聖書日課

 

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使徒28章1〜10

使徒28章11〜31

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ローマ1章8〜17

ローマ1章18〜32

ローマ2章1〜16

ローマ2章17〜29

ローマ3章1〜8

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ローマ3章9〜20

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ローマ3章21〜31

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ローマ6章12〜23

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ローマ7章1〜13

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ローマ7章14〜25

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ローマ8章12〜17

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ローマ8章18〜30

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ローマ8章31〜39

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ローマ9章1〜5

25

ローマ9章6〜13

26

ローマ9章14〜29

27

ローマ9章30〜 10章4

28

ローマ10章5〜13

29

ローマ10章14〜21

30

ローマ11章1〜10

31

ローマ11章11〜24

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1999年 10月1日(金)

使徒二七章27〜44節(34)

《だから、いま食事を取ることをお勧めする。それが、あなたがたを救うことになるのだから。たしかに髪の毛ひとすじでも、あなたがたの頭から失われることはないであろう。》

地中海で難船すると、地中海の墓場と言われる所まで押し流されて沈没する言われていた。船乗り達はそれを知っていて、小舟で逃げ出そうとしていた。パウロはそれに気づき、百卒長に彼等を引き留めさせた。この時「あの人達が船に残っていなければ、あなた方は助からない」(31)と言っている。「あなたがた」の言葉に注意したい。パウロは自分はどのようにしてでもローマに行けると、神によって信じていたのが分かる。

 十四日間の難船は全ての乗員を心身共に疲れさせた。パウロはこれらの人々を勇気づけるため、まず食事をするよう勧める。「髪の毛一筋でも失われることはない」(34)と言うのは、神が全ての人を守って下さるということである。やがて、近くの島に上陸という時になると、兵卒は囚人の逃亡を恐れて殺害を考えた。しかし、隊長はそれを退け、各自で島まで泳がせたのである。このような悩みの中から、パウロは、船は失われたが人は全員救われるという、神の約束の成就を経験するのである。

 

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1999年 10月2日(土)

使徒二八章1〜10節(10)

《彼らはわたしたちを非常に尊敬し、出帆の時には、必要な品々を持ってきてくれた。》

 二週間の難船の後たどりついた島は、クレテ島の西千キロ程も離れたマルタ島であった。当てのない漂流であったが、それでも、ローマへかなり近付いたのである。かろうじて上陸した者達を、土地の人々は親切に助けてくれた。彼等は救われた人々を見て、神の助けがあったのだろうと尊敬していたのであろう。しかし、次の出来事はパウロ達を困惑させた。土地の人が焚き火をしてくれたのだが、薪の中からまむしが出てパウロにぶらさがった。人々は毒で死ぬだろうと思っていたのに、何事もないので、かえって「この人は神だ」などと言う始末である。迷信的な人々の反応である。

 目先のことを見て、良いことがあれば神の助けがあるとか、具合の悪いことにでくわせば、神に見捨てられたとかと人間は考えやすい。蛇に噛まれるようないやな出来事にぶつかったら、振り払えばよい。パウロは土地の人と馴染みになり、病気の人のためにお祈りしてあげた。パウロの働きと共に、医者ルカもこの地方のため貢献したに違いない。

 

 

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1999年 10月3日(日)

使徒二八章11〜31節 (31)

《はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。》

 年が明け春になって、航海しやすい時期になった。シシリー島のシラクサを経てポテオリ(ナポリ)に着く。ポテオリにも既に教会が建てられていたのだろうか、兄弟達が迎えに来てくれた。其処に七日間滞在した後、ローマに向かった。長い間、祈り願っていたローマに遂に到着した時の感慨はどのようであったろうか。ローマ書十六章には、多くの人々の名が記されている。これらの信仰の友人の何名かは、ローマの南七〇キロほどのアピオポロまで出迎えに来てくれた(15)。さらにローマに近付くと、トレス・タベルネにも友人が来てくれた。これらの町々は、有名なアッピア街道沿いの宿場である。「パウロは彼等に会って、神に感謝し勇み立った」のである。

 ローマに着くと、早速ユダヤ人の重だった人々に会い、エルサレムで逮捕された事や、裁判の事などが連絡されているかを尋ねた。そのような連絡によって、ローマのユダヤ人が、伝道の邪魔をするのを気にしたのであろう。またそれが裁判にも影響するかも知れない。しかし、文書は届いていなかったので、パウロは安心した。監禁とはいえ自由であったため、パウロは多くの人々に伝道した。使徒行伝はこれで終わる。パウロは裁判の後釈放されてスペインへ行き、再び東方へ行った。神は彼の伝道を祝福された。

 

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1999年 10月4日(月)

ローマ一章1〜7節(6)

《あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者となったのである》

 ローマ書はパウロが第三伝道旅行の時、コリントから書いた。初めの部分は挨拶である。ローマへはまだ行ったことがないので、彼は自己紹介から始めている。

 最初に「キリストの僕」と言う。イエスに出会って彼の人生は変わった。自分が救われたことを感謝するだけではなく、主イエスに従う者となったのである。「僕」として歩まれた主イエスにならう者となった。 

 次に、「神の福音のために選び分かたれた者」と言う。「選び分かつ」とは、一線を引くとの意味。彼は福音のためにのみ生涯を用いるよう、一線を画したのである。彼の多くの才能も、高い教育も全てを主のために用いるというのである。 さらに「召された使徒」と言う。使徒とはある特定の仕事のために派遣された者のことで、特派員のような人である。

 1節の終わりに「福音」と書いたパウロは、簡単であるが福音について述べる。即ち福音は@「聖書に約束されたもの」。A「ダビデの子」として、即ち王として生まれた神の子。B「復活した神の子」。Cそしてパウロが最も大切にする、異邦人伝道者としての自らを紹介するのである。福音が自分の生活でどれほどの位置を占めているであろうか。

 

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1999年 10月5日(火)

ローマ一章8〜17節(14)

《わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。》

 パウロはローマへ行きの希望を持っていた。何故か。それはこの町が世界の中心地であったからである。ローマから全世界へ福音が広がることを夢見ていたようである。この書の挨拶部分では、二つの目的を述べている。第一は、霊の賜物を分け与えて、互いに励まし合うことである(11、12)。クリスチャンの交わりは、信仰の恵みの分かち合いがすばらしい。第二の目的は、ローマの地でも「幾分かの実を得る」ことである。誰かを救いに導きたいというパウロの願いである。

 何故そのように考えるのか。彼は「果たすべき責任」を感じていたからである(14)。自分の信仰さえ全うできればよい、他の人はその人が救いについて考えればよい、人はしばしばそのように考えてしまう。しかし、パウロはそのようには考えなかった。「責任」の語は借金という意味がある。負債を返さない人はいないだろう。パウロはキリストの愛を負債のように感じていた。しかも福音は、どんな人間でも救う神の力である。罪や悪癖にとらわれていても、キリストはその人を救い「義」とする。パウロは自分の経験でそれを知ったし、多くの伝道の中で変えられた人を見た。私達は、福音を伝えることを負債のように感じるだろうか。

 

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1999年 10月6日(水)

ローマ一章18〜32節(19)

《なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。》

18節から三章20節までは人間の罪について書いている。今日の箇所は「異邦人の罪」である。

  1. 人は神に対して罪を犯していると言う(18〜23)。人の内心には、なすべき事としてはならないことにつき、良心の語りかけを持っている。神なしと言いつつも、心は善悪の声を聞いている。人のレベルを越えた超越の神の思いが、人の心には植え付けられている。それを無視し神でないものを神とする生活に、罪の根源がある(21〜23)。 
  2. 男女間の不自然な関係が罪となると述べる(24〜27)。性についての欲望は強い。神はそれを正しく用いるなら祝福であるが、自分の欲望のままに用いるなら、社会の破壊につながると教える。十戒には姦淫するなと教える。姦淫があると家庭は破壊される。社会の最小単位である家庭が破壊されると、社会全体が破壊されていく。
  3. 28節以下では、社会の破壊をあげている。ここには21個の罪のリストをあげているが、多くのものは人間関係の破壊である。パウロは神への罪が全ての破壊の根源であって、それは家庭の破壊へ、次いで社会の破壊へとつながるのだと警戒するのである。神を敬うことを大切にしたい。

 

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1999年 10月7日(木)

ローマ二章1〜 16節(10)

《善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。》

 今日の箇所には、神が人を裁く場合の原則を書いている。

 第一の原則は「神はおのおのに、そのわざにしたがって報いられる」(6)とあるように、行いによって裁かれるということである。どのような行いか。それは一章に述べられている。しかも、罪を知りながらそれを悔い改めないなら、それは良くない。「党派心」は特に悪い。党派心とはグループを作ることではなく、自己中心のことである。神を愛せず自己を愛することは罪の根源であり、これから多くの罪が出てくる。他を押し殺して自分をもたげることは、殺人、憎しみ、どん欲、無慈悲など多くの罪を生み出す(AHストロング)。どのような行いがよいのか。永遠的な善を求めることである(7、10)。

 第二の原則は、与えられた光によってである。ユダヤ人は十戒が与えられ、人の歩むべき道を教えられている。十戒は彼等にとって神の光である。それを守るか否かが神から問われる。異邦人には十戒はないが、それに相当するものとして良心が与えられていると言う。良心は神の言葉ではないが、かなり正しい方向を指し示す。4節に、神は慈愛をもって導くとある。神はどの道を歩めばよいかを、御言葉とか内心の光で導いて下さる。

 

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1999年 10月8日(金)

ローマ二章17〜29節(29)

《かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。》

 ユダヤ人は神の選民であると自負していた。その印として、彼等は十戒と割礼の儀式を持っていた。これらを持っていることで、彼等は神の愛顧の対象になっていると考えた。これに対してパウロは、十戒は持っていることに意味があるのではなく、行うことが大切であるという。盗むな、姦淫するなと教えながら、自分がそれを行っているなら、それは罪深い。25節以下には割礼のことが述べられている。パウロは儀式としての割礼より「心の割礼」の大切さを語る。申命記十章16節には心の割礼とは強情を取り除くことであると教えている。強情は神への不服従である。

 パウロは律法的な生活をしりぞけ、霊的なクリスチャンの歩みを示している。十戒は神の言葉である。ユダヤ人はそれは神の保護の契約だと受け取っていた。だから契約の十戒を持っておればそれでよいと考えた。私達に当てはめると、聖書を持つことや教会の儀式である洗礼は大切であるが、それを持っておれば良いというものではない。聖書は読むべきであるし、洗礼を受けたらクリスチャンらしい生活をするのが大切である。 

 

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1999年 10月9日(土)

ローマ三章1〜8節(2)

《それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。》

 二章でパウロは、ユダヤ人も異邦人と同じように罪を犯していると述べた。パウロ自身も誇り高いユダヤ人であるが、神の民ユダヤ人も同じ罪人なら、異邦人と特に異なることはないではないかと自問自答するのである。

 第一の質問は「ユダヤ人も異邦人と同じ罪人なら、選民の価値はないではないか」である(1)。これに対して、彼等には『神の言』が委ねられているから選民としてなお尊いと言うのである。神の言とはメシヤの約束のこと。一般にユダヤ人は神の言を律法としていたが、クリスチャンはそれをメシヤの約束と受け取った。神がユダヤ人の子孫にメシヤを送るという約束は変更されない。

 第二の質問は「神が遣わしたメシヤをユダヤ人が拒否し不信仰になったのなら、彼等を選んだことは無意味なるのではないか」である(3)。これについてパウロは、神の真実はいつまでも変わらないと答える(4)。まことに神は憐れみと真実の神である。

 第三の質問は「ユダヤ人の不信仰が、神の真実を明らかにする機会となったのなら、彼等の罪もそれなりの役割を果たしているのではないか」である(5)。この問いはあまりに不謹慎なので、パウロは「人間的な言い方」だと言い訳し、全ての罪は罰せられると断定する。約束を守る神の真実と、 罪ある者にもなお与えられている神の憐れみを思う。

 

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1999年 10月10日(日)

ローマ三章9〜20節(17)

《そして、彼らは平和の道を知らない。》

 一〜三章は、三段論法で罪を語っている。異邦人は罪人である、ユダヤ人は罪人である、だから全世界の人は罪人であると論じる。今日の箇所は第三の段階である。

 9節以下で、人は誰でも罪人であるという。ここには喉、口、舌、足、など体の器官が出てくる。これらは言葉とか、行動を表している。人の言葉には良いところもあるが悪いところもある。ヤコブ三章には、その教えがある。舌は小さくても、大きいことをする力がある。舵、くつわに例えられている。また、火が多くの人を焼くように小さい舌は大きい被害をもたらす。悪い噂話をすると、それはたちまち世界中に広がる。さらに、人の言葉はしばしばその人の本音を表している。嫉妬の言葉は嫉妬の心から出てくる。

口の言葉だけでは治まらなくて、行動に走る者がいる(14〜17)。怒りを少しの言葉で止めればよいのに、それを言い続けていると、怒りは倍増する。やがて人をたたき、怪我をさせる。パウロは「人は平和の道を知らない」と言うが、これは私達の日常生活で起こることではないか。その根本原因は、「神を求めない」からである(11)。神を信じることを生活の中で活かす者となりたい。

 

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1999年 10月11日(月)

ローマ三章21〜31節(24)

《彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。》

 この箇所は本書の頂上の一つであるキリストの贖いが語られている。救いは罪からの救いである。それ故、これまで詳細に罪の問題を語った。人間はどれほどの善行をしても神の前に正しい者、義なる者にはなり得ない。だから神は救い主としてキリストを遣わされたのである。ここには救いについての諸点をまとめている。

@救いはキリストの贖いによる。贖いの語が二度出てくる(口語訳)。贖いの一つの意味は金を払って奴隷を買い取ることである。十字架という高価な犠牲を払って救いは完成された。もう一つは罪に対する神の裁きから救出する事を意味する。永遠の滅びから救い出すために、キリストは限りない犠牲を払われたのである。

A救いは信じることによって与えられる。人は罪を犯す者である。しかし、神は救いの道を完成された。これを受けるのは信じるだけである。22節はそれを伝えている。

B贖いによって与えられるのは「神の義」である(21)。「神の義」には罪を罰する神の正しさだけでなく、救いという意味がある。ここでは救いの意味である。 

 私達は、ただキリストによる贖いによって、罪なき者、義人とされたのである。

 

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1999年 10月12日(火)

ローマ四章1〜12節(5)

《しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。》

 信仰によって義とせられた例としてアブラハムを出す。なぜアブラハムか?一つの理由は、彼がユダヤ人の父だからである。もう一つは、創世記二六章5節に、彼は律法を守ったから神の祝福を受けたとあるのを律法学者は引用して、「アブラハムは行いによって義とされた」と主張していた。パウロはその解釈が果たして正しいのかと、創世記一五章6節を引用し、行いではなく信仰によって義とされたのだと語るのである。さらにダビデを引用し、罪深い者をも赦して下さることを例証とする。律法を行うことによって義とされるというユダヤ教の教えを捨て、パウロは信仰による義を強く主張する。救いは、完成されたキリストの業を、無条件で受け容れることしかない。パウロは神の律法をひとつの間違いもなく行おうとし、血みどろの努力をし敗北したが、信じるだけで与えられる救いを、彼はどれほど感謝したことであろう。6節以下には、この救いは誰に与えられるのかと問う。それは割礼ある者だけでなく、この儀式のない異邦人にも与えられる。これについてもアブラハムを引用する。彼は創世記一八章で割礼を受けたが、それ以前に義とされた。私達は、不信心な者(神を敬わない者)を義とする神によって救われたのである。

 

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1999年 10月13日(水)

ローマ四章13〜25節(24)

《わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。》

パウロは四章前半で行いがなくても義とせられると言い、義とされるのは「信仰」によると述べる。そこで後半においては、信仰とはどのようなものかと語るのである。

 信仰とは、神がメシヤをこの世に送って下さるという約束への信仰である。13節の「世界を相続させるとの約束」は、メシヤを通して世界を祝福する約束という意味である。アブラハムへのこの約束は、後の全ての者にも当てはめられる。神はたしかにキリストをこの世に遣わされた。

 さらに信仰とは、絶望的なときにも信じたアブラハムの信仰を指している。妻のサラが子を産む力もないと思われるとき「アブラハムは死人を活かし、無から有を生み出す神を信じた」(17)のである。

さて、上記のことを私達の救いの確信に当てはめると、第一は、救いの御言葉をしっかり心に持つことである。私達は自分の気分に左右され揺れ動くのではなく、神の約束の御言葉に確信の土台を置くことである。

 第二に、自分のあり方に失望しそうなときにも、既に客観的に救いを完成して下さったキリストの御業に救いの確信を置くことである。

 

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1999年 10月14日(木)

ローマ五章1〜11節(1)

《このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。》

 これまで罪について、救いについて語ってきたパウロは、救われた者にどのような結果が与えられるのかを述べる。ここに、「義とされたのだから」という語が二度あるが、それが結果を示している。 第一のものは1〜8節に見られる。罪人は神との和解の成立によて神に近付くことが出来るのである。さらに、神と私達の間に平和が生まれると、今の世において忍耐、練達を身につける者となる。そして、永遠の希望を持つ者となる。それら全ては十字架の神の愛による。希望は一般的には未来に向かうものであるが、それが十字架という過去の出来事に結びつくのは考えさせられる。神の愛は十字架において完全に現されており、この愛の故に私達は忍耐し希望を持つことが出来るのである。

 第二の結果は9〜11節に見られる。人が義とされると神の裁きから逃れる。前半を現在の経験だとすれば、後半は未来のこと終末のことである。パウロは何時も最後の審判のことを語っている。例えば「私達はキリストのさばきの座の前に現れ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じてそれぞれ報いを受けねばならない」(Uコリント五章10)。しかし、キリストによって義とされた者は、全き義が与えられている。裁かれることはない。

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1999年 10月15日(金)

ローマ五章12〜21節(15後半)

《すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。》

 今日の箇所から内容が変わる。罪の取り上げ方および、それに伴う救いの理解の仕方が変わるのである。

 ここに、二人のアダムがいる(Iコリント一五章45節参照)。古い罪ある人間性を持つ者を第一のアダムと言い、新しい人間の代表は第二のアダム、キリストである。この二人の対照がなされている。古い人間の代表者は創世記三章に描かれており、其処で見られるのは神への不従順である。その目指すところは自分が神になることである。これが罪の根源である。人にはこのような根元的な罪があるので、行為に表れる罪を犯す。言い換えれば、人は内側に罪があるから罪を犯すのである。罪の結果は死である。一〜三章では人が罪を犯すから罪人になると述べたが、五章からは罪人なので罪を犯すと述べる。

第二のアダムなるキリストは、神への全き従順であった。贖いのために父に従われた。この服従の故に私達に救いが提供された。「ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、ひとりの従順によって多くの人が義とされるのである」(19)。

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1999年 10月16日(土)

ローマ六章1〜11節(6)

《わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。》

 バプテスマのことが書かれている。洗礼は、これまでの生活に区切りをつけ、新しい生活を始める象徴である。だから、「死」と対照して「甦る」、「生きる」がひんぱんに見られる。ここでさらに大切なのは、「キリストと共に」の言葉である。どれほど人が新しい人生を願っても、自分の決心では役に立たない。キリストとの結合によって、新しい人生が可能になる。この結合を「あずかる」、「結びつく」、「共に」、などの言葉で表現されている。つまり、キリストの死は私の死であると信じるのである。彼の復活は私の霊的な復活で、私の新しい始まりであると受け容れ信じることである。

 さて、過去の私に死に別れると言うが、過去の私は「古き人」と呼ばれている。古き人とは、罪深い内面性のことであり、肉の性質とも言われる(八章7、ガラテヤ五章19以下)。私たちが自分の努力で「古き人」「肉」から解放されることは到底出来ない。ただ一つの道は、キリストと共に十字架に死に彼と共に生きるという信仰によるのである。このようにして、救いは行為に表れた罪の赦しだけでなく、内面の罪からも救われるのである。これを聖化という。

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1999年 10月17日(日)

ローマ六章12〜23節(22)

《しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。》

ここには献身が取り上げられる。肢体を神に捧げよとあるが、肢体とは私の全存在のこと。神に捧げる祈りが献身である。パウロは、「誰かの僕となって服従する」(16)と言うが、それは、人は決して絶対自由の存在ではないと言う意味である。人間は時間的にも、空間的にも制限されている。また、思想の持ち方や生き方についても、誰の干渉も受けないと言える人はいない。 人は誰かの僕になるものである。人は何かに縛られる者、即ち神か罪のいずれかを主人としそれの僕になっているとパウロは言うのである。罪に自分を捧げるなら、汚れや不法に縛られ、その人の終わりは滅びである(23)。しかし、神に捧げるなら「聖なる者」となりその終局は永遠の命である。

 さてここで、聖なる者となることと、捧げることが(献身)どう結びつくのかを書きたい。人は本来罪深い汚れた者である。しかし、神にささげるとその者は聖になる。昔、羊が神に捧げられるとそれは聖なる羊となった。神に所属すると、羊でも人でも聖にするのである。神に捧げると神のものとなる。それが重要である。その結果、捧げた者は倫理的に清い神に似る者となるのである。献身が人を聖にする。しかし、献身はむずかしい。人には自我性があるからである。この自我を十字架につけることよって死ぬという信仰が聖化である。

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1999年 10月18日(月)

ローマ七章1〜13節(6)

《しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。》

ここには律法と罪のことが書いている。世の法律は人に幸福な生活をもたらすために作られたものである。交通法規は人々が車の事故で死亡しないためである。十戒も人の幸福のためにある。盗みをしないことがお互いのために善いのである。しかし一度法律が決まると、それを破るものは罪人になる。だから律法は両刃の剣となる。

 さてここに律法が人の内面の罪深さを鋭く指摘する聖句がある。「むさぼるな」である。むさぼりは内心の強い願いのことである。例えば姦淫するなの戒めについて、心の中で強くそれを願うなら、実際にそうしなくても姦淫をむさぼる内面的な罪深さが分かるではないか。パウロはそれに気がついたとき、自分の内面の汚さに恐ろしくなった。実はそれが古き人であり肉的な私の実体である。

 律法は、人の姿を写し出す鏡のようなものである。しかし、鏡はきれいにはしない。汚い姿を写し出す律法から逃げ出さなければ、何時も自分の姿を見て悩むだけである。だからといって律法が悪いのではない。私が汚いのである。そこで、パウロは律法からの解放を教える。律法的な信仰は人を活かさない。キリストとの合一によって律法からはなれ、同時に罪深さからも解放されるのである。

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1999年 10月19日(火)

ローマ七章14〜25節(25前半)

《わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。》

 自分の罪深い内面を、これほど真剣に見つめた人は、少ないのではないだろうか。パウロは、自分の内に二つの原理があることを発見した。それは、神の律法を喜ぶ自分と、それと対照的に、罪の法則に従っている自分を見出したからである(22、23)。このような二つの相反するものが我が内にあると分かったのは、19節の「私の欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている」と言う自己観察から出てきたものである。

 なぜこのような者になったのであろうか。普通なら、そのような者が人間であって、まことに人間らしいと思うものであるが、パウロは、このような人間は「罪のもとに売られた者だから」だと断定したのである(14)。即ち、アダムにおいて、私達は罪のもとに置かれてしまった。それ故、人は罪深い者として生まれたのである。このような惨めな状態から救い出してくれるお方は誰か。イエス・キリストである。 現代社会の問題は罪認識の欠如である。何をやっても良いと思っている。他者を傷つけても、自分を傷つけても平気でいる。ルターやオーガスチンのような人々は、罪の問題に悩み救い主の贖いをしっかり理解した。神の恵みをこの世的な幸せの程度に考えるのでは、贖いの恵みは分からない。

 

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1999年 10月20日(水)

ローマ八章1〜11節(1)

《こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。》

 七章には「わたし」が多く出ているが、八章には聖霊が多い。自我に支配されていた者が、聖霊によって導かれる。本章は聖霊の章である。

 ここには、聖霊と肉の対照がなされている。サルクス(肉)には、肉体、人間、人間の弱さなどの意味がある。そして、4節以下の肉には人間の罪性の意味がある。罪深い人間は神を喜ばせることは出来ずむしろ敵対する。七章後半のパウロの告白と同じである。例えば、コリント教会のある人々は、ねたみ、争っていた。この人々をパウロは、「肉の人」と呼んだのである。肉性は取り除かれなければならない。

 神はキリストの十字架の後に聖霊を遣わされた。聖霊は人々に働きかけ、個人的にキリストの救いを与える。また聖霊は人を罪と死の法則に縛られている者を解放する(2)。それゆえ聖霊は「命の霊」と呼ばれる。霊的な命、永遠の命である。さらに聖霊は神に思いを向ける傾向性をクリスチャンに与える。5、6節に「思い」という語が見られるが、これは傾向性を意味する。神の子達はキリストの霊が与えられているから、心をキリストに向ける傾向性を持つのである。神に心を向ける習性を持つことは幸いである。

 

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1999年 10月21日(木)

ローマ八章12〜17節(16)

《御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。》

 ここにも、聖霊の働きが記されている。聖霊は人を神の子に導く。救いを「義認」と言う場合、法的な響きがある。罪の赦しは義認と関係がある。「新生」には生命的な響きがある。「神の子」は神との関係について言葉である。救われる前は神とは何の関係もなかった。しかし、今は神を父と呼ぶことができる。「アバ父よ」と呼んでよい者とされたのである。ヨハネ一章12節には「彼を受け入れた者すなわちその名を信じた人々には、彼は神の子となる力(権利)を与えたのである」とある。イエスを救い主と信じる者は神の家族に数えられている。

 聖霊は私達の霊と共に、「わたしたちが神の子であると証しする」(16)。聖霊は信仰生活の中で、「私は神の子なのだ、そう信じてよいのだ」と言う確信を作り上げて下さる。それでもしばしば、これでもクリスチャンなのか、と思うことがあるだろう。しかし、神の家族に入れて下さったのはキリストご自身であり、私達はそれを受け入れたのである。だから恐れなく主に信頼し、親しく祈ってよいのである。

  

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1999年 10月22日(金)

ローマ八章18〜30節(28)

《神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。》

 神の子は、聖霊によって生まれかわり導かれる者である。しかし、神の子もさまざまな苦難に会う。ここに「うめき」という言葉が三回出てくる。@22節には被造物がうめいているとあるが、それは冷酷な人間による動物のうめき、山、川、海のうめきなどであろう。

A23節には御霊の実を持つ神の子のうめきがある。救われていてもいろいろな苦難のために悩む。苦難はその人に罪があるので悩むとは限らない。それはヨブの場合を見ても分かる。

B26節には聖霊のうめきを述べている。御霊のうめきは世界全体のため、特に神の子達のためである。神は人を神の栄光のために創造された。栄光が現れるとは、人がその人らしく生きることが出来、それを通して神が崇められることである。ところが、罪が赦されたとはいえ、霊的・精神的な損傷が大きく神の子はうめいている。聖霊はそのような者のために重荷を負っていて下さるのである。これが御霊のうめきである。神の子のために神は計画を持っておられる。どのような事態にあっても、神は万事を益にする方である。「益」は善と訳す方がよい。神は私に対して最善をしていて下さる。ヨセフの最後を見て、神の導きの御手を信じようではないか。

 

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1999年 10月23日(土)

ローマ八章31〜39節(31)

《それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。》

 本章の終わりは「敵する者なし」である。第一の敵はサタンである。「訴えるもの」とはサタンのこと(33)。彼は何時も罪あり、欠陥ありと言って告訴する。ゼカリヤ三章1節では祭司ヨシュアが訴えられている。しかし主は彼を弁護する。私達のためにはイエスが弁護してくださる。

 第二の敵は、人がもたらすさまざまな苦難である(35)。艱難、苦悩、迫害などは人がもたらす苦難である。私達はいろいろな人と関わっていると苦しい目に遭うことがある。もちろん、私達も相手の人に苦難を被らせていることであろう。問題は自分が被害者になったと思うときである。その様なとき、怒りや不安の思いを持ち、神から離れる思いになることはないだろうか。パウロはどの様なときにもキリストの愛を覚えよと言うのである。

 第三の敵は、人以外の超自然的な何ものかがもたらす苦難である(38、39)。昔の人は生死をつかさどる悪い天使がいると考え、現在や未来をつかさどる超自然的天使がいるとも考えた。このように考えるのは運命論者である。今でも病気が続いたり、予期しない不幸と見える事があると、神から離されたのではないかと思いがちになる。パウロは神の愛から決して離れることはないと強調する。

 

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1999年 10月24日(日)

ローマ九章1〜5節(2)

《すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。》

 九〜十一章はイスラエルの救いを中心的に書いている。その最初の部分で、パウロは同胞のユダヤ人への重荷を語り、同胞の救いのためなら呪われてもよいと言う。4、5節にあるように、イスラエルは多くの祝福を受けていた。どの様な祝福か。

 @彼等は神の「子」の立場を与えれられていた。

 A神の栄光に接するとか礼拝など、神を経験していた。

 B数々の約束(契約、律法)、特にメシヤの約束を受けていた。

 このような恵みは他の民族には与えられていなかった。それにも拘わらずイスラエルの歴史は神への不従順の歴史であった。だからパウロは神は同胞を捨てたのではないかと恐れたのである。特にメシヤを拒否したことは赦されないことだと思い彼の心は痛んだのである。しかし、パウロは旧約聖書を学ぶ内に、神は同胞をお捨てにならないという結論を持つようになった。

 私達は日本人に対してどの様な思いを持つであろうか。親戚や友人の救いについてどの様に思うであろうか。信仰を押しつけてはならない。しかし祈ることは出来る。パウロのように愛の負債を担おうではないか。

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1999年 10月25日(月)

ローマ九章6〜13節(8)

《すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。》

 不従順なイスラエルを神は捨てたのではないかと、パウロは心配したが、神の選びの約束は変わらない(6)。そして、その理由を以下の三章にわたって述べるのである。 

 今日の聖書箇所では、まず第一に、神は選択的にイスラエルを形成すると教えている。その例をアブラハムとヤコブから説明する。神の選びはアブラハムに始まったが、彼の子孫が全てイスラエルとなったわけではない。アブラハムの子にイサクと、イシマエルがいたが、イサクが選ばれた。また、孫に双子の兄エサウと、弟ヤコブがいたがヤコブが相続者になった。イスラエルの中から一つの流れを選択し、それによって神は選びを全うされるのである。

 第二に、神はご自分の意志によって選んだのである。13節の「ヤコブを愛しエサウを憎む」は理解しにくい。これはマラキ一章2節の言葉。愛するは選ぶという意味、憎むは選びの対象から外される意味である。なぜエサウが選ばれなかったのか、創世記二五章34節他にはその理由が見られる。ヤコブが父イサクをだまして相続権を横取りしたのは責められるべきであり、彼はその実を刈り取っている。しかし神はご自分の知恵と計画によってイスラエルを選んだ。神が選びお救いになった者を簡単にはお捨てにならない(十一章29)。

 

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1999年 10月26日(火)

ローマ九章14〜29節(24)

《神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。》

 選びは神の意志によると述べた。一方的な神の選びは、独断的すぎて不公平ではないのか、というのが14節の質問である。

 パウロはこれに対して、「ノー」と言う。なぜなら、神の選びは横暴な君主が勝手な意志に従って決定するようなものではないからである。パウロは、神の愛と慈しみによる選びを強調する。 ここには繰り返し「憐れみ」、「慈しみ」を語る。人間は誰ひとり、自分の正しさで神の前に立つことは出来ない。罪深い者は神の怒りと裁きを受ける者である。だからもし神に受け入れられるとすれば、それは、ただ神の憐れみによるのである(22〜24)。ここには神の意志による主権的な選びを述べているが、それは、愛による選びを言っているのである。

 ただ、ここでパロのことを取り上げ「かたくなにしようと思う者を、かたくなになさる」の言葉は戸惑いを感じる(18)。神によってかたくなにされたら、その人は救われようがないからである。しかし出エジプト記八章以下によると、実際にかたくなにしたのはパロ自身であることを見る。自分をかたくなにしてはならない。神は憐れみをもって私達を選んで下さるのであるから。

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1999年 10月27日(水)

ローマ九章30〜十章4節(4)

《キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。》

 神は憐れみをもって異邦人をを救いに招き入れて下さる(九章24、30)。ところが、パウロによると、肝心の選民イスラエルは神の選びから外れた者のように見える。なぜか。彼等に過ちがあったからである。ここにその過ちを述べる。

 @イスラエルの過ちは、信仰によらず行いによって義人となろうとしたからである(32、十章3)。この問題についてはパウロは繰り返し語っている。ただ私達は軽々しく「どんな罪でも、信じれば赦されるのだ」と言ってはならない。深刻な罪の意識を持つ者は決して同じ事を繰り返し行わないだろう。しかし、万一過ちに陥った場合は救い主は手を差し伸べて下さる(Iヨハネ二章1)。

 Aもう一つの彼等の過ちは、躓きの石につまずいたことである。旧約聖書には不思議な「石」が出てくる。イザヤ二八章16節、ダニエル二章45節はその例で、ユダヤ人はこの石をメシヤのことだと理解していた。石に躓いたとは、イエスがメシヤであるのを信じられなかったことである。

 キリストが律法と義の完成者であることを、もう一度覚え主の贖いの業に感謝したいものである。

 

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1999年 10月28日(木)

ローマ十章5〜13節(13)

《なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。》

 「救われる」と言う語が三回出てくる。第一に、イエスを主と告白し甦りのキリストを信じるなら救われる(9)。6節は申命記三〇章11節の引用であるが、これは人が救われるために実行不可能な難行苦行はしなくてもよいと言う意味である。キリストは人間にはとうていなし得ない贖いの死と神の子としての復活をされたのだから、人はただそれを受け入れればよいのである。律法を全て守らなくても、信仰で救われるのである。

 第二に、告白すれば救われる(9、10)。告白は人の全存在をかけた言葉である。昔イスラエルでは文書よりも本人の言葉に信頼を置いた。当人が言うことが何よりも確かだからである。だから法的な問題が起こったときには証人が重要になる。告白の内容は何か。それは「イエスは主である」である。

 第三は、呼び求めるなら救われる(12、13)。呼び求めるとは祈ることである。

 私達はしばしば、多くのことが分からないと信じられないとか、救われたように感じないと思うことがある。ある程度のことが分からないと信じられないのは当然である。しかし、実際には信仰は単純で、イエス・キリストの御業への信頼から始まるのである。

 

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1999年 10月29日(金)

ローマ十章14〜21節(21)

《そして、イスラエルについては、「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」と言っている。》

 昨日、律法によらなくても、主を呼び求めるなら救われると学んだ。この文脈はユダヤ人の救いに関してなのでその点から解説したい。彼等の多くは主を信じたが、民族の中心的な者達は受け入れなかった。パウロはなぜそうなのか、彼等は福音を聞いていなかったから信じないのかと自問したのである。 これについての彼の答えは「ユダヤ人は福音を聞いており、その内容を十分理解していた」である。というのは、ユダヤ人は異邦人が福音によって救われるのを見て嫉妬したのを見てそのことが分かると、パウロは言う。これは、使徒十三章44節の出来事に基づいている。福音が偽物ならユダヤ人は異邦人を憐れみこそすれ、嫉妬するはずがない。ユダヤ人が嫉んだのは、福音に本物があるように知っていたし、神の祝福を異邦人に取られると思ったからである。

 このように福音に心を開かない頑なな民に対して、神はなおも愛を表しておられる。「イスラエルについては『わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた』」(21)と神の忍耐と憐れみを語っている。私達を救い、信仰を成長させるための神の憐れみを思う。

 

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1999年 10月30日(土)

ローマ十一章1〜10節(5)

《それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。》

 神はイスラエルに多くの恵みを与えたが、彼等は神に従わなかった。神は最後の切り札のようにキリストを遣わしたのに彼等はメシヤを拒否した。ローマ書はパウロの第三伝道旅行の終わりの頃の手紙である。三回にわたる伝道旅行を振り返り、ユダヤ人が如何に激しく福音を拒否したかをパウロは経験した。それゆえ神はこの民を捨てたのではないかと、パウロは再び自問するのである(1)。これについて彼自ら「神はあらかじめ知っておられたその民を捨てることはされなかった」と答える(2)。これは九章でも取り上げたように、神はイスラエル全員を選ぶのではなく、選択的に神の民を選ぶのである。例えばエリヤの時の七千人である。あの時エリヤは全員がバアルに従ったと思った。しかし、神はバアルを拝まない者が七千人いると言う。パウロはこの人々が真の意味でのイスラエルであると語るのである。だから新約の時代にも、キリストに従う七千人に当たるユダヤ人クリスチャンがいる。

 私達はなぜ伝道するのか。それは残された七千人がどこかにいるからである。「今の時にも恵みの選びによって残された者がいる」。

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1999年 10月31日(日)

ローマ十一章11〜24節(23)

《しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。》

 神は、イスラエルを神の恵みを、世界に取り次ぐ者として選ばれた。しかし、彼等は神の意志に背き躓いたのである。ところが、神はそれを異邦人への恵みの機会とされた。今日の箇所は、異邦人の救いについてである。

 17節以下に接ぎ木の譬えがある。オリブの元木はイスラエル、野生のオリブは異邦人。元木は不信仰だったため切られたが、それは、野生の木が接ぎ木されるためであった。それでは切られたイスラエルは、切られたままなのか?これについてパウロは23節で、彼等も信仰によって再び接がれると言う。

 この箇所で、神の「峻厳さ」と「慈愛」という言葉を何度も見る。峻厳さとは、神に従わない者に対する裁きの厳しさである。愛は深ければ深いだけ真実な応答を求めるものである。神の民イスラエルに対しても、彼等が不従順であれば裁きがある。バビロンへの捕囚はその例である。しかし、神は厳しさだけのお方ではない、慈愛の神である。回復の道を何時も備えておられる。それをパウロは接ぎ木で譬えた。接がれるための人間の側の要素は、ただ信仰である。そして、信仰は従うことである。愛の神への応答は全き信頼である。

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