように、すばらしい伝道の実が与えられた。なぜそのようになったのだろうか。

 第一に、パウロが「この町には、私の民が大勢いる」のみ言葉を確信して、伝道したからである。どんなに時代が悪くても、多くの人々は救いを待っている。第二に、福音を率直に語ったからである。第一コリント二章2節には、十字架以外には語らないと言っている。私達も「キリストを信じるなら救われる」と、はっきり語らなければならない時がある。第三に、しっかりした助け手がいたことである。プリスキラ、アクラ夫妻は天幕造りをしてパウロを助けた。一方、シラスはマケドニア(ピリピ)から、愛の献金を届けた。もちろんコリントの人々は重要な働きをした。第四に、ガリオがユダヤ人の訴えを取り上げなかったからである。 福音のために共に力を合わせよう。この町にも多くの神の子がいる。

 

 

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1999年 9月8日(水)

 使徒十八章18〜28節(27後半)

《彼は到着して、すでにめぐみによって信者になっていた人たちに、大いに力になった。》

一年半のコリントの伝道は多くの実を得、パウロ達はシリアのアンテオケに帰えり、第二伝道旅行は終わった。さて、パウロのエペソ伝道の前、アポロの伝道が記されている。アポロはアレキサンドリア出身で、学識があり雄弁な伝道者であった。彼はイエスについて語っていたが、何か信仰の理解に不十分さがあった。それは彼が「ヨハネのバプテスマ」しか知らなかった点である。つまり彼はヨハネが教えた悔い改めを説いたが、イエスの十字架と贖いについて、十分な理解がなかったのであろう。悔い改めは大切である。しかし罪の赦しがなければ、ただいたずらに心を苦しめることになる。主イエスの十字架と復活には、誰も提供することの出来ない救いの福音がある。

 アポロの欠けに気づいたプリスキラとアクラは、公に非難したり陰口を言ったりせず、彼を自分の家に招き入れ、個人的に福音の真髄を懇切に語ったのである。信徒の立場でありながら、彼等の態度は立派である。後でアポロがアカヤ(コリント、アテネ地方)へ行こうとしたとき、紹介の手紙まで書いている。このような対応を受けたアポロもその話を受け容れる謙遜な伝道者であった。それ故に、彼は「信徒になっていた人たちに、大いに力になる」人物になったのである。神は謙る者を変えて下さる方である。

 

 

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1999年 9月9日(木)

 使徒十九章1〜7節(2)

《彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。》

 パウロがエペソへ来て「あなたがたは信仰に入ったときに、聖霊を受けたか」と尋ねた。これに対して彼等は「聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。これにはパウロも驚き、バプテスマは誰の名によるのかと尋ねると、ヨハネの名によると言う。ヨハネは悔い改めを語り洗礼を授けた。

 パウロはこれでは不十分と思い、イエス・キリストによる救いを語る必要を感じたようである。罪を悔い改めるだけでは救いは与えられない。イエス・キリストによる罪の赦しが大切である。それはキリストの十字架による。そのキリストは復活し、信じる者に聖霊を与えた。だからキリストを信じることによって、罪の赦しと聖霊を頂くことが出来るのである。おそらく以前伝道していたアポロは、イエスの十字架による救いの意味と、ペンテコステの日に弟子達が聖霊を受けたことを知らなかったのではなかろうか。私達は、聖霊のお働きによって人は生まれ変わると信じる(ヨハネ三章5以下)。

 パウロの勧めを受け容れた一二人の者達は、イエスの名によるバプテスマと聖霊を受け新しい人となった。彼等は後のエペソ教会の土台の人となったのであろう。

 

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1999年 9月10日(金)

 使徒十九章8〜20節(10)

《それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた。》

 パウロの伝道において、一箇所で一番長い期間を用いたのはのはエペソで、三年近くを費やした。エペソはアジヤ州の中心である。ここはアルテミスの偶像などで世界に知られており大都市であった。此処でパウロは多くの奇跡的なことを行っている。それには理由がある。パウロの伝道を振り返って見ると、初期の頃はユダヤ人との抗争が多かった。イエスが神の子であり、救い主であることを、ユダヤ人は受け容れたくなかった。それで彼等はパウロを迫害したのである。

 しかしエペソでは事態は少し変わっていた。パウロは偶像など異教と対立するという状況に置かれていたのである。異教徒達は、さまざまな不思議と見えることを行い、それによって一般民衆を引きつけていた。当時、魔術師がそのようなことをするのは、ごく普通であった。そのような中で、パウロはイエスによる業をしたのである。それは異教徒達の向こうを張って、競争しようとしたのではない。「ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように」という彼の考えがあったものと思う。しかしパウロの働きが異教徒と決定的に違う点は、福音は人を罪から救うと言うことである。それ故に人々は魔術の本などを焼き捨てたのである。私達は福音の真髄をとらえていなければならない。

 

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1999年 9月11日(土)

 使徒十九章21〜41節(37)

《諸君はこの人たちをここにひっぱってきたが、彼らは宮を荒す者でも、われわれの女神をそしる者でもない。》

 エペソにおける伝道はアジヤ州全体に及ぶものであって、その影響ははかりしれない。この町での三年間におよぶ伝道の結果、黙示録二、三章にある七つの教会は生まれたのである。

 さてパウロの伝道によって、この町の中心的な偶像アルテミスでは、神殿の模型が売れなくなった。この関係者にしてみればひどい損害であり、自分たちの威信に関わることであった。それで反対者は、人々を煽動してパウロを殺そうとした。この混乱を見て、パウロはキリスト教について弁明しようとしたが、あまりにも危険が大きいので友人は彼を止めた。その時、市の役人は騒ぎを静めるため介入した。それは騒乱罪でローマ当局からとがめられるのを恐れたからである。

 役人は、「彼等は宮を荒らすものでも、われわれの女神をそしる者でもない」と言った。それはパウロの意図することでもある。確かにパウロは偶像を非難したりしていない。ただキリストの福音は何なのかを示したのである。その結果人々が女神の偶像を離れたに過ぎない。私達が福音を語るとき、何かを非難したり、そしったりする必要はない。ただ良いこと、正しいこと、自分が信じて心が変えられたことを話せばよいのである。それが証しである。

 

 

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1999年 9月12日(日)

 使徒二〇章1〜12節(2)

《そして、その地方をとおり、多くの言葉で人々を励ましたのち、ギリシヤにきた。》

 パウロがエペソで伝道している間に、エーゲ海ををへだてた西のコリント教会では分裂騒ぎが起こっていた。このことでパウロは心を痛め、エペソから短期の訪問したのである。しかしコリントの人々は彼の忠告を聞かず勝手な行動をしていた。それでテモテを派遣したが彼も拒否された。困ったパウロは、次にテトスを遣わした。幸いなことにテトスの働きによって、コリント教会の状況は好転した。

 三年間のエペソ伝道が終わり、騒ぎも止んだので、パウロはマケドニヤのピリピへ行きそこでテトスの報告を待っていた。2節の「マケドニヤへ向かった」と言うのは、パウロがテトスに会うためであった。このあたりのことは、第二コリント七章5説以下に書いている。テトスは教会の問題が解決の方向に進み始めたことをパウロに報告した。彼はかつて苦労して伝道した教会が、信仰を取り戻したのを知り、どんなに喜んだことであろう。この箇所にはいくつか「慰め」「励まし」などの語がある(1、2)。7節以下には、集会中に三階から落ちた青年の記事がある。彼は死んだと思われたのに息を吹き返し、みんなは慰められた。これも「慰め」のメッセージである。激しい戦いをする人も、病気の人も慰めが欲しいのである。

 

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1999年 9月13日(月)

 使徒二〇章13〜21節(19)

《すなわち、謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた。》

 ピリピでテトスに会った後、しばらくしてパウロはコリントへ行き(2)、三ヶ月滞在する。その期間中ローマ書を書いた。やがてコリントからエルサレムに向けて旅行をする。その途中諸教会の代表者を集め(4)、教会の献金を集めるのである(第一コリント 一六章1〜3)。このようにするのは、異邦人教会と母なるエルサレム教会がしっかりと交わりを持つためであった。教会の信徒の交わりは大切である。それは教会という共同体でこそ、信仰は育てられ、愛の実践を学ぶことが出来るからである。愛することが難しい人が教会にいるなら、信仰なしには愛することが出来ないことを学ぶのである。聖霊によらなければ、愛は生まれてこないことを知るべきである。

 さて、パウロは途中ミレトへエペソ教会の長老を招き、これが最後であろうと思い告別説教をした。最初の部分で、パウロの伝道精神を語っている。@謙遜をもって伝道したこと。A涙を流すこと。情熱を持つことである。さめた心では伝道は出来ない。B伝道ゆえに、試練がくることを覚悟すべきこと。そして、C公的にも私的にも証しすることである。このようにしてエペソのような教会が生まれたのである。

 

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1999年 9月14日(火)

 使徒二〇章22〜27節(24)

《しかし、わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。》

エペソ教会の長老への説教は教会のリーダーへのものである。福音を伝える者の精神やメッセージの内容など、学ぶべきことが多くある。今日の箇所にも、伝道者の精神が語られている。

 第一に、聖霊に導かれて人生を歩んでいることが顕著である。パウロは行く町々で、聖霊は苦難が襲うと告げられた(23)。苦難について繰り返し語られる中で、彼はそれこそ聖霊のメッセージだと受け止めたのであろう。私達は聖書を読む中で、心に強い響きを受けることがあるが、それが聖霊の語りかけと受け止めてよいのではなかろうか。

 第二に、パウロは福音を証しする事が自分の使命であると述べている。これは「主イエスから賜った」ことである。ダマスコへの道で回心したパウロは、「あの人は、異邦人たち、王たち、イスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である」(九章15)と告げられた。この言葉は生涯、彼の心に留まっていたのではないだろうか。この使命を救い主から託されたこととして光栄に思い、彼は命を懸けたのである。私達は一体何のために生きているのだろうか。主イエスから何を受けているのだろうか。

 

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1999年 9月15日(水)

 使徒二〇章28〜38節(32)

《今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。》

 

 教会のリーダーへのメッセージである。役員であってもなくても、少しでも信仰生活をしている者は「神の教会」に仕えている者であるという自覚を持つべきであろう。

 さてここに「長老」に対する勧めがある。@自分自身に気をつけなさいと教えている。他人を信仰に導きながら、自分の信仰の成長を省みなければならない。第一テモテ四16には、自分のことと教えについて気をつけよ、そうすれば教えを聞く者と自分とを救うことになる、と注意している。

Aまた、この人々は神の教会を主から委ねられた者である。したがって群全体に気を配り、群を牧する務めがある。リーダーは全体への配慮がなければならない。何をするにしても、腰軽く動くようでなければならない。

Bまた、外敵のおおかみに注意しなければならない。オオカミが羊を食い荒らすように、敵は違った教えや生活をするように襲う。現代には教会関係の中にも、一般社会にも人々の魂の求めにつけこみ、祝福ではなくその人を駄目にするものがたくさんある。

 また、御言葉への信頼を教えている(32)。聖書こそ信仰の建て上げをするのである。最後にお互いの愛の交わりを勧め、もらうことではなく、上げることをしなさいと言う。

 

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1999年 9月16日(木)

 使徒二一章1〜14節(13)

《その時パウロは答えた、「あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ」。》

 パウロの一行はツロに入港した。積み荷を降ろす間、彼等はその地の教会を訪ねた。パウロのことは既に知られていて、一週間の交わりを持った。いよいよお別れの日が来たとき、ツロの信徒は、反対者に捕らえられるからエルサレム行かないようにと勧めたが、パウロの決心は変わらない。それはパウロが異邦人教会とエルサレムのユダヤ人信徒達が、交流を持ち一致した信仰を持つことが重要だと考えていたからである。ツロを出港するとき、大人だけでなく子供まで祈りに加わり、見送ったのは美しい光景である。

 ツロからトレマイ、カイザリヤへと船は進んだ。カイザリヤには有力なリーダーとしてピリポの娘やアガボがいた。彼等もまたパウロのエルサレム行きの中止を勧めた。しかし彼はそれを退けた。パウロは、私の心をくじかないで欲しい、死を覚悟しているのだから、と言う。福音の宣教が前進するのは、パウロのように命を懸けた人の働きがあり、それを支える人々がいるからである。

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1999年 9月17日(金)

 使徒二一章15〜26節(19)

《パウロは彼らにあいさつをした後、神が自分の働きをとおして、異邦人の間になさった事どもを一々説明した。》

 パウロたちはエルサレムに到着し、教会の代表的な人物ヤコブを訪問した。彼はエルサレム教会の人々に、同行の信徒達を紹介し、捧げられた献金を手渡したであろう。そして各地での主の御業を話すと、皆は神を賛美した。これまでも、パウロは伝道旅行の報告をエルサレムにしていたが、この度の訪問は重要な意味があった。それはユダヤ教との関係を調整することであった。パウロについての誤解が広まっていたからである。

 エルサレムのユダヤ人クリスチャンの間では、パウロがユダヤの子供に割礼をしなくてよいとか、ユダヤの慣例を守らなくて良いとかと教えているという、間違った噂が広まっていた。命がけで伝道しているというのに、こんな噂が伝わるのは困ったことである。

 それで、パウロは長老達の勧めに従い、ユダヤの習慣の一つ「誓願」に立ち会うことにしたのである。誓願が明けた日、頭髪を剃る儀式をするが、ちょうどその時期に当たっている四人がいたので、パウロはその人々のために費用を出し、自分が立派なユダヤ人であることを証ししようというのである。パウロはユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように対応して、彼等を救いに導こうとした。彼は愛の決断をして、人々を救いに導こうとした。私達の周りには多様な人々がいるが、それに応じた対応をして福音を証しする知恵を持つべきであろう。

 

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1999年 9月18日(土)

 使徒二一章27〜40節(39)

《パウロは答えた、「わたしはタルソ生れのユダヤ人で、キリキヤのれっきとした都市の市民です。お願いですが、民衆に話をさせて下さい」。》

 パウロが誓願の儀式に立ち会う最後の日になった。その日、アジア州・エペソのユダヤ人が神殿内のパウロを見つけた。彼等はパウロがかつてエペソで伝道していたのを知っていて、その影響があまりにも大きいので、苦々しく思っていた。この連中はパウロに難癖を付けようとしたのである。それでトロピモという異邦人のことを引き合いにだして、パウロが神殿を汚したと言い、暴動を起こして彼を殺そうとしたのである。

 この騒ぎを聞きローマの千卒長らがかけつけ騒乱を静めた。ローマ兵は都市での騒ぎを一番恐れていた。何故なら民衆を取り締まれなかったら、皇帝から処罰されるからである。

 さて、このような騒ぎの中で、パウロは自分がタルソの市民であることを千卒長に話した。この場合ローマ兵は彼を大切に扱う責任がある。市民を不当に傷害にあわせてはならないのである。そこでパウロは「民衆に話させて下さい」と願い出、千卒長は許可した。大変な危険状態の中にもかかわらず、命がけのパウロは、機会をとらえて同胞に福音を証ししたのである。驚くような勇気である。 

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1999年 9月19日(日)

 使徒二二章1〜16節(15)

《それはあなたが、その見聞きした事につき、すべての人に対して、彼の証人になるためである。》

 パウロはユダヤの民衆に対して弁明を始めた。この暴動はパウロが律法を破っていると言う誤解からであったため、彼はどのような経歴の者であるかを語っている。ガマリエルという有名な律法学者のもとで学び、律法を厳しく守っている者であることを強調している(3)。また彼をキリスト教に導いたアナニヤも、律法に熱心な者であることを語っている(12)。しかもキリスト者を迫害した者である。

 しかしパウロが続いて述べているのは、彼がイエスに出会ったことである。ダマスコへの道で、イエスにで出会ったので彼の人生は全く変わり、福音を伝える者となった。パウロは、アナニヤが自分に語った言葉を民衆に伝えている。すなわち、@義人(キリスト)を見るようにされたこと(14)、Aこのキリストを証しすること(15)、B罪を悔い改めて、バプテスマ受けること(16)である。アナニヤがこのように語ったと言いながら、パウロは民衆に福音を伝えている。

 パウロは伝道するのにしたたかで、知恵を用いている。千卒長から許可を受け、自分の身の上を話しながら、迫害者に伝道する。それは彼がすばらしい福音を主から受けたからである。救いの体験があるなら、どのような形でも、自分が信仰によってどのように変わったかを話せばよいのである。相手が信じるか否かは、相手が決めることである。

 

 

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1999年 9月20日(月)

 使徒二二章17〜30節(21)

《すると、主がわたしに言われた、『行きなさい。わたしが、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ』。》

 パウロは続いて自分の証しをする。話は途中で遮られたが、それはパウロが異邦人伝道に遣わされたと話したときである。ユダヤ人はローマ帝国内で住んでおり、それぞれの町で会堂を建て、異邦人もユダヤ教に改心していた。だからパウロが異邦人に伝道したからと言って、憎むわけではない。しかしパウロを憎んだのは、彼が異邦人は割礼などを受けなくても救われると教えたからである。それでユダヤ人達は大騒ぎを起こした。同胞からこんな反対をされては、パウロはどうしようもない。しかし彼は命がけであった。騒ぎは大きくなり、人々はヘブル語でわめくので、千卒長は本当のことが分からなかったのだろう。パウロを逮捕し、むち打ちの拷問をして、暴動の真の理由を知ろうとした。ところがパウロがローマ市民だと言うので千卒長は驚いた。むち打ちは出来ない。ローマ市民には弁明の時を与えなければならない。それで軍隊の保護のもとで、弁明という方法で、ユダヤ議会において福音を語るのである。「どうにかして福音を伝える」というパウロの生き方を私達も受けとめたい。

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1999年 9月21日(火)

 使徒二三章1〜11節(11)

《その夜、主がパウロに臨んで言われた、「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」。》

 民衆に対する弁明では十分でなく、むしろ混乱に終わった。正式な弁明の場はユダヤ議会であるから、パウロは七〇人議会に呼び出された。議会は多数のサドカイ派と少数のパリサイ派から成っていた。復活について、パリサイ派は信じたがサドカイ派は信じないので、議会を操作しようと思ったのであろうか、パウロは「死人の復活のことで裁判を受けている」と話し始めた。彼がこのような話をしたのは、単にパリサイ派の信条を議論するためではなかっただろう。イエス・キリストの十字架と復活について語るための、前段階だったに違いない。ところがパリサイ派の議員達は、パウロの立場を支持して、彼の無罪を主張した。当然サドカイ派はこの考えに対立し、パウロの事はそっちのけで、両派は激しい論争になった。危険を感じた千卒長はパウロを保護した。

 その夜、パウロは「エルサレムで証ししたように、ローマでも証しをする」と主から告げられた。彼の願いは、弁明して無罪を勝ち取ることではない。裁判という方法でユダヤでは国の指導者に、ローマでは皇帝を始め高位の人々に福音を伝えたかったのである。そうでもしなければ、これらの人々には近づくことなど出来ない。その夢を持っていたパウロを、主は励ましたのである。

 

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1999年 9月22日(水)

 使徒二三章12〜35節(24)

《また、パウロを乗せるために馬を用意して、彼を総督ペリクスのもとへ無事に連れて行け。》

反パウロのユダヤ人は、議会が彼の死刑判決を出すものと期待していたのに、議員の分裂という意外な結果になったのに腹を立て、四〇人の暗殺団を結成した。議会での再調査と見せかけ、その途中で殺そうと計画したのである。

 ところが不思議にも、その陰謀がパウロの甥の耳に入り、千卒長に伝えられることになった。結局、パウロは二百の歩兵、七十の騎兵、二百の槍兵という大がかりな護衛をつけてもらって、パレスチナの総督府カイザリヤへ行くことになった。千卒長は騒動を恐れただろう。あるいは早く総督に手渡したかったのかも知れない。パウロがローマの市民なので、法に従って保護したのかも知れない。パウロは何も頼んだ訳ではないのに、必要な守りの手が伸べられた。このようなことになったのは、ただ神のみ手の介入があったと思うばかりである。それは、「ローマでも証しする」と言われた神の意志による。人には大切な人生の使命があるが、それを果たすまでは死ぬことはないと、私は信じている。

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1999年 9月23日(木)

 使徒二四章1〜9節(5)

《さて、この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります。》

 ユダヤ当局はパウロを訴えるため弁護人テルトロを立てた。彼は総督にお世辞を言った後、パウロの罪を並べた。第一に、ペストのように社会に悪影響を及ぼす者である。これは彼に対する倫理的な攻撃である。第二に、パウロはナザレ人の異端の頭領である。ナザレ人とはイエスのこと。これはイエスが死刑にされた犯罪人であることを強調するためである。第三に、神殿を汚そうとしている。これはローマ公認の宗教を、パウロが破ることになると言うこと。このようにパウロの人柄と教えとを非難したのである。

 信仰について、それが正統的であるかどうかを知るには、いろいろな点が問われる。一つは、その信仰が人間の生き方について、究極的なものは何かを問うているかどうかである。第二は、倫理的に高いものを求めようとしているかどうかの点である。キリスト教が始まった頃、これに対抗していた宗教に密儀教があった。しかし後に密儀教は衰退したが、その理由の一つは肉欲的で低い倫理観を持っていたことである。

 疫病のように言われたのは、彼の人柄をけなすことであった。しかしそれは彼自身の生き方を見れば分かる。ペテロは、キリストを信じて良い生活をしていても、そしる人々がいると言う(Iペテロ三章16)。神を仰ぎ正しい証しになる生活をしていよう。

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1999年 9月24日(金)

 使徒二四章10〜21節(21)

《ただ、わたしは、彼らの中に立って、『わたしは、死人のよみがえりのことで、きょう、あなたがたの前でさばきを受けているのだ』と叫んだだけのことです。》

 総督のうながしに従ってパウロは弁明し、テルトロの疑問に次のように答える。

 第一に、「騒乱」の原因を作ったという疑惑について特に丁寧に話す。それは総督がこの点を一番気にしているからである。即ち、彼がエルサレムに来たのは礼拝のためであって、暴動を起こすためではない。パウロは誰かと論争したことはなく、群衆を煽動したこともないと言う(12)。

 第二に、異端と言われる道の者であると認めつつも、実は自分は旧約聖書の教えを、真実に求めている者であると強調する(14)。

 第三に、宮を汚そうとしていると言う訴えに対しては、同胞への施しと供え物をしていたのだと答える(17)。

パウロの答えを見ると次のことが分かる。クリスチャンはユダヤ人が信じている同じ神を信じている。しかし一般のユダヤ人との違いは、イエスをメシヤと認める点である。その重要点は復活である。ここにはイエスと彼の復活についてははっきりと述べていないが、「復活のことで裁判を受けている」の言葉は、イエスのことを指している(21)。彼の弁明はここで終わっていいる。総督にはそれで十分であった。このようにしてパウロは高位の人にも福音を証ししたのである。

 

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1999年 9月25日(土)

 使徒二四章22〜27節(25前半)

《そこで、パウロが、正義、節制、未来の審判などについて論じていると、ペリクスは不安を感じてきて、言った》

 ペリクス総督は、キリスト教とユダヤ教の関係をかなり知っていたので、騒乱の問題がなければパウロを罪に定める考えはなかった。しかし大祭司側にもいい顔をしたかったので、決着を先延ばしにした。その後、彼は妻と共にパウロを訪ね、イエス・キリストについて聞いている。当時ローマ政府は、高官達は他民族の宗教を信じないようにという方針であった。皇帝への忠誠心が損なわれないためである。だからペリクス夫妻がキリストを信じたいために、パウロを訪ねたのかどうかは分からない。しかし機会を得たパウロは福音を語るのに真剣である。「正義、節制、審判」について話すと、罪ある自分を知っているペリクスは不安になった。ペリクスは情欲的でしまりのない者であったので、正義とか神の審判については聞きたくなかったのであろう。人は信仰について話すとき、さまざまな議論をするが、自分自身の内的な核心に触れると、それから逃げ出そうとする。パウロとの話は打ち切りとなり、会話は裁判を都合よくするための賄賂の話となる。汚い人間は何処までも汚い道を求める。シュラッターは総督が大祭司側とパウロ側の両方から賄賂を取ろうとしたのではないかと言っている。

 

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1999年 9月26日(日)

 使徒二五章1〜12節(11前半)

《もしわたしが悪いことをし、死に当るようなことをしているのなら、死を免れようとはしません。》

 友人達に世話をするようにと言うペリクスの意向があったので、パウロの周りには自由に友人の出入りがあっただろう。しかしカイザリヤ監禁の二カ年、パウロはどんな思いを持って日々を過ごしただろうか。主の時を待っていたのであろう。

 総督はフェストと交代した。ユダヤ人は新総督にもパウロの訴えを出した。彼等はこの裁判がエルサレムで行われるように申し出たが、それは途上、パウロを暗殺する計画だったのである。パウロは既にその事を察知しており、むしろローマでのカイザルによる裁判を希望した。市民権を持つ者はその権利があった。カイザル上告の申し出は、彼が暗殺を恐れ、延命を願ってのことではなく、皇帝による直接裁判という方法によって福音を伝えたかったからである。「ローマでも証しをする」(二三章11節)の主の約束が、このようにして実現するとは不思議である。カイザルの法廷に立ったパウロは、むしろローマによって守られた。

 

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1999年 9月27日(月)

 使徒二五章13〜27節(18)

《訴えた者たちは立ち上がったが、わたしが推測していたような悪事は、彼について何一つ申し立てはしなかった。》

 フェストの就任は六〇年であったと言われる。彼の就任祝いのためアグリッパはカイザリヤへ来た。この人は使徒一二章1節のヘロデ(アグリッパI世)の子で、アグリッパII世と呼ばれる。ベルニケは彼の妹である。彼はローマの許可のもとに、パレスチナのかなりの部分を支配していた。談話の間、フェストはこの二人の客にパウロについての経緯を話した。フェストにしてみれば、ユダヤ人の歓心を得るためには死刑にしたいのだが、パウロには罪がないから(18、25)死刑判決を出せないというジレンマに陥っていた。ただ、パウロの上告によってローマ行きのことは決定していた。しかしフェストの問題は、上告理由の書類を作成しなければならず、それが宗教のことだけに困惑していたのである。

 ちょうどこの時アグリッパが来て、自分も審問してみたいと申し出たのである。彼の父は以前教会の指導者ヤコブを処刑した(使徒一二章)。また祖父も幼子イエスを殺そうとした人である。このような関係があったので、パウロについても関心を持ったのであろうか。フェストはこの審問で、関係書類を作ろうとしたのだろう。いずれにせよパウロはローマで福音を証しすることになる。「異邦人、王達にわが名を伝える」という約束が不思議な導きで実現している。

 

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1999年 9月28日(火)

 使徒二六章1〜 18節(18)

《それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである。》

 アグリッパの前での弁明は、これまでのパウロの証しと概略は同じである。少し違う点があるとすれば、彼が厳格なユダヤ教徒で、キリスト教徒を激しく迫害する者であった点を強調していることである。言葉の表現が少し違うのは、私達の証しでも起こるのと同じである。パウロは自分のように神逆らい、善良な人々を迫害するような者が、復活のキリストに出会って、これまでとは全く違った道を歩むようになったのは神の限りない恵みによるのだと語る。アグリッパがユダヤ教のこと、キリスト教のことはある程度知っていたので、パウロはかなり突っ込んだ話をしている。

 15〜18節で使徒は、主が自分に語られたことを語っているのであるが、その内容はアグリッパ王に向けて語っている。即ち、パウロが神から委ねられた働きは、人々の「目を開き、闇から光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、彼等が罪の赦しを得る」ようにすることだと強調する。王自身もこのようになって貰いたいと言いたいのである。これは弁明なのか説教なのか分からない。しかしパウロはそれをねらっていた。

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1999年 9月29日(水)

 使徒二六章19〜32節(28)

《アグリッパがパウロに言った、「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」。》

 パウロは最後の部分で、人々に悔い改めと信仰を勧めたと述べ、キリストの十字架と復活の救いを伝えた語り、弁明を終わった。ユダヤ人による騒動と千卒長による逮捕の事情を話すのに、パウロが自分の証しをしたのは、それによって説教しようとしたのである。フェストとしては、皇帝裁判の書類を作るはずであったのに、それとは違う趣旨の話を聞いたので、いらいらしたのであろうか、「博学が気を狂わせた」と怒鳴った。これに対してパウロは、「まじめな話をしているのです」と答え、さらにアグリッパに対しては、「預言者を信じているのではありませんか」と問いかける。こう質問したのは、彼がもし預言者を信じるといえば、それなら旧約聖書に約束されたメシヤを信じるべきではないか、と勧めただろ。もし信じないと言えば、ユダヤ人に嫌われる。だからアグリッパは答えに窮した。せっぱ詰まった彼は「わたしをクリスチャンにしようとするのか」と返した。誰が審問しているのか分からない。立場は全く逆転している。福音のメッセージは人々に決断をせまるものである。パウロのメッセージにはそのような気迫があった。

 

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1999年 9月30日(木)

 使徒二七章1〜26節(25)

《だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。》

使徒行伝には「わたしたち」という箇所が数カ所ある。この複数形には本書の著者ルカが含まれているので、遭難の状況は詳しく書かれている。以前コリントでローマに手紙を送った時、パウロはローマ行きの希望を熱い思いで書いた(ローマ一章10、一五章22以下)。それがいよいよ実現するのである。

 さてパウロ一行は百卒長に護衛されローマへと出航した。途中、地中海の真中に位置するクレテ島の「良き港」に入港した。この港の少し西のピニクスへ移動しようとしたとき、パウロは自分が難船した経験もあったので、危険な断食期(十、十一月頃)の出帆を延期するよう進言したが、百卒長は船長の意見を取った。果たせるかな、暴風のために大難船となった。二七六人の命が助かる見込みもなくなり、恐怖に襲われた時、パウロは「皆さん元気を出しなさい」と励ました。思い通りに行かないとき、私達はどのように対処するだろうか。誰彼の責任だと考えやすい。あるいは意気消沈してしまう。晴れの時には元気がよいが、嵐が来ると悩む弱い者である。このような時「元気を出しなさい」と主は語って下さる。わたしたちは、「心配しないで!」と励ます者になりたいと思う。  

 

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