聖書日課

1999年 12月

 

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28

Uコリント8章1〜15

29

Uコリント8章16〜24

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Uコリント9章1〜15

31

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1999年 12月1日(水)

 Tコリント十一章1〜16節(1)

《わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。》

 コリントには多種の民族、多様な文化の者がいたので教会内でも考え方の違いから問題が起きていた。此処には女性の「かぶりもの」が取り上げられている。その当時の習慣として女性が公的な場所に出る場合、頭にかぶりものを着けていた。そうでない女性は売春婦と見られた。ところが「全てのことは許されている」という異端的な教えにかぶれた者が、パウロの「キリスト者は律法から自由にされている」と教えたのを勝手に拡大解釈して、かぶりものを身につけなくても礼拝に出て良いと考えたのである。

 これについてパウロはかぶりものを着けることが良いと教えた。このような結論を出すために、7節以下の議論をしたがその内容の解説は省略する。要点は特別な理由がなければ良い習慣は壊さないのがよいし、自然のままがよいというものである。世の文化は絶えず変化し人々は次々とそれを追っかけ、頭髪を染めたり不思議な服装をする。どれも自由であるが神に造られた体を大切にするのが健全である。良い習慣は損なわないことがよい。

 

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1999年 12月2日(木)

 Tコリント十一章17〜34節(24)

《感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。》

 コリント教会では夜礼拝をしていた。信徒たちは一日の仕事をすませて教会に来るので、食事のあと礼拝を守るのが都合が良かった。教会での食事を愛餐会と呼ぶ。ところが仕事の具合でみんなが同じ時間に集まることが出来ず遅れる人もあった。当然時間に従って食事会を始めたが、此処でまた問題が起こった。先に食事をする人が遅れる人のことを考えず余計に食べてしまうので、遅れた人は食事もせず礼拝に出ることがあった。空腹になれば誰でもおもしろくない。それだけでなく愛餐会で、礼拝に用いる聖餐式用のぶどう酒をたくさん飲み酔って礼拝に出るような者もいた。このようなぶざまな教会があるのに驚く。

 そこでパウロは食事の常識を教え聖餐式の意味を語ったのである。聖餐の説明の中で「わたしを記念するために」の句がある。それは私達がキリストを思い出すという意味だけではなく、天のキリストが私達を覚えていて下さると言う意味だと解説したドイツの学者がいる。聖餐式のたびに主イエスが私達に心をかけていて下さると思うと心励まされる。互いの交わりの常識を保ち、礼拝の大切さを心に留めたいものである。

 

 

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1999年 12月3日(金)

Tコリント十二章1〜11節(3)

《そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。》

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことは出来ない」(3)は大切である。これは聖霊の働きによってこそ信仰は告白できると教えるものである。私達は自分の考えで信仰を持つようになったと思っているかも知れない。もちろん私達が信仰を持つために意志決定することは大切である。ところがその背後に聖霊のお働きがあったのだと言うことにパウロは気づかせようとしている。

 私達はその事を後で分かるようになる。私は牧師をしていて、人がキリスト者になるのは人柄の善し悪しによるのかとか、頭脳の善し悪しによるのかなどと考えることがある。そして何時も思うのはどちらでもないということである。ある程度の聖書の知識を得るとしても、まず聖霊の働きがありそれに対して人が内心で神の語りかけに応答し救われる。かつて主イエスはニコデモに風のように働く聖霊について教えられた。風は見えないがその動きを感じる。風はある時には強く別の時は弱く吹くが聖霊も同じである。そして何時も風が吹いているように聖霊は絶えず働いておられる。(ヨハネ三章8)。

 

 

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1999年 12月4日(土)

 Tコリント十二章 12〜31節(12)

《からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。》

 十二〜十四章は聖霊の賜物について述べるユニークな章である。人には各自生まれながらの特性が与えられているように、聖霊によって新生した者にも各自の特性として神は聖霊の賜物を与えているというのである。8〜10節にはいくつかの賜物のリストを書いている。ローマ十二章6〜8節にも同様のものがある。これらを一々解説するには紙面が足りないので学びたい人は注解書を読むと良い。これを現代的に説明すると次のようなことだろう。人には様々な才能がある、例えば人との会話が好きな人、子供の好きな人、料理の得意な人、音楽ですぐれた人、陰の奉仕が好きな人などがいる。しかしそれをただ好きとか上手だからするというのではなく、その才能を神に捧げたものとして用いるときそれが神の賜物となるように思う。それは何のために用いるのか?。パウロはキリストの体である教会のために用いるとき祝福が来ると教える。 体には手、耳、足など様々な器官がある。同じく教会にも多様な人々がおり、皆大切なキリストの体の部分である。コリントには問題がたくさんあったが、互いに支え合うようにと教えられている。

 

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1999年 12月5日(日)

 Tコリント十三章1〜7節(6)

《不義を喜ばないで真理を喜ぶ。》

 本章は聖書の中でも最も美しい箇所である。ちょうど虹の七色のように愛のいろいろな性質を描き出している。1〜3節には「愛がなければ」の表現が目立つ。第一に、見せかけが信仰深くても愛がなければ無益である(だからといって聖書を読まない人が良いというのではない)。第二に、人のために全財産を出しても愛がなければ空しい(これも他人のために尽くしている人をけなす言葉ではない)。4節以下には、愛が「・・・である」と「・・・でない」と言う表現で語られているのは興味がある。 愛について、聖書では単なる道徳的品性の一つとは教えていない。倫理と救済とはつながる点があるが、愛は神の救いの業であると語る。第一ヨハネ四章10節には罪の贖いのためにキリストが死んで下さったことが愛だとある。その意味では人には愛はないのである。だから十二章を受けて愛は御霊の賜物だと言えるのである。教会内でも家庭内でも愛することの出来ない人がいるなら、御霊による大革命が起こらなければ改良は難しいのではないだろうか。好きと愛するとは全く異なる。キリストを信じる者が救われ徐々に神の愛の理解が深まり、それが自分の身についてくる。その人は神からも人からも愛について学ぶ者になり成長する。

 

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1999年 12月6日(月)

 Tコリント十三章8〜13節(13)

《このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。》

 信仰、望み、愛は実際生活でキリスト者が身につけるべきものである。この三つは初代教会の頃から教会員の中で語られていた信仰箇条のようなものであった。だから第一テサロニケ一章3節にもこの三つが見られる。

 「信仰」について。まず救われるのはただキリストの贖いを信じるのみ、良い行いにはよらない。さらに神が私達にあらわしていて下さる真実な愛に信頼すること。

 「望み」について。これは信仰を持つ私達が将来に向けて生きるエネルギーではないだろうか。なぜなら「希望は失望に終わらない」からである。希望があるなら前進する勇気が出るだろう。先の見えない時にも神に支えられて生きているという信仰があるからである。

 「愛」について。私達の品性として愛が最も大切であることは十二章の終わりに述べている。しかしそれと共にここでの愛は神の愛と考えることも出来ると思う。なぜなら永遠のものは愛であり、それは神にしかないからである。神に愛せられていることを信仰によって受け止め、希望を持って生きる生活がキリスト者である。 

 

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1999年 12月7日(火)

 Tコリント十四章1〜12節(12)

《だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい。》

 異言には二つの意味がある。一つは外国語のことでその国の人が聞けば理解できる言葉である(使徒二章4)。もう一つは恍惚状態での語りという意味で、意味不明の言葉で祈ることである。コリントには恍惚状態で祈る人がおり、時には集会が混乱したことがあったらしい。パウロは異言の祈りを一つの霊的な状況であると考えこれを禁止しなかった。しかし集会の秩序を保つために異言は自分の家庭でするようにと教えた。パウロはこのような状況を知り「異言を語る者は自分だけの徳を高めるが、預言する者は教会の徳を高める 」(4)と言ってむしろ預言を勧めた。預言とは聖書の言葉を解き明かし語ることである。

 それはどの人でも理解でき信仰が励まされる。私達は感情、知性、意志を持つ者だから恵まれたとき感情の高まりを覚えることがある。しかし覚えておきたいことは聖書に基づかない信仰は脱線する。知性と感情が適切に調和する必要があろう。預言即ち神の言葉によって信仰を堅くすることが大切である。

 

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1999年 12月8日(水)

 Tコリント十四章13〜40節(25)

《その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白するに至るであろう。》

 異言より預言を求めよとパウロは勧めた。預言即ち聖書の言葉を知ること、それが教会の徳を建てる(4、5、12)。徳を高めるとは建てあげるという意味である。信徒同士は互いに信仰を育て合う者達である。お互い励ます言葉、陰で祈る祈りは、相手のことを思う愛で満たされてこそ出来る行為である。これが建徳である。

 ところが異言で祈るときその人にとっては意味があるが、独りよがりの信仰になりがちである。このような信仰は教会の徳を建てないとパウロは言う。だから預言を勧めた。

 さらに預言は神の言葉を語ることだから、初めて教会に来た人にも内容は分かる。しかも神の言葉は人の心の中までも探り救いの恵みを伝えるから、「ひれ伏して神を拝み『まことに神はあなた方のうちにいます』と告白するに至る」(25)。集会で聖書のお話が分かり、神の恵みが受けとめられ、さらに互いが成長することが出来るような教会建設を進めていこうではないか。

 

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1999年 12月9日(木)

 Tコリント十五章1〜11節(4)

《そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと》

 キリスト教は十字架と復活の信仰である。この章は復活について語る。復活は普通ではあり得ないことだから、キリストの復活を信じるのに困難を覚える人は多い。私も最初信じられなかったが聖書を学びそれが真実であることが分かるようになった。

 研究者は言う、主の復活の証拠は、@弟子たちの驚くほどの変化に見られる。あのエルサレムで大胆にもイエスは復活したと宣伝した時、大祭司らはそれを止めることが出来なかった。A弟子の変化は彼等が復活のイエスに何度も会ったからである。そしてB何よりも強力な証拠は「空の墓」である。ピラトは主を葬った墓を開き遺体を示せば復活を否定できたのにそれを出来なかった。

 3〜7節は初代教会がまとめた信仰告白である。それをパウロが引用して本章の最初においた。私達にとって主の復活はどの様な意味があるのだろうか。第一にそれは救いの確かさを保証するものである。十字架だけなら悪人の死、良く言って殉教者という程度に見られただろう。復活は彼が神からのメシヤであることを示す。第二に天国の確かさを保証する。天国は宗教精神の産物ではない。イエスの復活は私達の信仰の基礎なのである。

 

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1999年 12月10日(金)

 Tコリント十五章12〜19節(17)

《もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。》

 この箇所にはキリストの復活を否定すると、クリスチャン生活に二つの空しいことがあると述べている。

 第一はキリストの復活がなければ伝道は空しい(14)。歴史的に事実である主の復活を否定するなら、弟子たちは偽証人となる(15)。復活を否定する人々には、弟子たちがイエスの遺体を盗み隠して主は復活したと言っていると言うものがいた。もし弟子たちの信仰が偽りの上に立っているなら、そのような信仰になぜ彼等は命をかける必要があろう。彼等は十字架の後イエスに失望し元の漁師にもどろうとしていた。命がけの伝道の働きはキリストの復活があったからである。

 第二はキリストの復活がなければ信仰が空しい(17)。もし十字架だけならイエスは結局ローマ反逆の一犯罪人に過ぎなかったと言われたに違いない。復活があればこそ彼は神の遣わした救い主だと立証されたのである。「今なお罪にいる」とは罪の赦しを与える救いはないという意味で、それ故信仰は空しいのである。復活は救いの信仰を確かなものにする基礎なのである。 

 

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1999年 12月11日(土)

 Tコリント十五章20〜28節(20)

《しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。》

 キリストの復活は何を私達にもたらすのか。それは永遠の救いの確かさを与える。キリストの甦りを「初穂」と言っている。初穂は英語では最初の実と訳すが、日本語訳は穀物は初穂とし果物は初なりとする。いずれにせよ農作物の最初の収穫のこと。 「最初の実」には二つの意味がある。@イエスの復活は救いの確かさを保証する。果物の場合イチジクはその例であるが本番の収穫の前一つ二つの実がなる、それが初なり。初なりがあると二ヶ月ほど後には大収穫がある保証になる。主の復活は初なりである。つまり彼の復活は彼に続く多くの者が主と同じ恵みにあずかる保証なのである。

 A最初の実の第二の意味は、収穫の穀物がまず神に捧げられたように、キリスト者は皆主に属する者だと言うことである。神につく者の幸いを私達は覚えたい。自分勝手に生活することが自由だと思うのは真の自由を知らない者である。人は自分で生き方を決めることが出来る。もしそうなら途中で行き悩んだ時も自分の責任で決めるべきだ。それなのに都合によって神の助けを求めたり自分の道を歩むとすればその生き方こそ罪ではないのか。素直に主の家族の一員の幸いを知りその恵みを深めたいものである。

 

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1999年 12月12日(日)

 Tコリント十五章29〜 49節(34前半)

《目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。》

 永遠の救いを否定する者へのパウロの質問である。@まず死者へのバプテスマのこと。この意味を遺族が先祖のために身代わり洗礼を受けることとか、死後に洗礼をすることとか解釈は様々である。いずれにせよコリントには死者への洗礼の習慣があった。パウロはそれを取り上げその行為は永遠の救いを願うための業ではないかと指摘した(29)。A人は苦しみに耐えながらも伝道の業や正しい生活をしているが、永遠に神と共に生きる事などないとすればその様な生活は馬鹿らしいことではないか(32)。むしろ刹那的にその場限りの生活をすればよい。しかし実際には悪い交わりが良い習わしを駄目にしている(33)。残念ながら現代にはこのような生活をする者が多い。「目覚めて身を正し罪を犯さないように」。苦難を耐えながらでも信仰を全うすることは尊い。

 35節以下は肉体と復活体の区別を多様な動物にたとえて教えている。これは現代の科学的分析ではないので表面的に見ることでよい。教えの要点はキリストの復活体はこの肉の体が甦ったのではなく、復活体、栄光体と呼ぶ体への復活であると言うことである。私達も主のように変えられる。この救いの故に今の時代に清く生きるべきである。

 

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1999年 12月13日(月)

 Tコリント十五章50〜58節(58)

《だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。》

復活の章を結ぶに当たって、イエスの甦りこそ死への勝利であると賛美を捧げる。 全ての人に死が来る。しかしキリスト者にとっては死の意味が違う。死に際の肉体の痛みが恐ろしいのなら、最近では痛みを取る医学は進んできたので問題は少なくなった。しかし死はそれ以上のものをもって人に迫る。それは死後に何があるのか分からない不気味さである。死への恐れと言ってもよい。それを「死のとげ」と呼んでいる。なぜ恐れがあるのか、罪の赦しを神から受けていないからだとパウロは言う。しかしキリスト者はイエスによってとげが抜かれている。だから死が来ても恐れることはない。

 「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主の業に励みなさい。主にあってはあなた方の労苦は無駄になることはない」。これはパウロ自身の人生観から生まれた言葉である。最後の敵である死に勝利した主が私達と共にいて下さるから、私達は人生を確信を持って歩むことが出来る。

 

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1999年 12月14日(火)

 Tコリント十六章1〜24節(13)

《目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。》

 第一コリント書を書いたのはエペソからであった。その後暫くしてパウロはコリントを訪問し各教会から献げられた献金を集め、諸教会の代表者と共にエルサレム教会を訪ねようとしている。それはユダヤ人と異邦人の教会が強い交わりを持つためである。そのために献金の用意をしていてほしいと書いている(1)。しかも献金は週の初めの日に各自の収入に応じてするようにと、配慮ある言葉まで書いている。またそれに先立ちテモテを派遣するから彼を歓迎してほしいとも願っている(10)。

 これまで取り上げた教会の諸問題を覚えながらパウロは「信仰に立ちなさい。男らしく強くあってほしい。全てのことを愛をもって行いなさい」と励ます。問題の多い教会で、不健全な強い信仰を持つ人はただ突進するだろう。だからパウロは強くあることを願いながら行動に間の裏付けを求めているのである。愛は他者への配慮である。この両者がバランスよく私達の中に育つことが大切である。

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1999年 12月15日(水)

 Uコリント一章1〜11節(5)

《それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。》

パウロは第二コリント書をピリピで書いたと言われている。それ以前はエペソで三年間伝道していた。エペソでの働きの影響は大きく周辺の町々にまでも及んだ。黙示録の七つの教会はその実である。すばらしい働きの一方でパウロは迫害を受け投獄さえされた。第一コリ十五章32節のエペソでの獣との戦いはそれを指している。8節の「アジアで会った患難」はエペソの出来事である。本書の冒頭に苦難と慰めの言葉が何度も出てくるが、これは著者がその頃のことを思い出し書いているのである。エペソの騒乱は使徒十九章にあるが、この時、市の書記役が介入し事なきを得たが、パウロはこの時、殺されそうになった。

 さてこのような苦難の中でパウロは神の慰めを受けた。慰めは同情以上のものであり、積極的な励ましの意味がある。パウロの内にはキリストの慰めが満ちあふれていたから、苦難の内にもそれに耐えることが出来たのである。主の十字架を思うと、彼は自分の苦しみは小さいと感じた。しかも慰めは自分の為だけではなく他の人々のためであると言う。苦難に耐える力は我が側近くに臨在されるキリストであり、わが十字架を分かってくれる友である。

 

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1999年 12月16日(木)

 Uコリント一章12〜24節(18)

《神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、「しかり」と同時に、「否」というようなものではない。》

 パウロはコリント教会の問題で困っていた。ところが此処で彼の旅行の変更が起きたため、コリントの人々から誤解されることになった。この誤解を解こうとして、パウロは旅行の日程を真剣に考えていたのだと弁明する(12)。パウロの最初の予定では、エペソからコリント、マケドニア、そして再びコリントへ戻りその後ユダヤへ行く予定であった(15)。ところがパウロはそれを変更した。

 実を言うとこの変更はコリントの信徒たちに寛大でありたいとの親心からだったのである(23)。というのは彼等はテトスの進言に従って自分たちの問題を解決し始めていた。だから混乱が治まるのを待ってその後パウロが行けば彼等も恥をかかなくてすむと思ったのである。ところが彼等は旅行変更は気に入らないとパウロを非難し、これに加えてパウロが説いた福音さえも信用できないと言ったのである。彼は自分のことが非難されても我慢できたが、福音にけちを付けられるのはゆるせなかった。(18節の「私の言葉」は福音のこと)。それで19節で「のべ伝えた神の子キリスト」はある時には正しい(しかり)が、別の時には間違っている(否)ようなものではないと強調したのである。人間には弱さがあるが福音は永遠に真実である。

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1999年 12月17日(金)

 Uコリント二章1〜11節(8)

《そこでわたしは、彼に対して愛を示すように、あなたがたに勧める。》

 パウロは二度目のコリント訪問の前「悲しみの手紙」を書いた(4)。彼等の罪や教会内の混乱をたしなめるものであった。しかし、今、解決の糸口を見つけ始めているのを知って早く自分たちで解決してほしいと願った。そうすれば悲しい気持ちでのコリント訪問をしなくてすむと思ったのである(1)。

 パウロはこの教会は自分が開拓伝道したのだから親の立場にある。だから彼等の罪や問題にも率直に忠告することが出来た。ある者達はひどい行動の故に叱りつけ、「ある程度あなた方一同を悲しませた」(5)。恐ろしい姦淫の罪を犯しているとか、礼拝の前に聖餐式用のぶどう酒を酔うほどに飲んでいる、そんなこと聞いてパウロが怒らなければ彼はおかしい。そうすることで彼等が神に「従順であるかどうかを試そう」としたのである(9)。

 しかしここでパウロは神の赦しを信じて「キリストのみ前で赦す」と宣言した(10)。なぜそうしたのか。それは何時までも赦さないでいると、そのすきに乗じてサタンがつけ込むと感じたからである。たしかにパウロのコリントの信徒たちへの対応は間違いではなかった。しかし正当な怒りでさえサタンにつけ入る場を与えてはならない。叱ることと愛のバランスを考えさせられる。

 

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1999年 12月18日(土)

 Uコリント二章12〜17節(14)

《しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。》

 パウロがエペソでの伝道中、コリントの問題が彼に伝えられた。その解決のため彼自身が訪ね、さらに第一コリントの手紙を送りテモテを派遣した。しかし問題解決に至らなかったためさらにテトスを派遣し、もう一度パウロ自身が出向こうとした。

 彼はエペソ伝道を止め、テトスの帰り道のトロアスまで旅を進めたが、テトスに出会わなかった。コリントのことがあまりにも心配だったので、トロアスで伝道の機会があったにもかかわらず其処を離れマケドニヤへ移動した(12、13)。

 人間的なパウロを見る思いがする。しかし嬉しいことにマケドニヤで帰途のテトスに会い、パウロは喜びに満たされるのである。この詳細は七章5節以下にある。テトスの報告によるとコリントの人々は悔い改めた。それを聞いて彼は「神は何時も私達をキリストの凱旋に伴いゆく」と喜びを表したのである。良い香りの福音を語ってもそれに応じない人は死に至るような悪い臭いに過ぎないが、それを受け入れる人には命の香りとなる。パウロにはコリントの人々が福音を良いものとして受け入れてくれたことが嬉しかった。福音を与えられた私達の存在が良い香りとなるよう心がけたいと思う。

 

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1999年 12月19日(日)

 Uコリント三章1〜11節(3)

《そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。》

 突然推薦状の話題が出てくる。それはコリント教会でパウロを非難する者が出たからである。そのような非難は異端的な思想にかぶれた者の言葉であろう。それで「あなたがたの推薦状が必要なのか」と問うた(1)。もちろんパウロがコリントを訪問するのにその様な書状を必要とするはずがない。しかしこれをきっかけにパウロは、コリントの人々こそキリストがお書きになった手紙のようだと言うのである。

 聖霊は私達に福音をお与えになった。それはただ耳で聞いてすぐに忘れるような内容ではなく、石の板に刻み込んだ文字のように決して消えないものである。人々はよくお話を聞いてもすぐ忘れると言う。確かに私達は物忘れをする。しかしキリストによる救いのみ業は心の底に刻み込まれるので忘れるようなことはあるまい。十字架による罪の赦し贖いの恵みとはそれほどのものである。この福音を持っているなら、それが人々への証しでありキリスト教の推薦の手紙のようなものであるとパウロは語る。 私達の存在は人々に読まれる生きた福音書のようなものである。人々が私達を見てキリストを見出すような存在でいたいものである。

 

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1999年 12月20日(月)

 Uコリント三章12〜18節(18)

《わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。》

 モーセの栄光とキリスト者の栄光が対照されている。モーセは十戒を与えた。十戒は善なるもの聖なるものであり、これに仕えたモーセはすばらしい。だから神からの栄光を受けたのである(10)。律法は善で正しいものであるが、人はそれを守ることによっては義とされず、かえって罪が明らかになり罰せられる。律法は神の正しさを教えるが神に近付く道は備えてくれない。それだから顔に「おおい」をかけた状態で神を知るのである。

 これに対してキリストの贖いは罪からの救いだけでなく律法からも解放する(ローマ七章)。キリストによって罪赦され神に近付くことが出来るのを、被いが取り去られた状態と言う。さて救われた後、神の子はどのように生きるのか?。神の子は鏡で見るように神を見つめながら生きるのである。当時の鏡は、はっきり映らない。つまり私達は神を信じたと言っても神を十分に分かったわけではない。それでも御言葉に示される神を仰いでいると、神の子は変えられていく。神の子は愛の神を見つめていると、ぼんやり程度にしか分からなくてもキリストに似た者に姿変わりするのである(第一ヨハネ三章2)。幼子が親の姿を見、声を聞いて育つように、神の子は神の語りかけを聞きいて成長するのである。

 

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1999年 12月21日(火)

 Uコリント四章1〜6節(6)

《「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。》

 1節で「落胆せず」と誰かを励ましているが、彼自身伝道が思うようにいかなかったからではないだろうか。それでも彼は福音の恵みを身にしみて感じていたので大胆に福音を語ったのである(三章12)。

 私達が誰かに証したり教会の催しに誘うときなど、自分が相手にされなかったり変な気持ちを持たれることを恐れないだろうか。友達を失ってはならないからそう思うのは自然である。それではどうすればよいのか。相手の話す事に心から耳を傾けるとき人は真の友達になり始める。人は自分のことを聞いてもらいたい。その様な関係が造られていくと心の会話が出来るようになるだろう。その様な関係が生まれたとき、自分が経験している信仰をさりげなく会話に入れる。しかし決して信仰の手柄話をしないことである。弱い自分を助けて下さった神を語るのである。

 信仰の押しつけは関係を駄目にする。パウロは熱心に伝道してもサタンが邪魔するので福音の輝きを暗くすることがあると言う(4)。それでも私達が伝道するのは、神が心の備えられた人をみきわめ、福音の光を与え救って下さると信じるからである。私達は自分の出来ることをすればよい。後は神が最も良いときに救いの業をして下さる。

 

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1999年 12月22日(水)

 Uコリント四章7〜18節(7)

《しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。》

 土の器と宝の対照が書かれている。土の器は人間としての弱さのこと。パウロは四方から艱難を受け倒れそうになったことがある(8、9)。私達にはパウロほどの難問はないとしても、土の器であることに変わりはない。土の器とは私達にとって何だろう。それは自分の弱点、自分で嫌だと思う性格、知恵・知識の不足、無力さ等である。もしこのような弱点があるのにそれを隠して自分をかっこうよく見せようとするなら、生活は疲れてしまうだろう。まして自分の弱さを自力の信仰というもので守ろうとするなら、その人は律法主義になるように思う。

 しかし、忘れてならないのは福音という宝が与えられていることである。神さまが分かることは自分が分かることだと言った人がいる。多くの宝が私に与えられているのに実際には福音と自分の尊さを知らないまま日が過ぎている事が多いようだ。福音の尊さは自分の尊さを知ることにつながる。だから福音を持つ者は「日毎に新しくされていく」と語られているのである(16)。土の器の自分を卑しめることはない、むしろ福音が私を高めてくれるのである。

 

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1999年 12月23日(木)

 Uコリント五章1〜10節(7、8前半)

《わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。 それで、わたしたちは心強い。》

 四章の終りから五章にかけて見えるもの・見えないもの、外なる・人内なる人、一時的・永遠的、地上の幕屋・永遠の家などの対照が出てくる。これらの対照を語りつつパウロは神の世界に目を向けよと勧める。人は死を嫌だと思うがそれでも必ず終わりは来る。しかし主イエスは十字架と復活をもって死後の命の約束をして下さった。これがキリスト者の希望である。この恵みを受けているものは死を恐れることはない。入学試験の時期が来てもすでに推薦入学が決まっている人には心配がないように、天国への約束がされている者は恐れる必要はない。

 さて最後のことがはっきりしていると、人は生き方に確信を持つようになる。その確信をパウロは「心強い」ことだと言いそれを二度も述べている。@力強いのは聖霊が与えられているからである(6)。主を信じている者には御霊が与えられていることをしっかりと信じてほしい。聖霊は私達の人生を助けて下さる。A今は主イエスを肉眼で見ることは出来ず信仰によって見るのであるが、それでも主と共に歩む者は心強い(7)。臨在される主を仰いで生活したいものである。心強い生活が形造られると信じる。

 

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1999年 12月24日(金)

 Uコリント五章11〜21節(15)

《そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。》

 パウロはここで自分の生き方について二つのことを述べる。

 第一に彼はキリストのために気が狂ったように生きていると言う(13)。ある先輩の牧師は医大を卒業するばかりになって牧師になる決心をした時、両親に激しく非難されたと話していた。日本人の常識なら両親の非難は当然であろう。なぜ彼はそのような人生を選んだのだろう。それはキリストの愛が強く迫ったからである(14)。「キリストの愛が強く迫る」とはキリストの愛に取り囲まれているという意味である。神の愛の大きさが分かると私達の心は冷たい状態ではいられないのではないだろうか。今日はクリスマスイブの日、神が独り子をお与え下さったことを思いめぐらしたい。

 第二にパウロは和解の福音を伝える者として生きるという(19)。キリスト者になる前にも彼はそれなりの生き甲斐をもっていた。しかしキリストによって新しく造り変えられたとき別の生き方をするようになった。価値観が変わったのである。パウロは和解の働きを始めたのである。人が救われると生き方が変わってくる。私達にとって何が最高の生き甲斐なのだろう。

 

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1999年 12月25日(土)

 Uコリント六章1〜10節(1)

《わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。》

 私達は生活の中で様々な嬉しいことや嫌なことにあう。パウロは艱難、理不尽なむち打ちに合い、またほめられたり好評を受けたりもした。ある人はキリスト者であるためにつらい目に遭うこともある。しかし実際にはキリスト者であろうとなかろうと良いことや嫌なことに会うものである。

 何がパウロを不屈の者としたのであろうか。それは彼が神の恵みを受け神の僕として生きていたからである。同じつらいことに出くわしても、心に恵みを持っているのとそうでないのとでは対応の仕方が違う。 今は恵みの時であるから十分恵みを受けることが出来る(1)。私は難しい問題にぶつかる時、私がそれを受けとめられるから神が与えておられるのだと考えている(第一コリ十章13)。しかし魂が恵まれていないと神はなぜこのような事を私に背負わせるのかとつぶやく。祈り深く恵みに満たされていないと困難は乗り切れない。

 さらにパウロは二度も僕として表すと述べている(4、8)。僕は奴隷ではない。アブラハム、モーセ、ダビデは神の僕だと言われているが決して人権のない奴隷ではない。僕とは仕える者のこと。今日はクリスマス。主イエスは私達に仕えるためにこの世に来て下さった。

 

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1999年 12月26日(日)

 Uコリント六章11〜七章1節(七章1)

《愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。》

 コリントのある信徒たちは信仰の道を踏み外してパウロに叱られたことがある。親子のような関係だからそれを素直に受ければ良かったのに、自分の考えが正しいと意地を張っていた。そんなことで両者の関係がこじれた。そうなるとなかなか元に戻りにくい。こちらが心を開いても相手がこだわっている。パウロはこのようなことで困っていた。それで「どうかあなたの方でも心を広くして私に応じてほしい」と呼びかけたのである(13)。どうか強情で意固地な人にならないように。損したと思っても心の柔らかい人が恵まれ成長する。

 14節から突然テーマが変わる。偶像から離れよ、汚れたことをする人々から離れよと厳格なことが言われている。これを私達の環境でどの様に考えればよいのか。確かに賄賂がらみのような仕事に組みしてはならないが、それをどの時点で見極め自ら対応するのか、知恵がなければならない。また偶像礼拝をするなとあるがわが家の仏壇にどの様に対応すればよいのか。先祖への敬慕と礼拝とを区別し対応しなければならない。規則は作れないが神を心に持ち、真実の道を捜しているなら道は示されるに違いない。

 

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1999年 12月27日(月)

 Uコリント七章2〜16節(10)

《神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。》

以前述べたようにコリント教会の問題解決のためにテトスが派遣された。彼のとりなしによって教会員たちは悔い改めた。その報告を聞いたパウロは非常に喜び「うちしおれている者を慰める神は、テトスの到来によって私達を慰めて下さった」と感謝した(6)。使徒はなぜ喜んだのか。それは彼等がただ罪を悲しんだからではなく、神の御心に添う悲しみをしたからである。 神に添わない悲しみとはどの様なものか。それは自分の身の上に悪い結果が起こるときに持つ残念な思いである。自分のことしか考えない罪の悲しみである。もし悪い結果が起こらなければたとい罪を犯しても人は平気な顔をしている。

 これに対して神に添う悲しみは人を悔い改めに導く。悔い改めとは犯した罪を悔やむだけでなく心を神に向ける思いである。この人には救いが与えられる。救われると様々な状況も神の助けによって改善されていく。11節以下にはコリント教会での悔い改めの実が述べられている。弁明、義憤などであるがそれは彼等がこのままではいけないと思って断固罪を捨てる決心をしたことである。人はどんなに反省しても自力では改善できずただ悔やむだけである。しかし神に従う人には大変化が起こる。神の恵みは大きい。

 

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1999年 12月28日(火)

 Uコリント八章1〜15節(8)

《こう言っても、わたしは命令するのではない。ただ、他の人たちの熱情によって、あなたがたの愛の純真さをためそうとするのである。》

 パウロは困っているエルサレム教会のため献金してほしいと願った。それにこの教会は全教会の母でもあり恩があった。この計画にはマケドニアの教会(ピリピ、テサロニケ等)も参加しているので献金に対する彼等の姿勢を紹介した。彼等は貧しく試練に会っていたが力以上に献金した。人が困っているなら募金すればよいが献金はこれとは少し意味が違う。

 パウロは此処で献金についての二つの姿勢を述べる。第一に献金を「恵み」と言う(4、7)。即ち献金は神に対してするものである。ところがこの点が難しい。他人が気になり献金を結婚式の祝いの相場のように考えたりして困惑する。その様な思いが清められないと尊い献金が泥臭くなる。その結果金額の高い低いが気になり嫌な思いをする。献金は神へのものであることをしっかり身に付けたい。第二に献金は愛をもといとする。献金は「愛の純真さをためそう」とするものだとパウロは言う(8)。イエスが愛の故に貧しくなられたように主の愛に動機づけられた献金をしたいものである(9)。マケドニアの人々は愛の思いで献金した。確かに献金は私達のあり方を試されるようである。自分に与えられた分に応じ、恵みの思いを持ち主にささげたいものである。

 

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1999年 12月29日(水)

 Uコリント八章16〜24節(23)

《テトスについて言えば、彼はわたしの仲間であり、あなたがたに対するわたしの協力者である。この兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者、キリストの栄光である。》

 本章では献金の精神を述べている。自発的であること(3)、愛の真実をもってすること(8)、分相応であること(11)、神の栄光のためにすること(19)などである。ここでパウロはテトスとほかに二人の人を献金を集めてもらうために派遣すると言う(18、22)。エルサレム教会のための献金である。

 それにしても金銭を扱うことは大変気を遣う務めである。集めたお金をきちんと管理し報告することは決して簡単なことではない。正確であるだけでなくこの務めに当たる人々の精神が19節以下に述べられている。即ち神のみ前と人の前で公正であることである。それは寄付金についてかれこれ言われないためである(20)。パウロはかつてマケドニヤの諸教会からお金を奪い取ったと言われ困惑したことがあった(十一章8)。それだけにお金のことはきちんとすべきだと思ったようである。このような大変な献金集めの務めをテトスは自分から進んでしようと言ってくれた(17)。彼はコリント教会の平和のためだけでなく、このような面倒なことを自発的に引き受けてくれたのでパウロはどれほど感謝したことであろう。福音のために献金管理の陰の労苦をしている方々のことを思ってパウロと共に感謝する。

 

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1999年 12月30日(木)

 Uコリント九章1〜15節(5後半)

《それをしぶりながらではなく、心をこめて用意していてほしい。》

 昨日の箇所でテトスたち三人がコリントに派遣されたことが記されていた。それはコリント教会に献金の準備をしていてもらいたい願いからである。というのは次の事情による。コリントでは昨年からエルサレムのために献金しようと言っていた。それを知ったパウロは嬉しさのあまりマケドニヤの人々にこの話をした。ところがコリントでは教会内に混乱が起こり献金どころではなく中断したままになっていた。マケドニヤの諸教会では徐々に献金も集まりつつあり、またそれぞれの教会代表も決められていてエルサレム教会への出発も整いつつあった(使徒二十章4節の名前のリストはマケドニア、アジア、ガラテヤの諸教会の代表者名である)。この時にいたってコリントだけがこれに参加できないようではパウロも彼等も恥ずかしい思いをするから、問題解決がし始めた今愛の贈り物に参加してほしいと願うのである。パウロがこれほどに思うのはただ献金を送ることではなく、代表者たちが相互に交わることによって異邦人教会とユダヤ人教会が一体となることを体験してほしかったからである。この準備のため三人が遣わされた。パウロが行き届いた配慮をもってしたように、私達は他者のために愛の親切をしたいと思う。

 

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1999年 12月31日(木)

 Uコリント九章6〜15節(7)

《各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。》

  パウロは献金のことでコリントの人々に大変気を遣っていた。後代の者はここから献金についての教えを多く学ぶことが出来る。「少ししか蒔かない者は少ししか刈り取らず、豊かに蒔く者は豊かに刈り取る」の言葉を、たくさん献金すれば神から多くの報いが来ると考えるならそれは非キリスト教的である。この聖句は献金額が多いから良いとか、少ないから駄目だとかを言っているのではない。大切なのは捧げる人の心である。惜しむ思いや強制された思いで献げるなら貧しい献げものとなる。「心に決める」とは主を愛する信仰を持って、また自分の収入を考えこれだけなら献げられると考えることである。豊かな種まきとは誰かに祝福があるようにとの願いをもって神に献げることだと思う。私達がどこかの教会のために献金する場合、そこから何らかの返礼を期待するだろうか。同様に神に献げるとき御利益を得ようとしてするだろうか。その様な思いの人はいないと思う。 確かに献金には犠牲が伴う。しかし犠牲は失うことではなく多くの実を結ぶためである。キリストは一粒の麦として死なれたがその結果多くの実を結んだ(ヨハネ十二章24)。その意味で種まきは失うものもあるが、すばらしい刈り取りをすることが出来る。豊かな心で種まきとしての献金をしたいと願う。

 

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